なんということだろう。
優は、私が相手だから、あんなふうに言ったというのか。
いや、私が優に、あんなふうに言わせたということだろうか。
頭が真っ白になった。
私の、せいなの?

「………さん、ミドリさん。ミドリさん!」
真吾先生に軽く肩を叩かれて、ミドリははっと我に帰った。
「いいですか?誤解しないでください。
今回、あなたに起きたことがそうだと言っているのではありません。
私は答え合わせはしないと申し上げたはずです。
ただ単に、その水田優さんとおっしゃる方が不機嫌だったのかもしれないと、言いましたね?」

ああ、そうだった。
溺れかかった深い水底から、もがきながらようやく水面にたどりつき、思い切り息を吸いこんだような気分だ。
めまいがしている。

「ただね、これは医者としてというよりも、少し年上だから先輩風を吹かせて言うことですがね。」
真吾先生は軽やかに笑ってから言った。
「先ほど私が水田さんのことをお尋ねしたとき、あなたはすぐに答えませんでしたね。
あなたは、好きだとおっしゃる水田さんのことを、実はそれほどよくご存知ないのではありませんか?
急ぐことはないと、私は思いますよ。
そんなにすぐに恋に落ちたり、告白したりしなくていいんじゃありませんかね?」

ミドリは、この時ばかりはおかしくなって、笑い声をたてた。
「先生は、奥様といつ恋におちるか、計算したり計画したりなさったんですか?」
「あ、いや、そういうことは…ああ、そうですね。」
しどろもどろの真吾先生を見ているうちに、力んだ肩から力が抜けたらしい。

言われてみればそうなのだ。
優は確かに素敵な男性だと思う。
話しやすく、サッカーという共通の話題もあった。
けれども、周囲に他の適当な男性がいなかったからでは?と誰かに聞かれたら、それは違うと言いきれるだろうか?

もしかしたら、私は恋に恋していただけで、相手が優でなかったとしても、同じようにときめいたのかしら?
今は、いくら考えても、その答えはわからないだろうという気がした。

「でもね、ミドリさん。今回、あなたは大変よい状態にあったと思いますよ。」
「よい状態ですか?これが??」
「ご自身の全てを否定しては、物事を正当に見られなくなります。
今回あなたはとてもショックな出来事に見舞われた。
それは、かつてあなたをとことん傷つけた出来事に似通っていたかもしれません。
それでもあなたは、きちんと食事を味わい、お子さんの面倒をみて、よく眠っていらっしゃる。
お父様に対する思いやりも忘れなかった。
それは、あなたにとってその出来事が、あなたの人生全てにならなかったということです。
あなたはきっと、入院されている間に、どのような出来事も人生の一部にすぎないということを学ばれたのですね。
それを知らずにいる人が、世間にはたくさんいるのですよ。
あなたは、とてもよい状態にあると言えるのではありませんか?
私は今日お話しを伺って、そう思いましたがね。」

ミドリは、自分の心に情熱の炎が小さく灯ったことを感じ取っていた。
生きるということに対する、ささやかな情熱が、また燃え始めた。
それを伝えてくれた真吾先生に、心からの感謝が湧いた。
まだまだ、私は始まったばかりだわ!
ミドリは背筋を伸ばして、診察室の椅子から立ち上がった。






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