「ね、そろそろ時間じゃない?」
誰かの声がして、みながそれぞれの思い出から帰ってきた。
とても長いような、あっという間のような5年だったと、ひとりひとりの思いが視線になって交錯する。
「ほんとだ。」
「そうですよ、その知らせに来たのに!」
「なに?」
慌てた声を出す優に、真理が小首を傾げた。
「あと30分ほどで到着しますと、電話があったんです。秘書の方から!」
わぁっという声とともに、席を一斉に立つガタガタという音が重なった。
さざ波のような笑い声や、緊張した面々が玄関へと移動していく。

今日子が、その波を無視してスミレの姿を探し、急ぎ足で近づくと、歩きだす前のスミレを後ろから抱き締めた。
「大丈夫?」
「うん。今日子さん、ありがとう。今日子さんがわかってくれるから、私は大丈夫。それに、おじいちゃんも!」
今日子の後ろには新吉が穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
「しょうがない、というと投げやりに聞こえるかもしれないけど、本当のことだから、しょうがないもん。」
スミレが心の内側の、どうしようもない気持ちを小さく覗かせている。

ミドリが笹山さんの跡取り息子と付き合うようになったのは、周囲の熱心なお膳立てによるものだったが、初めはまったく乗り気でなかったミドリが、だんだんとその付き合いを楽しむようになったのは、当然と言えば当然のことだった。
跡取り息子は熊夫という信じられない名前をしていた。
あたりに時折出没する熊よりも、強い男になれとの願いを込めた名前だそうだが、いわれを聞いたミドリは開いた口がふさがらなかった。
「なんてセンスのないネーミングなの…。」
声にならない悪口を心の中に響かせつつ、愉快な思いが肚の底から湧きあがってくるのだった。

熊夫は勇猛な名に似合わず、どこまでも人のよい、平和な人物だった。
いい人すぎてアピール性には欠け、資産もあるのにここまで独身だった理由も分かる気がする。
ミドリは、等身大の付き合いというものを、何やら初めて体験するような気持ちになった。
ミドリにはそれがかけがえのない魅力に思えた。

高校生のとき、部長だった哲也に憧れて、同じ思いの何人もいるマネージャーや同級生たちと競い、いかに哲也に気に入られるかを必死で考えた自分。そうやって、すべてを差し出してつかんだはずの幸せが、いくらあがいてもボロボロと崩れていくあの悲しさ、恐ろしさ。何もかもひとりで背負わなければならないと思う切なさを思い出すにつけても、この人はきっと、何があってもいなくならないだろうという確信めいた安心感を与えてくれる熊夫を、成長したミドリは心地よく感じた。

心を焦がすような恋愛感情があるわけではない。今後も、そんなものは湧かないかもしれない。
それでも、ずっと長く、毎日の平凡なくり返しを、笑ったり怒ったりしながら、際限なく続けていけるだろうと思えるだけで十分なのではないかと思った。
広大なリンゴ畑の所有者である笹山家は、家人だけでは手が足りないので、相当数の従業員を抱えた企業の形をした農家だった。
いずれはその社長となる熊夫だが、自らが誰よりも多く外に出て、リンゴの木と過ごしていた。
2年ほどして、そこばかりは名前通りに真っ黒に日焼けして、白い歯をこぼして笑う熊夫から、ぼそりと求婚されると、ミドリはそれほどの迷いもなく承諾した。

まさか、スミレが反対するとは思ってもみなかった。
実際に、声をあげて反対されたことは一度もなかった。
新吉の家を出て、いくつ部屋があるのかと思うような大きな平屋建ての笹山の家には、スミレも一緒に引っ越した。
が、1週間もしないうちに、スミレが突然新吉の家に戻ってきたのだ。

「おじいちゃんが一人で寂しいから。もしも病気になったら困るから。」
スミレは祖父の家で二人で暮らしたいと懇願した。
同じ町内のこと、学校の帰りに毎日寄ればいいと祖父からも説得されたが、スミレは頑として聞き入れない。
知らせを受けて駆けつけた真理や今日子は、スミレの思いをいち早く察したが、ミドリにはそれがわがままに見え、自分に対する不信の続き、抵抗、あるいは復讐かと感じたのは、しかたのないことだったのかもしれない。

母と娘の微妙な軋轢を成長させないように決断を下したのは、新吉だった。
「俺もスミレがいてくれるほうが安心だし、張り合いもある。本当は、引っ越す前に言いたかったけれど、言えなかったのだよ。スミレをもらえないか?」
邪魔に思う気持など微塵もないが、新婚夫婦にはその申し出を断る理由もなかった。
「よろしくお願いします。」
そろって頭を下げるふたりを、スミレがどんな思いで見つめているかなど、思いもよらないミドリだった。

新吉の家に戻ってもむっつりとしていたスミレは、それでも時間とともに笑顔を取り戻した。
5年生。多感な年ごろだった。
でも、しなやかで、のびやかな時期でもあった。
結局、ミドリは、スミレの微妙な寂しさや遠慮、気づかいに気付くことはなかったし、誰もそれを説明してやる者はなかった。
それが、大人というものだ。
大切なことは、自分で気付かなくてはならない。

今日子に肩を抱かれたスミレは、もう中学生になっている。
心のわだかまりは消えたわけではない。
きっと、一生消えないのだろう。
それでもいいと、スミレは言っているのだ。
理解者がいること、自分自身で選んだ道。
スミレはすっかり強くなっていた。

玄関の方から、大きなざわめきが伝わってきた。
「あ、会長さんが到着されたみたいよ。急いで!」
今日子に促され、新吉に頷かれると、スミレはパッとバラのような笑顔になり、長い脚で駆けだした。
「ようこそ!『おらほの家』へ!」
「お待ちしていました!5年も!!」
大きな拍手とともに、人々の声がこだまする。

玄関先に着いた今日子と新吉の前がすっと空き、そこへ松重会長がゆったりと歩を進めてきた。
会長の手には、スミレが贈る役に決まっていた、小さなブーケが握られている。
あの、トコちゃんの花壇で咲いた花のブーケだった。
「やぁ、星川さん、佐々木さん。やっと来ましたよ。」
会長は、爽やかに手を挙げた。
「お待ちしておりました。さあ、ごらんください。ここが、会長の夢を形にした『おらほの家』です!さあ、中へ!長旅でお疲れかもしれませんが、いろいろと見ていただきたいところがあります。まずは、こちらへ…」

会長の車を運転してきた倉橋運転手が、窓を開けて大きな黒い車をバックさせている。安曇野にはまだ早すぎる、雲雀の声が聞こえた気がして、倉橋運転手はふとブレーキを踏んだ。見上げた空は抜けるように青く、空気のどこかに初夏を思わせる風をはらんでるような気がした。






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