ゴールデンウィークだ。
仕事が休みになる。
不慣れな長い通勤がないというのに、朝4時半に目が覚める。
律義な私。

新しい職場になじむには、もっと苦労するだろうと思っていた。
けれども、実はそれほど苦労していない。
通勤が長いのも、実はそれほど苦痛でなくなっている。
私、こんなに適応力があったのね。

ある日の帰り道、電車に揺られながらぼんやりしていて、ふと思ったことがある。

朝すっきり自分から目覚めて、わき目もふらず支度をし、しっかり朝食を食べて家を飛び出す。電車の中では読書に没頭し、バスではぼんやりと風景を楽しみ、仕事中は無我夢中で時が過ぎる。帰り道は新しいルートを探検しながらワクワクし、帰宅するとお腹がグーグー鳴るほど空いているから、晩ご飯がたまらなく美味しい。体はすっかり疲れていて、お風呂のお湯にふわぁ〜っと緊張が溶け出すのがうれしい。布団に入る幸せを噛みしめながら瞬時に眠りに落ちる。

こんなにも、全身全霊で生きる毎日を送れるって、

実はとても幸せなことだな。

そう思った瞬間から、私の毎日は劇的に変化した。
出来事が変わったのではない。
出来事の意味が変わったのだ!


仕事ばかりの毎日なんて、生きる楽しみがないじゃないかと言う人がいる。その人にとっては、きっとそれが正解なんだろう。でも、その人の正解が今の私にも正解だとは限らない。

自分の時間がないなんて不幸だと言う人がいる。その人にとっては、きっとそれが正解なんだろう。でも、 その人の正解も、今の私にとっての正解とは限らない。

今の私にとっては、今のこの毎日が幸せなんだと思ったら、毎日の出来事が「幸せの証明」になった。

最近、そんなふうに思うのですよと知人に話したら、こう言われた。
「そんなふうに忙しさを正当化して目を逸らしていると過労死してしまいますよ。僕はあなたの職場には、悪いけど絶対異動したくないし、あなたをお気の毒だと思っています。だって、大変すぎますよ。」

その人には、それが正解なのだ。
「気の毒なんて言わないでください。」と言ったって、その人は現実に気の毒だと思っているのだから、しょうがないのだ。
「なるほど、そう思われるのですね。」
笑顔で聞いていた。

その人の正解は、今の私の選択に何も影響を与えない。
だって、そういう考え方もあるよね、聞いたとおりに〜と思うけど、私は私の正解を自分で自由に選ぶことができると知ってしまったのだから!

私には自由時間がない、趣味の時間や体力が残っていない、こんなのいやだ、でもどうしようもない、だって忙しいし、通勤時間は伸びたし…と不満と不安いっぱいでおどおどと長生きするのと、 あ〜幸せだ、あ〜今日も楽しかったと思いながらポックリ逝ってしまうのと、私にとってどちらが幸せかと言ったら…えへへ。

できれば、あ〜楽しいと長生きする方がいいですけどね。
短ければ、それはそれで、ま、いっか。






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