漆黒のリムジンが、正門の向こうに停まった。
助手席のドアが開いて、ダークスーツの男性が音もなく降りてくる。
そのまま数歩移動し、後部座席のドアを開けた。
アカデミー賞の授賞式に訪れた女優のような優雅な身のこなしで降りてきた少女が、花恋だった。

いつ手にしたのか、男性がランドセルを差し出すと、少女はガウンを羽織るようなしぐさで、するりと背負った。
そして、職員玄関に続く石畳の通路をこちらに向かって歩き出す。 
ダークスーツの男性は、軽く脇に控えた後、ご主人様の二歩ほど後ろを黙ってついてくる。
職員玄関の外で一部始終を見ていたスミレは、少女に駆け寄ってひざまずきたくなる衝動を感じて戸惑った。

「松重花恋と申します。今日からお世話になります。よろしくお願いいたします。」
スミレの前で立ち止まった少女は、スミレが声をかける前に名乗った。
これが5歳の子供の言うことか?
瞬きを忘れて見返すと、少女は確かに5歳児の大きさの顔をして、まっすぐにスミレを見返し、微笑んでいる。
しかし、この微笑みは、5歳児のものではない。
いつか旅行先で見た聖母マリアの白い彫像にそっくりではないかと、スミレは思った。

「担任の笹山スミレと申します。」
スミレの方がどぎまぎして、思わず深々と頭を下げてしまった。
花恋の後ろから、ダークスーツが言った。
「わたくしは執事の安住と申します。転校初日のご挨拶に、本来ならば母上が同道するところでございますが、臨月を迎えておられ、体調思わしくなく、失礼ながらわたくしがご挨拶にまかり越しました。」

「弟が、生まれますの。」
少女はもうスミレと友だちになったかのように、スミレのそばに駆け寄り、大切なヒミツを打ち明けるような声で言う。
「まぁ!お姉さんになるんですね。」
「ええ。でも、お母様のお加減が悪くて…。」
眉をひそめてつぶやく様子を見て、スミレは一気に心配になってしまった。

「花恋さんですね?スミレ先生はそちらの…ああ、安住さん、安住さんと少しお話があるので、みんなが登校する前に、学校の中を私と一緒に歩いてみませんか?」
スミレの背後から声をかけたのはチヨコ先生だった。
「まぁ!そうですね。楽しそう。安住、行ってもいいかしら?」
「はい。いってらっしゃいませ。」
「後で校長室でまた会えますよ。」
花恋はチヨコ先生に言われ、笑顔で頷くと、職員玄関から右に折れた先にある昇降口へ歩いて行った。
花恋は片手に下げていたキルティングバッグから上履きを取り出している。

「花恋さんのげた箱は、こちらですよ。」
二人の様子を見守るスミレの耳に、いつの間にか敬語で話しているチヨコ先生の声が届く。
「あ、私、隣のクラスの…みんなチヨコ先生って呼びますから、そう呼んでください。
花恋さんの担任はスミレ先生でいいですよ。」
「はい。よろしくお願いいたします、チヨコ先生。」
「あ、いえ、はい、こちらこそ。」

安住氏を校長室に案内し、転入の挨拶といくつかの事務処理を終えると、安住氏が言いだした。
「お母上が、今回の転校のことを大変心配しておられます。」
「そうでしょう。
私どもの学校は、校長の自分が言うのもなんですが、上品でも先進的でもありません。
本当に、本当によろしいのでしょうか。
私どもも心配しております。」

「いえ、そういうことではありません、校長先生。」
安住氏はきっぱりと否定した。
「お母上のご心配は、そういうことではございません。
何事も新しいことを始める時には勇気と気力とがいるものでございましょうが、それをお支えしたいお母上ご自身が丁度産み月。
花恋さまのおそばにいることも難しいタイミングなのでございます。
まして次のお子がお生まれになれば、しばらくはそちらにかかりきりになってしまわれます。
そのことをお母上は案じておられるのです。
そのため、本当は入院を勧められているのですが、今もご自宅で静養されています。」

母とはなんと有難いものなのか。
自分の体調よりも、娘の転校のストレスを思いやるものなのか。
父親も、こんなふうにつき添える執事もいながら、それでもそこまで気遣うのか。
スミレはふと、自分の母を思い出していた。
私のお母さんとは、ずいぶん違うようだわ。
意地悪な思いが心をよぎった。

「そこで、お忙しいのを承知で大変心苦しいお願いなのですがスミレ先生、松重の家へ家庭訪問にお越し願えないでしょうか。よければ、明日にでも。」
「明日ですか!?」
「担任になる先生に、ぜひともお目にかかってご挨拶申し上げたいと申しておりますので。」
「はぁ。」
スミレはなんと答えてよいか分からない。
家庭訪問は4月中から始めて、先日ようやくすべて終えたところだ。
転入生ならば、追加で訪問するのは何の問題もないのだが…。

「行かせます、はい。」
スミレの答えなど知ったことではないというように、校長が先に答えた。
「お越し願えますか。ありがとうございます。では、明日、花恋さまのお帰りの車に…」
「いえ!」
思わずスミレは半分腰を浮かせて、大きな声を出した。
「少ししなければならないことがありますので、花恋さんの下校は1時半ですが、私は3時ごろにおうかがいさせてください!」
「承知いたしました。申し伝えます。」

さっき見た漆黒のリムジンに自分が乗るなどあり得ないことだと思ったので、強く勧められないことを心底ほっとありがたく思った。
そういえば、家庭訪問に保護者の車に同乗してはいけないルールがあったんだわ。
何も焦らなくても、ルールを盾にお断りすればよかったんだ。
後から冷静さが少しだけ戻ってきた。

「それから、これはお父上からの伝言なのですが…。」
「はい、何でしょう。」
「今度の日曜日に、味のみなもとスタジアムでサッカーの試合があるのをご存知ですか?」






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