Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年02月


「あのー、褒めてくれそうな気配だけで嬉しいですので、馬子にも衣裳だなぁって言うのだけはやめてください。」

こんなセリフを何度も言った。まぁ、照れ隠しだ。
僕の真新しい高級ワイシャツは、やはりとても評判がよかった。
まず、ゆかりさんがひどく褒めてくれた。
それから、常連客の源さんも、いつもの悪口をやめ、目を細めてくれた。
確かに、気分がいい。
思い返せば、服装で人から褒められたなんて、人生初ではないだろうか。

服一枚替えただけで、なんだろう、これは。
けど、あの店員が言った通りで、この1枚9800円のワイシャツを身に着けるたびに、そうして、それを着ることが当たり前になるにつれ、自分がなんだか一回り成長したような気がするのだ。

待てよと思う。
成長したというのは気のせい。
持ち物が豪華になっただけで、自分自身は何も変わっていないんじゃないのか?
慎重で貧乏性の自分が言う。

いや、ちがうよ。
豪華な持ち物を持ってみようと勇気を奮ったことが成長なのだよ。
そういう声も聞こえる。

どちらが正しいのか、僕は知る由もない。

しかし、再び問題が発生した。

ゆかりさんに言われているとおり、着替えた後で事務所にある姿見の前に立って全身をチェックすると、どうも何か違和感があるのだ。
数日間、その違和感の正体が分からなかったのだが、ある日、唐突に理解した。

ズボンだ!
こちらは毎日クリーニングするわけではないから、100均ワイシャツの時のように切り裂けたわけではない。
カウンターの奥に立っているから、お客様から何か言われるわけでもない。
だから、気付かなかったのだが、気付いてみれば、明らかに上半身と釣り合っていない。
買ったのは、えーっと、大学に入った時だから6年前だが、着た回数は大したことないから、ヨレているわけではないのだけど、なんだか変だ。
それから、毎日磨くようになった靴もそうだ。
高校の卒業式でも履いていたローファーが、いくら穴が開いていなくても、このワイシャツと一緒にはできないことがはっきりと理解できた。

僕は再び、あの初老の男性店員がいる百貨店に足を運んだ。
もしも彼が休みかなにかでいなかったら、迷わず出直そうと覚悟してのことだったが、運よく彼はそこにいて、先客の案内を終えたところなのだろうか、広げたワイシャツを何枚か、丁寧に折りたたんでいる最中だった。

「おお。先日のお客様ですね。いらっしゃいませ。いかがですか、シャツの着心地は。毎日着ていただいておりますでしょうか?」
「ええ。着てます。すごく評判いいですよ。でも…。」
言いよどむ僕に、彼は眉を曇らせて心配そうな顔をした。

「でも、ワイシャツだけではダメだって、気付きました。」
「とおっしゃると?」
「ズボンも、かなりお手頃価格のスーツを、大学に入る前に買って、それをいまだに大事に着てるんです。」
「いまどき珍しいほど、物持ちがよくていらっしゃるのですね。」
貧乏性と言わずに物持ちが良いというと、褒め言葉に聞こえるから不思議だ。

「ズボンだけじゃありません。もしズボンを買い替えたら…
トータルコーディネートって、こういうことだったんですね。」
店員は先ほどまでの心配そうな顔をやめて、微笑を浮かべた。
「なるほど、そういうことでしたか。」

僕は、その店員がまた素晴らしいズボンを選んでくれることを疑わなかった。
色は黒と決まっている。
ワイシャツがそうだったように、太りすぎても痩せすぎてもいない標準体型だから、サイズ選びにも困らないだろう。
今日はいくらと言われても変な声を出さないように、財布に余分なお金を入れてきてある。
さあ、来い!

ところが、店員が僕を案内した先は、ワイシャツを選んだ高級な雰囲気漂う売り場ではなく、違うフロアのずっと気安い雰囲気の一角だった。
店内にはどこにでもいるようなサラリーマン風の、今日はセーターにデニム、チノパンといった男性客がけっこう佇んでいて、吊るしのスーツや色別に分けられ、見事なグラデーションになっている何百本ものネクタイの中から、お気に入りを探し出そうとしていた。
そちらの若い店員とごそごそと話していた彼が戻ってきたとき、腕に黒いズボンが下がっていた。
「これなどはいかがでしょう。」
「え?」

僕がどれほど拍子抜けしたか分かるだろうか。
1本2万円、3万円と言われるのを覚悟してきたのだ。
なのに、ズボンから下がっている値札は5000円台だ。
そんな安物でいいのか?

「驚いていらっしゃるようですが…。」
初老の店員は、僕の反応を予測していたようだ。
「いや、そういうわけでは…。」
「これは失礼いたしました。私が勝手に、とても高価なものを勧められると思っていらっしゃったのではと想像してしまいました。」
ごめんなさい、あなたのアタリですと、声に出して言えなかった。

「これが、僕におすすめなんですか?」
「はい、そうです。」
「どうしてですか?」
店員の胸元のネームプレートに「姉小路」と書いてあることに、この時になって気付いた。

「お客様のお仕事では、見せる要素が強いワイシャツと違って、ズボンは仕事着です。
ワイシャツ同様、清潔でサイズが合ったものを選ぶのは大切です。
でも、仕事着と考えると、素材はウールやシルクなどではかえって扱いにくく、気温が一定に保たれている室内では蒸れたりすることもあって、あまりお勧めはできません。
形が崩れにくいこと、しわになりにくいことなどが素材よりも優先するのではないでしょうか。
デザインは、このように、股上が深くて、屈んでも背中のシャツが出る心配のない、定番のものがよろしいでしょう。
こちらは、流行と関係のないデザインですから、お値段も抑えられるわけです。」

シルクとは考えなかったが、ウールくらいは考えていた。
「では、素材は何ですか?」
「ポリエステルです。洗濯しやすく、型崩れしにくいので、見栄えがいたしますよ。」
「そういうものですか…。」
「ご予算がおありなら、黒いベルトも新調されては?」
「ああ、なるほど。ベルトもカサカサにめくれて、茶色い革が見えちゃってますから、それもいいかもしれない。」
「それと、もしかしたら靴、でしょうか?」
どうやら、姉小路さんはとても気が利く店員さんだ。
馴れない買い物に対する緊張や困惑が減って、本当に助かる。

「そうなんです。靴も選びたくて。姉小路さん、一緒に来てくれますか?」
不意に名前を呼ばれたことが彼の目を少しだけ丸くしたけれど、顔のしわを深くして彼は笑顔になった。
「はい。お供させていただきます。すぐ隣ですので。」
「では、ズボンも洗い替えが欲しいから、2本お願いします。」
「ありがとうございます。では、丈を合わせて詰めますので、その間に靴を選びに参りましょう。
あ、ちなみに…。」
姉小路さんはこのときはじめて、からかうような口調で言った。
「こちらのスラックスは2本目半額セール中ですので、かなりのお値打ち品でございます!
それに、お客様が今日着ていらしたそちらも、洗い替えの中にお入れになっていいと思いますよ。」
「そうですか??」

靴を選んでみたら、このズボンもよいと言われた意味が分かった。
靴は消耗品だからという姉小路さんの言葉を受けて、あらかじめ姉小路さんが選んでくれた5足を次々に履いてみた。
どれも、ローファーとは違う形をしている。
中でも、つま先が、こう、とがった形をしているのを履いた途端、僕はバーテンダーになれた。
そういうことだったのか!

「これが気に入りました!」
「はい。とてもお似合いです。一番お似合いになるものを選ばれましたね!お客様はセンスがよくていらっしゃる。」

ああ。
センスがよくていらっしゃる!!
そんな褒め言葉が僕に向けられるなんて!
お世辞だ。お世辞なのだ。
わかっちゃいるけど…あははっ。
気分上々だ。

「姉小路さんのおかげで、なんだか服を買うのが楽しくなりました。」
「それは痛み入ります。過分なお褒めの言葉を頂戴いたしました。」
僕は両手に提げた派手なチェック柄の紙袋を見下ろして、ふと気づいた。
「あのー、靴下も買おうかな。さっき靴を履いてみるとき、僕の白い靴下を履き替えたでしょう?」
「あれですか。」

姉小路さんは、このときは微笑まずに真顔になり、僕の耳元に顔を寄せてそっと言った。
「差し出がましいことですが、白いスポーツソックスは、もういけませんよ。
おうちの中か、スポーツの時だけになさいませ。
かといって、革靴に合わせる、薄くてツルツツしたものでは汗を吸いませんし滑るから、お気に召さないかもしれません。」

そして、姉小路さんの声はさらに小さくなって、こう続いた。
「ソックスはこちらでお求めになることはございませんよ。
お宅のご近所でもお求めになれますでしょう?
いつも買い求めになるところへいらして、よくよくお選びになるほうが、お気に召すものがあると存じます。
ここは、高いです!」

僕は思わず吹き出してしまった。

そうか。
何が何でもここ、というわけではないんだ。
靴下は帰りにキオンに寄って買おう。
姉小路さんの思いやりとユーモア、的確なアドバイスに感謝して、僕は百貨店を後にした。

僕は、姉小路さんがとても好きになってしまった。
また服を選ぶ必要があるときには、きっと姉小路さんに頼もうと思った。
他の百貨店に行くなど考えられない。

心躍るとはこういう気分のことを言うのだろうか。
僕は帰りの電車の中で、その日のことを思い返していた。
姉小路さんが僕にしてくれたことが「接客」「サービス」なんだな。
僕が始めたのと同じってわけだ。
相手をこんな気分にさせるのがこの仕事だとしたら、これって、すごくステキなことなんじゃないか?

僕はようやく、僕の仕事が好きになれそうな気がし始めた。








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故郷から東京へ出てきて以来、仕送りなどしてもらったこともないので、あちらこちらでバイトをしてきた。
が、就職活動を始めたときに全て辞めてみたのだ。
生活のことを思ったら、割の良いものだけでも残しておくのが安全だったのだが、半年くらいなら贅沢しなければ食べられるくらいの貯金はしたし、就職活動に専念したかった。
いや、正直に言おう。
バイトで疲れ切った、汗臭い体で面接に行って、金に縁がない人間だと思われるのが嫌だったのだ。
それに、いざとなれば引っ越しの日雇いでもすれば、その日の暮らしくらいはなんとかなることを、その頃の僕はすでに熟知していたのだ。

バイトのない生活の初めは、時間さえあれば眠って過ごした。
いったいどこまで眠れるのだろうと、空恐ろしくなるほどに眠った。
それでもまだ眠れた。
目覚めて、食べて、風呂に入り、テレビをつけるとたちまち眠くなる。
外に出るのは、面接と買い物だけ。
そんな毎日を1か月ほど過ごしたところで、ふと、もう眠らなくてもいいと気付いた。
僕はそれほど、生活することに疲れていたのだろう。
けれども僕は、一生を眠り続けるにはまだ早いくらい、十分に若いのだ。 

そうやって目覚めたというのに、就職活動はことごとく失敗し、僕はバーテンダーになった。
いや、もちろん、当分見習いだが、自由で未経験の世界に思いがけず飛び込んだのだ。
バイトは山ほどしたが、接客業は避け続けた。
僕の関心は本をこよなく愛することに偏っていて、その愛を人間に振り分けるのは難しかった。
だって、人間は動くし変わるし、いなくなるし、分からないことだらけではないか!
僕は、金と本があればいい。
ほんとうに、それで十分幸せなのだ。
そう信じていたのだが…


「お客さん、これはもう、ダメですよ。」
午後4時。
開店の支度を終えて休憩時間になったので、クリーニングに出したワイシャツを受け取りに行った。
このところ毎日のことで顔なじみになった店主が、禿げ上がった額に汗のつぶをつけたまま、申し訳なさそうにそう言った。
真冬だし、店内はそれほど暖房が効いているわけでもない。
それなのに、どうしてこんなに汗をかいているのだろう?と思いつつ、差し出されたワイシャツを見ると、襟と肩がつながるところが切り裂けていた。

「えっ?僕、ひっかけましたかね?」
「いえ。これは、こう言っちゃなんだけど質が悪すぎるからね。寿命ですよ。
クリーニングというのはしっかり洗うし、アイロンも強く当てるからね。
それなりの強さがないと、耐えられないものなんですよ。」
「そこを何とかするのがプロなんじゃないですか?」
僕はなんだかイライラしてきて、口調がきつくなってしまった。

でも、店主は穏やかなまま答えた。
「もちろんですよ。でもねぇお客さん、豆腐でうどんを作っておいて、腰のあるうどんを食べさせろと言われても、土台無理だと思いませんか?」
「豆腐でうどん??」
「いや、うどんはいいんです。つまりですね、お客さん、このワイシャツ、100円均一かなんかで買ったでしょう。中でもこれは折り紙付きの粗悪品ですよ。」

図星だった。確かに、100円ショップで買ったものだ。
「うちのクリーニング代は270円です。100円のものに毎日270円かけても、まぁ、いいですけど、早晩へこたれてしまいますな。
毎日270円かけて維持するなら、それにふさわしいものを最初から選んでおくことも大事ですよ。
讃岐うどん預けてもらったら、どこのうどん屋でも、腰のあるうどんを出すでしょ?」

破れたワイシャツを抱いて帰る気にはならず、処分をお願いしてクリーニング屋を出た。
そのまま小紫の前まで来てしまったが、ふと、家に帰ってもう一枚のほうを持ってこようという考えを変えてみる気になった。
店に入ると、ゆかりさんが振り向いた。
「おかえりなさい。」
「あの…これからちょっと出かけてきます。」
「そう。いってらっしゃい。」
「開店に遅れるかもしれないけど、戻りますんで。」
「そう。」

僕は奥に入って、ロッカーにかけてあったベストをたたんで手近な紙袋に入れると、そのまま抱えて店を出た。
駅に向かいながら、 どこで買おうかと考える。
家にあるもう一枚のワイシャツは、駅前のキオンで買ったものだ。
僕はキオンさえあれば、一生生きていけると思っている。
食品、生活雑貨、衣類に薬に靴。なんでも1店舗でそろう。
僕がキオンで済ませられないのは本だけだ。

『お客様からいただいたお金を投資することも覚えてほしいわ。
豊かな人はみなそうしているからね。』
ゆかりさんにこの前言われたことが蘇ってきた。
僕は、自分に投資するために電車に乗り込んで、都心へと向かった。

百貨店が立ち並ぶこの街は通り過ぎるもので、自分が買い物をする場所だなどと考えたこともなかった。
あの人たちには普段着なのだろうが、きらきらと着飾ったようにしか見えない人々の間に入ると、自分が虫けらのように思えてきて、身がすくむ。
投資って、勇気がいることだな…。
大都会の真ん中で、数えきれないほどの人々とともに歩きながら、僕はとても孤独だった。

「このベストに合わせる白いワイシャツですね。」
女性店員では落ち着いて話せないので、僕は初老の部類に入る男性店員がいる売り場を見つけて、ベストを差し出した。
「バーテンダーさんでしょうか?」
「そうです。でも、まだ2週間です。」
「なるほど。これは、とてもよいお品です。オーダーメイドだ。」
「オーダーメイド?」
「ええ。生地も縫製も最高級品です。体の線に沿っていて、着ている気がしないのではありませんか?さぞかし値が張ったことでしょうね。」

そういわれてみれば、派手な色の糸で織られた生地が気になったのは最初だけで、着苦しいと思ったことは一度もなかった。
「これでしたら…このあたりのお品がよいですね。
サイズは…おや、お客様は既成のサイズでぴったりなようですよ。」
店員の指がいくつかのワイシャツの表示をなぞり、ピタリと止まったところから引き出した一枚は、小さくておかしな形の襟をしていた。

「なんです、これ?」
「バタフライカラーといいます。ドレスシャツですから。」
「は?」
日本語で話してほしい。現代語でなくてもいいから…。
「バーテンダーさんのシャツをお選びなら、白の白さが大切です。
清潔の上にも清潔で、その通りに見えること。
そして、 サイズ感も、清潔感を出すためにはとても大切なのですよ。
動きやすさは美しさに通じ、美しさは清潔さに通じますしね。」 

なるほど、そういうものかと納得する。
試着を勧められ、断りかけたが、ここで臆してはいられないと勇気を奮い起こし、僕は差し出されたシャツを着てみることにした。
ハンガーにかけられた白いシャツは、切り裂けたあれに比べると、ずっと小さく見える。
が、袖を通して驚いた。
窮屈さは微塵もなかったからだ。
店員に言われたとおり、ベストも着てみて、小さなブースの外に出た。

「いかがですか?」
「驚きました。着心地いいですね…。」
他に、この状態を表現する単語を僕は知らない。
「よくお似合いですよ。まさか2週間目のバーテンダーさんとは、どなたも思いわないくらいですね。」
リップサービスとは知りながら、なんだか目じりが下がってしまう。
「では、これを。洗い替えがいるので、2枚お願いします。」
「かしこまりました。」

店員は、僕が脱いだシャツを丁寧に畳み直し、もう一枚を添えて会計へと持って行った。
「では、19600円です。」
「はぁ?!」
自分が上げた声のみっともなさに、自分でも気が付いた。
イチマンキューセンロッピャクエン?????
それが、ワイシャツ2枚に支払う金か?
僕は自分の迂闊さを呪った。
なぜ、お願いしますと言う前に、値段を確認しなかったのだろう。 

しかし、接客馴れした店員は、とても優しい微笑みで、僕を見下すことなく言った。
「大変よいお品ですから、長く使えます。
それに、そんなに高価な衣服に身を包む自分というのを想像なさったら、ちょっといい気分が味わえるのではないでしょうか。
その気分に投資すると思われたらいかがでしょう。」

また投資か!
僕の自意識が、ここまできて「NO」と言うことを拒んだ。
なんてつまらない男かと、この初対面の店員に思われるのが嫌だったのだ。
「よし。いい気分、味わいます!」
心にもないことをいい、空元気で財布から1万円札を2枚引き出すと、えいっと丁寧に小皿に置いた。
「ありがとうございます。」

受け取った派手なチェック柄の紙袋と、大きなレシートと400円のおつり。
自分の見栄っ張りがここまでだったとは、人生初の気付きだった。
僕は、自分ではない自分になったような気がして、帰り道の方向が分からなくなった。






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通い馴れた大学から「文学修士」の証書を受け取り、明日からは来なくてもよいと言われたのと、Bar小紫の正式採用が決まった日が隣り合っていたこともあり、僕は行くべき場所が自分の部屋しかないという体験をせずに済んだ。
それは、想像するだけでも十分に心許ない体験になるはずだったので、小心者の僕は、不幸の石を一つ踏まずに済んだことを喜んだ。 

ゆかりさんと雇用契約を結んだ日から1週間、僕は毎日20時間をBar小紫で過ごした。
いる時間だけ時給を支払ってくれるというのだから、いない手はない。
金を稼ぐことはなにより大切だ。
カウンターの裏側にはけっこう大きなキッチンがあるのだが、その隣の事務室のような小部屋が、仕事がない時の僕の居場所になった。

店には2階に部屋があったから、ゆかりさんはそこで暮らしていると勝手に思っていたけれども、実際は、隣の家がゆかりさんの生活の場だった。
2階は今、使われていないらしい。僕も上がったことがない。
なぜ2階ではないのかと尋ねたら、「そんなことしたら生活臭がしてしまうでしょ?」と言われた。

生活臭?
なんだそれは。
意味が分からない。

閉店中は、ゆかりさんにくっついて掃除をしたり、買い出しに行ったりする。
ゆかりさんが休んでいる間は、僕も事務室で本を読んで過ごす。
時々は、居眠りもする。
でも、事務室には布団も風呂もないから、アパートには一応戻る。
風呂に入って洗濯をして、布団にもぐりこんで、目が覚めたら干してあるワイシャツを持って出勤した。

「ゆかりさん、アイロンを貸してください。」
雇用契約を結んだ翌日、僕は、コンビニで買ったおにぎり4個…2個は朝飯で、あと2個が昼飯だ…と一緒に買い込んだ「スプレー糊」というやつを片手に、ゆかりさんに頼んだ。
恥ずかしい話だが、僕が持っているアイロンは、母さんが買ってくれた、小さくて蒸気が出ないやつだ。
母さん自身もそんなものを使っていて、霧吹きをしながらアイロンをかけていた。
世間にはすでにスチームアイロンが出回っていたはずだが、まだ高級品で、買う金はなかったのだろう。

僕が東京に出るとき、母さんは炊飯器とアイロンだけは、なけなしの貯金をはたいて新品を買い、持たせてくれた。
炊飯器はすでに壊れて捨ててしまったけれど、出番があまりなかったアイロンはそのままで、でも、霧吹きしながらアイロンをかけるなど、僕には無理な話だった。
そもそも服装には無頓着で、洗ってあって穴が開いてなければなんでもいいくらいに思ってきた。
アイロンなんて、今回の就職活動でワイシャツに適当に当てたのが一番のヘビーユーズだ。
アイロンは、母さんの思い出だけど、生活用品ではなかったのだ。

でも、雇用契約で、毎日糊付けされたワイシャツを着ることになっている。
ワイシャツに糊付けなどしたことがない僕は途方に暮れ、コンビニのおばちゃんに相談してみた。
すると、このスプレーを吹きかけて、アイロンをかければいいのだと言われたのだ。
しかも、蒸気が出るアイロンを使えば、なお一層いいと言われた。
それで、ゆかりさんに頼んでみることを思いついたのだ。

「アイロン?ええ、いいわよ。」
ゆかりさんはすぐに、家からアイロンとアイロン台を持ってきてくれた。
僕は、我ながら不器用な手つきでスプレーをふきかけ、アイロンを載せた。
「ああっ!なんだこれ?」

アイロンを離してみると、ワイシャツの襟には黒い消しゴムかすみたいなものがこびりつき、おまけにクッキリとしわが寄っている。
「あああ。」
僕は絶望的な気分で、黒いかすをこすり取ろうとした。
かすのほとんどは取れたけれど、黒い汚れは残ってしまった。

不器用なうえに慣れないアイロンがけでは、糊付けしたワイシャツという言葉でゆかりさんが伝えたかった出来栄えは望めない。
僕は、これは鍛錬を積まねばならないと、しぶしぶ覚悟を決めた。
5日間毎日、僕のワイシャツには黒い消しゴムかすと、クッキリしたシワが寄っていた。
そんな僕を5日間、ゆかりさんは黙ってみていた。

6日目のことだった。
全く上達しない僕がアイロンと格闘していた時、ゆかりさんが声をかけてきた。
「穂高。アイロン、上手になった?」
見ればわかる質問に、少しむっとする。

「今日で6日目ね。ねぇ、穂高、この5日間でいくら稼いだか計算した?」
「いえ。」
「毎日20時間ずつ、5日間。時給は900円。はい、九九のレベルよ!」
「えーっと、20×5は100で、100×900は…」
僕はゼロの数を指で確認した。
「イチ、ジュウ、ヒャク…あ、90000円です。」
「遅い!」
ゆかりさんの声はムチのようだ。
「僕の頭には数値演算プロセッサが欠けていますから、暗算は苦手です。」

ちょっと微笑みかけたゆかりさんは、あからさまに頬を引き締めて脱線を防いだ。
「そう、9万円。たった5日で9万円稼いだのよ。
けっこう、高給取りだと思わない?」

バイトだけはたくさんしてきた僕は、その意味がよくわかる。
大した肉体労働もしていないし、寝てても休憩していても時給になるのだ。
この調子で4週間働いたら…36万円!
税金だのなんだの考えても、そこらの会社の初任給より、はるかに恵まれている。

「ところで、穂高。もう一つ質問していい?」
「はい、何でしょう。」
「ワイシャツ1枚のクリーニング代はいくらか知っている?」
「は?」

僕は、答えられなかった。
クリーニングなど、年に1回か2回、スーツを出しに行くときしか使ったことがない。
洗濯に金をかけるなど、考えたこともなかったからだ。
「知らないようね。そこの角のクリーニング屋さんで、270円よ。」
「270円…。」

「あなたの時給からして、わずか20分以下ってわけ。
それに対して、あなたはアイロンにどのくらい時間をかけている?
光熱費と時間と、仕上がり具合を考えたとき、どんな結論にたどり着くかしら?」

わかった。
この5日間、お客様からワイシャツについては散々なことを言われた。
僕にはどこが違うかさっぱり分からないのだが、やれ清潔感がないだの、だらしないだの、ベストと合っていないだの…。
そのたびにむっとした。

でも、クリーニング屋に頼めば、毎日バッチリ完璧に仕上げてもらえるんだ。
しかも、僕は苦手なことにイライラせずに済む。

「いい?穂高。この商売をするなら、覚えておいてほしいの。
お客様は、大切なお金を私どもに払ってくださるでしょう?
あなたのお給料も、元をただせばお客様がくださったものよね?
そのお金を、あなたが有効に使わずにおいては、流れが止まってしまう。

もちろん、貯金は大切よ。
しっかりした貯金は、あなたの将来の自信にも支えにもなるでしょう。
けれど、投資も覚えてね。
あなたがいただくものを、あなたも差し上げるように考えてみて。
そうやって、世の中は回っているのだから。
豊かな人は、みなそうしているの。
あなたも、働き始めたからには、豊かな人でいてほしい。
人の得意を生かすこともまた、豊かな人の生き方だから。」

なんだかとても深い話を聞いたような気がしたけれども、この時の僕は、ゆかりさんの真意を理解できたとは言えなかった。
ただ、クリーニング屋は使う価値があると理解した。

僕は世間の流れの中にまた一歩踏み出した。
クリーニング屋が仕上げてくれたワイシャツは、お客様の僕への評価を一気に変えてくれたのだった。






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穂高。
新しい名をもらった僕をもう一つ驚かせたことがあった。
それは、ゆかりさんから提示された、不思議な雇用条件だ。

「いい?穂高。雇用条件を確認しましょう。」
僕の正式採用が決まった日、ゆかりさんは2枚の紙を僕の前に置いた。
右、左と見比べると、どちらにも同じことが書いてある。

「店にいる間、あなたは『穂高』と呼ばれるわ。それはもう、いいわね。
勤務時間だけど、お店の開店時間に関わらず、あなたはここに何時に来てもいいし、何時に帰ってもいい。
ここにいた時間の分だけ時給を支払うことにするわ。」
「どういうことですか?」
「言った通りよ。」

僕はだまされようとしているのだろうか。
「たとえば、朝6時にここに来て、次の日の朝5時に帰ったら、僕は23時間分の時給をいただけるとおっしゃっているんですよ。お店をやっていない時間は本を読んでいても寝ていてもいいと?」
「ええ、そうよ。」
「そんなバカな!」

ゆかりさんの言葉を本当にしない僕に、彼女はこう言った。
「バカなことがあるものですか。 
この小紫はね、いっときお客様に心の壁を忘れていただいて、ただ自由にのびのびと、話したいことを話して、飲みたいだけ飲んで、寛いでいただくことだけを願っている店なの。
そこで働く従業員が、出勤時間だのなんだの、そんなものに縛られてあくせくしていたら、その窮屈がお客様に伝わってしまうと思わない?
ここは企業でも学校でもないの。
常識なんて、くそくらえよ!」

品のよい彼女の口から「くそくらえ」なんて言葉が飛び出して、僕はちょっと焦って、しどもどしてしまう。
「だからあなたも、好きな時に来て、好きな時に帰ればいい。
ただし、いるときはあの札を表に、帰る時には裏に。
これは、絶対条件。いいわね?」
「は、はい。」

僕は、ゆかりさんの目が、それまで見たことがないほど真剣で、黒い瞳の底の方で何かがギラリと光っているような気がして、ゆかりさんの方を見ていられなくなった。
何も不都合なことを言われたわけでもないし、拒む理由もない。

そもそも、僕自身が、決まった時間に起きて、決まったルートを急ぎ足で無意識に歩き、満員電車に揺られて、いつもと同じ駅で降り、決まった時間が来るまで帰らない生活をエンドレスに繰り返すのが当たり前の会社勤めに魅力を見出していなかったのだから、この条件は願ったり叶ったりなのだ。

なのに、貧乏性というのだろうか。
望んでいた条件が転がり込んできたのに、僕の心は恐れをなして縮み上がっていた。

「見習いだから、時給は時間帯に関わらず900円。一応、最低賃金は超えているから文句なしね。」
文句など言うはずがない。
「それから…。」
ゆかりさんの条件は、どれも一風変わっていて、でも、彼女がとても大切にしているポリシーを形にしたものだった。

毎日洗濯をして糊付けし、アイロンをかけた白いワイシャツを着ること、とか、靴は黒の革靴にすることとかいう項目もあった。
僕は分かってきてはいたけれど、敢えて尋ねてみた。
「時間の自由は認めても、服装の自由は認めないのですか?」
すると、痛烈な言葉が返ってきた。
「自由とひとりよがりを一緒にしてはダメ。
自由の裏には責任があるの。
自分の自由がほかの人を不愉快にしたり、苦しめたりするならば、その自由は行使してはいけないと思わない?
それでも行使するなら、そこから起きる結果を受け入れないとね。
ああ、話が逸れちゃった。

あのね。
穂高は、この店の風景になるのだと考えてみてほしいの。
新入りのあなたは、お客様が慣れ親しんでくださっているこの店の風景になじんで、まず存在することを受け入れていただいてから、それから、お客様のお望みに応えたりあなたの個性を発揮したりなさいね。
いきなり、あなたのあるがままや好みを、お客様に受け入れてもらおうとするのは押しつけがましいし、お客様があなたのあるがままを受け入れてくれて当然と考えるのは甘えだと思う。
あなたのために店があるのではなく、お客様のためにあるの。
ここは、従業員の自己実現の場ではないから。」

厳しい表現だった。
風景と言われて、改めて店内をぐるりと見回した。
どれも新品ではなく、どれも際立った存在感を出してもいない。
けれども、そこにあることが実に自然で、互いが調和し、清潔なたたずまいを見せている。
僕はここに通い始めて、ゆかりさんが掃除にどれだけの時間を使っているかを、驚きの思いで知った。
さらに、その時間を、ゆかりさんが接客と同じくらい嬉々として過ごしているのには目を見張るしかなかった。

「じゃ、双方合意ということで、お互いにサインしあって、1枚ずつ持っていることにしましょう。」
そうやって仕上がった雇用契約書を、僕は部屋に持ち帰り、どこに置こうかと考えた挙句に、ふと思い立って、額縁に入れてあった古い賞状を取り出し、代わりに入れて壁にかけた。

この紙一枚をもらうために交わしたゆかりさんとの会話がすでに、僕を今までとは違う世界に押し出し始めたことを、僕は言いようのない期待と不安で感じ取っていた。






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ねえ、そこのあなた。
「僕はいま、嬉しいんです!」
そんなふうに呼びかけても、不気味がらずに返事をしてくれそうなのが、この街・須万町だ。

すっかり陽が落ちた商店街がキラキラと輝いている。
僕に理性がなかったら、スキップでもしようかという気分だった。
働く場を得たことが、これほどまでに嬉しいとは!

家に向かいながら、僕はさっきのゆかりさんとのやり取りを思い返していた。

「そうと決まったら、まず着替えね。先生、黒いズボン持ってる?」
ゆかりさんは、僕のつま先から頭まで視線を往復させながら、着せ替え人形を手に持った幼稚園児のように目を輝かせた。
「ええ。スーツの下ですけど。あ、高校生の時の制服もまだ着られます…。」
「体型が変わっていないことを自慢したいわけ?」
「そ、そんなんじゃありません!」

どうも、何を言ってもからかわれてしまう。
「それに、僕を先生と呼ぶのはやめてください。」
「あら、学者先生なんだから、先生と呼んで何の不都合があるの?
それに、水商売の世界ではね、恰幅の良いお客様は「社長さん」、ほっそりしたお客様を「先生」と呼べば間違いないのよ。」

なるほどと思う。
社長さんと言われて悪い気がする男はそれほど多くないだろう。
しかし…。
「でも、僕は客じゃないわけですし。」
「まあ…そうだけど。」

小首を傾げて考える風だったゆかりさんは、いいアイディアが浮かばなかったようで、話題を戻した。
「では、一旦帰って着替えていらっしゃい。家は歩いて行けるんだったわね?」
「はい。線路の向こうですけど。」
「では、すぐにいってらっしゃい。あ、それから。」
ゆかりさんに背を向けかけた僕は、立ち止まって振り返った。
「履歴書もね。ある?」
「もちろん!」

カラリンコロン。
僕の背中でカウベルが小さくなった。

履歴書。
29社目の不採用通知をもらったあと、投げやりな気持ちを無理やりエネルギーに変えて、あと1枚だけと指に言い聞かせて書いた履歴書があった。
書くだけで、使う気のない履歴書のはずだったが、あの努力が報われる。
今夜試しに…と言われただけなのに、僕は明らかに舞い上がっていた。

大急ぎで着替えて店に戻ると、ゆかりさんもすっかり着替えて支度を整えていて、夜のママの顔になっていた。
それでも、あの人懐っこい雰囲気は隠しようもない。
店の奥を示して、カバンやコートやマフラーを置いて、ズボンとシャツだけでいらっしゃいという。
言われたとおりにして戻ると、ゆかりさんはいたずらっ子の顔をして、黒いベストを差し出した。
「これ、その上に着てちょうだい。それがあなたの制服ね。」

はいと受け取ってみたら、黒いのは背中だけで、前面はなんとも表現のしようのない、七色の細かい糸が輝いている。
「派手ですよ!」
僕はこんなキラキラしたものを着たことがない。
全身全霊で似合わないと感じたのだ。

「自分のために着ると思うから抵抗を感じるの。
勘違いしないでちょうだい。
あなたを飾るために着るのではなく、お客様の目を楽しませるために着るのよ。」
これでは、言い返しようがない。
僕は苦い薬を一息で飲み込むのと同じ思いで、袖を通した。

「履歴書は?」
「これです。」
カウンターに出しておいた紙を手渡すと、ゆかりさんはざっくりと目を通して、すぐに顔を上げた。
「あなたに、源氏名をつけることにしたの。」
「源氏名ですか?ホステスじゃないんですけどね。」
「似たようなものでもいいでしょう?本名では味気ないし、化けられないでしょう?」
「化ける…。」

ここを見てと、ゆかりさんはカウベルのドアの脇にある、小さな掲示板のようなものを指差した。
見上げると、小さな真新しい木の札が掛っている。
ゆかりさんがはずして手渡してくれたのを見ると、黒々とつやのある楷書の筆文字で「穂高」と書いてあった。

「穂高?」
「そう。それが今日からあなたの源氏名よ。」
「穂高…」

ほたか、ほたかと何度か口の中で繰り返す。
なんとも不思議なざわめきが、胸の底の方に広がった。
「あなたがいないときは、こうして裏返しておいてね。来たら、こうやって名前を前に。」
「わかりました。」
「それから。」

次から次へと出てくる驚きで、僕は足の裏が地面から浮いているような感覚を味わっていた。
「靴を磨いて。今すぐ。」
「はい

ゆかりさんはたった一言で、僕を地面に戻してくれたのだった。






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