終末期ホームのどこが本末転倒なのか、わけがわからないまま、新吉はその日の勤務を終えた。
足が自然と向かうのは、食堂「やじろべえ」だ。
ここのオーナーと、最近迎えたばかりの新妻は、新吉が心から大好きだと思える人たちだった。
たまたま通りがかりにオーナーのプロポーズを聞いてしまった新吉は、こっそり用意した祝いの品を贈ったことがあった。
以来、スミレのこともかわいがってくれたこの夫婦のもとへ、週に3日は食事にでかけている。

「赤ワインと、何か肉料理を。」
「おや、星川様、お珍しい。」
かあさんという新妻は、いつも驚くほど丁寧な話し方をする。
かあさんが珍しいといったのは、新吉がワインを注文したことだ。
新吉は、自分からは酒を飲まない。
飲めないわけではないが、敢えて飲みたいこともないというのが本当のところだ。

新吉のほかにいた、最後の客を見送った後、オーナーはもう暖簾をしまってしまった。
かあさんはよく磨かれたグラスに赤ワインを注いでテーブルに運んだ。
「どうかなさったのですか?何かお疲れのように見えますが。」
この女性のさりげない労りには、いつも心和む思いがする。
会社の外では滅多に仕事のことを話さない新吉だが、やじろべえでは時折ぽろりとこぼすことがあった。

この夜もそうだった。
これまでのホームの企画が差し戻された経緯と、昼間の「本末転倒」の意味がわからないことを、ワインを舐めながら語った新吉に、かあさんはあっけらかんと告げた。
「そんなにお悩みでしたら、その会長様とやらに、直接お問い合わせになったらいいのに。」
「いや、いやいやいや、それはいけない。」
思い切り否定する新吉を、かあさんは不思議そうに見つめる。
「なぜですの?」

「実はまだ、会長にはお目にかかったことがないのです。それに、この仕事は、会長が私を見込んでお任せくださった『特命』です。たった3度差し戻されたからといって、音をあげていると思われてはいけない。」
「あら、実際、音をあげていらっしゃるのでは?」
かあさんは、いたずらっぽく笑った。

「意地がおありなのですね、ご自身でこの企画を練り上げたいという。
それこそ、会長様が星川様を見込まれた点ですわ。」
新吉は、その確たる言葉の何かが心の奥にひっかかって、かあさんを見つめ返した。
かあさんは、どこか慌てたように、付け加えた。
「いえ、あの、わたくしも、星川様の特命が達成されるよう、お力添えしたいくらいですわ!って申し上げたかったんですの。」
「それは、ありがとう。こうして美味しい晩ご飯を作ってもらって、充分協力していただいていますよ。」
小さなひっかかりは、瞬く間に消え去った。

「星川様、先ほどのお話なんですけどね…。」
料理を終えたオーナーが、店の奥から、自分もワインを片手に出てきた。
大きな熊のような姿のオーナーは、細君ほどの丁寧さはなく、かえって気楽に何でも話し、聞いてしまう。
「おお、何か考えがあったら聞かせてほしい。」
「いや、考えというほどではないんですけどね、その会長さんが言う『本末転倒』ってのは、星川様が「死ぬ」ところに力を入れ過ぎているんじゃないかってことかと思ったんですよ。」
「死ぬところ?」
新吉は意味が分からないまま、オーナーの次の言葉を待った。





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