「ごはん作ってもらって、薬運んでもらって、掃除も洗濯もする必要がない毎日って、生きている気がしないのよ。」
ミドリは手にした書類をとんとんと整えていきながら、言葉を継いだ。
「でもね、自分一人の力では、どうしようもないことも多かった。」

そうなのだろう。
ミドリの言葉に新吉を責めるようなところは少しもなかったが、新吉はすまなかったなと言う方がよいのだろうかと考えた。
高校2年生で妊娠したと気付いた時の、彼女の衝撃はどれほどであったろう。
しかし、自分も妻も、そういう彼女の気持ちに本当に寄りそえていたかと言われると、まったく自信がない。
その後、夫から暴力を受けるようになった時もそうだ。
彼女は自分たちにそのことを打ち明け、相談したりはしなかった。 
わずか2年ほど前のことだが、当時の自分が娘の相談相手として選ぶに足りない人間だったと思うと、今でも胸がジリジリと焦げるように痛む。

「私も、哲也も、逃げ場がほしかったんだと思う。」
ミドリの言葉は水の中に真っ直ぐに沈んでゆく鉛の塊のように重い。
「学校も、親も、逃げていいよとは言わない。社会は逃げる者を卑怯だと言うわ。けど、誰だって逃げたくなることはあるし、手も足も出ないって思いこむ時はあるのよ。 そういう時、どこか安心な場所に逃げ出して、愚痴って知恵をもらって、元気ももらって帰ることができたらってね、思うのよ。」

新吉に、娘の言葉は重すぎる。
これが娘ではなく、対等のビジネスパーソンだったらと考えてみる。
それでも、やはり落ちてきた鉛の塊が胸を圧迫するようで、どう受け止め、言葉を返したらよいかがわからなかった。
しかし、それがかえってよかったのかもしれない。
ミドリは引き締まった表情を不意にゆるめて、続きを話した。

「お父さん、そういうことならなぜ自分に話してくれなかった?って思ってるよね。けど、わかってよ。大切すぎる人たちを傷つけるとわかっていて、負担はかけられないよ。」
お父さん、と呼ばれて、新吉はまた言葉を失っている自分を突きつけられた。

「だからね、もうひとつ家があったらいいのにって思うんだよ。自分の家族っていうんじゃないけど、安心で信頼できて寛げる場所。なんかさぁ、仕事に一生懸命な男の人が浮気して、家庭とは別に女の人を囲っているって気持ち、こういうのと同じなのかなぁ。」
ミドリは、どこか寂しそうに微笑んだ。





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