「ママ!」
さっきまで、父親の水田優が抱いていた3歳ほどに見える子どもは、飛ぶように駆けだしている。
「ゆずる!」
ミドリが席を立ち、両手を広げて待ち受ける。
「ママ!」
譲はもう一度呼んだ。 

「ゆずる!おいで!」
ミドリは膝をつき、駆けてくる譲に目線を合わせた。
つい今しがたまでざわざわと今日子や新吉と言葉を交わしていた各地の施設長たちも不意に言葉を切って、幼子のやわらかそうな足が高速回転して行く様を見守った。

あと一歩でミドリの腕の中に納まると思いきや、譲はミドリの脇をすり抜けて、真理の膝にしがみついた。
「ああ、ダメかぁ。」
片膝をついて振り向きながら、ミドリがため息をついて見せた。
真理は座ったまま譲を抱き上げる。
ぷっくりとした腕が二本伸びて、真理の首に巻きつけられた。

「おかしいなぁ。私の方が若いし、ママとしては先輩だし。何が不服なの?」
ミドリがそういって笑うと、部屋中に笑い声がこぼれた。
「ミドリちゃんはまだまだ修行が足りないからねぇ。子どもにはわかるんだろ。」
鶴さんや亀さんが容赦なくそんなことを言う。
「ああ、そうなのね。たまらないわ!」
頭を抱えて見せるミドリを見て、新吉はわが娘の心が、限りなく健康になったことを肚の底から喜んだ。

「譲ちゃんは大きくなったわね。」
施設長のひとりが今日子に声をかけた。
「ええ。丈夫な子でね。親思いよ。おかげで私たちはいい後継者を家庭に奪われることなく、両立してもらっているってわけ。」
「あの日のこと、ホントに忘れられないわ。」
「そうね。何といっても、この『おらほの家』のオープニングイベントだったから。」
「気がかりなことばかりだったのに、一気に吹き飛んだわね。」
「本当にそうだったわ。福の神よ、あの二人は。」

優が真理の椅子まで歩いていく。
途中、ミドリに向かっておどけた顔をして見せる。
ミドリは肩をすくめて、何か言ったようだ。
優が譲の頭を撫でながら、真理と楽しげに何か話している。
おらほの家の面々には見なれた光景だ。

「あの二人、何かあったんですか?」
最近バイトに来るようになったスタッフが、好奇心をおさえきれない眼をして問いかけた。
「姉さん女房だとは思っていますけど、福の神だなんて?」
「あら、知らないの?」
他の施設長が振り向いた。
「これを知らずに『おらほの家』のスタッフとは言えないわよ。」
「そうそう。伝説なんだから。」
「もう、じらさないで、教えてください!いったい、何なんですか?」

若いバイトが地団駄を踏んでせがむのを、今日子は微笑みながらなだめた。
「もちろん、教えてあげるわ。あれはね…。」






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