悲鳴を上げただけでなく、思わず安住氏の背中にすがりついたスミレが見たものは、長い尾を引いてとぼとぼと歩くオス孔雀だった。
「はぁ?」
よく見ると、その孔雀が現れた植え込みの向こうには、メスの孔雀もいるし、他のオスも悠々と座っている。
そうか、これが「動物もいる」とおじいちゃんが言っていたアレなのか!

「大丈夫ですか?驚かせてしまったようですね。」
「ああ、いえ、こちらこそすみません。取り乱しまして…。」
スミレは慌てて安住氏の背中から飛びのいた。
「なんだか色ツヤのいいクジャクですね。」
「おかしなことをおっしゃる。クジャクというのはみな色ツヤがよいものなのではありませんか?」 
安住氏が吹き出した。

「動物がいると、祖父から聞いてはいたのですが、ちょっと油断していました。他にもなにかいるんですか?犬とか、馬とか?」
「犬はおりますが、馬は那須の方におりまして、こちらにいるのは鹿とかウサギとかいった小動物ばかりです。」
鹿は小動物か?という率直な疑問が湧いたが、こだわってもしかたがないので、スミレは勇気を出して別の質問をすることにした。 

「安住さんはいつからこちらのお屋敷にお勤めなんですか?」
「18歳の時からですから、もうずいぶんになりますね。なぜ?」
「いえ、いまどき、執事なんていうお仕事が募集されるって不思議な気がして。それに、どうやってそんな募集があることに気付くのかと思ったので。すみません、立ち入ったことを。」
「いいんですよ。確かに、初対面に近い方からそんな質問を受けたのは珍しいですが…。」
「すみません、いいです。不躾なことを聞いてごめんなさい!」
スミレは恥ずかしさで体温が5℃くらい高くなった気がした。

「私がまだ小学生の時、両親が離婚しましてね。原因は父の浮気だったそうですが、それまでこれといって夫婦喧嘩をするでもなく、穏やかな家庭でしたから、両親が別れるなど、信じられませんでした。父も温厚な人物でしたし、外に女性がいたなどと、いまだに信じられないくらいです。でも、嘘ではありませんでした。父は母と離婚して、その女性と再婚しました。すでに子どもも生まれていて。父は、母と私との家庭を捨て、そちらの女性と子供との家庭を選んだのです。」

安住氏は相変わらず、静かにぼそぼそと話す。
その内容の過激さと話し方が合っていないことが、スミレの心をなおさら悲しくさせた。

「母は、女手一つで私を育てることを選択しました。慰謝料とか養育費とか、要求する権利は十分に持っていたはずですが、母はそういうものを受け取りませんでした。小さなアパートで、生活は苦しく、母は働きづめでしたから、意地を張らずにお金をもらえばいいのにと、子ども心に思いました。でも、今なら母の意地が分かる気がするのです。母には、自分を捨てた夫よりも、私を捨てた父親が許せなかったようでした。 私の前で、父親のことを悪く言うことは決してありませんでしたが、どれだけ悔しかったろうと思うと…。」

スミレも、どれだけ悔しかったろう、悲しかったろう、自信を失ったことだろうと思うだけで、涙が浮かんできた。
「でも、母は僕のために強くなってくれました。泣き言は言わず、せっせと働いて、僕を高校に行かせてくれた。僕もその気持ちに応えたいと思いました。アルバイトをしながら勉強も手を抜かなかった。僕がアルバイトをするようになって、母はとても楽になったと喜んでくれました。ふたりで少しずつ貯金もできるようになって、僕が卒業したら記念旅行に行こうと言って楽しみにしていたんですよ。」

いつの間にか、安住氏が自分を「僕」と言いだしたことに、スミレは気付いていたが、何も言わなかった。
安住氏は、小さなアパートのどこかに置いてある貯金箱か通帳か、そんなものを思い出しているのかもしれなかった。遠い目をして、口元をほころばせた。

「旅行、どこにいらしたんですか?」
「いえ。行けませんでした。その日はもう、永遠に来ない。」
スミレは息を飲んで安住氏の目を見つめた。
永遠に来ない日。私は、それを、知っている。
「母は、僕が高校3年のときに亡くなりました。病気でした。僕は大学進学が決まっていましたが、働いて、母を看病するつもりでした。いくらでも看病しようと決意していました。一生寝たきりでもいいと思っていました。でも…。」

その先は、聞かなくても分かる気がした。
果たして、その通りだったのだろう。
安住氏は細かなことは言わなかった。
誰にでも、思い出したくないことや、何年たっても言葉にできないことがあるものだ。

「僕が高校の卒業式を迎えたとき、母はすでに土の中で眠っていました。僕は何もかも、やる気を失いました。大学に行く理由も、働く理由もわからなかった。父とはあれ以来一度も会ったことはなく、母の葬儀にも来ませんでした。母の気持ちを思うと、頼る気にもなれませんでしたしね。親類もいるにはいましたが、引き取って育ててもらうには大人になりすぎていました。」
そして、行政が施設に措置してくれるのも18歳までなので、彼は必然的に自立しなくてはならなくなったのだろう。

「自暴自棄になる気力さえなかった。生ける屍とはあの頃の僕のことだ。いつ寝て、いつ起きて、何を食べているのかさえ分からなくなっていました。でも、現実は、そんな僕を甘やかしてはくれませんでした。家賃も払わなくてはならないし、わずかな貯金はたちまちなくなり、あとは母との旅行のために貯めたあの金に手をつけるか、それがいやなら悪事をはたらくか、本気で働き口を探すかしかないところまで行くのには、さして時間がかからなかった。」

途方に暮れた高校生の安住氏の姿を想像していたら、写真でしかしらない若い父の姿がそこに重なった。想像の中でスミレの父も、安住氏と同じように途方に暮れてうなだれていた。
「ぼんやりしてはいられないと悟ったある日のことです。たまたま、この近くを歩いていました。バイトの面接を受けたのですが、断られた直後で、ひどく落ち込んでいました。夕方にはまだ早いというのに、ひどい夕立ちまで降ってきて、僕はびしょぬれになっていました。

運の悪いことは重なるものです。
そんな僕を後ろから追い越して行った車が、大きな水たまりに入り、盛大に水しぶきをあげたのです。僕はそれを頭からかぶりました。
もう、言葉も出ません。
情けなくて、涙さえ出てこなかったなぁ。

けれどね、スミレさん。その水しぶきが、どん底の僕が浮かび上がるきっかけになるなんて、運命とはわからないものです。」






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