マリアンヌの夫・真吾が勤める有田病院は、松本市にある総合病院だ。
院長は真吾の父で、病院は祖父の代から続いている。
当時はまだ珍しい、リハビリを得意とする病院だった。

真吾は、物心ついたときにはもう、自分は医者になるものだと思っていた。
祖父や父の仕事を見るにつけ、自分も同じ仕事ができるのを誇らしく思い、当然のように勉強もした。
能力にも恵まれ、傍から見る分には大した苦労もせず、東京大学理科稽爐妨縮鮃膤覆靴討い拭

真吾にとって、幸子との出会いは、いつどこでとも思い出せないくらい自然なものだった。
医学部に入った時からのような気もするし、もっと後のような気もする。
それでも、はっきりと女性として意識したのは、国家試験の少し前の出来事だった。
その日のことは、今も忘れず、何度も何度も思い出している。

勉強に疲れた日曜の昼下がり、真吾は参考書を片手にふらりと散歩に出た。
下宿から歩いて10分ほどのところに、児童公園がある。
一月末の東京は、乾燥した空気が喉を刺すようで、寒さだけなら故郷の長野の方がずっときついが、体調への影響は東京の方が大きいのかもしれないなどと考えながら、よく晴れた空を見上げながら歩いた。

体内に滞った二酸化炭素がちの血液が、冷たい空気に透析されて、浄化するような気がした。

児童公園では、セーターにマフラーの子どもたちが、季節などお構いなしに遊んでいる。
子どもが遊んでいる姿は、いつ見ても癒される。
真吾にはお気に入りのベンチがあった。
砂場の脇、ゆったりした二人掛けのベンチだった。

遠目に、先客がいるのがわかった。
多少気が引けたが、とりあえず行ってみるかと思い、近づくと、知人であることに気がついた。
それが幸子だった。

「あれ、小林君?」
先に声をかけてきたのは幸子のほうだった。
「佐川さん。君も休憩?そういえば、この近くが自宅だったね。」
「うん。なんだか、息詰まっちゃって。」
「あと2週間だもんな。」
「もっともっとやるべきことがあるような、もう全部やり尽くしたような…。」
「わかるわかる。模試の結果がどんなによくても、本番とは別物だからね。」
「なんだか、心の持ちようがわからなくなっちゃって。」

こんなふうに個人的に言葉を交わしたのは、この時が初めてだった。
けれども、真吾から、幸子は本当に悩んでいるように見え、力になってやりたいと思った。

幸子の悩みは有効期限付きだ。
あと2週間、国家試験が終わってしまえば、その悩みは悩みでなくなる。
そんなものに振り回されるのは合理的でないと思う。
そのままを、幸子に話して聞かせた。

「それはそうなんだけどさ…。まぁ、そうなんだよね。」
幸子は真吾の顔を覗きこみながら、ぶつぶつと文句を言い始めた。
「友達も、いろいろじゃない?
理靴帽膤覆靴浸点で燃え尽きちゃって、もう努力する気力は残ってませんってタイプも多いし、逆に自信満々で、鼻もちならないヤツも少なからずいるじゃない?実家が大病院で、ゆっくり受かってくれりゃいいからって言われて、悠々自適の人もけっこういるでしょう?」
真吾は内心ペロリと舌を出した。自分はその三つめだ。

「私なんか、普通のサラリーマン家庭で、ありきたりの家庭文化しかないのに、うかつにも東大なんて受かっちゃったから大変なのよ。おらが家系からお医者さまが出るだ〜みたいな感じ?期待が大きすぎて、重たい重たい。それに、東大だって現役で受かったんだから、国家試験も当然現役よね?なんて、このタイミングで母親から真顔で聞かれてごらんなさいよ。夕べなんか、国家試験に合格したら病院建てるのか?そんな金はないが、お前のためなら借金してでも建ててやる、やっぱり駅前か?なんて、父親が真顔で言うのよ。受かっても2年間は研修医よと言ったら、そうか、じゃ、資金作りに2年間使えるんだなって、手取り40万のサラリーマンが何を言うんだか…。そりゃ、6年間も学費出してもらっているんだから、ご恩には報いたいですよ、だけどね…」

話し出したら止まらなくなったらしい幸子のどこかファニーな話を聞いているうちに、真吾は自分の疲労感がすっかり消えていることに気がついた。
確かにちょっとズレてはいるけれど、温かな家庭で育った女性らしいことが、なんだか嬉しかった。
ふくれている横顔を改めて見ると、ユキコという名だけあって、肌が透き通るように白い。
長くて真っ直ぐの髪を後ろで無造作に束ねている。その髪からのぞいた白い耳が、冷気と興奮に赤く染まっている。
桜色の唇を尖らせて文句を言い続けている表情、その話し方も、文句のすぐ裏側に家族への愛情が滲んでいるようで、少しもイヤな気持ちがしない。

真吾が不意に幸子の左腕をとって、脈を測り始めた。
幸子は愚痴の続きを忘れて、真吾の目を覗きこんだ。
「バイタル120。このままでは危険です。何か、おいしいもの食べに行かない?」
「いいけど、お財布持ってないから、お金借りなきゃならないわ。」
「では、治療費は後日清算させていただきます。」

二人の恋の始まりだった。







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