資料の確認を終え、今日子とのんびり珈琲を楽しんだ新吉は、事務所を出て、準備に沸く家の中を見て歩いた。
庭では、おばあちゃんたちとミドリが餅をこねている。
あれは味噌餅というのだということを、新吉は知っていた。
できあがったらしく、テーブルの上に打ち粉をふった大きな板があり、できあがった餅が載せてあった。
皆でそれを取り囲んで、小さく丸めている。
ミドリはおばあちゃんたちに何か言われ、笑いながら答えている。
それでも、餅を丸める手は止めない。

「お母さん、わたしもやっていい?」
スミレがエプロンをかけて現れた。
「宿題は?」
「後でマリアンヌと一緒にやる。隆三おじさんに聞いたけど、わけがわからないんだもん。」
こっちへおいでと手招きするおばあちゃんたちの間に立って、スミレも一緒に餅を丸め始めた。
新吉はこの光景を何時間でも見ていたいと思った。
こんな日が来るとはね…。
新吉の記憶は、あの5年前の夏に戻っていった。

真理さんがいなくなっちゃったのと、スミレが泣きながら電話をかけてきた時は何と返事をしてよいか浮かばなかった。
何の事前説明もなかったし、事情が一切わからない。
当然、すぐに今日子に電話をかけた。
その頃は東京ですることがあり、どうしても長野へ行くのは難しかった。

何度目かの連絡で今日子と話をすることはできたが、申し訳ありませんと他人行儀な社交辞令を聞かされるだけで、事情はわからなかった。
スミレさんには今まで通り暮らしていただけますからと言うが、スミレの性質から考えて、信頼しきっていた担当者の急な退職が何の影響も与えないとは考えられなかった。
実際、スミレから何度も泣きながらの電話がかかってきていた。
真理に話を聞きたかったが、個人的な連絡先は知らなかった。当然、学園からも教えてもらえない。
新吉は秘密保持という姿勢に、この時初めて怒りを覚えた。

1週間後、新吉は隆三に電話をしてみることにした。
隆三は家で仕事をしているから、すぐに捕まえられた。
最初からこうすればよかったのだと、新吉は悔やんだ。
何があったのかと尋ねる新吉に、隆三は「俺は部外者だからな」と前置きして、事情を説明してくれた。
なんと、今日子も退職する予定だという。

今日子がいるから、スミレを学園に預けたのだ。
隆三も怒りに燃えていたが、怒ったところで事態は何も変わらないだろう。
新吉は、スミレをすぐにも引き取りたいと考えた。
あの子に、大人のせいで寂しい思いをさせるのはどうしても嫌だったのだ。

とはいえ、今すぐ東京の家に連れもどっても、自分は仕事にかかりきりで、小学2年の女の子の毎日を支える自信がない。
勢いでひきとっても、かえって寂しい思いをさせるかもしれないと思うと、例のいじめのことなども思い出され、決めかねた。
新吉は思い悩んだ。

ひとまず、学期途中での転校は避けようと、毎晩の電話連絡でスミレを励ましつつ、夏休みを待たせることにした。
それにつけても、真理がいたころは、こんなに毎晩子どもが電話をしてくるのを決して許してくれなかった。
それは、今いる場所への否定につながるからだ。
が、今の担当者はそんなふうには考えないらしい。
もしかしたら、スミレは誰にも見てもらえず、野放しにされているのではないだろうか。
新吉の心に、学園への不信感がひたひたと忍び込み始めていた。

とうとう今日子も退職し、スミレからの電話は毎晩悲痛さを増して、さみしいよおじいちゃんと泣く。
新吉は、いよいよ先延ばししてはいられないと思った。
まだ東京にいたいが、いずれは長野に引っ越し、おらほの家の設立に専念するのだ。
今行けばよいだけのことだ。
そう思いつつ踏みきれずにいるのは、ひとえに入院中のミドリを置いてはいけないからだ。
では、スミレを東京に呼ぶか?すぐに長野に帰るのに?
ならばミドリを長野の病院に転院させるか?

新吉は悩みに悩んだ。






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