デザートを終えてもまだ20時前だった。
早めのディナーになったのは、21時新宿発の最終あずさで新吉と今日子が長野に戻るからだ。 
香ばしい珈琲をゆっくりと飲み干した後、会長はゆるやかに右手をあげて、動き回るかあさんを呼びとめた。

「シェフに今夜のお礼をしたいのだが。」
一瞬はっとした顔を見せたかあさんだったが、お待ちくださいと丁寧にお辞儀をすると、厨房に隠れた。
すぐに、何度か料理を運んで出てきていたシェフ…かあさんの夫が、濡れた手を拭きながら現れた。
大きな身体に似合わぬかわいらしい目をしている。
いくら縮ませても大きい身体だが、全体から包容力と陽気さが漂い出ているような人物だ。

目を細めてその姿を確認した会長は、優しく語りかけた。
「今夜は大変美味しかった。ありがとう。これならとても愛されているのは当然ですね。」
オーナーは臆面もなく言う。
「はい!お陰さまで、いつもお客様に支えていただき、なんとかやっていけています。儲かりませんが、お金ではないものを、毎日毎日いただいております。」
「それに、かわいらしい奥様だ。」
黒クマとしか例えようのない顔をほころばせて、オーナーは照れている。
「そう思ってくださいますか!あれは神様からの授かりものです。私は果報者です。一生大事にしたいと思っています。」
「おやおや。料理も、そちらも、ごちそうさま。」

オーナーが頭を掻いて照れ続けている。
会長が席を立ったのに合わせて、一同は立ち上がった。
別の席で楽しげに笑い合っていた面々も、その様子を見て一足先に入口付近へ向かっている。
佑輔氏がいないと思ったら、会長とオーナーが話している隙に会計を済ませていたようだ。
これにはしてやられた。
新吉は自分が払う気でいたからだ。
営業で客をもてなすときには当然の動きを、今夜はすっかり忘れてしまっていた。

入った時と同じように、黒いかまいたちがレジの前から扉に向かってしゅっと動き、会長がたどりつく前に自動ドアのように開いた。
いったいいつ消えたのか、運転手の倉橋さんの姿がない。
先ほど席を立ちあがった時はいたと思うし、戸が開いた気がしないのだが…。
まったく、会長のお伴たちは忍者のようだ。
新吉は、時代劇ファンだった妻のミハルがよく見ていた『暴れん坊殿様』に出てきたお庭番という忍者のことを思い出していた。

店を出てコートを着込むと、たぶん、倉橋さんがリムジンを止めているのであろう大通りを目指して歩きだした。
すると、一度閉まった扉からかあさんが走り出てきた。
「お兄様!」
「花亜。会えてうれしかったよ。幸せなんだね。」
「ええ。お兄様、ありがとう。彼に黙っていてくれて。」
「また来るよと言いたいところだが、そうもいかないだろうな。」
「ええ。でも、本当に必要な時には。」
「ああ、そうしよう。お前も遠慮なく屋敷に足を運んでくれ。」
返事はなかったが、少しのためらいもなく、かあさんが会長の首に抱きついた。
「お兄様、お身体を大切にね。」
「花亜もね。時々佑輔を寄こすよ。」
「まぁ!結構よ!それより星川様、感謝申し上げますわ。是非またいらしてください。今度は、スミレちゃんも一緒に!」
「是非そうさせていただきますよ。」

手を振って見送ってくれるかあさんを背に歩きながら、新吉は油断すると目が潤むほどに感動していた。
歳をとると、どうも涙腺がゆるくなっていけない。

「佑輔。」
会長が振り返らずに呼んだ。
「はい、旦那様。」
「花亜の店は素敵だが、ひとつだけよくないことがあったね。」
「は?」
「花亜の周りには花がないといけないよ。」
「花、でございますか?」
「そうだ。あの店には、花が生けてなかったね。花亜の部屋にはいつも、花が溢れていたよ。」
「なるほど、そうでございますね。きっと切り詰めた経営で、余裕がないのでございましょう。」
「佑輔、お前が届けておやり。あまり始終ではいけない。大げさでもいけない。そうだな、季節が変わるたびに一度だけ、花亜の好きな花を選んで、お前が自分で運ぶのだよ。そうして、その時の様子を必ず報告するように。いいね。」
「かしこまりました、旦那様。」

東京の夢のような夜はこうして終わった。




もうひとつのエッセイブログ『ゆるるか』不定期に更新中!



人気ブログランキングへ