Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年05月


人は、結局ほかの人にはなれないって?
彼を怒らせてしまった僕は、心底反省していた。
懸命に謝った僕に、彼は話がしたいと言う。
どういうことだ?
ネチネチと嫌味を言う雰囲気ではないのだが、彼の真意が分からない。
彼の言葉の意味も分からず、 かといって問うこともできず、だまって彼の俯いた横顔を見るしかできない。


「俺は、フツーのサラリーマンなんだよな。
会社の商品抱えて、お得意様を回って、頭下げて、給料もらって、仲間と居酒屋に行って騒ぐのがちょっと幸せで、それだけのつまらない男だよ。
それが たまたま連れていかれた店で彼女に会って、一目惚れしちまった。
そもそもそれが間違いだったんだ。
彼女、ほんとは「さより」って名前なんだな。」

自嘲をこめて吐き捨てるように言う言葉を否定するのは簡単なはずだ。
でも、今は黙って聞く時。
なんだか、そんな気がして黙っていた。
彼の心の奥底から湧き出てくる自嘲は、僕をひどく悲しい気持ちにさせた。

「俺にはミオと名乗ってた。
っていうか、店に出るときの名前だな。
まったく、あきれちまう。
俺、これだけ惚れ込んでたのに、彼女の本名すら知らなかったんだ。」

さよりさんを見ていて、何か知らない世界の人のような気がしたのは、彼女が店で男を接待するような仕事をしている女性だったからなのだろうと、僕はようやく思い当たった。
自分が夜の酒の世界で働いていてそんな言い方をするのはおかしなものだが、ここには女性はゆかりさんしかいない。
ゆかりさんは、若さや色気を商売道具にはしていない。
そう言ったら、ゆかりさんは嫌な顔をするのだろうか。

「ミオは魅力的な子だったよ。
明るくて、屈託なくて、ちょっととぼけたところがあって、少しも気取ってない。
女の子がいる店になんかめったに行かない俺が緊張していても、バカにしたりもしなかったな。
一緒に話しているだけで無性に楽しくなって、最高の気分さ。

支払いの金額を聞いても、高いと思わなかった。
また来るよって約束したのを守りたくて、次の週にはまた出かけてたんだ。
ところが、その時の彼女は、元気がない。
この前はあんなに明るかったのにどうしたかと心配になるだろ?
でも、絶対に理由は言わないんだ。
俺は彼女に元気を出してほしくて、あれこれしゃべって。
そのうち、彼女がだんだん笑い出してね、こう言うんだよ。
『今夜のお客様があなたでよかったわ。他の方ならどうなっていたか…』
その時ね、俺は特別な客になれたんだと思ってね。
それからはもう、通いづめに通ったんだよ。

でも、安い店じゃない。
貯金もだんだん減ってくるし、客として通うだけではもう嫌でね。
店にいるときの彼女を観察していると、ド派手なスーツで男が見ても顔のいいヤツが何人も常連客になっているんだよ。
バッグだの指輪だの、プレゼントをしているのも見た。
それで、俺も負けてはいられないと、なけなしの貯金をはたいてホストみたいなスーツ買ってさ、プレゼントも贈ったよ。
彼女、ものすごく喜んでくれるんだ。
その様子を見ていたら、貯金が減ったことなんか気にもならない。
だけど、返されたものもある。
今になって気付いたんだけど、現金で買ったものは受け取ってもらえたけど、ローンを組んで買ったものは受け取ってもらえなかったんだなぁ。
自分の普段着とかほかの飲みに使う金とか、そういうのは節約したけど、結局食うための金に困るようなことにはならなかった。
それって、彼女の気遣いだったんだと、今ならわかるよ。
彼女は、自分のために俺が借金を背負うようなことにはならないように、気遣ってくれていたんだなぁ。」

人のお惚気は聞いてやらねばならない。
特にこの店は、そうしてこの場面では、ただただ聞くしかない。
つまり、さよりさんは、敏腕のホステスなのだ。
たった一言で客を夢中にさせ、常連を潰さないように上手に搾り取り…
でも、そんなことは決して言えない。

「俺は彼女に交際を申し込んだ。
結婚してくれとも言った。
でも、なんだかんだとはぐらかされるばかりでね。
俺だって分かってたよ。
彼女にそんなつもりはないってことくらいさ。
けれど、諦めきれなくて、どうしても、彼女じゃなきゃダメだと…。

半年だ。
半年粘った。
映画だの食事だのに誘えば、店の外でも会ってくれるようになってたんだ。
どんなに暗い顔で現れたときでも、俺と話していると笑顔になってくれた。
あと一押しだと思ったんだ。
だけど、こんな女じゃあなたに悪いの一点張りで、どうにもならない。
いっそ無理矢理…とも思ったけど、スキだらけに見えるのに、つけ入れないんだ。
だから、夕べとうとう、懇願したわけだ。
俺に一生をくれなんて言わない。一晩だけでいいから…ただ一晩でいいから、俺のものになってくれって!」

まさか、そんなことだったとは!!!
夕べ、僕が浮気者の遊び人と見た男は、真面目すぎるほど真面目で、純朴と言っていいほど素直な心を持ったジェントルマンだったのだ。

「ミオには夕べあの後、きっぱりフラれたよ。
あなたにあんなことを言わせたのは私のせい、もう私に関わってはダメってね。
店にも来ないでってキッパリしたもんだった。
俺を傷つけるような言葉はひとつも使わずに、きれいさっぱり切られたよ。
見事なもんだ。

最初からミオにとって俺は、大勢いる客のひとりにすぎなくて、ホステスとして当然の仕事をしていただけなんだよな。
ミオから見たら、カッコつけて粋がった服着たり、無理してプレゼントしたりしている俺なんか、どれほどお笑い草だったことか!
王子様の服を着た召し使いみたいなもんだ。
けど、仕事だから、笑い者になんかせず、付き合ってくれていたんだろ。
それを、勝手な思い込みで守ってやりたいだの、俺だけに特別な好意があるんじゃないかだの、勘違いした俺が悪いんだ。
あんたのことをとやかく言える立場じゃないんだよ。」

深い深いため息をついて話を終えた彼に、ゆかりさんがそっと言った。
「お客様、『トキグスリ』というものがございますよ。」
「トキグスリ?」
彼はそれまでずっとうつむいていた顔を上げて、ゆかりさんを見た。
「時間の時に薬と書いて時薬です。
今はお心が痛むでしょうけれど、時間が薬になってくれます。」
「ああ、なるほど。そうだと、いいんだけどね。」
彼は寂しく笑った。

「ああ、すっかり吐き出したら恥ずかしくなってきたよ。
ママさん、今夜はこんな話をしに来たのではなくて、夕べのお勘定を払いに来たんです。」
「まぁ、なんてこと!」
ゆかりさんは心底驚いたように目を丸くしている。
「今夜の分と合わせて、言ってください。いくらですか?」
「とんでも…いえ、お客様、夕べのご注文がなんだったか、伝票を捨ててしまってもうわかりませんし、今夜の分は、私からのお近づきの印ということで。」
「それでは、あなた方に迷惑をかけてしまう。」
「でしたら、こちらの不躾な男の給料から天引きしておきますから、どうかご心配なく。」
「はい、もう、そうしてください!」

僕のせいで彼の夢は途絶えたのだから、それくらい当然だ。
「でも、その代わり…。」
「その代わり?」
「その代わり、きっとまたいらしてください。」
「ここは彼女の行きつけなんだろ?顔を合わせるのはちょっと…。」
「でしたら!」
僕は、急いで名刺を取り出し、彼に押し付けるように渡した。
「お電話ください。そうしたら、さよりさんが来ていないのを確かめてからお越しいただけますから!」
彼は来るとも来ないとも言わずに、店を出ていった。

カラリンコロン。
カウベルが鳴り終わって気付く。
彼が話している間、とうとう誰も客が来なかった。
「今夜はもう閉めましょうか。」
ゆかりさんに言われて、店の外に出た。
夜気はやっぱりちょっと冷たいが、上気した首筋には心地よかった。
営業中の札を裏返そうとして、すでに「閉店」になっていることに気付き、手が止まった。
「…あっ、元さんたちか!」






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その人が誰なのか、一目では分からなかった。 
昨日とはあまりにも雰囲気が違っていたからだ。
昨夜は派手で上等なスーツを着ていたのだが、目の前の彼は、くたびれた鼠色のビジネススーツで、筋肉質の胸元をこれ見よがしに開けていたのが嘘のように、地味で特徴のないよれた紺色のネクタイを下げている。
履き古した革靴のつま先には無数の傷がついていて、黒い下から革本来の茶色が見て取れるほどだ。
それでも忘れるはずのない顔であったから、僕はすぐに飛んでいき、最敬礼で迎えた。

「夕べは申し訳ありませんでした!」
もしかしたら怒鳴られるか、殴られるか、蹴られるか…
僕は頭を下げたまま身を固めていた。
今、一番会いたくない人だった。

しかし、彼は一言も発することなく僕の脇を通ると、黙ってカウンターのスツールに腰かけた。
僕は頭を上げて、体ごと振り向いた。
僕が初めてこの店に入った時に座らせてもらったあの場所だ。 
ゆかりさんが静かに話しかける。
彼はつぶやくように何か答えたが、また口を噤んでしまった。

僕はどうしたらいいか分からず、その場でまごまごするしかない。
何かあったのだろうと雰囲気を察した常連さんたちが僕を呼ぶ。
僕は溺れる者がワラにすがりつくような心地で、常連さんの席に近づいた。
「はい。」
「何かやらかしたのか?」
「いえ…あの…はい。」
「ありゃ、相当こじれてるね。」
「人目があるから堪えてやったって感じに見えた。」
「あの…やっぱりそうでしょうか…。」
「穂高くんはどこかヌケてるからなぁ。」
「そ、そうでしょうか?」
「ま、客に絞られるのも給料のうちと思って、逃げるんじゃないぞ。」
元さんが社長の威厳をこめて言う。
「そうそう。成功してほめられるだけが成長の糧ではありませんからね。
失敗から学ぶことの方が身につくものです。」
宮田先生は注射をいやがる子供をなだめるような声で諭す。
「明日、慰めに来てやっから。ま、がんばれや。」
八百屋の長さんが腰を上げると、全員が席を立ってしまう。
「ま、待ってくださいよぉ。」
「情けない声だねぇ。」
元さんが笑いながら「じゃ、ママ、今夜はお開きだ。」
と高らかに宣言し、どやどやと帰ってしまったではないか。

カラリンコロン。
ドアが閉まり、カウベルが鳴り終わると、店内に静寂が訪れた。
彼は黙ってグラスを傾けている。
水割り、だろうか。
昨夜のように銘柄を指定したりはしなかったらしい。

今日の様子を見れば、彼は30歳くらいに見え、ということは、僕とそれほど大きく歳は違わないのだろう。
しかし、この風貌の違いはなんだろうか。
ツヤのあるジェルで作ったイカした髪型も今夜は影をひそめて、少しかさついた、無造作で真面目そうな髪がのっそりと頭に乗っているだけだ。

「あの、改めてお詫びします。
夕べは差し出たことをしてしまい、大変失礼をいたしました。
申し訳ありませんでした。
さぞかし怒っておられますよね…。」
僕は彼の斜め後ろに立ち、改めて頭を下げた。
下げた頭の上から、彼の言葉が冷たく重く降ってきた。

「どうして、謝るんですか。」
「どうしてって…。お客様を怒らせてしまいましたし…。」
「客が怒ったら、自分が正しいと思っていても謝るんですか。」

言葉は質問の形をしているが、口調は独り言のように聞こえる。
これに答えてよいものかどうか、掟破りの反省を重ねたばかりの身には図りかね、ゆかりさんを覗き見た。
すると、ゆかりさんは話してあげなさいと目で言っている。
ならば、思うことを正直に伝えてみよう。
願わくば、伝えたいと思うことがそのままの意図で伝わりますように!

「あの時、僕は、お客様がさよりさんを浮気相手にしようとしているのだと決めつけていました。
それも、お話を盗み聞きして、一晩限りの遊び相手にしようと目論んでいるのだと思い込んだんです。
さよりさんは、この店の大切なお客様です。
だから、幸せでいてほしいです。
それが、一夜限りと平然と割り切った遊び相手にされるなんて、とんでもないと思ったんです。」

自分の声が、最後のほうは消え入るようになっていることを自覚できた。
でも、彼は返事ひとつせず、黙っている。
僕は勇気を奮って先を続けることにした。

「でも、それは僕の間違いでした。
よく考えれば、お客様が浮気なのか本気なのかを僕は知りません。
さよりさんがあなたをどう思っているかも知りません。
そもそも、お二人がどういうご関係なのかも、全く知らないのです。
なのに僕は自分の狭い料簡で、あなたのことを悪い男だと決めつけました。
それだけでも、僕はあなたにお詫びをせねばなりません。」

彼は黙ったまま、手にしたグラスの大きな氷をカランと揺らした。
グラスについた水滴で、指先が濡れているのが見える。

「それだけではありません。
そもそも、お二人の間のことは、お二人の問題で、僕のような部外者が口を出すことではなかったんです。
だって、仮に、あなたが本当に悪い人で、さよりさんを食い物にしようとしていたのだとしても…
いえ、仮に、例えばの話ですよ。
仮にそうだったとしても、さよりさんは一言も、僕に助けを求めたわけではないんです。
それは、自分の力でどうにかできるということですよね?
僕は勝手に助けに入った気になっていたけれど、それって見方を変えたら、さよりさんには自分の身を守る力もない愚かで無力な人だと言っているのと同じだと気付いたんです。
だから、ぼくはさよりさんにもお詫びをしなくてはなりません。
ものすごく、失礼なことをしてしまいました。

それに、幸せの形は人それぞれです。
誰かの一夜の相手になることが幸せだと言うのなら、それに他人がどうこう言えるものではありません。
それを勝手に不幸と決めつけたのは、僕の間違いだったと気付きました。

だいたい、言葉というのは文脈があって、その中で意味を持つものです。
文学をやってきて、そんなことは重々分かっていたはずなのに、あなたの言葉ひとつを切り取って勝手な解釈をしてしまった、それだけで十分失敗です。

とにかく、そういうわけです。
何もかも、ごめんなさい!」

最後は、叱られた子供のような謝り方になってしまった。
頼む、何か言ってくれ!
僕の思いが届いたのかどうか分からないが、少しの間があった後、彼が小さく笑った気がした。
驚いて頭を上げると、彼がこちらを見ていた。

「こっちへ、座りませんか。」
「へ?」
「俺の話も聞いてもらいたいから。」
ゆかりさんを盗み見る。
小さく頷いている。
「で、では…。」
「ママさん、この人にも同じものを。俺にも、もう一杯。」

ゆかりさんがグラスをふたつカウンターに置き、少し立ち位置をずらして暗がりに下がると、彼は俯いたままボソリと言った。
「人は、自分以外の者にはなれないもんだね…。」







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後悔というのは、どうして先に気付くことができないのだろう。
先に気付いてさえいれば、こうして後からくよくよと考え込むこともなく、時間も無駄にならないし、健康にもよいだろうに。
そうはいっても、今回は、実は先に分かっていたのだ。
分かっているから「ルール」として守るよう、あんなに言われていたのに。
直前に注意まで受けていたのに。

おんなじことを飽きるほど繰り返し考えて、一夜まんじりともしないまま寝返りを打ち続けているうちに、カーテン越しに明かりが差し込んできた。
むくりと身を起こし、僕は机の向こうのカーテンと窓を開け放った。
僕の部屋は、路地裏のアパートの2階にある。
窓を開けた姿勢で振り向けば、全て見渡せるような小さな部屋だ。
寝返りを打ちすぎて、斜めにまがった布団が見える。

そのまま外へ目を移すと、見慣れすぎて何も感じない風景の中から、何かが僕の目を引き付けた。
猫だ!
路地の向こうの家を囲む灰色のブロック塀の上に、白い猫が乗っていたのだ。
僕が突然窓を開けたからだろうか、猫は体を寝そべらせたまま、頭だけをクッと上げて僕の方を見ている。
あれはメス猫だろうか?
思ったとたんに、また夕べの出来事が僕を飲み込みにやってきた。

僕はいったい、何にこれほど動揺しているのだろう。
夕べのさよりさんが、とても綺麗だったこと。
見た目のよい男連れであったこと。
その男が、僕の好みではなかったこと。
甘ったれた声で、さよりさんを口説いていたこと。
「今夜だけ、俺のものになれ」という、あの言葉。
ゆかりさんの禁を破って、そんな男はダメだと割り込んでしまったこと。
怒った男の顔、困ったようなさよりさんの顔。
支払いをしてもらえず、ゆかりさんに迷惑をかけたこと。
男にどう思われようとかまわないが、さよりさんがあきれているだろうということ…。

なんであんなことを言ってしまったのだろう。
後になって考えてみれば、あの男も本気ではなく、酒の場の戯れで言っていただけかもしれないではないか。
それどころか、本当は二人はもうしっかりとつながっていて、ただの言葉遊びだったのかもしれない。
実は、さよりさんの方が夢中になっていて、これまで苦労して彼との関係をつないできて、いよいよ彼が本気を出してきた…それが本気かは怪しいが…のを、さよりさんは喜んでいたのかもしれない。

考えれば考えるほど、僕はバカげたことをしでかしたと思えてくる。
他人が立ち入ることではなかったのだ。
さよりさんに助けてくれと言われたならまだしも、勝手に割り込んだのはまずかった。

しかし…。
僕は自分の行動の軽率さを反省しても、まだ落ち着くことができなかった。
その反省なら、昨夜帰宅する前に、もう何度も噛みしめていたのだ。

瞬きを忘れていたようだ。
白猫を見ているつもりが、いつの間にか何も見ていなかった。
眼球が乾いてカピカピする。

僕は一度ぎゅっと目を閉じ、もう一度開いた。
白猫が、前足をつっぱって、思い切り背中を伸ばしている。
いいなぁ、お前は悩みなんてないだろ?
いや、これも勝手な言い草だ。ごめん。

ぐずぐずと考えているうちに、何を考えているのか分からなくなってきた。
どれもこれも、根拠のない空想をいじりまわしているだけではないか!
現実的に考えよう。
今夜行動できることは何だ?
今から挽回できることは?

雑多な思考が乱れ舞っている海の中に手を入れて、ぐるぐると探し物をしていたが、手の回し方を変えたとたんに、指先に触れるものを見つけた。
あ!

僕は、恐れている。
失敗した僕を、ゆかりさんはもう受け入れてくれないのではないか。
さよりさんに嫌われたのではないか。
あの男がまた、苦情を言いに来るのではないか。
そうしたら、僕はどうすればいい?
そうして、何より僕自身が、失敗した僕を受け入れられずにいるのだ。

僕はずっと、引っ込み思案で地味で、人とうまくやるのが苦手だった。
だから本と研究を相手に生きようと思ったのだ。
それが、思いがけず小紫に雇ってもらって、人々と袖すり合う距離で、快適に過ごせる自分を見つけた。
それは何とも言えず温かくて、柔らかくて、心地よかった。
思っていた以上に、僕はこの温かさに酔っていたのかもしれない。
失いたくないと、思い始めていたようだ。
いや、少し違う。
失うことはなさそうだから、もっと広げていきたいと思っていたのだ。
それが…!

思わず、大きなため息をつくと、白猫がタイミングを合わせたように塀を飛び降りて、姿を消してしまった。
「腹、減ったな。」
独り言を言って、窓を閉めた。
夕べの雨は止んでいたけれど、湿った空気が肌に冷たい。

そういえば、おととい、ゆかりさんに何かもらったのだった。
中を確かめもせず、言われたとおりに冷蔵庫に入れた包みを出してみる。
中から、真空パックに入った煮魚が出てきた。
金目鯛の煮つけだ。
赤い皮に白い身、醤油の色がじっくりとしみ込んでいる。

僕はすぐに炊飯器に手を伸ばし、引き出しから小さな米櫃がわりの箱を取り出した。
炊きたての飯が食いたかった。
冷蔵庫にはネギしかなかったから、味噌汁の具は長ネギ一つ。
それでも、ゆかりさんをまねて、鰹節からだしをとった。

1時間後、湯気を立てる飯と味噌汁、煮魚が座卓に並んだ。
「いただきます。」
味噌汁、飯、金目の順に箸をつける。
「うまいなぁ。」
声に出して言った。飯もネギも煮魚にもそれぞれの甘みがあって、体中の細胞が喜ぶほどにうまい。
その豊かな甘みが、心の中の苦味を薄めてくれたようだ。

「しょうがない。謝ろう。」
モリモリと飯を食ったら、肚も括れた。
もともとひとりでいいと思っていたのだ。
わずか数か月前までは、温かさが欲しいなど、思ってもいなかったじゃないか。
よし。

茶碗を洗って歯を磨くと、僕はもう一度カーテンを閉めて、布団に潜り込んだ。
うまい金目だった。
またゆかりさんに助けられた。

その日、昼過ぎに起きてから、スッキリ風呂に入って出勤した。
ゆかりさんには改めてお詫びをし、損をかけた分を、僕の給料から引いておいてほしいと申し出た。
それでも、ゆかりさんはいつもと同じ笑顔で、叱りもしないけど、許すとも言わない。
僕はいたたまれない気持ちだったが、そうこうするうちに開店時間になった。

前日は来なかった常連さんたちがやってくる。
店内は、いつものにぎやかさだ。
何も知らない常連さんたちを見ていると、夕べは夢を見ただけで、本当は何事もなかったのではないかと思えてくる。

カラリンコロン。
カウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
振り向いた僕は、そのまま凍り付いた。
視線の先に、あの人が立っていた。







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窓の外は、春の雨が降っている。
音もなく、糸を引くような雨だ。
さっきまでにぎやかに飲んでいたお客様方がお帰りになり、ふと客足が途絶えた。
Bar小紫は町の小さな店だから、こんなふうに、開店している時間でも、誰もいなくなる時がある。

僕は珍しく小さな疲れを感じて、テーブルに載っていたグラスや皿を下げ、綺麗に拭き清めたあと、そのままその椅子に腰かけた。
窓越しに、外が見える。
道路の向こう側にある街灯が五月雨をオレンジ色に照らし出している。

誰も通らない。
店の奥でゆかりさんが洗い物をしている音がするだけで、先ほどまでのにぎわいが嘘のような静寂だ。
今日はいつもの常連さん方もやってこない。
頭の中に、どうでもいい思考の切れ端が浮かんでは消える。
どういうわけか落ち着かない。
けれど、自分が落ち着かない理由には何も思い当たらない。

心の座りどころが見つからないまま、僕はただ外の雨を眺める。
この雨は、明日の朝には上がるのだろう。
そうしたら、また青空になって白い雲が浮かび、風が乾いて気も晴れるだろう。
そうだ、このモヤモヤした気持ちは天気のせいだ。

僕はともすれば頭をかすめる小さな可能性を無視して、半ば強引に答えを出した。

カラリンコロン。
背中でカウベルが鳴る。
どこか救われたような感覚がさっと広がって、僕は急いで立ち上がった。
「いらっしゃいませ。」

店の入り口で傘を置き、薄いベージュのコートの袖についた雨粒を軽くたたいて払っていたのは、さよりさんだった。
背後に、背の高い男性が立っている。
僕は気安い声をかけそうになったのを飲み込んで、初めての客を案内するような顔をして二人を先ほど僕が座っていた席に誘った。

僕がおしぼりを用意しに戻る間、ゆかりさんが奥から出てきて、二人に挨拶をしている。
「ママさんか。ね、グレンフィディックあるかな?」
男の声がする。
世慣れた声だ。よく通る。そして、話し方のどこかに、相手の懐に忍び込もうとする甘い媚があるような気がして、僕は小さな不快感を覚えた。

「はい、ございます。」
「では、ストレートで。君は?」
「私はね…。」
彼女の声は小さくて、僕の耳に届かない。
「はい。すぐにご用意します。」
ゆかりさんが戻るのと入れ違いに、僕は二人のテーブルに、おしぼりに水、お通しの小皿を運んだ。
僕がいる間は会話を途切れさせた二人だが、離れると、また何事か低い声で話し始めた。

コートを脱いださよりさんは、濃紺のワンピースだった。
膝が見える程度のスカート丈は白くて細い脚によく似合っている。
ふっくらとした長袖がシースルーで、内側の腕が透けて見える。
襟がないから、ほっそりとした首にかけられたしなやかな金のネックレスが、さよりさんの動きにつれて形を変える様子がよく見える。
そんなふうに、長い髪を掻き上げるとなおさら…

僕はカウンターの中に戻った。
後は、呼ばれでもしない限り、僕が出ていくことはあるまい。
ゆかりさんが運んだ酒の琥珀色がやけに輝いて見える。
二人は、コンとグラスを合わせて、小さく飲み込んだ。

やはり、綺麗な人だなと思う。
初めて会った日になりゆきで、さよりさんの名前の由来やお父さんのことを聞いてしまったからだと思うが、他の客に比べて、ひときわ親近感がある。
たぶん、僕と同じくらいか、二つくらい年下かもしれないと思う。
こんな僕にでも女友達はいなくもないが、さよりさんのようなタイプとは接点がなかった。

そう考えて、ふと思考が立ち止まる。
さよりさんみたいなタイプって、何だ?

男は、たぶん値の張る黒いスーツで、ネクタイをしていない襟のボタンを一つ多く外しているから、筋肉質の胸元が覗いている。
白いワイシャツの襟の内側に柄布が使ってある。
おしゃれなものだなとつい目が留まった。

さよりさんは先日とは全くちがって、しゃんと座って表情をころころと変えながら、楽しげに男と言葉を交わしている。
時折笑顔のままうつむくと、長い髪がさらりと顔にかかる。
それを反対側の手で、ゆっくりと掻き上げる。
その時の白い指先が、なんとも艶めかしく、優美に見えて、見ていてはいけないと思う端から盗み見ている自分がいた。

「…ね?」
「でも…。」
二人の会話は聞こえない。
恋人同士、なんだろうなと思う。
少し、がっかりしている僕は、何を期待していたのだろう。

「穂高、ちょっとこちらへいらっしゃい。」
案の定、ゆかりさんに呼ばれて、そんなに見つめているもんじゃないわとたしなめられた。
「すみません。なんとなく、この前の様子が気になっていたから…。」
「あら?」
ゆかりさんが僕の顔を覗き込む。
「普段はあまり言い訳なんてしないのに、珍しいわね。」

「ちょっと!」
男性の声がした。
反射的に、僕はゆかりさんの前から身を翻して、テーブルに駆け寄った。
「そんなに急がなくていんだんけどさ。これ、もう一杯もらえる?」
「かしこまりました。」

頼まれてもいないのに、テーブルの水滴を拭き清めた。
男にとって僕は、いてもいないのと同じ存在になったようだ。
僕の目の前で、男は言った。
「な?いいじゃないか。今夜だけ、俺のものになってくれ。」

僕は下を向いたまま目を剥いた。
なんだと??
空いた皿を片手に重ねてしまったから、もうすることがない。
僕は去り際に、さよりさんの表情をちらりと捉えようとした。
戸惑いではなく、はにかみが浮かんだ横顔に、僕の胸はドキリと波打った。

いったんカウンターに入り、グレンフィディックの12年物、細長い緑のボトルを手に取ると、すぐにテーブルに戻った。
静かにグラスに注いでいる間も、男はさよりさんを押し続けている。
「な?いいだろ?今夜だけでいいんだ。な?」
ボトルから零れ落ちた最後の一滴がグラスに落ちたとき、さよりさんが何か答えようとした。

その刹那、僕はゆかりさんに言い渡されていた禁を破ってしまった。
「だめです、さよりさん!
今夜だけなんて言う男の言いなりになっちゃダメだ!
だって、明日の朝には捨てられるってことですよ!
そんなの、ダメです!」

あっ、と思ったときにはもう遅かった。
あっけにとられた顔をしていた男の顔が、みるみる憤怒に彩られていく。
さよりさんは目を丸くして凍り付き、カウンターから飛び出してきたゆかりさんが、お客様、申し訳ございませんと丁重に何度も頭を下げながら、僕の腕を引っ張って、奥の台所に押し込んだ。

「なんて失礼な店なんだ!
客の話を盗み聞ぎして、口出して、おまけに説教か?
何様のつもりだ!ええっ??」
「大変な不調法をいたしました。」
ゆかりさんはまだ謝っている。

「行こう。君がお気に入りの店だというから来てみたけど、最悪だっ!」
男は手荒くさよりさんの腕をひっぱり、引きずるように出て行ってしまった。
ガチャチャッと、乱暴なカウベルの音が響く。
当然、お代を置いて行くはずもない。

ゆかりさんはため息ひとつつくわけでもなく、黙ってテーブルを片づける。
叱られるのだろうと覚悟していたけれど何も言われず、ただ「きょうはもう店じまいにしましょう。」とだけつぶやく声がした。

「すみませんでした。」
「本当に悪いと思っていないなら、謝るのはおよしなさい。」
「でも…。」

叱られもせず、教えられもしないまま、ゆかりさんは部屋へと引き取っていった。
ひとり店に残った僕は、さっきさよりさんが座っていた椅子に腰かけて、外を見た。
僕は、間違えたのだろうか。

オレンジ色の街灯は、まだ細く落ちる雨を浮かび上がらせていた。







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姉さん

日本は陽気がよくなりました。元気にしていますか?そちらはどうですか。

知らせるのが遅れたけど、僕は大学院を出て社会人になりました。
とはいえ就活はことごとく失敗、企業人にはなれませんでした。
それでは何を?と思うでしょう。
何だと思いますか?
なんと、この僕がバーテンダーをしています。

姉さんの驚く顔が目に見えるようです。
近くにいたら反対されたでしょうか。
確かに、大学院を出た知識を生かして働く場ではなさそうです。
けれど、いろいろな人に出会い接する中で、僕が生きてきた道筋で得たものは全てが役に立っている気がするのです。
それに、なにより、よい人々に囲まれて僕は毎日を楽しいと感じています。

バーテンダーのちょっと派手なベストも、もう平気で着こなせます。
毎日着ているワイシャツは1万円もするんですよ。
黒い革靴を毎日ピカピカに磨いて、髪型も変えました。
お客様がみえると、僕がいの一番に「いらっしゃいませ!」と言うのです。
どうですか?見てみたくなったでしょう。

今日は休店。
オーナーが用事でどこか遠くへでかけているからです。
桜はとっくに散ったけれど、梅雨にはまだ間があって、今日の僕は半袖です。
空が青くて、空気が乾いていて、本当にいい天気。
なんだか満たされた気分で目が覚めて、ふと、姉さんに手紙を書こうと思い立ちました。
僕がいま、元気で楽しく暮らしていることを伝えたかった。

そうだ。
もう去年のことだけど、母さんの七回忌に帰ってきてくれてありがとう。
本音を言えば、無理だと思っていたから、姉さんが現れたときは嬉しいというよりホッとした。
母さんも、やっぱり嬉しかったろうと思います。

きっと心配していると思うけど、病院には定期的にきちんと通っています。
経過は良好ですから、ご心配なく。
ごはんもちゃんと食べているし、 不都合なことは何もありません。

それにしても、やっぱりグァテマラは遠い。
しかも、ケータイも電話も通じないなんて、本当にそこは地球か?
いくらコーヒーが大好きで、コーヒー農場で働いてみたいからって、何もそんなに不便なところを選ばなくてもよかったのに。
僕は筆不精ではないつもりだけれど、手紙しか通じないとなると、やっぱりたまにしか書けない。
たった二人になった家族なのに、まったく、ひどいよ!
時々姉さんの夢を見るけど、姉さんはいつもちゃんと出てきません。
夢の中でもグァテマラは遠すぎるらしいです。

なんだか自分のことばかり書いてしまいました。
とにかく元気で頑張っているし、給料もそれなりにもらっているから、心配しないでください。
そのうち、姉さんにお小遣いを送ってあげるよ。
楽しみに待っていてください。


追伸
店のオーナーがとてもうまいコーヒーを淹れます。
姉さんの豆をオーナーに淹れてもらって飲んだら、きっと美味いと思います。
今度送ってください。
焙煎は、いつものように浅めにね。

                               穂高
                           穂高って、僕の源氏名です!





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