シンクロニシティという言葉がある。「偶然の一致」と訳すのだろう。見るもの聞くもの読むもの、いろいろなところで、同じような情報が重なることがある。これから書こうとしていることも、そのシンクロニシティなのかもしれない。

男性は、と一般論にするのは危険な気がするが、割と多くの男性は、近しい女性に同じようなことを期待するのではないか。

自分が苦しい時、困難にぶち当たったり、もうダメだと思うような極限に追い込まれた時には、そばにいてもらって、この程度、大丈夫あなたなら乗り越えられると苦労を共にしてくれ、あわよくば、苦労の半分くらいは分担して受け持ってくれる女。

でも、自分がうまくいっている時、夢を持っている時には、自分を自由に野放しにしてくれる女。まとわりついたり、罪悪感を抱かせたり、あなたを支えているのと匂わせるような女はいらない。

そうして、夢がかない、自由が当たり前になると、今度はちょっと我がままで手に負えない女が恋しくなる。それは、得てして年若い女だと適いやすい。と、同時に、かつて自分が苦労したり、困難にぶち当たった時のことを知っている女は鬱陶しくなる。

男とはプライドの生き物だ。かつて困難がなかったと思いたいのではない。困難を乗り越えたのは自分の力だと思いたいのだ。だから、「あなたのおかげで」と思い続けなければならないのは、ちょっと面白くないのかもしれない。

重荷を当然のように共に背負い、夏休みに虫籠持って出かけた子供を見送るように自由にさせて、ご飯作って待っている母のような女は、きわめて都合がいい女なのだ。自分でそういう女でいることを選んできたのに、「最後まで大事にされたい!」というのは、はかなくも脆い、叶い難い願いのようだ。





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