2304340112月23日だった。三連休初日の22日は元気だったのに、 23日は朝から発熱した。それほどの高熱ではないものの、起きているのはちょっと辛い。どうやら私の体は、私を眠らせたい時の手段として「発熱作戦」を使うらしい。

熱が出た時、うとうとしながら『火つけじじい』と話をする。
長い読者さんはご記憶かもしれない。以前高熱が下がらなかった時に見た夢の中に出てきたこのじいさまは、私の中に溜まった「もういらなくなったもの」に放火して、ボウボウ燃やしつくすのを楽しみにしている。ついでに、何がどういらないのか、語ってくれるのだ。

じいさま、今度は何ですか?あの時は高熱が1週間も下がらないほどの大火事でしたけど、今度はたき火くらいですかね。

「つまりよ、プロセスじゃな。」

じいさまは唐突に言い始めた。プロセス、という言葉が言いようのない鮮明さで響き渡る。

「は?」
「おまえ様と周囲の人々との違いは、結果を見ているかプロセスを見ているかの差じゃよ。」
「ほ?」
「後は、自分で考えるのじゃ。」
「はぁ。」


でも、考えるまでもなく、これは分かってしまった。
そうか、そういうことか。 

Mさんも、Sさんも、でき過ぎくんも、お師匠様も、今目の前にあり、取り組んでいる・あるいは取り組もうとしているできごとにフォーカスしている。取り組んだ結果どうなるか…忙しくなるとか疲れるとか、成功するとかしないとか…は、背景としてぼんやり広がっているにすぎない。今することに、楽しみとか幸福とか快適とか驚きとか、そういうワクワクするものを探しながら生きているから、楽しみの連続なのだ。
だから、毎日が充実するのだ!


ところが私は、取り組んだ結果にフォーカスしている。いかに忙しさを減らすか、どれほど疲れるか、どんな形の成功をめざすか…。遠い結果にフォーカスするから、今目の前にあるものがぼんやりとする。日々の活動はルーチンと化し、簡略化・合理化を目指す対象でしかなくなる。毎日目の前に起きることは、どれもこれもやりたくない、面倒で苦痛なことになっている。食べることも、動くことも、誰かに会うことも、生きる全てが。

ところが、結果というものは思い通りになると決まっているものではない。それを思い通りにしようとコントロールを試みても、時として徒労に終わる。もともと、疲れないように努力した結果が徒労になると、これはもう、層倍の無力感となって身をさいなむことになるわけで、自らの墓穴を掘るとはこのことだ。

そうか。私の疲労感は体力の足りなさだけではない。休む時間が短いからでもない。私の生き方そのものが、私を疲れさせているんだ!


気付いたら、熱が下がっていた。
その日から、気付いたことの証明が始まった。

次回につづく。






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