新吉は、オーナーの言葉を胸に、歩き慣れた道を自宅に向かった。
腕時計は夜10時を過ぎている。
日中は日差しさえあれば上着があれば十分だが、夜になると空気の冷たさは冬を思わせるものに変わり、コートがなくては身体の芯まで冷えてしまう。
それでも新吉はコートを片腕に抱えていた。
珍しく飲んだスペイン産の赤ワインと、オーナーの勧めで食べた牛ほほ肉を深く煮込んだトマト味のシチューが、充分に身体を温めてくれていたからだ。

口に入れるとほろりと崩れるあの牛肉は本当にうまかった。
それ以上に新吉が感心したのは、その牛肉と一緒に煮込まれていたカブだった。
なんと、近くの畑で老人たちが趣味で栽培している無農薬野菜を買い付けているそうだ。
これまで何度も足を運んでいながら、「やじろべえ」で使われている野菜が無農薬であることや、市場で買われたものではなく、近くで栽培されている…時にはオーナー自身が栽培しているそうだ…とは微塵も気付かなかった。
甘みがあり、しっかりと煮崩れることもなく、季節の味を届けてくれたカブに、新吉は舌鼓を打った。
カブなんて、漬物くらいしか知らなかったが…。
新吉のこの思いを亡き妻が聞いたら、さぞかし文句を言ったことだろう。あなたったら、私がどんなに工夫してこしらえても、少しも気づいてくださらなかったじゃありませんか、カブだって、何度もお膳に上っていたのに!

背の高い街灯に照らされて、真っ黄色に色づいた銀杏が輝いている。
明るい道の上に広がる夜空は、雲ひとつなくて、ところどころに星が瞬いている。
こんな風に星空を見上げたのは、いつ以来だろうか?
故郷・安曇野の星空は、こんなものではなかったと思う。
漆黒に、わずかに紺を混ぜたような夜空には、どれが星座か分からないほどの星が瞬いていた。
見ようとしなくても目に飛び込んでくるそれらの星々の間に、一層濃く星が集まった一続きの流れ…天の川が自分の名字であることに、新吉は言い知れぬ喜びを抱いたものだった。

東京の空はいつでも明るくて、大きく目立つ星以外は、探さないと見つからない。
自分はそれと同じように、会長の意に沿う何かを、いつの間にか一生懸命探していたようだ。
今日をよりよく生きるための何か。
今の自分を幸せだと実感できる場所。
安曇野の香りがする、自分だから考え付くような…自分にしか思いつけないようなアイディア。

明かりが消えている我が家が見えてきた。
いつもは、わずかな寂しさと疲れをカバンと共に抱えて帰宅する。
しかし、この夜、新吉の胸にはっきりと、ひとつの炎が灯っていた。





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