Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年10月


「やあ、すまないね。 」
ランチプレートが半分以上、僕の空きっ腹に収まった頃、オーナーがカウンターの中に戻ってきた。
「これ、うまいっすね。」
「だろ?大して変わったものでもないしボリュームで訴えるようなこともしないと決めたんだけどね、素材にはこだわっているんだ。その、ディップにしたきのこたちは長野から取り寄せた。」
「いや、いいですよ、これ。」
「そうか、嬉しいな。」
と、素直に喜ぶ顔がどこかいたずらっ子のようで、こういうところが姉さんも好きだったのだろうなと思ってしまう。

「食後のコーヒーはどうする?」
飲むか飲まぬかと聞かれたのではない。
「酸味が勝った豆で、アイスがいいです。」
「酸味か。では…定番のキリマンジャロを水出しで用意してあるから、それにしよう。実験台だから、割引価格だよ。」

首をかしげて待っていると、間もなく背の高いグラスが出てきた。
窓越しの日差しを浴びて、氷を沈めた琥珀色の濃淡が光る。
「水出しコーヒーは時間がかかるから、前日から用意するんだ。おまけにね、これは、ひとつ手を加えてみたんだ。わかるかい?」
「え?」
見ただけではなんのことかわからない。
ミルクもガムシロップも足さずに味わってみる。
口の中に爽やかな酸味と香味が広がる。

「よく冷えていて美味いです。こういうのが飲みたかった!って感じ。」
「でしょ?で、気付いた?」
「さあ??」

僕が答えに気付いたのは、幾口か飲んだ後だ。
「あ、わかった!氷ですね!」
「そう。普通の氷では後になるほどコーヒーが薄まってしまうから、氷も同じ水出しコーヒーで作ってみたんだ。」
「そういうことですか。手が込んでますねぇ!」
「でも、凍らせたコーヒーの味がどうなるのか、それを飲んだ人がどう感じるのか、まだお試し中というわけ。」
「いや、美味いですよ。確かに、これなら、話に夢中でちょっと氷が融けてしまっても、水みたいなコーヒーにならないですね。」
「ミルクやガムシロが変に主張することもあるまい?」
「確かに。でも、アイスコーヒーって、早く飲まないとそうなるって先入観があるから、平気だよって言われてもなんだか急いじゃうな。」
「ははぁ。なるほど。」
笑ってくれるかと思ったのに、オーナーはものすごく真剣な顔で聞いて考え込んでいる。
職人肌なのだなと、改めて思う。

オーナーは貴船という。
日本人なら知らぬものはいないと言ってもいい、和菓子の貴船屋の三男坊だと知ったのは姉さんが話してくれたからだ。
なるほど、それなら、東京のど真ん中に手の込んだ大きな店を構えても金に困ることはあるまい。
貴船屋の本店は京都なのだそうだ。
こっちにいると貴船屋のイメージは「盆暮れ正月の気が張った贈り物」なのだが、京都ではあっちこっちの茶室に和菓子を届けるのが本業なのだという。

そういう菓子なら、僕もデパ地下か何かで見たことがある。
何がどうなってできているのか知らないが、椿やら梅やら、里芋やらが練り切りという菓子になっていた。
いかにも甘そうで、うまそうで美しかったが、小さいくせに高かった。

貴船屋ではまだ父上が健在で、会社を切り回しているそうだが、経営を学んだ長男と菓子作りを継いだ次男がいて、三男のオーナーは好きに生きていいと言われたという。
羨ましいような、酷なような、複雑な話だ。
家業を3つに分ける方法はなかったのだろうかなどと、無関係な僕は無責任に感じたものだが、そんな簡単な話ではないのだろう。

結局オーナーは東京で店を開いた。
それも、和菓子とは関係のない店を。
その胸の内は僕には計り知れない。
でも、「貴船の坊(ぼん)」のお遊びと言われないように気張ってきたのだろうとは思う。
ただ、オーナーはいつも真剣で人懐こい笑顔で、気安くて一本気で、およそ「気張る」という言葉とは無縁だ。

「葉月ちゃんから連絡は?」
「コーヒーを送ってくれました。元気そうですよ。」
「そう。それならよかった。で、君は?」
「この前、季節外れのインフルエンザにかかって、ビックリしましたけど、基本は元気にやってます。」
「熱が出たり?」
「けっこうな高熱で、タクシーでそこへ運ばれてしまいました。」
僕は病院の方を指さしながら言った。
「大変だったね。でも、インフルエンザでよかった。」
「ええ、本当に。」
オーナーは僕の病気のことをよく知っている。
グァテマラに旅立つ前の姉さんに、この子をよろしくと頼まれてもいる。
オーナーは律儀にその言葉を守ってくれるが、必要以上に連絡をしてきたり、様子を聞きたがることはない。
だから僕は、彼を頼りにできるのかもしれない。

出会ったときは印象の悪かったこの男を頼りに思うまでになったのには訳がある。
姉さんが、この男に惚れたのだ。
あの時は、姉さんを盗られてしまいそうで、多分相手がオーナーでなくても気に入らなかったと思う。
でも、今になってみると、あの頃の姉さんの気持ちが、少しだけ分かるような気もするのだ。

母親を亡くし、間もなく弟も病に倒れ、慣れ親しんだ仕事を惜しげもなく辞めて上京してくれた姉さん。
初めての土地で、それもこの大都会で、口には出さなかったけれど、どれほど心細かったことか。
そんな時、母さんが生前飲みたかったと言い残したコーヒーが縁で出会った仕事場のオーナーは、顔も人当たりも抜群にいい。
地元の人に愛される繁盛店を作った張本人。
きっと、たまらなく魅力的に見えたことだろう、必要以上に。

心の中の言葉を、それほどためらいなく口に出すのが姉さんだ。
丁度僕が退院したころ、姉さんは心に育った思いをオーナーに告げたらしい。
すると、オーナーはこう言った。
「ごめんね、葉月ちゃん。君の気持ちには応えられない。知らなかったかもしれないが、僕には妻がいる。」

旅立つ前の姉さんからこの話を聞いた時、僕の心からオーナーを悪く思う気持ちが消えたのだ。
オーナーが、妻に知られなければ自分に思いを寄せてくる若い美人とどうにかなってもいいと考えるようないい加減な男でなかったことに感謝するべきだろう。
いや、こういう答えを出す男だから、姉さんは好きになったのだと思いたい。
姉さんの東京での初めての恋は、瞬殺で撃沈したのだが…。

そんなことがあっても、バイトを辞めたり、辞めさせたりしないところが、この二人らしい。
とはいえ、オーナーはともかく、姉さんはそれなりに落ち込んでいたのだと思う。
そんなこととはつゆ知らず、僕は空元気で働いている姉さんの店で、恋待先生と僕の病気の話をしてしまった。
姉さんにとってそれが、泣きっ面に蜂どころでは済まないなんて、気付きもしないで。





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ちょっと話もしたいし、と言って僕をカウンターに座らせたオーナーだったが、僕にランチプレートを届けた後で呼ばれていった席の女性客と話が弾んでいて、なかなか戻ってこない。
かまわず舌鼓を打つ。
美味い。
家でもできそうなガーリックトーストだと、見たときには思った。
だが、フランスパンの焼き加減とみじん切りにされたキノコたちの風味が絶妙にマッチしている。
外は初夏だけれど、口の中には一足先に秋がやってきたような気分だ。

秋と言えば、思い出す。
抗がん剤治療で髪がなくなった僕の秋は、頭が寒いと感じるところから始まった。
大学1年の入学式を母の葬儀で欠席し、遅れて通い始めたとたんに病気になった。
けれども、大学というのは面白いところで、僕が休んだのは実質1か月にもならなかった。
始めのうちは授業が決まるまでのガイダンスとかで、必修以外は授業がなかったし、長い夏休みが闘病期間になったおかげで、9月から大学が再開する頃には、僕はまたキャンパスに足を運べるくらいには元気を取り戻していた。

ニットキャップが流行した年で助かった。
わりと短い残暑が過ぎると、キャンパスにはキャップ姿が溢れたから、僕だけ目立つことがなかった。
仮にキャップが流行っていなかったとしたら、僕はそのままの頭でキャンパスを歩いたのだろうか。
あるいは、ちょっと気恥ずかしくて、困ったりしたのだろうか。
今となっては、どっちでもよかった気がする。

僕が選択した授業の教授や、助教授や、講師の先生たちをひとりひとり訪ねて、最初の試験にどう向かったものかを尋ねたらいいと知恵を授けてくれたのは、ルナソルのオーナーだった。
「人って、自分を頼りに来てくれた人を無下にはできないものだよ。
まして君の場合、自分の不心得の帳尻合わせを頼むいい加減な学生とはわけが違うからね。」

学生生活課へ、長欠の説明をしに行くようにと教えてくれたのもオーナーだ。
実はそれが大正解で、親切な担当さんは即座にあちらこちらへ連絡し、僕が病気で休んだことが不利益にならないよう取り計らってくれた。
だから、先生巡りをしなくても、僕はそれほど困らなかったのかもしれない。
それでも、僕は先生たちに会って話してみたかった。
本当だったら授業で聞けるはずだった何者かを逃したことには違いない。
それが惜しくもあり、興味深くもあった。
それに、研究室というものに、何より興味が尽きなかった。

日本文学科でも外国語は必修で、担当の先生は通いの講師だったので部屋を持っていなかったから、授業の後で質問をしたがる女子学生が途切れるのを待って話しかけた。
「ああ、聞いてる。君か。大変だったね。」
気さくに返事をした、まだ若い講師は、テストは持ち込み可だから、力試しのつもりで受けてみたらいい、結果を見てからどうするか考えましょうと言ってくれた。

こちらも必修の生理学の教授は、僕にわざわざ椅子を勧めてくれ、そうか、君かと言いながら、インスタントコーヒーの瓶をとって、僕のためにカップを運んでくれたので、なんだかひどく恐縮した。
「筆記テストは厳しいでしょうね。ほかの学生のノートを写して丸暗記しても、なんの学問にもならないし。」
教授がいう「学問」の響きに、僕はしびれた。
「レポートをお願いするとしましょう。」
「わかりました。やってみます。で、何について書けばいいですか?」
「君が受けた治療について。」
「治療ですか?」
「どんな治療法があり、体にどんな影響があるか。どういうメカニズムで治るのかとかね。自分の体で体験したことをまとめればよろしい。」
「そんなでいいんですか?」
「それが一番でしょう。だってあなたは、そこから学んだことを一生忘れないでしょうから。」

古典文学の教授の部屋はすごかった。
壁という壁すべてが書架になっていて、本がぎっしりと詰まっている。
全集がいくつも、それから、ハードカバーでレア感満載の専門書たち。
教授の机の上には原稿用紙が広がっていて、万年筆が置いてあった。
何か、執筆中のようだ。
手書きなのか!
いかにも古典の教授らしい気がして、胸が高鳴った。

「何もしなくていいですよ。」
「は?」
「事情は分かりましたから、今回の試験は受けても受けなくてもよろしい。」
「では、レポートを。」
「いりません。授業を聞いてもいない学生のレポートを読む時間はないのでね。」
「え?でも…。」
「出世払いってことで。」
「は?」
どうも、この教授とはリズムが合わない。
「今回は免除しますから、次回はあなた本来の力より若干高い点をお取りなさい。」
「はぁ。」
「で、それを卒業まで続けたらよろしい。そうしたら、総合評価で卒業ということで。」
やっと分かった。
「いいんですか?」
「いいですよ。それより体を労わって、元気におなりなさい。そうして、本をたくさん読むこと。」
「はい!」
ありがとうございます。
僕は心からそう思って、頭を下げた。
この教授が、のちに僕のゼミの教授になる。

生理学のレポートを書こうとして、案外曖昧な理解しかしていなかったことに気付き、忙しい恋待先生を無理矢理昼休みに呼び出して教えてもらったのもルナソルだった。
「いい大学に入ったね。」
僕のレポートの話を聞くと、恋待先生は自分のことのように心底喜んでくれた。
「それに、この店のことは病院でも話題になっていてね。来たのは初めてだけど、なるほど美味い。これは忘れられないね。」

窓際の明るい席で、僕は恋待先生から改めて僕の病気と治療法について教えてもらった。
その時の会話を聞くともなしに聞いていた姉さんをひどく傷つけたと知ったのは、しばらく後になってのことだった。





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「私の言葉には、棘がある。
その棘には毒がついてる。
そんなつもりは全然ないのに、私がふっともらした言葉が、誰かの胸に刺さって、傷つけてしまう。
毒にしびれた相手が言葉を途切れさせるから、あ、またやってしまったって分かるの。
私、誰も傷つけたくなんかないのに。」

プレートランチができるまで、ちょっと立て込んでいるからこれを飲んで待っていてと、オーナーが淹れてくれたコーヒーをブラックのまま楽しんでいると、カウンターに腰かけた僕の背後から、そんな声が聞こえた。
どうにも気になって、肩越しに小さく振り向く。
真後ろのテーブル席に向かい合わせに、女性がふたり座っていた。
声の主は、普段着としか表現のしようがない、質素な様子をしている。
化粧っ気もなく、よれてはいないけれど洗いざらしのグレーのTシャツにボーイフレンドデニム、使い込んだサンダル。
向かいの女性はこじゃれたワンピースにパンプスを履いている。
元から色白なのだろうが、綺麗に描かれた眉と、ライナーで縁取った時だけにできる見事なリップの仕上がり。
コーヒーを口に運んでも崩れていない様子から、念入りなメイクだとわかる。

足元のカゴに置かれた二人のバッグも見える。
Tシャツの人のは、何かの景品についていたようなエコバッグ。
ワンピースのほうのは、カゴによく似た作りでできた、でも幼くは見えない夏用のハンドバッグ。
そうだ、思い出した。
このワンピースの生地はリバティプリントというのだ。
この前、ゆかりさんに教わった。
小花柄の高価な生地。

反対側の肩越しにもう一度覗き見る。
Tシャツの方は60歳近く、ワンピースは40代前半というところか。
年の離れた友達らしい。


「認知症の方の居住棟に移ってから、私、考えてしまうのよ。
ご利用者様には、大きくわけて二通りいらっしゃるの。
片方は、お地蔵さまみたいに穏やかになって、いっそ無気力なくらい状況に適応しているというか、落ち着いているというか。
そういう方たちは徘徊しようと何か失敗しようと、何かしら思いやりが潜んでいるのね。
さっき食べたばかりなのに、ごはんはまだかい?っていうのも、しつこいけど悪意を感じないというか。 
徘徊の理由をよくよく聞いてみると、子どもを迎えに行こうと思ったとか、お部屋のものを片っ端から壊すから何かと思ったら、ヨメに修理を頼まれたんだとかおっしゃる。
いえ、それ修理じゃなくて壊れてますよぉっていうのは通じないんだけどね。
そんなふうに言われると、こっちも笑顔になれるし、じゃ一緒にお迎えに行きましょうかって言うと、嬉しそうにされたりするわけ。
本当はその方にお子さんなんかないときもあるのよ。
奥様はとっくに亡くなっているとかね。
でも、いいの。
そんなのは平気。
私、プロだもの。」

どうやらTシャツのほうは、どこかの介護施設で働いているようだ。
僕はそれがどういう場所で、どんな仕事なのか想像もつかない。
でも、自分が誰で、相手が誰かもわからないようになった高齢者の相手をするだけでも大変なことだろうということくらいは分かる気がする。
さらに、おむつを取り替えたり、お風呂に入れたり、歩き回るのを追いかけたり…
浅い知識で考えるしかないが、「大変」の一言に尽きる。
自分にかまっていられない様子なのもわかる気がする。
僕はまた完全に背を向けて、彼女の声に耳を傾けた。

「でもね、そういう方はほんの一握りなの。
大概の方は、怒りとか不安とか、不信感とかでいっぱいなの。
大事な息子を奪った憎い嫁と間違われて、バカとか死ねとか言われるのは日常茶飯事。
夫の浮気相手の女と思って、枕だの湯呑だのを投げつけてくる人も珍しくない。
男性職員なら、浮気した夫と間違われて、あなたはひどいと泣いて殴られるなんてしょっちゅうなの。

私が一番恐ろしいと思ったのはね、私を娘と間違えているご利用者様なの。
普段から口が悪いと言うか、文句ばかりなのね。
誰に対してもきついことを言うの。
みんな担当を嫌がって、自然と年かさの私に回ってくる回数が増えて。
ホームに来るまで一緒に暮らしていたのは娘さんだったけど、私たちより年上だと思う。
送ってきてから、一度も訪ねてこないのよ。
でもね、それももっともなの。
その方ね、私をその娘さんと思って、毎日毎日、顔を見るたびに言うの。
『なんてグスなんだろう。それに器量が悪くて見ているだけで腹が立つ。お前はあのひどい父親に似て、気は利かないし、反省もしない。お前なんか産まなきゃよかった。なんでお前なんか産んでしまったんだろう。あの時堕しておけばよかった。お前の顔なんか見たくもない』って。」

Tシャツさんは、淡々と話す。
僕はその言葉に息が止まった。
そんなひどい言葉がこの世にあるのだろうか。
人違いと分かっていても、毎日毎日そんな言葉を言われたらたまらない。

「きっと、娘さんにも言っていたのね。
その父親っていうのに裏切られたのでしょう。
その方も、親御さんの愛情に恵まれなかったのかもしれない。
きっとつらい思いをしたのだとは思うのよ。
でもね、気の毒だとは思うけど、共感はできないの。

その悪態を聞いていると、いつからなのかなって、いつも思うの。
認知症が始まってからなら、まだいいなって。
だって、病気が言わせているんだって思えるでしょう?
でも、多分、きっとそうじゃない。
あの方は、娘さんが小さい時からずっとずっと、そう言い続けているんだと思う。
ひどいわよね。
最低最悪の呪いの言葉よ。
これ以上汚い呪いは存在しないくらい、ひどい言葉。」

生まれてきてくれてありがとう。
私の子どもになってくれて、ありがとう。
僕と姉さんの母さんは今はもう亡くなってしまったけれど、僕たちにそう書き残してくれた。
書き残さなくても、僕たちは母さんが本気でそう思っていることを肌身で知っていた。
疑ったこともないし、これからも疑うことはないだろう。
その当たり前の温度を知らない人がいる。
愛を囁いてほしいと願う口から、呪いの言葉がほとばしるのを止めようもなかった子供がいる。
これは、そういう話だ。

「私ね、時々恐ろしくなるの。
この人たちはどうして、こんなふうになっちゃったのかなって。
どこで道が分かれて、お地蔵さんみたいな人と、鬼みたいな人に分かれちゃうのかな。
私はどうなるのかなって。

そうするとね、私、本当に怖くなる。
だって、私の心の中、すごく冷酷なんだもの。
普通に話しているつもりの言葉に毒入りの棘が出てるくらい、冷酷なんだもの。
今はそれでもコントロールできるからまだいいの。
いつか、そのコントロールができなくなったら、私もあんなふうに呪いを吐きまくるのかと思うと、もう死んでしまいたくなるの。

それだけじゃないわ。
最近、その方のお世話をしているときに、『この口を封じてしまいたい』っていう衝動に駆られるの。
いっそ首を絞めてしまおうか、風呂の中に押し込んでしまおうかって思っている自分がいるの。
どうしようもなくイライラして、でも、我慢してる。
このままじゃ、私、いつか殺人犯になってしまうかもしれない。」

「いいえ、大丈夫。」

向かいで黙って話を聞いていた小花柄が、このとき初めて声を出した。
柔らかいのにきっぱりとした声だった。

「大丈夫。あなたは決してそんなことしないわ。」
「どうして分かるの?」
「あなたの言葉に棘があるとしたら、それはむかしむかし、あなたの柔らかくてあったかい心に棘を差し込んだ大人がいたからでしょう?
丁度その口汚い方と同じやり方で。」
「え。」

「忘れたの?話してくれたじゃない。
あなたのご両親のこと。
二人であなたを馬鹿にし続けたこと。
あなたの楽しみの何もかもを否定して、あなたの行動の何もかもに口を出して、あなたの10の成功を褒めることも喜ぶこともなく、たった一つの失敗を責めるだけだったこと。
あなたを捨て子だったと言い続けて傷つけたことも。
子どもの命など親のモノだといって、機嫌が悪いとすぐに殴る蹴るの暴力を受け続けたことも。
そうやって、毎日一本また一本と刺された棘が抜けずに残っているのよ。
あんまりたくさん刺さって、ヤマアラシみたいになっちゃっているから、時々抜けて、言葉と一緒に外に出てしまうのかもね。」
「ヤマアラシ!」
Tシャツさんはフフフと笑った。

「私、思うのだけど、怒りって、ちゃんと正しい怒りの対象に向けて返さなくてはならないのではないかしら。」
「正しい怒りの対象?」
「その口汚い方ね、本当は娘さんに向かって怒っているのではなくて、自分を裏切った夫とか、その方ご自身の親御さんとか、そういう人に対して怒りを感じていたのではないかしら。
でも、きっと、その怒りをちゃんと相手に伝える勇気がなくて、抑え込んでいい人を演じたりしてしまったんじゃないかしら。」
「なるほど。そうね、そうかもしれない。」

僕は小花柄の言うことに、心の耳をダンボのように広げて聞き入った。
「だから、心の中に棘が残っちゃうのよ。
後になって、関係ない人に投げ返されても迷惑なだけだし、拒絶されて当然よね。
というか、自分を大事にするには、そういう精神的テロリストは拒絶すべきよね。
親子だろうと、上司と部下だろうが、教師と生徒だろうが関係ない。
どちらも人間としては対等だもの。
棘を刺されたら、ちゃんと抜いて、投げ返さなくては。
それが『自分を大切にする』ってことじゃないかしらって、思うの。」

Tシャツさんの声が途切れた。
何かを考えているのかもしれない。
僕のカップは空になってしまった。
白いカップの内側に微かなコーヒー豆のかすが円を描いている。

「そうか、そういうことね。」
Tシャツさんの声がした。

「私の棘は私の両親が刺したもの。
それから、50年近くも両親のことを思い出すたびに、自分自身で刺さった棘をねじ込んで、余計に深手になったんだと思う。
今でも、血が流れるほどに痛い時があるもの。
今、あのご利用者様に対して感じる怒りは、あの方にではなくて、両親に向けて返すべき怒りなのだわ。」
「そうかもしれないわね。
それを知っているあなたは、決して道を誤るなんてないわ。
だって、あなたは…。」
「プロですもの。」
「そうよ。それに、あなたの心は冷酷なんかじゃないわ。
もしも冷たいとしたら、棘の毒が回って冷え切っているだけ。
本当のあなたの心はきれいな虹色で、ほっこり温かいの。
私、ちゃんと知ってる。」

僕はすっかり感動して、後ろの二人に拍手喝采したい気持ちに駆られた。

「あのご利用者様の娘さん、もう二度と来られないといいなって思ってたの。
今日もいらっしゃいませんようにって、毎日祈っていたくらい。
だってあんな醜い言葉、二度とお聞かせしたくないもの。
でも、完全に断ち切って、ホームを姥捨て山と思って捨てていらしたならいいのだけど、そういう自分を責めていたり、抜けない棘が刺さったままら、ぜひもう一度いらして、怒りを全部ぶつけていってほしいわ。
そんな日がきたら、私、娘さんの応援しちゃうわ。」
なるほど、プロはそういう考え方をするんだな、でも、あなた自身のことも大事にしてよねと、僕はTシャツさんにそっと言いたくなった。

「それにしても、私、いつあなたに両親の話なんかしたかしら。
嫌な話だから言わないようにしていたつもりだったんだけどな。」
「やだわ。私がお嫁に行く前に二人で伊豆の温泉に泊まりにいったの、覚えている?」
「もちろん。あの時?」
「そうよ。あなた、もうめちゃくちゃ酔っぱらって、一晩寝ないでしゃべったじゃない。」
「え?あの時酔っぱらっていたのはあなたじゃなかった?」
「うそぉ。」
「あなたもご両親こと、ずいぶんいろいろ言ってたわよ。」
「あら、やだわ。知らなかった。」
「もう、私たち、若いころからボケてたってことかしら〜!」
「そういえば、今度の誕生日でお互い50歳よね。
もう44年も友達ってことよ。
記念にどう?また旅行に行かない?」
「うふふ。いいけど、シフト、きついからなぁ。
50歳記念より、友達歴50周年記念にしない?」
「その時私たちは…56歳?うわ、信じられな〜い!!」

僕はびっくりして、用もないのに持っていたカップをガチャンとソーサーに落としてしまった。
両手で押さえて慌てて振り返ると、20歳違いに見える同い年の女性がそろって僕を見ていた。
「す、すいません。」

二人はそれぞれに微笑むと、視線を戻して世間話を始めた。

僕にもいつか、こんな風に信頼し合って、心の内をさらして話し合える友達ができるのだろうか。
もう一度、肩越しに振り返って二人を覗き見た。
眼の錯覚だろうか、そこには、女子高生みたいにキラキラした女性たちが楽しげに語り合っていた。






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姉さんに連れられて、初めてルナソルを訪れた日は、長い入院を終えた日とあって、長居はできなかった。
姉さんも、バイトスタイルを僕に見せようと着替えてくれたものの、その日はバイトを入れていなくて、僕が黄緑色のカップで美味すぎるコーヒーを飲んでいる間に再び普段着に戻って、家に帰ったのだ。

あれから、いろいろなことがあって、ルナソルには何度も足を運んでいる。
でも、小紫で働き始めてからは一度も行っていなかった。
不意に行きたいところ、遠くなくて、ひとりでいても快適な居場所。
数か月思い出さなかったのが不思議だった。

半月前にインフルエンザにかかったとき、病院へはタクシーで往復したので、電車でやってきて、病院と反対側に歩くのは、社会人になって初めてのことになる。
なんだか、ヘンな気分だ。
まっすぐに差し込んでくる太陽は、歩き出した僕をたちまち汗まみれにする。
わずか10分の道のりなのに、この徒歩の時間が、あの店のコーヒーの味を上げているんじゃないだろうかと思う。

今日はやたらと昔のことを思い出しながらやってきた。
初めて来たあの日から、もう6年ほどになるのか。
僕は今日も生きていて、こうしてこのドアを開ける。
汗ばんだ手で茶色のドアを押すと、カラリンとカウベルが鳴り、エアコンが効いた冷たい空気が僕を包んだ。

「やあ、いらっしゃい。ずいぶん久しぶりだね。」
オーナーは、いつもの気安さで僕を迎えた。
もうすぐ40歳になるくらいだろうに、相変わらずのいい男っぷりだ。
よくもまぁ、どこかの事務所から引き抜きに来なかったものだと思う。
若いだけの(おや、失礼)頃よりも、年齢を重ねた厚みが、彼の存在感を一層増しているように見える。
「一応、社会人になったもんで、ちょっと忙しくて。」
「そうか。おめでとう。」

この店は、いつ来ても空気がきれいな気がする。
「きょうはカウンターでいいかい?少し話もしたいし、顔も見ていたいし。」
「見せるような顔じゃないっすよ。」
憎まれ口をききながらも、僕は促されるままにカウンター席に腰かけた。

「今日も繁盛ですね。」
店内は、平日の昼下がりのわりには、やはりよく客が入っている。
「今はコーヒーブームだからね。」
「今は?この店は6年前からブームだったと思いますけど。」
「実は最近、ランチを始めてねぇ。それがよかったらしい。」
「うわ。それは都合がいいな。僕、昼飯まだなんですよ。」
「よし。じゃ、味わってみてくれないか。」
「お願いします。」
「ただし、ワンプレートランチ1品だけだから、何も選べない。」
「いまどき、かえって新鮮ですね。シェフのおすすめランチって感じで。」
「そのかわり、野菜はすべて有機野菜。米や小麦粉にもこだわっている。」
「へぇ。オーナーらしいや。」

ふんと小鼻を膨らませて喜ぶと、オーナーは引っ込んでいった。
姉さんがバイトを辞めてから、この店は男性店員を雇った。
見ると、見覚えのある彼のほかに、もうひとり、オーナーよりも少し年上に見える男性が動き回っている。
どちらもイケメンぞろいだ。
「まったく、ホストカフェかよ。」
独り言で突っ込むには丁度いい具合だ。

汗ばんだ手をきれいに洗いたくて、手洗いに立つ。
ドアの周りにひとつのモノも置いていない、スッキリした様子。
ドアを開けると、汚れはもちろん、乱れたところがひとつもない。
わざとらしく置かれた掃除点検表もない。
不快な臭いも、芳香剤もない。
シンクも便器も、真っ白に光らんばかりだ。
トイレットペーパーホルダーが、以前から面白い形をしている。
床から棒が生えていて、90度に曲がった先端にペーパーがかけてある。
その先端が彫刻になっている。
ペーパーから両手をそろえて今にも飛び込もうとしている、長いウェーブの髪の、半裸の女性の肩から先。
僕は初めてこれを見たとき、恥ずかしながら小さな期待を込めてペーパーをはずし、全身を確認した。
すると、なんと、人魚だったのだ!!!!
あの時の人知れない気恥ずかしさは昨日のことのようだ。
後で聞いたところによると、オーナーがコーヒーの買い付けに出かけたどこかの国で見つけた杖なのだそうだ。
これはいつか、何かに使えるとひらめき、迷わず買ったのだと言う。

手を洗ったあと、水滴をぬぐったペーパータオルでシンクの周りにとんだ水滴を当たり前のようにぬぐいながら、前回ここで手を洗ったときの自分は、こんなことが習慣になっているとは思いもしなかったと気付いた。

席にもどって、改めて店内を見回す。
喫茶店というと、来た客にうまい飲み物を出すのが仕事だと、以前の僕は思っていた。
もちろん、それに間違いはない。
けれども、同じような仕事を自分もしてみると、それは、仕上げの一点のようなものだった。
その一点を描くまでに、従業員が何に心血を注ぎ、どう準備をしているのかなどまったく知らなかったし、知るもなにも、そんな時間や努力の存在に気付いてすらいなかった。

この、みごとな石のゆか。
これをこの状態で何年も保つことの大変さは、毎日床掃除をしてみてはじめて知ったことだ。
使っていると、毎日同じように掃除していても、なぜかヨゴレというかクスミというか、そういうものがついていく。
それを見越して、ある時はこの方法で、またある時は別の方法で、掃き、洗い、磨いていく。
そういう努力なしに、きれいな床は保てない。

店内の空気にしてもそうだ。
きっとカウンターの下には、大きな空気清浄機が隠されているに違いない。
けれども、お金をかけて機械を置いただけでは、どうしてもこの清浄な空気は保てない。
壁や柱、棚の上、いろいろなところに自然とたまっていく埃を、やっぱり毎日丁寧に取り除いていく。
淹れたてのコーヒーは香ばしいが、淹れた後のコーヒーかすは悪臭の元になりかねない。
だから、それが客の鼻に届く前に、さっと片づけるのが大切なのだ。
それはつまり、コーヒーをそこここにこぼさないことでもある。
こぼれたら拭けばいい、なんて言っていては、いつか澱んでいく。
見た目に美しいだけではない、本物の技量が必要なのだ。

顔見知りの店員が、今、手洗いに入ろうとして、黒くて長いエプロンを外し、白いワイシャツの袖をぐいっとまくったところだ。
こういう心遣いも、この店では当たり前の文化なのだろう。
客に飲み物を供する服装でトイレには入らない。
間違っても袖口が汚れないよう気を遣う。
きっと、手洗いの中で手を洗い、出てきたらまた肘まで洗い直すに違いない。
そんなところは誰も見ていないかもしれない。
でも、絶対にゆるがせにしない配慮。

客は、何も知らないけれど、そういう一切合財を肌で感じて店を選ぶ。
うわべだけ飾っても、味だけ求めても、客はいつか気付いてしまう。
そういう意味では、お客様は本当に神様みたいなものだと、僕は思う。
サービス業ってすごいよな。
ルナソルか。
朝から晩まで一日中頑張っているのは店の人たちなんだよな。
いま、そんな見えなかったものが見えるようになって、なんだか少し大人になれたような気がする。
子どもと社会人の違いとか、学生と働くことの違いは、そんなところに隠されているのかもしれない。

「はい、お待たせしました。今日のランチはガーリックトーストに4種のキノコのディップを添えて、それから、シンプルな鶏肉のソテーとベビーリーフの山盛りサラダで。」
大きなプレートは真っ白で、添えられたフォークが光っている。
あまりにも美味そうで、僕はごくりと音をたてて生唾を飲み込んだ。






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