会長が右手を軽くあげて秘書にサインを送ると、秘書は小さく頷き、静かに消えて行った。
間もなく戻ってくると、大きな銀色のトレイにコーヒーカップが4つ乗っている。
カップは、新吉でも知っているロイヤルコペンハーゲンだ。
白く滑らかな磁器に、シノワズリが漂う青いペイント。
珈琲の色が映える。

面接はこれで終わり、ということのようだ。
シュガーポットやクリーマーも、カップとおそろいの絵柄がついている。
緊迫感漂う面接会場が、テーブルに珈琲セットが並んだだけで、一息に和んだ。

新吉は、ブラックのまま、珈琲を口元に運ぶ。
得も言われぬ香りが鼻腔をくすぐり、思わず深く吸い込んだ。
一口。
「うまい!」
反射的に声を立てると、秘書が嬉しそうに肩をすくめる。
会長の方があからさまに喜んだ。
「でしょう?彼女はコーヒーマイスターの資格を持っていてね。いつも私好みの美味い珈琲を淹れてくれる。星川さんは二度目のはずですが…。」
そうかもしれないが、緊張していたのか、少しも覚えていない。
惜しいことをしたものだと、苦笑が漏れる。

「佐々木さん。」
ひとしきり珈琲を堪能してから、会長が静かに呼びかけた。
今日子はカップをテーブルに戻すと、
「はい。」
すっきりと顔をあげてから答えた。

「ご存知かもしれないが、我が家はどちらかというと女系家族でね。私の両親も、母が直系、父は入り婿でした。江戸時代にはすでに商売をしていた家系となれば、一般の家族の在り方がそのまま我が家にも通用するとは限りません。

私は、母に育てられた記憶がありません。血を分けたのは間違いないですし、毎日顔も合わせました。人生の要所要所では、彼女の意向を尋ねもしました。けれども、「育てられた」とか「愛情を注がれた」とは感じなかった。それでもこうして、大してひねくれもせずに成人し、この仕事をしていられるのは、愛情深い執事一家をはじめ、私を取り巻く大人たちが、私を愛してくれたからにほかなりません。けれど、それを理解するには長い時間がかかりました。」

今日子は黙って聞いている。
その目は、会長だけでなく、会長の周囲をとりまく空気の層までも視界に入れているような、不思議な目だった。

「年の離れた妹が生まれた時、私を母代りに育ててくれていた執事の妻も男の子を生みましてね。妹とその男の子は乳兄弟というわけです。が、私は私だけを見てくれていたはずの母のような存在を、妹に奪われたと感じました。けれども、そういってだだをこねるにはプライドが許さない程度の成長はしてしまっていましたからね。母が母らしくないことは最初から織り込み済みでも、あれは参りました。人生で初めて、さびしいという感情を知った時かもしれません。

そしてね…。」

言葉を切った会長は、何かに気付いたように戸惑いの表情を浮かべ、次いで頷いた。
ひとり合点している会長に、自分の役割を終えてからは新吉同様黙って様子を見ていた権藤氏がからかいの言葉を投げた。
「おや、会長。何やらよからぬことを思いついたようですな。下心が丸見えの顔をしていますよ。」
「下心?そんなはずはないですね。下、ではないですから。」
「ほう。」

ニンマリとする権藤氏を無視して、会長は今日子を見据えた。
「佐々木さん。私はどうやら、あなたにもっと話を聞いてほしいようだ。
あなたは大変刺激的な思想を持っていらっしゃる。
その話を聞きたいと、先ほどまでは思っていたのだが、それは建前で、本当は自分のことを聞いてもらいたいらしい。
どうでしょう、今夜、食事でも。」

今日子は少しだけ目を見開いてから、新吉に視線を巡らせてきた。
自分の雇い主となる人物からの誘いを、どうしたものかと問うている。
新吉は一計を案じた。
「会長。お言葉ですが、今日子さんは今夜、私と食事に行くことになっているんです。権藤も誘って、同い年同士の親睦会をと思っていました。会長はまだまだこの会にはお若すぎますが、いかがでしょう、お招きに応じてはくださいませんか?」

権藤氏は手を打って、会長の答えより先に図々しくも乗り出した。
「それはいい。店の当てはあるのか?ないなら俺が今から…。」
「いやいや、お前が行くとなったら、きれいな女将が迎えに出てくる料亭とかだろう。俺が今日子さんを案内したかったのは、東京の家の側にある、何ということはない街のレストランなんだ。とにかく、料理が美味い。それに若いオーナー夫妻が気持ちの良い人たちでね。孫も大変かわいがってもらった。東京に出てきた時は必ず寄ることにしているから、今夜は今日子さんと是非と決めていたんだよ。それでよければ、お前も来い。」
「その若奥さんは美人か?」
「ああ、とびきり美人だ。ついでに、品が良い。機転が利く。思いやりが息をして歩いているようだ。ああいう女性に俺は会ったことがなかったくらいだよ。」
「ならば行ってやろう。」

「それはご挨拶だわ。」
女性のひとりである今日子が笑う。そして、
「私もそのお店に是非行ってみたいのです。会長様もいかがでしょう。私、お話しの続きをお伺いしたいのです。でも、できれば…」
今日子はそこで辺りを見回した。
「できれば、もう少し緊張感のない場所で。」

あはははと明るい笑い声を立てた会長は、立ち上がって右手を今日子に差し出した。
「わかりました。あなたをこの企画の参謀として採用いたします。では、今夜は就職祝いとしましょう。それでいいか?星川さん?」

今日子も立ち上がり、しっかりと握手をする。
「よろしくお願いします。」
「ただし、ひとつ、条件がある。」
会長は眉間にしわを寄せた。
「もう一度『会長様』と呼んだら、解雇します。なにやら30も歳をとったような気がする。」
「まぁ!」

部屋の隅でぷっと吹き出し、慌てて退室したのは、珈琲マイスターの秘書だった。






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