「もしかして…」
「ええ、そうなんです。その車に乗っていたのが、花音さまでした。お父上の松重会長もご一緒で。」
「まぁ!」
「花音さまはまだ高校1年生で、入学されて間もなかったので、毎日車での通学だったのです。
しぶきをあげた運転手が飛ぶように降りてきて、僕に心から詫びてくれました。
その時、この車の持ち主がどういう人かを、僕は当然知りませんでした。
けれど、こんな立派な車の人が、雨の中、傘もささずに降りてきて、僕に頭を下げてくれたんですよ。
嬉しかったなぁ。
ああ、僕はまだ、人間として扱われるんだなぁというようなことを、思ったように記憶しています。

でも、すっかりひねくれていた僕は、そんな思いを上手に口に出すことなどできませんでした。
砂が交じった水たまりの水を頭からかぶって、着ていた服も汚れていました。
もともと傘もさしていなかったのだから、濡れているのは当然です。
普通の人なら、ひとしきり詫びたら、クリーニング代でも握らせて、それ以上の関わりは面倒とばかりに立ち去るものではないでしょうか。

その運転手も、きっとそうするに違いないと思った僕は、先制攻撃をしかけました。
自分が貧しい庶民だからこんな仕打ちをするのではないか、とか、金もなく、職を得るのも失敗したうえに、こんな不運に見舞われるとは、自分はなんとつきがないのだろうとか、言いたい放題に八つ当たりをしたのです。
運転手は困った顔をしていました。

でも、 その時、車の後ろのドアが静かに開いて、中から花音さまが降りていらっしゃったんですよ。
僕は、そのときの光景を今でも昨日のことのように覚えています。
雨の中に、天女が舞い降りたような美しさ、優雅さ。 
手には傘をお持ちになっていたのに、さそうとはなさらず、僕や運転手と同じように、激しい雨に打たれておいででした。

運転手が慌てて車に戻るようにと申し上げたのですが、花音さまは静かにたたずんでいらして、戻ろうとはなさいません。
僕もさすがに、場違いな無礼を働いたことに気付き、ばつが悪くて、穴があったら入りたいと思いました。

そんな時ですよ。
花音さまがおっしゃったんです。
『うちの者が大変な失礼を申し上げました。心からお詫びします。どうしたらお許しいただけるかしら?』 
僕は花音さまの真新しい制服がどんどん濡れていくのに耐えられなくなりました。
だから、もういいからと言って、立ち去ろうとしました。
でも、花音さまは僕の腕をとらえて、おっしゃるんです。
『このままでは、わたくしの気持ちが治まりませんわ。何か、お役に立たせてください。』

こんなお金持ちの上品な年下の少女にこんなことを言われて、僕は少し面倒に感じました。
もう本当に逃げ出したくなっていたのです。
だから、絶対に叶えられないことを言えば呆れて許してくれるだろうと考え、こう答えたのです。
『では、僕に仕事をください。あなたの家で雇ってくれればいい。』って。
何を馬鹿なことをと言われるのを期待したのですが、花音さまの答えはまったく逆でした。
『よろしくてよ。』」

安住氏が花音の口調を真似るのが可笑しくてしかたないのに、なぜかスミレは笑えなかった。
人の人生というものは本当に不思議なもので、落ちるところまで落ちてしまうと、あとは浮かぶしかなくなるようにできているらしい。

「それから、花音さまは車に戻っていかれました。
僕が呆然とその後ろ姿を見ていたら、『どうなさいました、一緒に参りますよ』ときた。
世間知らずのお嬢様が何を言うかと思いました。
だって、誰だってそんな話、本気にしませんよね?
事実、車の中から松重会長の声がしました。
『おやおや、お嬢さん。あなたは街で出会った困っている人を、そうやって全部雇うつもりかい?』

会長がおっしゃるまでもないことです。
そんなこと、できるはずがない。
でも、花音さまのお考えはまったく違っていました。
『あら、お父様。わたくしが街でどれほどの困った方に会うかしら。そうして、もし出会ったとしても、わたくしがその方を気に入る確率がどれほどあるとお思いになって?お父様にとってこの方は大勢の困っている方のひとりかもしれないけれど、この方の人生にとって、わたくしどもにできることはとても大きな出来事だわ。お願い、お父様!』

それをお聞きになった会長のお言葉も、予想外のものでした。
『なるほど、もっともだ。私のお嬢さんは本当に思いやりがある。』
いや、納得している場合ではないだろうと、驚いたのは僕の方だったなぁ。

今考えると、ずうずうしいにもほどがある話ですが、僕はそのとき遠慮もなく、花音さまについていきました。
それが、このお屋敷で働くきっかけだったのです。
どうです?小説のような話でしょう?」






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