suisenある日の夕方だった。会議室で打ち合わせをしていたら、大きめの地震があった。ぐらぐらと突き上げてくる感覚は、あの日を思い出させた。ハッとした。彼女はどこにいる?昨年研修を担当した新人さんの中に、被災地から着の身着のまま着任した人がいたのだ。

まだ揺れている中を駆けだし、部屋に戻ると、他の人は「ああ、もう止むね」などと半分笑顔で言っている中、案の定、彼女は床に崩れ落ち、机にしがみついて泣いていた。「大丈夫だよ。一緒にいるから怖くない。地震はもうおしまい。」肩を抱いて言い聞かせても、彼女の耳には届かない。「怖い、怖い…」呪文のように呟きながら泣きじゃくっている。

地震がおさまり、すぐに大きな余震がないとわかって他の人が仕事に戻っても、彼女は顔を伏せたまま泣き続けた。私は黙って彼女を抱いているしかできない。事情を知っている人ばかりではないが、そっとしておいてくれるのがありがたい。でき過ぎ君と管理職が、離れたところからじっとこちらを見守っている。大丈夫ですよと眼で答えて、しばらく赤ん坊をあやすように、抱きしめた背中をトントンとたたきながら待っていた。

ふぅぅ。大きな吐息が聞えた。涙でぐずぐずになった彼女が顔をあげ、私をじっと見つめると、絞り出すようにこう言った。
「Hikariさん、私、まだ生きてます。」
「そうだね。まだ、生きているね。よかったね。」
「はい、生きてます、生きてます。」

彼女から「ありがとう」と言われなかったことが、なぜかものすごく誇らしかった。フラフラと立ちあがった彼女は、大きな深呼吸をすると、仕事に戻って行った。

私にできることは、これくらいしかなかった。


そのわずか数日後のことだった。
私の師匠とその一番弟子から、有名人御用達のフレンチディナーのご招待があった。私はまだ食事制限激しく、足の裏の激痛でスニーカーでも涙を浮かべていたころで、そうでなくてもそんな恐れ多い場所へ何を着て行ったらいいかも分からず、とうとうお断りしてしまった。

後日、一番弟子から報告があった。なんと、都心の豪邸に住んでいたはずの師匠が、福島から車を飛ばして来たというのだ。 師匠は、震災からわずか4か月で福島に転居したらしい。そうして文字通り手弁当で自ら除染作業に参加し、それだけでは飽き足らず、議員となって復興に当たる決意をしたそうだ。親類もない土地で、師匠は見事当選したという。

一番弟子すらこの事実を知らなかったことに、私は胸を打たれた。私が「私にはこれくらいしかできない」と言い、日常に不満をもらしながらも埋もれている間に、師匠は輝かしい実績と成果を密かに捨て、己が心の赴くままに、今一番したいと思ったことに全てを捧げていた。さすがお師匠様はすごいものだとため息が出た。と、同時に、そんな素晴らしい人に会いに行く勇気がなかったことを悔いたし、遊び半分、気軽に会いにいかなかった慎重さに間違いはなかったとも思った。複雑な思いだった。


ますます、自分の周囲にいる素晴らしい人たちが、その素晴らしさを発揮しながら生きていることに気付くこととなり、ますます、私は自分と彼らとの違いに、思いを馳せるようになったのだった。

次回につづく。






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