「驚いた?驚いたでしょう?」
スミレの顔を覗きん込んで楽しそうに笑っている花恋に目を落とし、もう一度、自分を呼びかけた声の主に視線を戻した。
「どうして?かあさん???」
「ごめんなさいね。こんな時でもないと、お話しする機会もなくて。」
聞きなれた大好きな声の主は、スミレが幼いころから通い続けている洋食屋『カピバラ食堂』のおかみさんではないか。

熊のようなオーナーとは不釣り合いなほど美しく、品の良いこの女性のことをスミレは本当に大好きで、辛いことを抱えて長野に行く前も、さまざまな出来事を乗り越え、大学生として東京に戻ってからも、教師として就職してからも、折にふれては店に通っている。
上品で聡明だけれども、少しも気負ったところや威張ったところがなく、快活な笑顔とやわらかな話し声に触れているだけで、スミレの疲れはいつも消えていく。そして、大きなカピバラを描いた壁を見ているうちに、何か楽しい気持ちが湧きあがってくるのだ。

店の客からも、当のご主人からも「かあさん」と呼ばれているから、スミレはずっと「母さん」だと思っていたが、実は本名が「花亜さん」なのだと知ったのは、大学生になってからのことだった。
そういうことを、知っているに違いない祖父は、なぜかカピバラ食堂の人々のことをあまり語らなかった。

「あ?もしかして、おばさまって言っていたのは…」
花音、花恋、花亜…と、名前の共通点に思い至り、さらにその先にたどりついたスミレは、心臓がドクンと鳴って、そのまま止まりそうな気がした。
「そうなの、先生!花亜おばさまは、おじい様の妹なの!」

言葉をなくしたスミレに歩み寄った花亜は、そっとスミレの手をとり、ささやくように言った。
「ようこそ、松重の家へ。長いこと言わずにいてごめんなさいね。わたくしはこの家を飛び出してしまった身なので、滅多なことではこちらに戻ることはなかったの。でも、今回のご縁をつないだ身としては、今日のこのお席にはどうしても連なりたくて、本当に久しぶりに参りましたのよ。」

「ど、、、どういうことですか?」
スミレのたどたどしい問いかけにすぐには答えず、花亜はスミレの手を引いて階段を上がり、先ほどまで自分がかけていた椅子をスミレに勧めた。
ゆったりと背をベンチに預けていた花音が身を起こす。それをすかさず背後にまわった安住氏が手を添えて助け起こした。
「ありがとう、安住。」
花音は言うと、ほんとうにかわいらしいとしか言いようのない笑顔を浮かべて、スミレに挨拶をした。
「先生、ご足労願って本当に恐縮ですわ。花恋の母でございます。このたびはご縁をいただいて、お世話になることとなりました。いろいろとありましょうけれど、どうぞよろしくお願いいたします。」

自分ごときにあまりに丁寧な挨拶をいただいてしまい、花亜が現れたショックの只中に漂っていたスミレは、もうどうしてよいかわからず、曖昧に頭を下げてから、花亜が勧めてくれた椅子に腰を落とした。
そんなスミレの脇に立ち、花恋は面白そうに言う。
「先生、びっくりしすぎちゃったみたい。大丈夫?お茶でも召しあがる?そうしたら、少しは落ち着くかも。」

そうして、振り返ると、先ほど歩いてきた廊下の方をみやって、花恋が誰かに呼びかけた。
「弓子さん、先生にお茶を。」
「はい。花恋さま。ご用意してございますよ。」
声とともに、ティーセットを乗せたワゴンを押して、その女性がやってきた。
先ほど何人かみかけたメイド服とは違う様子をしている。
そうして、階段の下まで来ると、お盆を運ぶ前に、静かに頭をさげて、こう言った。
「ご無沙汰いたしておりました、花亜さま。お健やかでいらっしゃいましたか?」

「いやだわ。弓子さんにそんな言い方をされると、なんだか背中がくすぐったくなってしまうわ。」
「ですよね!ああ、かあさん、会いたかった!」
お茶のことなど忘れたかのように飛び上がると、とうとう我慢しきれなくなったのか、弓子さんと呼ばれた女性は階段を上がって、かあさんに抱きついた。
「お元気そうね。よかったわ。後藤にはいつも会うけれど、あなたは少しも来てくれないから。」
「ごめんなさい。なんだか気ぜわしくて、うまく時間が作れなくて。ああ、嬉しい!今日はなんていい日なのかしら!」

何度も抱き合って再会を喜んでいるらしい二人を見て、スミレは意味がわからず、その場にいていいかもわからなくて、おどおどし始めた。
それに気付いた花音が、すかさず説明してくれた。
「弓子さんは、我が家で代々執事を務めている後藤の当主の妻なのです。実は花亜さまのお店で働いていたところを、後藤が見染めましてね。まじめ一筋の無粋な男なのですが、彼女を射止めるためにはずいぶんと勇気をふるったようで。」
ことことと笑い声を立てる花音の話でようやく状況が飲み込めたスミレは、自分だけが意外な縁で引き寄せられたのではないことに、小さく安堵を感じていた。

「これ、弓子。失礼ですよ。お茶はどうしました?」
「あ!そうでした。ただいま。」
弓子を叱りに出てきたのは、ご主人の後藤氏なのだろう。
ずいぶんと歳が離れた夫婦のようだ。
勇気をふるってと言われた意味が、なんとなく伝わった気がした。
「花亜さまも、弓子を甘やかしてはいけません。執事の妻がこれでは、使用人たちにしめしがつかないではありませんか。」
「何を偉そうなことを言っているの?家ではデレデレと弓子さんのお尻に敷かれているのでしょう?花音、スミレさん、聞いてちょうだい。後藤ときたら、先日もうちに来た時に…。」
「おお!これはこれは、スミレ先生、ようこそお越しくださいました。おじいさまはお元気でいらっしゃいますか?お懐かしいですなぁ。私のことをご記憶ですか?」

主筋の方の言葉を無理やり遮るという、使用人の風上にもおけない暴挙で、何やら都合が悪いらしい話を妨げながら、後藤氏がスミレを見つめている。
スミレは思い出した。
誠一郎会長が長野に来た時、いつも後ろに控えていた人だ。
「はい。覚えています。そうか、こちらのお屋敷に…。あ!さっき途中にあった、あの家ですね!」
「ええ。最近は那須の旦那様のところと、こちらとを行ったり来たりしておりましたが…。」

「先生、お茶のご用意ができました。どうぞ、いただきましょう!」
花恋は、このサプライズパーティーの女主人になりたいらしい。
スミレに、あまりにも美しくて手に持つのもはばかられるようなマイセンのカップをすすめてから、自分は花音のそばに座り、母の腕に寄り添って、目の前に広がる風景を眺めている。
「さ、後藤のことは後回しでいいから、スミレさん、お茶が冷めないうちに、いただきましょう。」
花亜に言われて、すこしうしろめたいものの、後藤氏との話を切り上げて、ティーカップに手を伸ばした。

よく磨かれたガラス越しに差し込む陽の光を受けて、カップの中の紅茶が金色に見える。
馥郁たる香りとは、こういうことを言うのだろうか。
ミルクは?と問われて首をふったスミレは、そのまま金色の液体を口の中に運ぶ。
えもいわれぬ味わいが広がり、芳香が鼻から抜けてくると同時に、全身の緊張感もほっと抜けたような気がした。
「おいしい…。」
「ありがとう、弓子さん。先生におほめいただきましたね。」

花音の言葉に、スミレは先ほど安住氏が言った言葉を思い出していた。
「花音さまは何をしてもらっても、必ず『ありがとう』とおっしゃるのです…」






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