真理の退職願は即日受理された。
所定の手続きをするために、真理は一度勤務先に出向くことになった。
しかし、二度と勤務にもどることはないままだった。
子どもたちが学校に行っている間に出向き、既定の書類を提出し、ロッカーの荷物をまとめた。
気付いた人たちだけに挨拶をした。
安代に一言お詫びをし、スミレのことを頼みたいと思ったが、安代は夜勤明けで不在だった。
いるはずだった今日子も、急な出張で不在だった。
真理は2年半を夢中で過ごしたもみの木学園を、誰にも見送られることなく後にした。

施設長であった今日子は真理のように簡単にはいかなかった。
このような厳しい監査が4月に実現したのは、異例の6月異動の年であったことと密接に関係がある。
責任は取らせたいものの、それが明らかな不祥事の形になっては、本庁が任命責任を問われることになりかねない。それはどうしても避けたかったのだろう。
本庁が出した結論は、6月の異動に合わせて、今日子の依願退職を受理するというものだった。

手続き論はどうであれ、誰も知らないところで、今日子の続投がないことははっきりした。
残りの1ヶ月半を、今日子は精力的に過ごした。
施設長としての仕事には天井がない。
そこに、目に見えるゴールが設定されたことは、ラストスパートをかける原動力につながった。

真理の退職を耳にした安代は、洗濯ものを上の空で畳みながら、自分はどうしたらいいのかと考えた。
自分の軽はずみな言動が内部告発と受け取られたことは、まだ誰にも話していなかった。
話せるはずがないと思った。
仕事熱心で実力がある真理には仲間が多く、若手の中には彼女を手本としている者も少なくない。
その人の一時の苦しみを支えきれず、陥れるようなことをしたと知られたら、自分はここで働けなくると思った。

査察官は今日子に責任を取らせると言っていた。
実際に本庁に呼ばれていたから、すぐに何かあるのかと思っていたが、今日子については何も聞えてこない。
今日子から呼び出され、事情を確認されることを覚悟していたのに、一切声もかからない。
もしかしたら今日子は安代が自分から懺悔に出向くのを待っているのではないかと思う。
あるいは、意趣返しに、安代が思い悩む姿をほくそ笑んで見ているのではないかとさえ考えた。
考える端から、今日子はそのような人柄ではないことを思い出し、自分の醜悪な思考に憎悪すら感じる。
辛い無限ループにはまっていた。

「安代さん。」
背後から不意に呼びかけられ、安代は手にしていた洗濯ものを取り落とし、飛び上って驚いた。
「どうしたの?」
その様子を不審に思ったらしい声の主は、心底心配そうに尋ねた。
「い、いえ。すみません、ぼんやりしていたので。」
「そうなの?きっと疲れがたまっているのね。驚かせてごめんなさいね。真理さんのこと、聞いている?」
「はい。」
「安代さんにはまた負担をかけてしまうけど、県がすぐに後任をみつけると約束してくれているから、あとしばらくだけ頑張ってね。本当にごめんなさい。安代さんだってずっと辛かったでしょう。いつも頼るばかりで、本当に申し訳なく思っています。」
愛情と信頼に溢れる声で語りかけているのは今日子だった。
深々と頭を下げると、それ以上何もいわず、部屋を出ていこうとした。

「あ、あの、施設長!」
安代は思わず呼びとめた。
自分は何を言おうとしている?
自分がしたことを、この人は知っているのか、確認したい気持ちがある。
でも、万が一、本当に何も知らされていないなら、かえって藪蛇になるではないか。
本音と打算とがめまぐるしく思考の天秤を揺さぶる。

振り向いた今日子は、安代が何も言い出さないので、改めて部屋を出ていこうとした。
「施設長は大丈夫なのですか?」
安代は意味のないことを口走ったと思った。
聞かれた今日子も同じだった。でも、監査以来…いや、トコちゃんの事故以来、今日子が奔走し続けていることは誰もが知っている。きっと、自分の身体を気にかけてくれているのだろうと思った。

まるで子供たちに向けるような優しい笑顔になった今日子はゆっくりと頷くとはっきりした声で言った。
「私は大丈夫よ。元気があれば何でもできる!ってね?ありがとう。」
そのまま部屋を出て行ってしまった。
安代は洗濯物の前に崩れるように座った。
そのまま山のようなタオルたちの中に顔からうずもれると、頭を抱えてうなり声を上げ続けた。


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