なんとも引き込まれる話を聞きながら歩いているうちに、大きな家が見えてきた。
ああ、あれがお屋敷かと思い、そちらに足を向けようとしたのに、違う方へ歩いていこうとする安住氏にスミレは声をかけた。
「あちらがお屋敷ですよね。こっちが玄関に見えますけど、別の方向から入るのですか?」

ちょっと驚いた顔をした安住氏は、ぱっと明るい表情を見せた。
「あなたのおじい様も、同じことを考えられたそうですよ。あちらはお屋敷ではありません。後藤という、代々この家の執事を務めている家族が住んでいます。この敷地には、そういう家がいくつもあるのです。小さな町のような感じですね。」
「では、安住さんもこういう家に住んでいるんですか!?」

どう考えても豪邸としか言いようのない家だったが、ご主人の住まいではないらしいことに、スミレは心底驚いた。
「いえ、私はお屋敷の中にお部屋をいただいていますので、そちらに。」
「そうなんですか。ご家族はどうされているんですか?みなさん、お部屋をもらっているなんて、すごく広いんですね!」
「そうではありません。私に家族はおりませんので。」
「え?安住さん、独身ですか!?」
「はい。」

どうやら先ほどの話から察するに、仕事が恋人というよりも、人生の転機をもたらしてくれた花音さまに人生を捧げたのだろうと想像できる。
なるほど、まるで小説のような世界だ。

「それにしても、人を雇うのにとても慎重な松重なのに、安住さんは調べもしないで雇ってもらえたなんて、すごいですね。」
「そうではありません。もちろん、調べられましたけれど、まだ若かったですし、家族も何もない私を調べるのは簡単なことだったのでしょう。
私はこちらで、台所仕事や庭仕事、掃除や旦那様の運動のお伴など、さまざまなことを学ばせてもらいました。
もう一度大きな転機がやってきたのは、花音さまが高校を卒業なさる時でした。」

「何が起きたのですか?」
まるで連続ドラマの続きを聞くような気がして、スミレは家庭訪問にやってきた教師であることを忘れるほどに、安住氏の話に引き込まれていた。

「花音さまが留学なさることになったのです。松重の方にとって、これは珍しいことではありません。会長ご自身も大学はイギリスで寄宿舎生活を送られています。
私は二十歳を過ぎていましたが、さまざまな経験から、こちらでのことは、大概できるようになっていました。
運転免許も取らせてもらいましたから、時折、ご家族のおでかけにお伴することもありました。

けれど、お聞きかと思いますが、この家には、それぞれの仕事をしている専門家がおります。
庭師も運転手も料理人も、私が入り込む隙間などありません。
私はとてもひねくれていましたから、そういう人々の誇り高い仕事を見るにつけ、自分には何もできない、できるはずがない、一生こうして手伝い仕事をして終わるのだと、常々声高に嘆いていたのです。

それを旦那様が聞きつけておられたようです。
花音さまもご存じだったのでしょう。
私も花音さまのお伴をして、留学するようにと、旦那さまから命が下ったのです。
青天の霹靂とはこのこと。
私はひっくり返るほど驚きました。」

それはそうだろうと、スミレも思った。
東京から長野に行くと聞いただけで、とても驚いた記憶がある。
それを、雇い主の命令で留学?
それも、遊びに行くわけではないので、何年も学問に励むのだ。
きっと、言葉にも困るだろう。

「驚いただけでは済みません。
私はいかに才能に恵まれていないか、留学など不釣り合いな身の上であるかを懸命に訴えました。
そうして、私の言い訳を聞いていらした花音さまにお叱りを受けたのです。

『あなたはいったいいつまで、そうやって甘えたことを言い続けるつもり?
英語が話せなくて困るなら、英語を学ぶために時間を使うのが有効というもの。
そうやって言い訳に時間を使っても、英語は話せるようにはならないわ。

あなたは確かに、類まれな悲しみに出会ったかもしれない。
それはそれは、辛かったと思うの。
でも、かつて辛いことがあったからといって、なぜ今の生活までつまらないものにしておくの?

あなたの未来をどうするかは、今のあなたが責任を持って決めることでしょう。
過去は変えられないけれど、未来は変えられるかもしれない。
そのために、今日の努力が大切なのではなくて?

中野のお料理がおいしいのは、中野が人生をかけて料理の腕を磨いているからよ。
倉橋の運転が心地よいのは、倉橋が運転に命をかけているから。
私ども松重の家の者たちは、そういう方々に支えていただいて、毎日を素敵に生きているの。
だから、皆さまに支えられるだけの価値ある人生を生きる責任があると思うの。
そのために、私も一生懸命に己を磨きたいの。

あなたがいつまでもママに守ってもらいたい小さな子供のように甘えていたいなら、そうしたらいいわ。
でも、できることなら、今、ここで考え方を変えて、目の前の問題にまっすぐ立ち向かうような人になってほしいの。
あなたには、それができると思うから。』

あの、おっとりとした優しげな口調はそのままに、そんなようなことをおっしゃるのです。
私は雷に打たれたような気分でしたねぇ。
言い方が優しいだけに、深く心に突き刺さりました。
なにしろ、年下の女の子に、あなたは子供のように甘えている、などと言われたのですから!
私は反射的に言い返しました。」






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