両開きの自動ドアを通り過ぎると、先ほどまでの熱い塊が肺の中から抜け出し、代わりに冷えた空気がすうっと忍び込んできた。
ようやく普通の呼吸ができるような気がしたが、ここの空気を胸いっぱい吸い込むのはいつもためらわれるのだ。
ミドリが入院している精神科病棟の待合室は、何十回通っても慣れない雰囲気がある。
いや、慣れてはいけないと言い聞かせている自分がいる。
この世界と自分自身は無縁なのだと思いたい自分がいた。

医師に会ったら、今日こそミドリの長野行きについて相談しようと決めていた新吉は、診察室に入ると、人懐こい笑顔を浮かべる担当医に先を越されてしまった。
「入院も1年を超えましたね。もう大丈夫。退院なさってけっこうですよ。」
「え?」
「ミドリさんのお話しによると、長野に転居されるご予定とか。服薬はしばらく続けてから、少しずつ減らしていきますので、そのあたりの相談に乗ってくれる病院をご紹介しておきましょう。」
「はあ。」
「ミドリさんはこの半年ほど、入院という形ではありましたが、生活訓練とカウンセリングを続けてきました。生活訓練とは、暮らしの技術だけではなく、それぞれの場面で様々に感じることを言葉にして相手に伝えたり、看護師に相談したりする訓練です。これを通じてミドリさんは、きっとご自分のことをこれまでよりずっと深く知ることができたのではないでしょうか。」

もしもそうだとしたら、今のミドリは自分よりも大人になっているのかもしれないと、新吉は思ったが、口には出さなかった。

「カウンセリングも一通りではありません。ミドリさんのご要望で、いろいろなグループカウンセリングに参加していただきました。」
「グループカウンセリング?」
「同じような体験をされた方のあつまりで、それぞれの体験を語り、聞き合う場があるのですよ。そこにはそのような体験に関する経験が豊富なカウンセラーが複数同席します。」
「ほう。」
「ミドリさんの場合はそれが5つも当てはまりました。若年出産をした母親の会、ドメスティックバイオレンス被害者の会、連れ合いを自殺で亡くした方の会、自分の子どもを虐待した母親の会…」
医師は言葉を不自然に途切れさせると、先ほどまでの笑顔を消して、上目づかいで新吉の表情を確認するような視線を送ってきた。
「それから、家庭に居場所がないと感じている子どもたちの会。」

新吉は返事が出来なくなった。

「どれかひとつだけでも、抱えきれないほどの痛みをもたらすものですが、どれか一つだけでは済まないことも少なくはありません。治療を進めるうえで、私はどれかひとつ参加してみてはどうかと話しました。するとミドリさんは、ひとつ、またひとつと広げていかれて、今ではご自身で計画的に参加されています。」

自分が事なかれ主義でいる間に、ミドリは現実に立ち向かっていた。
新吉は五十数年生きてきて、それなりに頑張ってきた、やれることはやってきたと自負してきた自分の思いあがりを突きつけられていた。
事なかれ主義は妻が家に持ち込んだものだと思っていた。
家事能力は高くても人の心には疎かったからだと、ミドリのあまりにも若い妊娠を妻のせいにしていた。 
ミドリが作った若い家庭も、それほど家を出たいなら好きにしたらいいと、彼女の自主性に任せたつもりでいた。
大人の判断だし、自分は物分かりの良い父親だと思っていた。
自分の選択は常に正しいと信じていた。
それがどれほどミドリを寂しくさせていたかと、今になってようやく分かった。
いや、少し前に一度分かった気になっていたけれども、 まだまだ甘かったのだ。
自分は自分の都合がつく時に、見舞いに来て、ミドリと話をしていただけだ。
それで、できることを全力で果たしているなどと、なんとおこがましい気持ちでいたことか。
その間、彼女はだまって、自分が負った傷と真正面から向き合っていたのだ。
自分は正しいと思っている人間ほど、他人を傷つける者はないのだと、新吉はこの瞬間、痛いほど骨身に沁みていた。






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