「安住さんの方が恵まれているって、そんなことあるはず…。」
言いかけてスミレは、何かとても失礼なことを言っていると気付き、最後まで言わずにやめた。
それでも、安住氏には意図は十分通じたようで、というよりも、最初からそのつもりで話していたようで、気分を損ねるような表情は一切見えず、ニコニコと微笑んだままだ。

二人で延々と歩いてきた道は、とうとう大きなお屋敷の玄関にたどりついた。
階段を少し上がった先に、ここは裁判所か、博物館か、銀行の本店か?というような大きなエントランスが広がっていた。
ここだけで、スミレの部屋がいくつ入るだろうかと思うと、今日はこれ以上自分と何かをここで比較するのはやめておこうと決意するのに十分な動機になった。

お揃いのメイド服を着た女性たちが歩いている。
ゆったりとしたすその長い服は、掃除や料理に不便ではなかろうかと思うが、彼女たちのシャンと立った背筋が、その服を誇りに思っていることを十分に伝えている。
安住氏とスミレを見ると、すれ違う人は皆静かに目礼する。
どこで靴を脱ぐのだろうかとスミレは密かに思ったが、そのまま二人はエントランスを左に折れて、学校の廊下よりも幅が広い、ピカピカに磨かれた大理石の廊下を進んだ。

「あの…。」
話が途切れてしまったので、スミレは一度は諦めかけたが、どうしても先ほどの話の続きが聞きたくて、安住氏にひそひそと声をかけた。
「教えてください。どうして安住さんの方が恵まれていると思われたのですか?」
「それは、例えば、花音さまに何かして差し上げたとします。すると花音さまは必ず『ありがとう』とおっしゃる。誰に対してもです。でも…」
安住氏がいいかけた時だった。

「スミレ先生!いらっしゃいませ。」
明るい声が響いた。
学校で聞くよりも幾分子供っぽく、というよりも、年齢相応の声に聞こえる。
長い廊下の向こうから、花恋が走ってくるところだった。
家庭訪問を嫌がる子どもも結構多い。
親が先生と何を話すのか、疑心暗鬼になるようなタイプの子どもは、家庭訪問の日は家に帰るのを遅らせたりしがちであることを、スミレはよく飲み込んでいた。
車で送迎されている花恋に、寄り道の選択肢はなさそうだが、それにしても、担任の訪問を心から楽しみにしていたらしいことは、スミレを出迎えた様子から容易に察せられた。

「花恋さん。おじゃまします。」
スミレが挨拶をすると、花恋はスミレの手をとって、こっちよと、案内を始めた。
「お母様はいまテラスにいらっしゃるの。先生、こちらよ。」
「おやすみではないのですか?」
怪訝な声をあげたのは安住氏だった。
「ええ。今日はおばさまがお見えになったでしょう?ずっとお話しをされていたら、とても気分がよくなったのですって!今も…あ!」
花恋は嬉しそうに言ったあと、しまった!という風に、両手で口元を押さえた。

「お客様ですか?」
スミレの方が慌てた。
いくら大きなお屋敷で、いかにも来客が多そうでも、そんな時の家庭訪問はご遠慮したいものだ。
「いえ、なんでもございません。ね、花恋さま。」
「そうそう。ね、先生、なんでもありませんわ。さあ、もう少し先です。あ、ほら、そこの窓から鹿が見えますよ!」
どうも何かをはぐらかされたような気がしたが、言われた方向へ顔を向けると、立派な角の牡鹿が見えたので、今の疑問をつい忘れてしまった。

花恋の案内でお屋敷のあちらこちらを見まわしながら歩くと、廊下がもう一度左に折れ、その先に明るいテラスがあった。
廊下よりも階段で5段ほど上がったところにある、ガラス張りの部屋は、午後のやわらかな日差しに包まれ、つやつやとした大きな観葉植物がいくつも配置されている。
真っ白いテーブルや椅子が並ぶなかにひとつ、やはり真っ白の、ゆったりと大きめのベンチが置かれ、遠目にも鮮やかな刺しゅうを施したクッションがいくつか並べられたところに、ほっそりとした女性が座っている。
白のレースと思われるワンピースが、その身体の細さと、おなかのあたりのふっくらとしたところを強調していて、スミレは一目でこの人が花恋の母、花音なのだろうと分かった。

「スミレさん、ようこそ。」
しかし、声の主は、花音ではなかった。
心持ち、体を横たえるような姿勢で座っている花音の脇に、白い椅子を寄せ、スミレのほうに背を向けて座っていた女性から発せられたものだったのだ。
「え?」
思わず立ち止ったスミレは、その女性がゆっくりと立ち上がり、振り向いて、階段の方へ向かってくるところを凝視した。
「え?あ!うそ!!」
花恋とつないでいた手を離し、思わず両手で口元を覆うのは、今度はスミレの番だった。






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