みなさん、おはようございます。今日もお越しくださってありがとうございます。
栗ご飯を炊いてみました。
とっても美味しくできて、幸せだなぁとニッコリ。大好きなんです、栗ご飯と秋が。
いつも、食事の前後にお祈りする言葉があります。
「すべての命に感謝します。」
いつごろからでしょうか、そう手を合わせてから、いただきます・ごちそうさまを言います。
うちのくまさんが書いているホームページ「くまごろが行く!」の、信州紅葉狩りの一編にも出てきた話ですが、今年は例年に増して、熊が里に下りてきているようです。
白馬村で聞いた話によると、話をしてくれた方がお友達のところに電話をして、「今から行くからね!」というと、「ダメダメ。今、うちの庭を熊が歩いているから、明日にしたほうがいいわよ。」と言われた、とか。
保育園で先生たちが運動会の準備をしていたら、熊が遊びに来てしまって、運動会が中止になった、とか。
家に帰ったら、鍵をかけずにでかけた玄関から家に入り、冷蔵庫をあけて魚肉ソーセージをむいて食べて行ったあとを発見した、とか。
熊たちは、みんなお腹が空いているんですね。
新米の合間から黄金色の顔をのぞかせている栗を見て思いました。
この栗が、熊たちのお腹に入るようになっていたら、きっと里に下りてきて追い掛け回されたり、撃ち殺されたりすることはないんだろうなと。
白馬村の人も言っていましたが、熊たちは別に人間を食べてみたくて襲ってくるわけではありません。ただ、出会ってしまってびっくりするだけなんだそうです。それに、人間が「熊だっ」と敵意をむき出しにしたら、「なにをっ」といきり立つ関係というのは、想像に難くないですね。
麻酔銃で眠らせて、山に返すところも多いようですが、それだけでは何の解決にもならない。だから、熊の話題は耐えないのでしょう。
豊かな自然を残そうと、いろいろな人がいろいろな場所で言っています。でもそれが、「豊かな自然が残るということは、熊も猿もヘビもみんな残るということだ」と理解したうえでの発言なのか、時々疑わしく思うのです。
けもの道を歩いて登校中の小学生が熊とでくわしてしまい、襲われて、両目を失明したそうです。
「豊かな自然を残す」とは、こういう出来事を許容するということです。こういう出来事を許さず、なおかつ「豊かな自然を残す」なら、現状とは違う努力やアプローチが必要だということではないでしょうかね。
「手付かずの自然」という言葉は、大きなウソをはらんでいると思っています。人間が踏み込んでいない、開発していないという意味だけで「手付かず」というのは、ちょっと判断が甘いと思うのね。温暖化ひとつとってみても、その影響は「手付かずの森」にだって及んでいるわけで、その原因をヒトが作ったなら、やはり「手付かず」ではなくなっている。
地球上にある、ありとあらゆるものが、人間の影響を受けているってこと。
それは、あんまり、うまくいっていないよね。
北海道にある、東京大学演習林のことをご存知でしょうか。
富良野の森が有名ですが、ここで研究されている「森林経営」は、分林施業法と呼ばれるもので、森の木一本一本が調査され、必要な時期に伐採され、あるいは植栽されていきます。林道をつなげていくことで、伐採後の木の移動にも役立ちますが、動物たちの移動にも役立ちます。伐採された木のおかげで、林床に日光が届き、新たな命が育ちます。見通しがよくなった場所で営巣する絶滅に瀕したフクロウは、天敵から身を守りやすくなります。住みよい森で暮らす動物達は動きにつれて種を運びます。豊かな森林経営の共同経営者です。
この、ヒト、森、動物が互いに支えあう分林施業法に興味をもたれた方は、研究の第一人者「どろ亀さん」こと高橋延清さんの著書をお読みくださいね。
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どろ亀さん、最後のはなし―夢はぐくむ富良野の森づくり 高橋 延清 関連商品 木―なまえ・かたち・たくみ by G-Tools |
方法がないわけではない。
けれど、その方法が使われていない。
全体では、なんだかうまくいっていない。
それと知りつつ、目の前の茶碗の中で光っている、輸入の木の実を見て、微笑んでいる自分がいる。微笑みの次に、考え込んでいる自分がいる。それを書いている自分がいる。それを読むあなたがいる。
命はやっぱり、つながっている。
そうして、自分は小さいなと思う。
自分が気付くことも、できることも、存在も、本当に小さくて、ミクロの点だ。
それが神と同じ性質からできていると言われようと、永遠に不滅だと言われようと、そいういう言葉が軽々しく聞こえるくらい、小さくて無力だ。
無力だけれど、だからといって、できることを放棄しない。
全ての大きなものは、ミクロが集まってできているから。
やっぱり、すべては、つながっているね。



ミントさん




つながっていると思えることが
とても幸せだと思う。
みかんの皮を向きながら
きれいな色だなあと思ったり、
ほうれん草を箸でつまみながら、
どこの畑でどんな人の手で収穫されたのかなあとか
思う時があります。