これほど、会社から早く帰りたいと思ったことは、かつて一度もなかったのではないだろうか。
久しぶりの出勤、それも妻を亡くした後とあって、祖父の仕事はあちらこちらへ挨拶に出向くことから始まった。
しかし、少しも集中できない。

今と違って、まだ携帯電話など持っていない時代だ。
5時になったらすぐ退勤しようと時計を見上げる。
まだ5分しかたっていない。また見上げる。まだ5分進んだだけだ。それを何度も何度も繰り返す。

落ちつかない上司を、部下は見て見ぬふりをしている。
いろいろあるのだろう。
そんなふうに思いやられていることに、今日の祖父は気付きもしない。

5時きっかりに会社を飛び出すと、祖父は空を駆けるような思いで帰宅した。
「スミレ!ただいま!!」
「おじいちゃん、おかえりなさい。」
「学校、どうだった?」
「うん、あのね…」

どうも、スミレの様子がおかしい。
こういう時は、せかしてはいけないのだ。
大事なのは自分の好奇心でも不安でもない。この子の気持ちだ。

祖父はネクタイを外しながらスミレの前に座った。
黙って、スミレの次の言葉を待った。
「あのね、こくご、やったの。」
「うん。」
「みんな、きょうかしょ、よめるの。」
「うん。」
「私だけ、よめない。」
「…」
「それからね…みんな、ひらがな、かけるの。私だけ、かけない…」
スミレの声がだんだん小さくなって、最後は聞き取れなくなってしまった。

ズキンと心臓が音を立てて鳴った気がする。 しまったと、祖父は思った。
幼稚園にもやらなかったが、大した問題ではないと思っていた。
問題があるとしたら、集団生活に慣れるチャンスを失うことだと思っていた。
家にいて、母親の様子をうかがいながら、でも祖母と仲良くやっていた。
それで充分だと思っていた。
友達も、学校に通えばできる。だから今はいなくてもかまわないと思った。
ミドリの時はどうだったっけ?
思い出せない。

「そうか。驚いたか?」
「うん。」
「大丈夫だよ、スミレ。これから覚えればいいじゃないか。スミレは賢いから、すぐに覚えられるよ。おじいちゃんも教えてあげよう。」
「うん…」
「誰でも、最初は書けないし、読めないんだよ。おじいちゃんも、誰も教えてくれなかったら書けなかった。学校で勉強したんだよ。」
「そうなの?」
「そうだよ。だから、心配いらない。」
「そう…。」
「ほら、晩ご飯の買い物に行くぞ。一緒に行くか?」
「うん。」

心配いらないと言った端から、大丈夫だろうかと自分が不安でいっぱいになっていく。
まさか周囲の子どもたちが小学校に上がる前に読み書きを覚えていたとは!最近はそんなふうになっているのか?そんなことは亡き妻も何も言っていなかったではないか。

子育てとは、こんなに不安なものなのか。
祖父は今になって思い知った。
妻は、ミドリは、こんな思いでいたのだろうか。
俺は外で必死に働くから、家と子どものことは任せたぞと、日ごろから妻に言っていたことが今更ながら悔やまれた。

翌日は、算数だった。







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