出勤しなくてよくなったら、あれをしたい、ここへ行こうと楽しげに計画していた今日子だったが、実際にその時がやってくると、計画はひとつとして始まりさえしなかった。
今日子はひたすら眠り続けた。

気分良さそうに起きてきて食事をしたと思うと、食後のティーカップを片手にもううとうとと眠っている。
滅多に見たことがない2時間サスペンスを見ていると思ったら、意識があるのは最初の殺人が起きる頃までで、後になって「どんな事件で、犯人は誰だったの?」などと尋ねてくる。
食欲が減り、外に出るのを嫌がり、睡眠時間はますます増えていく。

隆三は心配した。
妻はこのまま廃人になってしまうのではないかと恐れた。
が、一方で、ここまで眠れるほどに疲れていたのだと思う気持ちもある。
本人が何かしたいと言い出すまでそっとしておこうと決めてからも、不安は尽きなかった。

七夕を過ぎたというのに、なかなか明けない梅雨だった。
糸のように細い雨が絶え間なく降り注ぎ、隣の家も見えなくなりそうな日のことだった。
朝から蒸し暑く、Tシャツ1枚で仕事をしていた隆三は、階下に何かの気配を感じて手を止めた。
ワープロを打つ手を休めて耳を澄ませ、捉えた気配を確認する。
雨の音以外、何も聞こえてはこなかった。
なんだ、気のせいかと、また仕事に戻ろうとした意識を、やはり何かが引っ張る。
プツリと集中が途切れてしまった。 
水でも飲むかと隆三は立ち上がり、仕事部屋を出た。
机のデジタル時計が10:06AMと表示している。

リビングに降りた隆三の目に、後ろ姿の今日子が映った。
ああ、今起きてきたのかと気配の意味を知ると、首のあたりの奇妙な緊張がほどけた気がした。
今日子はまだパジャマのままだ。
暑いといって苦しがるので、先日楊柳の薄紫の半袖パジャマを買ってきてやった。
いまや、1日のなかで一番長い時間、今日子の体を包むのはパジャマの仕事だ。
できるだけ快適なものを着せてやりたかった。
それをとても喜んだ今日子に洗い替えをせがまれて、隆三はもう一枚同じデザインのものを買ってきた。こちらは淡い黄緑色をしている。

今日は薄紫の方を着ている。
ソファーの上に横座りになっているようだ。
背中を斜めに丸めて、視線が床に落ちているのが、リビングに足を踏み入れた時、ひと目でわかった。
「おはよう。お腹すいたでしょう?すぐに用意するからね。」
隆三は病気の子どもに話しかけるように話しかけた。
今日子は振り向かない。
いつもと違う様子に、隆三の不安は意味もなく掻き立てられた。
 
「どうしたの?どこか痛むの?」
隣に座ろうとしてはっと気がついた。
今日子の顔からぽたぽたと滴が落ちてソファーにこぼれている。
俯いた顔は見えないが、髪が乱れ放題に乱れ、根元の白髪が真っ白に広がってみえる。
そういえば、月に一度の美容院を欠かさなかった今日子が、5月から一度も美容院に行っていないことに気がついた。

「今日子さん?」
隆三は顔を覗き込もうとして思いとどまり、今日子の足の方に座って、足首に手を置いた。
この蒸し暑い日にひんやりと冷たい足首だった。

「私、何をしているのかしら?」
ポケットに隠していたビー玉が一つ、ころりと転がりでたような声だった。






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