2学期3日目。
たんぽぽの子どもたちは通常の日課にもどることになっていた。
マリアンヌとスミレは、初めて二人だけで、半日の学習に取り組むことにした。
1学期からいたかのように、たんぽぽ学級の教室までひとりで来られるようになったスミレは、初日からここまで何一つ差し障りなく、学校生活に臨んでいるように見えていた。

ランドセルをロッカーにしまうと、小さな椅子に座って、マリアンヌの話を聞こうと目を輝かせている。
実は、特に指示はなかったのだが、前夜学校の支度をした時に、真理とスミレは相談して、ランドセルにノートや教科書、筆箱などを入れてきていた。
しかし、マリアンヌの指示は、手ぶらのまま、体育館に行こうということだった。

スミレは1年生とはいえ、周囲の観察にかけては大人以上のものがある。
命がけで家族の出来事を見つめてきた瞳に、マリアンヌの誘いは納得いかないものがあった。
「だって、みんな机で勉強してるよ。どうしてスミレは体育館なの?バカだから?」
スミレの底に巣食っている魔物が牙をむいた一瞬だった。
問いかけの奥に、無邪気とは無縁なものが潜んでいた。

マリアンヌが、瞬きを忘れたかのように目を見開いて凍りついた。
言葉を飲み、頬をこわばらせている。

二人のやりとりを見るともなく見ていた大岡先生は、おや?と思った。
マリアンヌは、唇をわずかに開いたまま答えない。
「やっぱりそうだ。スミレがバカだから、勉強じゃなくて体育館で遊ぶんだね?」
スミレがたたみかけた。

「ち、違うわ!違う、違う!!」
ようやく答えたマリアンヌの声は悲鳴に近い。
ひどく追い詰められたように慌てていて、というよりも、何かに脅えているように見える。
「そ、そうじゃないよ。スミレちゃん。体育館で、あの、遊ぶんじゃなくて…」

二人のやりとりを江夏先生も見ていたようだ。
「コラァ!」
と、例の勢いで割って入った。
「スミレちゃん、先生の言うことは”はい”って聞くの。お返事は?」
「は〜い。」
スミレが不貞腐れたように答えた。
が、その答え方で、大した悪意があったわけでもないことも容易に知れた。

「ちょっと、ちから入りすぎ。なに焦ってるの?」
江夏先生がマリアンヌにささやいた。

「あ、どうもすみませんでした。」
「あんなに必死になって否定したら、かえって怪しいでしょう?」
「そうですよね。すみません、助けていただいて。」
「どうしちゃったの?」
「誤解されるの、ちょっと苦手で。」
「へぇ。」
年齢はマリアンヌの方がずっと上だが、仕事上は江夏先生の方が経験がある。どちらが年上かわからないヒソヒソ話を交わしながら、マリアンヌは落ち着きを取り戻したらしい。
大きくひとつ深呼吸をすると、スミレの脇に膝をつき、目線を合わせてから、改めて話しかけた。

「ごめん、スミレちゃん。説明が足りなかったね。今日は、体育館で字を書く勉強をします。」
「字を書くの?体育館で?どうして教室じゃないの?」
「それはね、教室には入りきれないような大きな文字を書くからなの。」
「すごい!そんなに大きいの?」
「そう。スミレちゃんにできるだけ早く、字を覚えてほしくて考えたんだ。体育館、行ってもらえるかな?」
「いいよ。」

マリアンヌは、はぁーっと大きな息をひとつ吐き出した。
それでも、大岡先生から見えるマリアンヌの背中は、まだ緊張で強張っている。
マリアンヌは何かが入った紙袋を抱え、スミレとふたり連れだって、たんぽぽの教室を出て行った。

体育館に着くと、マリアンヌはスミレを舞台の上にあげて、自分はフロアーに残り、白いスズランテープを取りだした。新聞紙などを縛る、5センチ幅くらいの、あのビニールの紐だ。
「いい?スミレちゃん、見ていてね。」
そういうと、セロテープで何か所かを止めながら、長い紐と短いひもをフロアーに貼り付けた。
そして舞台に戻ってくると、先ほどのスズランテープを見降ろして、よし、と小さくつぶやいた。
フロアーいっぱいに、ひとつの文字が浮かんでいる。

「スミレちゃん、左がちょっと長くて、右が短いね。左の下のほうがちょっとはねてる。」
「うん。」
「あれがね、ひらがなの『い』だよ。いちごの『い』。これから私が動くから、よく見ていてね。」
そういうとマリアンヌはフロアーに飛び降りて、『い』を書くスタート地点に立った。
いつの間にか、手にモップを持っている。
「いくよ!」
と声を書けると、モップを引きずりながら、巨大な『い』を筆順通りに走った。

そうして舞台に戻ってくると、はい交替とスミレにモップを渡した。
わけが分からないながら、スミレは先ほど見た、スタート地点に立った。
「じゃ、『いー』って言いながら走るんだよ。せーの、いーーーー!」

スミレは走った。最初の棒の下をピョコンとはねるのを忘れない。
はねたらそのまま対角線を上に走る。その時はモップは床に下ろさない。
次は短くモップだ。

「できた!」
「うん。できてた!いい感じだよ。じゃ、戻ってきて。」
スミレは舞台に上がった。
スミレと交替でフロアーに降りたマリアンヌは、さっきのスズランテープの位置をずらした。
「はい、今度はどんな?」
「左が短くて、下がはねてて、右が長い。さっきより長いね。」
「そうそう。これはりんごの『り』。じゃ、やってみるよ。」
「いい。大丈夫。スミレがやる!」
「そう?じゃ、やってみて。」
スミレはりーと言いながら、モップで『り』を書いた。
「だいたいいいけど、もう一度ね。『い』の最後はモップをぴたっと止めるけど、『り』の最後はサラッとはらうの。」
「へぇ。こう?」

「正解!素晴らしい。次はね…」
今度は『こ』だ。次は『し』。

「ねぇ、マリアンヌ。『い』はいーって言っているといつまでも『い』だけど、『り』や『し』はしーって言っていると『い』になっちゃうね?」
「すごい!そんなことに気付いたの??そうなんだ。6個の仲間があるんだよ。あーと、いーと、うーと、えーと、おーと、んーね。」
「へぇぇぇ!おもしろい!」

スミレは26歳になった今でも覚えている。
あの時の「おもしろい!」が、私のスタートラインだったと。






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