そして、祖父が仕事に復帰して、3日目のことだった。
前2日と同じように、祖父は5時きっかりを待ちかねるように会社を飛び出し帰宅した。
ただいま!と言っても、スミレの返事がない。

ドキリとする。
急いで居間のドアを開けると、スミレが絨毯に座っていた。
スミレのまわりに、教科書やうわばきなどが散らばっている。
ランドセルも投げ出されたままだ。

「どうした!?」
言いながら、祖父は散らばったものを見やって、息を飲んだ。
これは………

教科書は、踏みつけられたように足跡がついている。
マジックで、いたずら書きもされている。
あいうえおと、ぎこちなく、なぞり書きしてあるノートには、鉛筆でぐちゃぐちゃと線が引いてある。

まだ真新しい上履きに、幼いけれども悪意にまみれた文字が散らばっている。
バカ しね くさい ひとごろし チビ

「スミレ!」
スミレを抱きよせようとすると、スミレも何かを抱いていた。
筆箱だった。
亡き祖母が買いそろえた、スミレの大好きなキティちゃんがついた筆箱だ。
誰かが思い切り踏みつけたのだろう。
無残にふたがへこみ、磁石のところが折れている。
それだけではない。
スミレの小さな手に握りしめられていたのは、祖母が一本一本丁寧に名前をつけてくれた鉛筆だった。
真っ二つに折れ、ぎざぎざと尖った折れ目が小さな手の外に出ている。

スミレは、例によって声を立てずに泣いていた。
帰って来てから何時間も、こうしてずっと泣いていたのかと思うと、言葉にならない怒りと申し訳なさが肚の底からこみあげてきた。
「おじいちゃん…」
スミレがとぎれとぎれに言葉を絞り出した。
「パパはママを殺そうとして自殺したの?ママは私を殺そうとして病気になったの?おばあちゃんは私のせいで疲れて死んじゃったの?みんな、私のせいなの?私がいるから、みんなが不幸になったの?」
「誰がそんなこと言ったんだ!」

体がガタガタと震えて止まらない。
大声を出し過ぎた。
これではスミレが怯えてしまう。
しかし、声の調節などできようはずがない。

「そんなことはない。そんなのは嘘だ。」
「みんなが、ひとごろしの子どもはひとごろしだって…。」

子どもの言葉とは思えない。それを教えた大人がいるのだ。
その言葉を吐いたヤツが大人でも子どもでも、皆殺しにしてやって構わないとさえ思う。
担任教師は何をしているのか。この子がこんな目に合ったことに気付いていないのか。
無知な子どものおふざけ、いたずらかもしれない。
しかし、その子は知っているのだろうか、自分が何をしでかしたのかを。
様々な思いが頭を駆け巡る。

その中でひとつだけ、祖父は神の配慮に感謝した。
この子はまだ文字が読めない。
もしも文字が読めるようになっていて、この上履きのいたずら書きを読み、意味を知ったら、どれほど傷ついたことだろうか。

「おじいちゃん…」
祖父は黙って、筆箱を抱いたスミレを抱きあげた。
ただの筆箱ではない。この子にとっては、かけがえのない祖母の形見なのだ。

警戒水位を超えた心から、涙は洪水となって溢れてくる。
こらえても、こらえても、嗚咽がこぼれる。
両親が他界した時も、妻を亡くした日も、これほどには泣かなかった。
一緒に泣いてやる意外、俺に何ができるのだろうか。
俺が間違っていた。また、間違えた。また、大切なことを選び間違えたのだ。
それが、今最も傷つけたくない大事なものを傷つけてしまった。

「おじいちゃん…私、学校、いきたくない。」
「ああ、行かなくていい。」
祖父は、即答した。






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