新吉は、聞いてしまってから身構えた。
本当は戻りたいのよと言われたらどうしようか。
東京からの帰り道、翌朝の電話、昨日の訪問。
ずっと考え続けてきたことなのだ。

君のしたいようにするのが一番だよな、とは言えない自分がいる。
世の中に、こんな仕事に向いている人はゴマンといるのだろうということは、重々分かっている。
けれども新吉は今、どうしても、今日子とこの仕事がしたかった。
だからといって、無理やりにも頼み込み、うんと言わせていいとも思えない。

今日子は、静かに座ったまま、答えない。
暖かそうな白いセーターの下に、明るい花柄のロングスカートをはいて、絨毯に座っている。
足さきに、モコモコとかわいらしいほどのスリッパが見える。
小首をかしげたまま、新吉をじっと見つめている。

やがて、きっぱりとした声が、こう答えた。
「県の仕事には、もう戻らないわ。」
「なぜ?」
体中を安堵が滑り下りていく中で、新吉は問わずにはいられなかった。
「おらほの家は、確かにトコちゃんやスミレも一緒に考えたことが基盤になっている。利用者も高齢者に限らず、利用したい人には利用してもらう。けれど、どうしたって高齢者が多くなるだろう。児童福祉というのか?そちらに関心があるなら、道が違うのではないか?」

今日子は、静かに立ち上がると、新吉の向いのソファーに腰かけなおした。
真っ直ぐに背筋を伸ばすと、ひとつ息を吐いた。
目が、ギラリと輝く。
今日子が本気で仕事をする時の目だ。

「県は、トコちゃんを救えなかった。スミレちゃんも、県のルールの中では守れなかった。」
今日子の言葉は、ずしりと重い。
「私がどれほど頑張っても、あのポジションではトコちゃんもスミレちゃんも助けられなかった。
これから何回、同じことが起きても、きっと同じだと思うの。
だから、私は戻る気になれない。
だいたい、人手不足を職員の努力のみで補わせるしかない仕組みの中で、どうやって理想を追求し続けたらいいの?
努力は、当たり前ではないと思うの。
どういうかたちであっても、報われていいはずではない?
なのに、私は彼らの命を削るような努力に、給料一つ増やしてやれない。
せいぜい努力を認めて労わりの言葉をかけるだけ。
あとは、努力して当たり前って言わなくてはならないの。
その結果が、私が体験したことよ。

私は前に進みたいの。
県にできないなら、他の力を借りてやるまでよ。
松重グループの巨大な資本と信用を背景に、私の理想を形にしてみたい。
トコちゃんにしてあげたかったことを、今度こそ、必要とする子に渡したい。
スミレちゃんを助けた真理さんを首にするのではなく、ボーナスを倍にして感謝したいのよ!」

新吉は、いつしか、思い切り握りしめていたズボンの生地ごと、ブルブルと震えていた。
「ありがとう!」
ほかに、言葉が出てこなかった。



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