「かあさん、できましたよ!」
店の奥から豊かなバリトンが響く。
「はい!」
首をわずかにまわしただけで答えると、胸の前で指を組み合わせたまま、お兄様と呼んだ相手を懐かしげに見上げていた目は、一瞬にして懇願に染まった。 
それで、兄にはすべてが察せられた。

「ではマダム。席に案内を。」
会長が言うと、桜色の口元をほころばせて、かあさんは会長を店の一番奥の席にいざなった。
「ご予約席」と書いた札が置いてある4人がけの席で、会長は紳士らしく、自分が座る前に今日子からコートを預かり、椅子を引いている。

もとより余計なことを軽々に口走る権藤や新吉ではない。
新吉の驚愕は、顔のパーツをいくつか地面に取り落としそうなほどだった。
あの、気持ちの良い若妻が、会長の妹だと????!
プロポーズに行き合わせたのを縁に、これまでどれほど通い、愚痴を聞いてもらい、気付きをもらったことだろう。
それが、会長の?

新吉と会長秘書が今夜の待ち合わせについて相談していた時だった。
「星川さん、席を予約できるだろうね?」
一度仕事に戻ったように見えた会長から声がかかった。
「はい。そのようにしようと思っていたところです。」
「では、私たちのテーブルから少し離れたところに、もう4人分席をとっておいてほしい。」
「はい。承りました。離れたところが?」
「ああ。その方が気楽だろうからね。」

その意図が今ようやくわかった。
その離れた席に、二人のキュートで切れ者の秘書と、後藤佑輔氏がつこうとしている。
「後藤。みっともない。涙をおふきなさい。」
ドアの前で立ち尽くしている佑輔氏に、かあさんはそう言って、彼の意識を取り戻したのだ。
「1年以上のご無沙汰でございます。あの夜を境に、一度もお戻りくださらず、ご連絡先も存知あげず、後藤がどれほどご心配申し上げたか…。」
「小さな男だこと。ばあやを見習いなさい。」
戸の脇で、そんなささやきが交わされていたのだ。

店の戸がからりと開いた。
白い帽子を脇に抱え、白い手袋をはずしながら入ってきた初老の男性を、こっちこっちと秘書たちが手招きしている。
仕切りが合って新吉たちには顔が見えなかったが、きっとリムジンの運転手なのだろう。
「ああ、来たようだ。」
その姿を見て、会長が説明した。
「倉橋は私の父の代からの運転手でね。公用・私用を問わず、いつでもどこへでもついてきてくれる。そろそろ若い者に交替するように言うのだが、頑固で聞き入れてくれなくてね。たまには労をねぎらってやらねば。」

この店は「やじろべえ」という純和風の名前をした洋食屋だ。
調度も純和風で、椅子もテーブルも蕎麦屋のような作りをしている。
こういう店に足を運ぶことなどないのだろうと思い、失礼にならないかと新吉は心の底では心配の海が波打っていた。
しかし、なんとも言えない展開になった。
会長は極めてご機嫌麗しく、予め頼んであったコース料理とワインがかあさんの手で運ばれてくるたびに、細かな説明を頼んでは会話を楽しんでいる。

そうして二人を並べてみると、美男美女の二人は確かに似ていて、10歳以上の歳の差がありそうだが、兄妹といわれれば、頷かざるを得ない。
片やブランドの服に身を包み、洗練された雰囲気を店中にふりまく男と、それほどの化粧気も飾り気もなく、笑顔を最高のアクセサリーにしているマダムが、互いに臆することもなく言葉を交わしているのは奇観ですらある。

「おい、権藤。もしかして会長は…。」
「ああ、酒には強くない。実は笑い上戸でね。今夜はますますご機嫌になるぞ。」
向かい合わせに座った同期が、額を寄せてささやき合う。
向こうのテーブルでは、料理に舌鼓を打っている秘書たちを尻目に、佑輔氏がかあさんの後姿を目で追いかけ続けている。

「佑輔は妹と乳兄妹でね。」
新吉の視線の先に気付いたらしく、今日子と何やら話していたのをふと止めて、会長が言い出した。
「とにかく花亜が命だった。世の中には他にもたくさん女性がいると気付いていないのではないかというほどに。でも、代々我が家に仕えてくれている家柄だけに、その一線を越えてくることは決してない。それが気楽でもあったのだろう、花亜もずいぶん頼りにしていたようだ。実はね…。」
会長は意味ありげな視線を新吉に止めた。
「あなたのことを教えてくれたのも、佑輔だったのですよ。どうやらそれは、花亜の入れ知恵だったというわけだね。」






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