会長の元を辞去した新吉は、想定外の行動から、予定の行動へと移っていった。
行くべき場所があり、会うべき人がいる。
新しい事業を立ち上げるとは、これほど大変なことかと、新吉は何度思ったか知れない。
自分一人で済むことは何一つないといっても過言ではない。

新吉がそれまでしてきた「物を売る」ということと、経営とを、時々比べてみる。
似ている点ももちろんあるが、別物だなと思う。
いつかこの「別物」の感覚を言葉にできるようになるのだろうか。
その頃には、自分も胸を張って経営者だと名乗れるようになっているのだろうか。

社内探偵がいくら優秀でも、長野の個人を調べるのが2日や3日で済むとは思われなかった。
でも、何日かかろうと、きちんと答えを出して長野に帰ろうと心は決まっている。
「おらほの家」を自分とともに産み育てていくのは今日子をおいて他にない。
2泊もすれば帰れるだろうと予約したホテルに向かいながら、新吉はすでに身体がずしりと重たくなっていることに気付いてため息をついた。
泊を延ばしてもらえるだろうか。

東京に来て3日目、本社に立ち寄った新吉は、聞き覚えのある声に呼びとめられた。
振り向くと、上等なスーツをパリッと着こなした、ロマンスグレーの男性が立っていた。
一歩後ろに控えているのは秘書だろう。
「やぁ、やっぱり星川だ。最近お前の名前ばかり聞くからな。元気そうで何よりだ。奥方のことは残念だったな。」
親しげに語りかけてきたその男こそ、人事の神・権藤だ。

「権藤。世話をかけているようだ。それにしても、相変わらずいい男っぷりだな。」
「なんだ、それは。俺におべんちゃら使っても、手心は加えんよ。」
「そんなことは期待するはずもない。ただ、ありのままを、だ。」
「ああ、そうだな。ひと段落ついたら一杯どうだ。」
「人事部長様のお誘いを断るやつはおらんからな。楽しみにしているよ。お礼に、定年後の楽しみをこしらえておいてやろう。」
「なんだって?」
「物産の暮らしが全てじゃないってことだよ。まぁ、任せとけ。」
「相変わらず、話がうまいなぁ、星川。じゃ、老後の楽しみはお前に任せるとしよう。またな。」

予定でもあるのだろう。片手をあげて挨拶をした姿勢のまま、秘書に急かされるように去っていく権藤は、新吉と同期採用だ。
採用は同期だが、待遇はまったく別だ。
いってみればドラフト1位指名で入社した権藤に対し、新吉は自らエントリーしたセレクションに指先一本でひっかかったようなものだ。
が、採用当初の研修でたまたま知り合いになった二人は、なぜか意気投合した。
同じ仕事をしたことはないが、旧知の友と言ってよい仲だった。

その権藤氏へ会長自らが申しつけた件だけあって、社内探偵たちも頑張ったようだ。
東京滞在5日目の朝、会長から呼び出しがあった。
新吉は胃袋を握りつぶされるような緊張を感じながら、指定された会長室へと向かった。






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