Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2016年01月


あれからひと月たったのに、彼女たちはやってこなかった。
あの品の良い6人組のことだ。
ひと月半になっても、やっぱり現れない。
どうしたのだろうかと気がかりになる。
お珍しいこと、お風邪でも召したのかしらとゆかりさんと話し合ううちに、世間はすっかり冬枯れて、クリスマス色一色になった。

人々はやってきては笑い語らい、ほろ酔いに機嫌をよくして帰っていく。
僕らは寝て起きて、食べて働いて、今日もこうして生きている。
とりたてて事件と呼べるようなものもなく、特別な幸運と騒ぐようなこともない。
平凡で平和な毎日。

過去に煩うこともなく、未来を憂えることもない。
ただ、毎日を慌ただしくも穏やかに過ごせる幸せを、僕でさえ感じる日々だった。
小紫の前を通りかかり、張り出された求人広告を見て、ここで働こうと思った自分をほめてあげよう。
姉さん、僕はちゃんと普通の幸せを生きてるよ。


カラリンコロン。
カウベルが鳴る。
振り返りながら口が自動的に答える。
「いらっしゃいま…。」

言葉の最後の飲んだのは、その集団が黒づくめだったからだ。
明らかに通夜の帰りなのだろう。
泣きじゃくりながら支え合うふたり、白いハンカチを握りしめたままの手、おぼつかない足取りで入ってくるひとり、またひとり。

あの、ご婦人方だった。
待ちかねましたよ、どうなさいましたと問うこともできず、ハッとする。
ひとり、足りない。
とても嫌な予感がする。
いや、今までだって、体調がすぐれないとかご用だとかで全員そろっていないことは何度もあった。

ゆかりさんも気づいて、カウンターの奥からドアまで出てきて迎える。
「しばらくお見えでなかったので気がかりに思っておりました。今日はまた…。」
そういわれてまたハンカチで目を覆ってしまった人を抱きかかえるようにいつもの席に誘いながら、ゆかりさんが僕に目くばせをした。
折しも他のお客様は誰もいない。
僕は一つ頷くと、そっと外へ出てOPENの札をCLOSEDに裏返した。

「お寒かったのではありませんか?すぐに温かいお茶をお持ちしましょう。」
ゆかりさんはカウンターに戻る足で、暖房の温度を上げている。
僕はお決まりのおしぼりと水を運びながら、彼女たちの疲れ切った様子に胸を打たれた。
いないのは、あの、戦争の時の話をしてくれた一番年上に見える女性だった。

ゆかりさんが運んだ茶の湯気を吸いこんで、ひとりが重い口を開いた。
「よっちゃんが、亡くなってしまったの。」
それだけで、続きは言葉にならない。
ゆかりさんも僕も、席から立ち去りかねて、誰かが話を継いでくれるのを待った。

「よっちゃん…吉高さんというのだけれど、わたくしたちは『よっちゃん』とお呼びしていたの。
よっちゃんはね、この前こちらに寄ってから少し後にね、風邪をひいたの。
矍鑠としていたでしょう?
よっちゃんも自分のことを丈夫な性質だと信じていてね、風邪くらいなんのって、病院にも行かなかったみたいなの。
でも、なかなかよくならなくて、なんだかこじらせたみたいって。
じきに肺炎を起こして、入院してしまったの。
それからはあっという間だったわ。」

その場にいる全員の心を、哀しみのさざ波が覆っていく。
前回会った時にはあんなに元気だったのに。
あんなに心に響くお話をしてくれたのに。
どうしてこんなことに?
僕には死というものが近いようでも遠くて、関わりなく生きているつもりでいるのに、こうして不意に真横に立たれると、どうしていいのか分からなくなってしまう。

最初に話を切り出した女性が、バッグからひとつの封筒を取り出したのは、その時だった。
白いハガキ大の封筒には、どうやらきちんと封がされているようだ。
遺言だろうか。
僕はゆかりさんと眼を合わせると、そっと立ち去ろうとした。
「待って。ここに座って、一緒に聞いてちょうだい。」
「でも…。」
「いいの。ママも穂高くんも、一緒に考えましょうって、よっちゃんに言われたでしょう?」
僕らはためらいつつも、皆さんの輪の中に入ることにした。

「あ、あの『死ぬまでにしたい10のこと』ですか?」
「ええ、そうよ。これはね、よっちゃんからの最後のお願いなの。」
「どういうことでしょう?」
問いかけながらゆかりさんは、近くの椅子を引き寄せて僕の隣に座った。
「つい先日なのよ。病院にお見舞いに伺ったときに、これをお預かりしたの。
早く元気になって、あの話の続きをしたいと思い、カードに答えを書いておいた、でも、退院のどさくさで失くしてしまうといけないから預かっておいてって。」
「まぁ、そんなことが。」
テーブルの真ん中に置かれた白い封筒を皆で見つめる。
「ええ。だから私たち、よっちゃんの快気祝いはこの小紫で、みんなでカードを持ち寄って、『死ぬまでにしたい10のこと』を発表しあいましょうって約束したの。ね?」
呼びかけに応じて、うなだれた頭が一様に頷く。
「でも、その夜なのよ、急に悪くなって…。」

ゆかりさんがすっと立ち上がり、カウンターの奥に入ったのはその時だった。
僕もつられるように後を追うと、「これを運んで」とワイングラスが並んだトレイを渡された。
意図を察して僕はテーブルに戻り、音をたてぬよう念入りにグラスを置きならべた。
僕の後ですぐに戻ってきたゆかりさんの手には赤ワインのボトルがある。
「献杯しましょう、皆さま。吉高様のご冥福をお祈りして。」

改めて涙する仲間たちが鳴らすグラスで、その日の会話が封切られた。
「では、あたくしから申し上げますわ。あたくしね、死ぬまでにもう一度、ナイアガラの滝を見に行きます!」
「ナイアガラ?」
「ええ。大学を卒業するときに、記念にと海外旅行に行きましてね、その時に見たんです。
あの、足元から削られていくのではないかという迫力と、吸い込まれてしまいそうな水の勢いは忘れられない思い出なの。
でも、思い出にしておかないで、もう一度この体で味わうわ。」
「すてきね。」
「その時は私もご一緒したいわ!」
「ええ、よかったらみんなで行きましょう。」

「私は…毎日1回は、大笑いすることにしました。」
「まぁ!」
「何か特別なことをしなくても、毎日毎日を楽しいと思って暮らせるようにと考えた末に思いついたことなの。」
「なるほど!」
「でも、今日みたいな日は目標達成とはいかないわね。」
「しかたがないわ、そんな日もある。」

「私は食いしん坊でしょう?だから、いろんなものを『美味しい!』って感じられるうちに、いろんな土地の美味しいものをいただく旅をしようと決めました!」
「まぁ、あなたらしいこと!」

「私はね、象に乗るわ!」
「ゾウ?鼻の長い?」
「そう。だから、インドに行かなきゃ!」
「あら、できるわよ、インドに行かなくても。すぐそこで。」
「え?」
「千葉県にあるのよ、ゾウに乗れるところが。」
「やだわ、それホントなの?」
「ホント、ホント!」
「あんなに考えたのに、やだわぁ。じゃ、明日にでもできちゃうじゃない!」
「ええ。なんなら撮影係としてご一緒してもよろしくてよ。」
「もう、がっかり。明日は無理でも今週末には願いが叶う距離だわね。はぁ…」
「あらあら、よかったじゃないの、格安ですぐに夢が叶って。」

少しずつ笑顔が戻り、わずかずつ笑い声が立つ。
僕はお客様の笑顔がこんなに嬉しいものだと、これまで思っていなかった自分に気が付いていた。
笑ってほしい、元気を取り戻してほしい。
ここに座ってから、そればかり考えていた。

でも、無理矢理に笑わせたいわけではないんだ。
面白いことを言って笑わせたいってことではない。
ご自身の思いを温めてもらって、内側からあふれるような笑顔を見たい。
そのために僕には…小紫は何ができるんだろう…そう考えてみる。
笑顔が浮かぶかもしれない10分先を思って、今できることをする。
それが、僕の仕事なのかもしれない。

5人の仲間たちが一通り『死ぬまでにしたい10のこと』を語り合った。
「さ、穂高くんの番よ。」
「若者は先が長いから、10では収まらないでしょうけど。」
「今一番したいことを聞かせてちょうだい。」
口々に勧められて、僕は自分でも言うと思わなかったことを言いだした。

「僕は小紫で働き始めて、この仕事の魅力がだんだん分かってきた気がしているんです。
もっといろいろなことができるようになって、もっとお客様の笑顔が見たいんです。
そのために、自分にできることを増やしたいって思います。
まず、ゆかりママにできることを全部盗んで、僕もできるようになります。
それから、学校にも通って、最新の知識も得たいな。
そのためにはお金もかかるので…僕、アパートを引き払って、ここに引っ越してきてもいいですか?
それが一番都合がよさそうな気がするんだけど…。」

まぁ!あらぁ、うわぁと歓声が上がった。
「大変よ、ママ。プロポーズされちゃったわよ!」
「あ、いや、そーゆーわけでは…。」
「こら、否定しないの!」
年上の女性たちにいいように弄ばれて、僕は口が勝手に言い出したことを早くも後悔し始めた。
自分の頬だけでなく、耳まで真っ赤になっていることが自覚できるだけに、理由をつけてカウンターの向こうへ隠れたい衝動に駆られた。

「では、私の夢を語りましょうか。」
ゆかりさんが騒ぎをそっと沈めるように語りだした。
「私の夢は、今決まったのですけどね、この未来ある青年を大きく大きく育てたいと思います。」
「素敵!」
「私にできることはなんでも伝えましょう。でも、この青年がここでは叶わない別の夢を手に入れたら、握り締めることなく羽ばたかせることも皆様にお約束しますわ。」
「そんな…。」
「それでこそママだわ。潔いこと!」
「だから、穂高。」
「はい!」
「いつでもいらっしゃい、荷物まとめて!」
「はい!!」

いっせいに拍手が沸いて、気が付けば泣いていた人の顔にも笑顔が宿っていた。
「あら、私、今日も笑えたわ。」
そんな声に、改めて笑い声が響く。

「では、よっちゃんの答えも聞きましょうね。」
「ええ。」
封筒を預かった彼女が、そっと封筒を取り上げて、ぷつりと封を開いた。
ゆっくりとカードを引き出して、全員に見えるように開いた。

「死ぬまでにしたい10のこと」
しっかりとした文字でタイトルが書いてある。
その下5センチほどのところに、同じくらいしっかりした筆文字で、こう書かれていた。

したいことはすべてし尽しました。
よき人生でした。
みなさまのお幸せを
遠くからいつもお祈りしています。
   みなさまのお仲間 よっちゃんより



「お見事。」
「ああ、あたくしたちは、素晴らしい先達に恵まれましたね。」
「ええ。出会えて、共に過ごすことができて、幸せですね。」
「本当に、本当に!」

ゆかりさんが、テーブルにあってひとつだけ、ワインが減っていないグラスをに、自分のグラスをそっと合わせて目を閉じた。
「ご贔屓、ありがとうございました。これからも、いつでもお立ち寄りくださいませね、吉高様。」


それからも、吉高様の思い出話が尽きないまま、いつの間にか22時を過ぎていた。
このご婦人方の帰宅には遅すぎる。
ご家族も心配だろうし、足元も気がかりだから駅まで送って差し上げてとゆかりさんに言われて、僕は皆さんを駅の中に消えてしまうまで見送った。

コートを着忘れて出てきたことに、帰り道になって気付いた。
寒い夜になっていた。
駅前通りのジングルベルが聞こえなくなると、住宅街は温度をさらに下げたようだ。
早く帰ろう。

丁度街灯の下、急いで歩き始めた僕のつま先にひとつ、小さな赤い塊があることに気付いた。
早咲きの侘助椿が一輪、ひっそりと落ちていた。
僕はそれをそのまま残していく気になれなくて、右手ですくいあげると、ゆかりさんが待つ小紫に向かって駆け出した。





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そういえば、昼間の仕事に変わると決意して帰ろうと、立ち上がりかけたさよりさんに向けて、ゆかりさんがヘンなことを言った。

「まずはね、自分からよ。
本当は無条件にもらって当たり前のものをもらい損ねた人たちは、自分で自分にたくさんの贈り物をしなくては何も始まらないのよ。
慈しみ深い母親が赤ちゃんを育てるときのように自分を愛して、信じて、大事にするのよ。
最初はそれすら、きっとうまくいかないわ。
自分を大事にするってことの意味がきっとあなたを不安にさせてしまう。
それでもいいから、続けてね。
あなたはまだ若いから、きっと追いつくわ。
追いついた時にはね、あなたはまわりにいる、いろんな人たちを無条件に愛せるようになっているはず。
それはステキな世界よ。
あなたを脅かす人も、ゆがめる人もいない。
誰もがいとおしいと感じられるの。
そうして、ますます、そんな自分を好きになれる。

けれど、今すぐに、あなたを苦しめた人を愛そうなんて思ってはダメよ。
そもそもできないし、できる必要もない。
子どもを苦しめる親は少なくないけれど、そんな親を大事にできる子供がたくさんいるのも事実。
でもね、振り返ってみると、その人たちって必ず、どこかで『自分は親に愛された』という認識と『親は自分を愛していると分かるだけの行動をとった』という事実が釣り合っているのよ。
それなしには始まらないの。

今から親にしてもらったことを増やすのはできない相談かもしれない。
ならば、親からもらい損ねた贈り物の部屋の隙間に、自分で素敵なものを詰めればいい。
さよりちゃん、まずはそこからよ。」

今夜のゆかりさんは、いつになく饒舌だ。
おっとりとした彼女の口調とは少し違って、何かに憑かれたように早口に話す。
勢いに押されたように座り直したさよりさんだったが、クックッと笑いながら細くて長い足をスツールから下ろすと、顔にかかった髪を盛大に掻き上げて言った。
「んー、なんだかよくわからない。」

すると、ゆかりさんは何かに気付いたように目を丸くして、それからいつもの微笑みを浮かべた。
「いいのいいの。おしゃべりが過ぎたわね。」
「わかんないけど、ありがと。」
「ええ、ええ。」
「わかんないけど、自分でやりたいって思ったことを、思った通りにやってみていいってことだよね?」
「そうよ!それでちゃんと分かってる。」
「ふーん、よかったぁ。
じゃ、帰るわ。
穂高くん、またねー。」
さよりさんはわざわざ僕の名前を呼んだ。
「はい、お待ちしています。」
「ほんと?じゃ連絡するねー。」
「ありがとうございました!」


さよりさんの「またねー」は、また小紫に来てくれるという話だと思ったのだが、違っていた。
さよりさんから早朝の電話でたたき起こされたのは、わずか2日後だった。
そういえば、連絡先をくれと言われて、渡したことがあったっけ。
「穂高くん?おっはよーっ!あたしー。わかる?」
わかるけど、ちょっと腹が立つほど元気がいい。
「やめてください、僕、さっき寝たばっかりですよぉ。知ってるでしょ?」
「やめてくださいって、だから、やめてきたわよ。」
「はぁ?」
「起きろ、こら。辞めてきたってば。だから、今日付き合って。」
「ほぉ?」
「お店、辞めたの。今日から職探しよ。
穂高くん、就職に苦労した話、前にしてくれたじゃないの。
そういうベテランに付き合ってもらったら、いい仕事が探せそうな気がするんだもん。」
「あー、そういうことですか。はいはい。お付き合いしますよ、今度。」
電話を切って寝ようとする僕に、機械の奥から突き抜けるような声で彼女は叫ぶ。
「今度じゃなーい!」

店でなじみだった客には社長さんもたくさんいて、その気になれば雇ってもらえるはずと言いながら、そうするのは潔くないと思ったらしいさよりさんは、僕に職探しの方法を尋ねてきた。
履歴書を持って、ハローワークに行くのだという僕の話を真剣に聞いたらしい。
「もういいでしょ?眠いですよぉ。」
「ダメ。2時間寝たら起きて。いい?集合は…。」
結局彼女のいいなりに約束させられた。

ハローワークに行くのは初めてだというさよりさんは、白のカッターシャツに細いデニムといういでたちで待ち合わせ場所に先に来て、僕を待っていた。
文字にすれば一般的な服装なのだろうけど、彼女の場合はこれまでの経歴が透けて見えるほど、ド派手に決まっている。
服装というのは、色が普通でも、デザイン次第でこうなるんだなぁと驚いた。
夜の蝶が昼の服になっても、きれいな体のラインがくっきりと強調され、開けすぎた胸元のボタンやキラキラしたままの長い爪の先から、変装前の姿が覗いてしまっている。

真面目を絵にかいたような窓口の男は、やたらとさよりさんを…いや、あれは絶対さよりさんの「体を」だ…観察してから、ぶっきら棒を装った声で「ご希望の職種は?」と聞いた。
「OLさん!」
小学生が将来の夢を尋ねられた時のような声を張り上げたゆかりさんが、足を組み直す。
「さよりさん、脚、下ろして。」
「へ?なんでよ?」
「態度がでかくみえますから。こういうところでは謙虚に!」
「ケンキョってなに?あ、けーさつに捕まることだぁ。あはは。」
保護者役の僕には、ひやひやの連続だ。

「事務職がご希望…と。資格はなにかお持ちですか?」
「資格?ないなぁ。」
「運転免許は?」
「運転なんて、運転手さんの仕事でしょ?」
どこの姫かと突っ込みたくなるような返事をしても、さよりさんは平気でいる。
「職歴は…はぁ、接客業ですか。」
さよりさんが提示した履歴書を見ながらエンピツで何事かチェックを入れている。
「うん。だからね、人当たりはいいと思うんだよねぇ。」
「さよりさん、タメ口はダメです。ちゃんと敬語使って。」
僕は再びさよりさんの耳元でささやく。
「ケイゴ?穂高くんがあたしの警護してくれてるじゃない?」
「そういうオヤジギャグはもういいですから!」
「あら、そう?あはは。」
もう!

「待遇面のご希望は?」
「OLさんができるなら、なんでもいいかな。
給料もこだわらないよ。高けりゃまぁ、嬉しいけどさ、貯金はけっこうあるしぃ。
あ!」
「はい?」
「でもさ、一個だけ条件があるっていうか。」
「うかがいます。」
「男ばっかの職場がいいかなぁ。」
「はぁ?」
「だってさ、女が多いと、何かと面倒じゃん。
女は怖いよぉ。知ってる?おにーさん。」
おにーさんと呼ばれた窓口の男性は、最初は肉感的な彼女に興味津々だったけれど、今では最短時間で「処理」しようと決めたようで、無駄口に反応せず、てきぱきと端末を探っている。

キラリとその横顔が輝くと、プリントアウトをサクッと提示して言った。
「ありました。
初めていらしてヒットするなんて、運がいいですよ。
どうなさいますか、行ってみますか?」
その求人票を僕と同時に覗き込んださよりさんは即答した。
「行きます!」
よし、敬語が使えたじゃないか!

会話を交わす人すべてが、店一番の上得意と思うようにという僕のアドバイスを守って無事に面接を終えた彼女は、100社アウトを食らった僕とは違って、一発合格した。

さよりさんがその会社で働き始めて2週間。
ちまたはすっかり秋を深め、日によっては冬を感じるほどになった。
道端のイチョウがこれでもかと黄色い葉を落とし、道は踏みしだかれた三角で埋め尽くされている。
どうしても見に来てと、何度も誘いの電話をよこしてうるさいさよりさんに負けて、僕は彼女の職場を覗きに行くことにした。

その会社は、小紫から歩いて行けるほどの距離にある。
駅の方ではなく、住宅街の奥へと向かう。
とはいえ、幅広の道路沿いに進んで、住宅が切れたその奥に、大きな門と、大きな倉庫、ひっきりなしに出入りする車が見える。
「何言ってんの!さっさといってらっしゃい!」
「遅かったじゃない!次の準備はできてるよっ!」

どこに声をかけたものやらと門の外から様子をうかがう間もなく、門の脇にある小さな建物から、聞き知った高い声が響いてきた。
「いやー、さよりちゃんには敵わない。」
「でもさぁ、あの子が来てから、仕事に張りができたねぇ。」
そんなことを言いながら扉を開けて出てきた男たちは、大笑いしながらトラックの方へと向かう。

僕はその人たちに軽く会釈して、扉に向かった。
男たちは去りながらも、微妙に怪訝な顔をしている。
そっと引き開けると、姿が見える前に声が飛んできた。
「今度あんな雑な仕事したら許さないからねっ。お客様にご迷惑かけたんだから、反省しろ、反省っ!」
カウンターの向こうで仁王立ちしたさよりさんの前で、若い男がうなだれている。
「わかったら、さっさと行っておいで。気を付ければいいんだからさ。」
「はい…。すみませんでした。」
「ったく、いまどきの若い子はっ!」

ほうほうのていで逃げ出してきた彼は、僕とすれ違いざま、確かに言った。
「おかしいなぁ、俺の方が絶対年上なんだけど。それに、あっちのほうが確実に新人だし。。。。」
だろ?
わかるよ。僕もまったく同じ立場だ。

「さよりさん!」
「ああ、穂高くん!」
嬉しそうにカウンターを飛び出してくる彼女を見て、あとふたり待っていた男たちがじろじろと僕を見つめてくる。
「来てくれたのね、ありがとー。あたし、嬉しいわぁ。」
あのさ、店の客じゃないんだから、腕にすがりつくのはちょっとどうかと…。
だけど、なんだか、ちょっと誇らしいような気持ちになるのはなんだろう。

「あんたたち、何じろじろ見てんのよ。さっさと書類を置いて、次行っといで!無事に帰ってくるの、待ってるからね!」
「おうっ!」

「ねぇ、これがさよりさんの言ってたOLさんの仕事?」
「それがさぁ…」
彼女は僕を応接ソファーに誘いながらつややかな唇を尖らせた。
この会社の作業服と思われる上着に、タイトなピンクのスカートという組み合わせが、妙に艶めかしい。
「最初はあっちの事務所に行ったんだけど、計算遅いし、字は間違えるし、使えないからってその日のうちにここに配属替えになったのよぉ。」
「配属ねぇ。何が仕事なの?」
「ウチさぁ、運送会社じゃない?運転手さんがいっぱいいるのね。で、配達してきた伝票を受け取って、残り時間見て、次にどこへ行ってもらうか考えて、新しい伝票渡す仕事。」
「へぇ。」
「それがさぁ、自分でも意外なんだけど、楽しいし褒められるし、男ばっかで気楽だし、もう最高!」
「あ、そう。」
「あたし、もはやここのマドンアよぉ。こういうOLもありでしょ?」

夜の蝶から昼のマドンナへ。
さよりさんの転職は、思いも寄らない形で大成功したようだ。
がんばれよと、心の中で偉そうにつぶやいて、彼女が淹れてくれた熱すぎる緑茶をすすりながら、僕はしばらく彼女にハッパをかけられて嬉しそうに笑っている男たちを見ていた。




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「そうかな、あたしでもOLさんになれるかな?」
さよりさんはちょっと照れくさそうな顔になる。
滑らかな白い頬が先ほどまでよりも桃色に染まって、ますます綺麗に見える。

「あのね、昼間本屋とか図書館とか行って、常連さん好みの話題を調べてみたりしているうちに、世間にはいろんな人がいるんだなって気付いたの。」
「いろんな人?」
「そう。特にね、お昼時に、こう、制服着て、お財布とスマホだけ持ってご飯食べに来ているOLさんたちとすれ違ったりする時にね、ちょっと新発見っていうか、びっくりしたの。
ケラケラ笑いながらごはん食べたり歩いたりしているのを見てね、ああ、こうやって働いている人もいるんだなぁって。
もちろん、いることくらい知ってたわよ。
でも、自分とは関係ない世界のことだと思ってた。
もう最初っから、あたしにはできっこないって。
けど、こういうのもいいなぁって。 
ほんとにできないのかなぁって。
あたしさぁ、母親もこっちの世界の人だったし、他の世界を見ようとしてなかったのかもしれないなぁって。」

「ねえ、さよりちゃん。」
ゆかりさんがしっとりと呼びかけた。
その温かく包み込むような声、これを聞きたくてこの小紫にやってくる客がなんと多いことか。

「さよりちゃんのお母さんは、残念ながらいい親ではなかったわ。
ごめんなさいね、不愉快よね、他人からこんな言われ方したら。」
「ううん。ママならいい。本当のことだし。」
「ありがと。
親が親だと言えるにはね、子どもにしてあげなきゃならないことがあるのよ。」
「してあげなきゃならないこと?」
「ええ。生物学的には産めば親になれるけど、子どもを幸せにする親になるには、しなければならないことがある。」
「それってどんなことですか?」
さよりさん以上に興味を示す僕に、ゆかりさんは目を見開いて見せてから、やっぱりさよりさんに向かって語りかけた。

「子どもがね、自分はいつでも守られていると感じていること。
安心、安全で、自分は守られる価値ある存在なんだなって感じられるってことね。

それから、子どもが大人みたいに気を使わなくていいこと。
子どもらしく、怒っても泣いてもわがまま言っても、一度はちゃんと受け止めてもらえるってことね。
そういう時間を過ごすから、人は安心して心を開けるようになるの。

安心感とか信頼感とか受け止めてもらえる自信とか、そういうものがあって初めて、社会の中で生き抜くためのルールを教えること…つまり、しつけが成り立つの。
しつけというのも、親の大切な役割ね。
もっとも、しつけといえば暴力を振るってもかまわないと勘違いしている人もいるけれどね。
そういう人もよく見れば、親自身の不満や不安を子どもにぶつけているだけなのよね。
ま、理由がなんであれ、子どもを傷つける大人がいい親になるはずないわね。」

「だとしたら…。」
さよりさんは冷めかけたコーヒーをようやく口に運んでからつぶやいた。
「あたし、いい親から受け取れるものをほとんど何ももらってないかも。」
「多分、ね。」
「そうなんですか?」
僕は思わず問いかける。

「うん。
前にも話したかもしれないけど、あたしの父親はあたしが生まれると同時に事故で死んじゃったのね。
で、母親は水商売をして、いろんな男がうちに出入りしたわけ。
母親は酔っているか眠いか、男といちゃついてるか喧嘩してるか。
あたしがいるかどうかなんて気付いてなかったんじゃない?ってくらいだったから、安心だとか安全だとか、感じたことない気がする。」
「……。」

「油断していると理由の分からないことで殴られるし、怒鳴られるし。
でも、気を張って様子をうかがっていても、全然わからないんだもん、なんで殴られるのか。
いつもお腹空いてて、でもお腹空いたっていうと意地汚いって怒鳴られてさ。
腹が減るのはみんな同じでしょ?
でも、あたしはお腹空いたって言っちゃいけなかったんだぁ。」
「ひ…ひどすぎる。」
僕の目が潤んでしまう。

「母親と一緒に暮らした男たちにいたずらされたとかはないけど、殴られたり汚い言葉で罵られるのはしょっちゅうだったし、それに、母親と絡み合っているのは何度も見てる。
あれ、最低よ。
ほんと、最低。
子供心なんて吹き飛んじゃうくらい。
どうせガキだし、意味わからないだろうくらいにしか思ってないんだろうね。
まさか子どもが一生その光景を覚えていて吐き気を感じてるなんて思いもしない。
バカだよね、そういう大人。
ほんと、死ねばいいんだよ!」

さよりさんの激しい言葉に、僕の心臓は波打った。
すがるようにゆかりさんを見ると、彼女は僕と真逆に、にこにことさよりさんを見つめている。
「憎い?腹が立つ?」
「もう、めちゃくちゃ腹が立つっ!」
「それでいいのよ。
隠さずに怒っていい。怒る方がいいの。

役割を果たせない親は、子どもに憎まれ恨まれて当然なの。
だって、安心も安全も信頼も教わり損ねた子どもは、ほんとうに生きにくい人生を送らなくちゃならなくなるからね。
多くの子どもはね、それでも親に嫌われたくなくて、いい子だねって褒められたくて、悪いのは親じゃない、自分の方なんだって思ってしまって、ますます自分を傷つけるのよ。

でも、それは違う。
子どもに安心して子供らしく過ごせる時間を与えるのは親の責任なの。
責任を果たせなかった親が責任を問われるのは当然のこと。
あなたは何も悪くない。」
「……そう言ってもらうと、ホッとする。」
「何回でも言ってあげる。あなたは、悪くない。」
さよりさんはコクコクと髪を揺らして頷いた。

「けど、いつまでも親に植え付けられた不安とか不快感とか不信感とか罪悪感とか自信のなさとか、そんなものに支配されて生きる必要もないわよね。」
「支配…。」
「そうよ。支配されているのと同じでしょ?
親の役割はね、血がつながっていなくても果たせるものなのよ。」
「そうなの?」
「そうよ。それに、ふたりいなくてもいいの。」
「そうなんですか?!」
飛び上がったのは僕だ。

「そうよ。親の役割を果たすのはなかなか大変なこと。
大人だってみんな完璧じゃないし、うまくいかない部分もあるから、大人が複数いて、役割分担がしてあったり、ひとりだめでももうひとりが果たせるようにしておけば安心よね。
でも、両親そろってなきゃいい親になれないということはないの。」
「そうか。そうですね。僕は母さんしかいないけど、不満に思ったことなかったもんなぁ。」
「あなたの場合はお姉さんも親代わりだったのでしょう。」
「確かに!」
「その分、お姉さんはどうだったのかしらね。
幼い時から、背負うには重たい責任を背負っている気持ちがどこかにあったかも…。」
思い当たることが多すぎて、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

「さよりちゃんは本当に辛くて不安で怖かったのよね。
お父さんが亡くなって、お母さんもご自分のことで必死で、あなたを見る余裕がなかったのね。
本当はあなたをかばって守ってくれなくてはならないお母さんが、守るどころか手をあげるんだもの。」
「ほかの大人も、誰も助けてくれなかった…。」
半ば身を起こしたさよりさんの目から、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ち、あごを伝ってポタリポタリとむき出しになった太ももを濡らしている。

「親の役割はね、実は『自分』でも果たせるのよ。
今あなたはもうあの頃の子どもじゃないの。
強くなったわ。
いろいろな経験をしたと思うけど、全部乗り越えたでしょう?
だからね、これからは、小さいころにあなたが感じたことと、今実際のあなたが感じてもいいこととの違いをちゃんと認識して、今のあなたを生きてほしいのよ。」
「今の私?」
「そうよ。こんなにきれいで、かわいらしい女性はそうたくさんはいないわ。
今のあなたなら、望むことはなんでもできる。
そのための努力もきっとやり遂げると思うの。

『できない』『似合わない』『無理』『笑われる』…
そういうのは全部、あなたが子どものころ、無責任な大人があなたに押し付けた、間違った認識よ。
いつまでも無条件に従う必要があると思う?」
「ないない!従ってるつもりもなかったけど、あるならやめる!」
「でしょう?なら、やってみたいことはやってごらんなさい。
心の温かい母親のようにあなた自身を信じて、応援して、やってみたらどうかしらね?
いい、さよりちゃん。
ここまで気付いたら、これから先の人生の質がどうなるかは、あなた自身の責任よ!
私たちも応援するから。ね?」

「もう!ママと話しているといつも自分が知らない自分を発見しちゃうわ。」
さよりさんは泣き笑いしている。

「ねぇ穂高くん。」
「はい。」
「あたしね、ここに来るのが好きになったのは、ママがね、『はいはい』って言ってくれるからなの。」
「え?」
「あたしが変な時間に来て、『コーヒー』って言うでしょ?ほかの店だと、お酒じゃなくていいんですかとか、コーヒーはちょっととか言うの。
まぁ当たり前と言えばそうなんだけどね。
眠れなくなりますよ、なんてのはいい方で、他の店に行ってくれとか、コンビニで買えばいいだろうとか言われることもあってね。
そりゃそうだとは分かってるのよ。
でも、たまたま入った小紫は違ったの。
『はいはい』って、コーヒーが出てきた。
おにぎりって言えばおにぎりが、お水って言えばお水が出てくるの。
できないことを頼んでも、ほんとは無理を言っているのはこっちなのに、ママは『ごめんなさい』って言うの。
あたしね、ここに来ると、自分がとっても大切にされているんだなって分かる。
それがね、すごーくうれしくて、心地よくて、離れられなくなっちゃったんだぁ。
今やっとわかったよ。
あたし、子どものころから『はいはい』って受け入れてもらったことなかったんだなぁって。
だから、すっごく求めてたんだなぁ。
無条件に受け入れてもらえて、ああ大事にされてるなって感じることを。」

そうして、ぐずりとテーブルに突っ伏していた背中を起こし、両手で長い髪を整え、乱れた服を引っ張ってから言った。
「よし!あたし、お昼の仕事、やってみようっと。
あたし、ひとりじゃないもん。
応援してくれる人も、あんなとんでもない子ども時代を乗り越えた力もあるんだもん!
ね、穂高くん。」
「はい!応援します!!」

やばい。
一瞬、息が止まるかと思った。
こんなに美しい人、見たことないや。






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6人のご婦人方の会合はその後、日ごろの話に花を咲かせて散会となった。
例の通りならば、ご婦人方が再びやってくるのはひと月後だろう。
僕とゆかりさんは思いがけない宿題を出され、それぞれに「死ぬまでにしたい10のこと」を考えることになった。
ゆかりさんはお客様を見送ると、複雑な表情で僕を見る。
わかっている。
「死ぬまでに」なんて、死病を患って数年しかたっていない僕には重たい話題と心配しているのだろう。

「大丈夫ですよ。」
「それならいいけど、私がお客様の言葉を断ってはいけないと教えたから我慢しているなら、今回はお断りしてもいいのよ。」
「大丈夫です。それに、あの一番ご高齢に見えた方のお話、僕はなんだか感激しました。」
「お年の割にはほんとうにしっかりとなさっていて、驚いたわね。」
「僕は戦争のことなんか何も知らないし、周りの人から聞く機会もなかったから、すごく勉強になると思いました。語り部ですね。」
「確かにね。」
「面白い話題だと思うんです。僕も考えてみます、どうしてもやりたいことを!」

そんな話をしていた何日か後で、久しぶりにさよりさんがやってきた。
夜の蝶である彼女は、例によっておぼつかない足取りで深夜ふわりと現れた。
相変わらずどこか崩れた印象は否めないが、綺麗な女性だ。

「ママー、コーヒーちょうだい。」
彼女はいつものスツールに陣取るや否や、そう言った。
「はいはい。しばらく見なかったわね。元気にしていたの?」
「元気元気。どっかのボーヤが私の収入源を退治しちゃったから、自分で真面目にコツコツ働いてたのよぉ。」
「そ、その節は大変失礼をいたしました〜。」
僕は半ば冗談と知りつつ、彼女が足を組んで座った脇に立って平身低頭する。
彼女の「いい人」に文句を言い、二人を別れさせてしまった元凶は確かに僕だし。
今日もさよりさんから、甘く切ないような薫りがそっと漂う。
以前よりも香水が薄くなったのはなぜだろうと、僕はふと思った。

「冗談よ、穂高くん。でもね、真面目に働いていたのはホント。」
「それまでだって、さよりちゃんは真面目に働いていたでしょ?」
「うん、まぁね。でも、ボーヤの一件があってから、あたしね、ちょっと考え方が変わったんだぁ。」
ひどく酔って見えるし、話し方は眠そうで酔っぱらいそのものだけれど、彼女の話はいつも乱れない。
どこかスッと筋が通っている。
姿勢は崩れていて、今日も左ひじをテーブルにつけて頬杖をついている。
お店に出ている時には一筋も乱さないのであろう長い黒髪は、頬杖の先の指で時折かき回されるから、次第に寝起きのように乱れていく。
時には長い足を隠すには短すぎるスカートや、眼を引き付けずにはおかないキラキラした襟元、深く切り込んだ胸元は、無防備の域を超えてしまう。
おいおいと思うのだが、それはきっと、彼女が心底くつろいでいる証拠なのだろう。
そう思うと、湯上りに裸のまま家の中を歩き回る姉さんを見慣れていて本当によかったと思えてくる。
そうでなかったら、僕はこの場に平然と立っていられなかっただろう。

ゆかりさんは、さよりさんの考えがどう変わったのかなんて問いかけて、答えを急かしたりしない。
あの、たまらなく美味いコーヒーを差し出すと、黙って静かに微笑んでいる。
今日もほかに客はないから、僕もゆかりさんも彼女にかかりきりだ。
ゆかりさんの目くばせに従って、僕はさよりさんの隣のスツールに腰かけた。
ママはそっと僕の前にもコーヒーを置いてくれた。

「あたしね、正直言うと、お客様のことをどこかバカにしてたんだよね。
こんなとこに来て、女の子にいやらしいこと言ったり王様みたいに振舞ったりしてバカじゃないの?って。
見栄はって高いボトル入れてさぁ、外で買ったら半値だよって分かってるんでしょ。
そんなバカが自分からやってくるんだから、いいようにお金巻き上げたって構わないって感じ?
獲物よ、つまり。」
なんだか、情景が見えるようだ。

「でもね、こないだボーヤに真剣に心配されちゃったじゃない?
あれから、ふと違う考え方もできるかなって思うようになった。
お客様は世の中にゴマンとあるお店の中からわざわざこの店を選んで、貴重な時間とお金を使ってくれているんだなぁ、ありがたいなぁって。」
「そう、そうよね!」
ゆかりさんが嬉しそうに合いの手を入れる。
「そうしたら、せっかくあたしを選んで来てくれたんだから、楽しんでほしいなぁとか、気持ちよくお帰りいただきたいなぁとか思うようになったんだよね。
前は、他の子の客でもいいからどこで食い込んで、アフターにつなげて、気に入られて貢いでもらうには…自分の収入源にするにはどうしたらいいかで血眼になってたんだけど、そういうの、まぁいいかと思えてきたんだぁ。
そしたらね、突然変わったの。」
「変わった?」
「そう。変わった。どういうわけだか指名が増えたの。
でね、指名してくださるお客様のお話にもっと乗れるように、いろいろ調べてみたりし始めたら、明るい時間の過ごし方が変わっちゃった。
無暗にアフター行くより、早く帰ってちゃんと寝て、明日は図書館行ってみようなんて思うようになっちゃったんだもの。」
「あらあら、さよりちゃんが図書館?」
「ちょっとママ、失礼じゃない?ふふふ。
それでね、アフターもたまにしか行かなくなっちゃったの。
そうしたらビックリ。
肌がね、荒れなくなった!」
「深酒の寝不足に厚化粧だから、荒れても当然ですよ。」
僕が余計なことを言うから、さよりさんに耳を引っ張られる。
「いててて!」

「でも、穂高くんの言う通り。化粧のノリがよくなったら、お客様にも喜ばれちゃう。
たまにアフターに行くと、珍しいからと喜ばれて、おねだりしないでもお小遣いいただいちゃったり。
そしたら、なんだか前は嫌々働いていたなぁって気がして。
ってことは、今は、ちょっと楽しく働いてるって感じ?」
「そうだったのね。だからここへも現れなかったのね。納得したわ。」
ゆかりさんが心底嬉しそうだ。
しっとりとした声がツヤを帯びている。

「で、今日は早寝しなくていいの?」
「うん…ちょっと、相談…っていうか、聞いてほしいことがあって。」
「私に?」
「そう。あ、笑ってくれていいから。」
「それはお話を聞いてからね。」
「うーん、あのね…」
言いかけて、さよりさんは息を詰めた。
両手でバサバサと髪を掻き乱すと、そのままテーブルにつっぷして、右の人差し指でまだ手をつけていないコーヒーカップの縁をそっと撫でると、つややかな唇の端に笑みを浮かべて言った。
「やっぱり、いいや。」
「それ、さよりちゃんの悪い癖。」
「え?」
「ここではね、さよりちゃんは何を言ってもいいのよ。
いつもそう言っているでしょう?
さよりちゃんが話したいと思ったことで、言わなくていいことなんて何もないのよ。」
「ああ、そうだった。また忘れちゃった。だから来たのにね。」

きっと、この二人の間では、こんなやり取りが何度となく繰り返されてきたのだろう。
さよりさんは自分のことをあまり大事にしない。
いろんな意味で。

「あのね、ママ。あたしね、仕事辞めようかなって思って。」
「仕事を?」
「うん。」
「やっと楽しくなったのに?」
「そうなの。」
「ほかにしたいことでも?」
「うふふ。やっぱりママは鋭いなぁ。
そうなの。
でも、無理かなとも思うんだ。」
「でも、やってみたいんでしょ?」
「うん。」

僕は、どんな仕事をしたいんですかと尋ねたくてうずうずする。
でも、ゆかりさんは相変わらず先を急がせず、さよりさんが自分から話し出すのを待っている。
こんな僕にでも分かってきた。
人は、胸の底にある、肝になる言葉を口にするためには、掘り起こし、ゆっくりと持ち上げて外に出す準備をする時間が必要なのだ。
本気で語ろうとすることほど、そういう時間がかかる。
ぺらぺらと語られる言葉が軽く聞こえるのは、元々浅いところにあった、浅い思いだからかもしれない。
それが分かっているから、ゆかりさんはああやって、静かに待てるのだ。

「あたしね、普通のOLさんになりたい。
もしかしたら、あたしにもできるかなって。
やってみたいなーって。
どうかな?
やっぱりあたしじゃムリかなぁ。」

「できるわ!」
「できます!」
ゆかりさんと僕の言葉がシンクロして、さよりさんを笑わせた。






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