3時にと約束した家庭訪問に、少し早めにでかけようと決めたのは、昨夜祖父と話をした結果だった。
「なんと、そんなことがあるのか!驚いた、驚いた。あのお屋敷にお前が。そうかぁ。家庭訪問なぁ。」
祖父はしきりに感心したり、改めて驚きなおしたり、電話の向こうであたふたしている様子が手に取るように伝わってきた。

「なんと深いご縁だろうかなぁ。そうか、そうか。 」
ようやく気持ちが落ち着いたらしい祖父が、ふふふと笑って秘密を打ち明けるようなひそひそ声で言ったのだ。
「約束の時間丁度に門の前に立つと、結果として遅刻するぞ。あのお屋敷をなめてはいけない。」
「何?なめるつもりはないけど、どういうこと?」
「こう、道路に面して正門があるんだけどな、その先がまた長い。」
「そうなの?」
「そうそう。長い、長い。動物が歩いていたりもするからなぁ。」
「は?動物?」
「百聞は一見にしかずだよ、スミレ。そうして、もうひとつ。最初に見える家には注意だな。」
「意味わかんない。何それ?」
「いいか、スミレ。松重の皆さまのお役に立てるなら、私もこんなに嬉しいことはない。しっかりおやり。」

言いたいことを言うと、祖父はおやすみと勝手に電話を切ってしまった。
もう、おじいちゃん、最近マイペースに拍車がかかっている。
元気で助かるけどさ…と思いつつ、言われたことの意味が飲み込めないままその時間を迎えていたのだ。

登校2日目の花恋嬢は、初日と同じように黒いリムジンを正門前に横付けし、執事にドアを開けてもらってから、ふわりと降りてきた。これも前日と同じように、いつの間にか執事が手にしたランドセルを受け取り、あでやかに背負うと、ここは前日と違って、同じ時間に登校が重なったクラスメイトたちと手を振りあいさつを交わして、なかよく昇降口に向かって行った。

職員玄関からさりげなく見守っていたスミレに目礼を送り、安住氏はさっと立ち去った。
その同じ人物が、2時半に正門前に立ったスミレを迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、先生。ご案内いたします。」
「これは、申し訳ありません。よく私が到着する時間をご存知でしたね。私、お伝えしませんでしたよね?」
「いえ、こちらにいらっしゃる方の多くが、こんなタイミングでお見えになりますので。」

大きな正門脇には守衛室が建っている。人のよさそうな人物が、中から安住氏に小さく合図を送ったようだ。
了解、こちらは不審者ではないということで。
その人物の眼が、そう語った気がした。

「あの、安住さん。花恋さんのお母様にお目にかかる前に、できれば伺いたいことがあるのですが。」
スミレの思いきったような声に、安住氏は首をかしげるようにして、スミレを振り向いた。
「改まって、何でしょう?なんでもお尋ねください。」
「あの、私たちは…いえ、私はいったい、何を期待されているのでしょうか。」 
「期待、でございますか?」

安住氏が一瞬歩みを止めたので、 スミレもその一歩後ろで立ち止まった。
これは大切なことだった。
自分が松重の人々の期待に応えられるような人材だとはどうしても思えなかったのだ。
知識も人格も経歴も、何も人に秀でたものはない。これといった特徴もない。なのに?

スミレの顔が鬼気迫るものであることに気付き、安住氏は微笑みかけた頬を引き締めた。
「スミレ先生。松重の者は、なにも『期待』はいたしません。」
「期待、しない?」
「はい。期待はなさいません。そういう考え方を選ばれません。」
「どういうことですか?」
スミレは畳みかけるように問いかけた。

どう説明したものか、と思案顔だった安住氏は、静かな声で、ゆっくりと語り始めた。
「松重の者たちは、誰かが何かしてくれるをの期待して待っているようなことはしないのでございます。必要だと思ったものは、それがある場所から選び取ります。それが見つからないならば、生み出そうとなさいます。そうやって成長してきたのが松重グループなのですよ。」

スミレは安住氏の言葉を噛みしめ、今度は落ち着いた声で尋ねた。
「では、聞き直します。松重の皆さまは、何を選びとった結果、私どもの小学校をとお考えになったのですか?」
聡い女性だなと、安住氏は小さく感心した。なるほど、だてに苦労してきたわけではないらしい。
「それは、後ほど若奥様からお話しがあると思います。」
「若奥様?」
「あ!申し訳ありません。花恋様のお母様のことを、私どもはそうお呼びしています。ちなみに奥様とは会長の奥様、花恋さまのおばあさまのこと、大奥様が会長のお母様のことでして。」

「では、花恋さんのお父さんは若旦那さまで、会長さんが旦那様でしょうか。大旦那様が…。」
「大旦那様はすでにお亡くなりなのです。私はお目にかかることがありませんでした。」
「そうでしたか。祖父から聞いたことがあります。素晴らしく人望がある方だったそうですね。」
「はい。現会長もその人望を引き継ぎたいと精進されていましたから。」

再び歩きだしたスミレは、安住氏の背を追いながら、先ほど言われた「選ぶか生み出すかで、期待はしない」という言葉に心を奪われていた。
恐ろしいほどに潔い、力強い生き方だ。
お金も時間も、それを支えてくれる人も必ずいるからできる、金持ちだけに許された生き方だと思いたい自分がいる一方で、そんな考え方はここの人々の生き方を説明するのに正しい理解ではなく、自分のふがいなさを実感しないための言い訳なんだと冷静に分析している自分の声の方が大きいことに気付く。

ぼんやり歩いていると、足元からガサリと大きな音がして、スミレは飛び上がった。
「ぎゃあっ!」






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