今日子への査問は監査の翌日、本庁で行われた。
帰り途に真理のアパートを訪ねた今日子が最上級のスーツ姿であることに驚いた真理は、青ざめ、疲れきった顔の今日子を部屋に招き入れると、久しぶりに自分以外のことに気をとられた。
真理は前日の監査のことを全く知らなかった。

真理はこの日でちょうど、使えるはずの有給休暇の半分を消費したところだった。
年間最大40日認められている有給休暇の内20日分は今年の分だ。
残りの20日は、前年使わなかった休暇を最大20日まで持ち越せるのだ。
真理は前年1日の有給休暇も使わなかったので、今年の休暇は40日あった。
ちなみに、休暇のカウントは1月1日で切り替わる。

退職したいと今日子には話していたものの、実態が休暇にしかなっていないのは真理も分かっていた。
退職するならばきちんと退職願を提出しなければならないと思っていたところだ。
すでに清書して封をした退職願を用意してあった。 

気がかりがないわけではない。
スミレはどうしているかと思うと、申し訳なさに胸が潰れそうになる。
しかし、スミレはもうすぐ退所して、おじいさんと暮らすことになるはずだ。
それは小さな救いだった。
もうどのようなことも、真理の心を仕事に引き戻す力を持っていなかった。

「何かあったんですか?そんな服を着て。それに、ひどく疲れているようで…。」
外に出る気がまったくない真理は、今日も鼠色のスウェット姿だ。
問いかけた自分の言葉に、真理ははっとして、今日子が答える前に言葉をつないだ。
「散々ご迷惑をおかけしています。本当に、申し訳ありません。」

それには答えず、指定席と化した小さなテーブルの椅子に腰かけた今日子は大きなため息をついた。
肚の底から、体中に溜まっていた空気を全て吐き出すようなため息だった。
緑茶を淹れかけていた真理は、そのため息を聴いて手を止めた。 
手にした桜皮の茶筒を食器棚に戻し、常滑焼の赤茶色の急須をしまうと、滅多に使わないため食器棚の奥にしまいこんであるサイフォンを取り出した。
今日子は香りのよい珈琲を好んで、先日尋ねてくれた時も、ブルーマウンテンの小さな真空袋を手土産にしてくれていた。
緑茶のために沸かした湯を、冷えた珈琲カップに注ぐ。
そうしておいて、あらためて湯を沸かした。

真理が出したサイフォンに添えられたアルコールランプを引きよせて、今日子はあたりを見回した。
意味を理解した真理は雑貨をしまってある引き出しを探って小さな四角い箱を見つけ出した。
茶色の瓶とマッチを手渡された今日子は、ランプから芯を引き出すと、茶色の瓶の中身をトクトクと注いだ。
辺りに、消毒のような香りが散る。
静かに芯を戻すと、そのままマッチをしゅっと擦って、ランプに火をつけた。
この間、今日子はなにも言葉を発さない。

オレンジ色の火が絵にかいたような形で燃え続ける。
それを今日子はじっと見つめている。
久しぶりに点けたからか、初めのうちはチリチリと小さな音がした。
温かな火の香りが消毒臭を消した。

真理は、珈琲を淹れるのに必要なものを、テーブルに並べた。
今日子はフラスコにほとんど沸騰直前の湯を移し替え、その下にアルコールランプを置いた。
ロートに丁寧に珈琲豆を入れると、今日子は立ちあがってフラスコにロートを差し込んだ。
ぶくぶくと泡をあげて湧いていた湯が、ロートに吸い上げられていく。
何度見ても、不思議な様子だ。

今度はロートの中でブクブクと音がする。
部屋に香ばしい香りが漂い始めた。
今日子がアルコールランプをさっと引きぬいて、ガラスの蓋をかぶせた。
ふたりで、ロートの下の足管を見つめる。
一呼吸おいて、琥珀色の液体がすっとフラスコに戻り始めた。
間もなく、ロートの中の水分が消え、しゅっと音を立てたようだ。
足管からぶくぶくと大粒の泡が立った。

ロートを引き抜こうと真理が手を伸ばした時、今日子がぽつりと言った。
「真理さん、私も、仕事を辞めることにしたわ。」





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