隆三には答えようがない。
何を言っても、今日子の気持ちには添えないような気がした。

「仕事をしている時は、週末どんなに寝坊しても、何の罪悪感もなかったわ。」
今日子が仕事のことを言いだしたのは、退職以来初めてのことだった。
隆三も、腫れものに触るような気がして、そのことは口にしなかった。
自分の仕事のことすら、今日子には伝えなくなっていた。
何故今そんなことを言い出すのだろうと、隆三は全身を耳にして今日子の次の言葉を待った。

「罪悪感がなかったのは、今日の寝坊は明日また頑張るためと思えたからだったのね。」
そうかもしれない、と隆三も思う。
「いつも、あと少し寝ていたかったの。あと少し、あなたともお話ししたかった。思い切って出かけるには少しだけ遠いところに行きたかった。」
きっとそうだったのだろう。

「でも、いくらでも寝ていていいことになってみたら、安心して寝ていられないの。
何のために身体を休めるの?
あなたといくらでもお話しできるというのに、私は寝てばかり。
前より話していないじゃない?
あなたのお昼ごはんを作ってあげたいなんて思っていたのに、3食全部作ってもらっているなんて、ひどすぎるわ。
ちょっとした旅行どころか、新聞を取りに外に出る気にもならない。
着替えるのも億劫よ。
こんなになってしまった私に存在価値なんてないんじゃないかしら?」

「何を言い出すかと思ったら!」
隆三は心底ホッとしていた。
これは、サインだ。
再起のサイン。
思い切り笑い飛ばしてやろうと思った。
僕の自慢の奥さんは、やっぱりステキだ。

「はいはい、了解しましたよ、奥様。
では、命令します。ただちに風呂に入って、着替えてください。
そうして、今日はでかけますよ。」
「どこへ?私、いやよ。」
「だから、言っているでしょう?これはお願いではなくて、命令です。」
「なに言っているの?出かけないわ。まだ調子が悪いもの。」
「はいはい、調子が悪くていいです。眠くてだるくて、ヤル気のないあなたでいいです。」

今日子は怪訝な顔をあげた。
艶のない、土気色の頬に涙の跡がついている。
目は充血し、重たそうな瞼が腫れているようだ。
カサついた唇は真冬のように荒れていて、ともすれば血が滲みそうに見える。

隆三はそんな今日子をそのままにしてソファーから立ちあがると、リビングの端に置いてあった電話機から、どこかへ電話をかけ始めた。
はい、そうなんです、おお、やってくださいますか!ありがとう、では2時間後に。
今日子にはそこしか聞えなかった。

「ほらほら奥様、いつまで座っているの?間に合わなくなってしまいますよ。お風呂に行った、行った!」
隆三の口調は、どこまでもからかい調子だ。
「今、来々軒に電話してみたよ。君のために特製中華粥を作ってくれるそうだ。
最近、ぜんぜん食べていないから、突然餃子を食べたらお腹がびっくりしてしまうからね。」
「来々軒?」

来々軒はマリアンヌと夫の真吾が愛してやまない行きつけの中華料理屋だ。
マリアンヌがあまりに美味しいと宣伝するので、今日子たちも行ってみたことがあった。
一度で気に入り、以来何かあると佐々木家は「来々軒」だ。

「僕はもう、ごはんを作るのに飽きてしまったからね。
今日はどうしても来々軒に行って餃子定食を食べますよ。
あなたも朝ご飯が食べたかったら、立ちあがってください!
そして、ご飯が終わったら、あなたを美容室に放りこんでこよう。」
「無茶よ、予約してないし…。」
「時間はたっぷりある。美容師さんの手が空くまで、いくらでも待たせてもらえばいいさ!」

今日子は久しぶりにクスリと笑った。 
外はいつの間にか雨があがって、ギラギラした真夏の太陽がのぞき始めていた。
太陽はこの朝、新しい季節がやってくる予感を運んできていた。






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