Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年12月


「ルー、どうした?」
冷静に問いかけたつもりだったが、震える声が明確に非難を伝えてしまっている。
楽屋のパイプ椅子に足を投げ出して座り、俯いて、髪で表情を隠したルーは返事をしない。
「コンサートだぞ。
小さな会場だし、何万人集めたわけじゃない。
でも、お前の歌を聞きたくてわざわざ金払って遠くから来てくれたお客様もいること、分かってるだろう。」
責めてはならないのだ。
話し合いをしようとしている時に、責めてはいけない。
本番に遅れたわけではないんだ。まだ間に合う。 
頭ではわかっていても、どうしようもなかった。

あと10分ほどで、コンサートが始まる。
大幅に遅刻してきたルーのせいで、リハーサルは最小限のおざなりなものになった。
私には、それがどうしても許せない。
どんなに小さなコンサートでも、多くのスタッフがいる。共演者がいる。何より、お客様がいる。
だから、時間を守り、全神経を集中しろと口を酸っぱくして言ってきた。
長い年月をかけて私がルーに伝えたことは山のようにあったけれど、唯一これだけというものを選べと言われたら、この一点になるのだ。
なのに、ルーは遅れてきた。
理由も言わず、誠意をこめて謝るでもない。
ミスを取り戻すような覇気を見せるわけでもなかった。

「黙っていてはわからないだろう。どうしてこんなことをするんだ。」
冷静さを装った分余計に、私は爆発寸前になった。
ルーをこの世界の住人にしたのは、この私だ。
もちろん、すべては彼女の実力と才能、努力と運があったからだ。
それでも、彼女一人でここまできたわけではない。
なのに!

「あたし、もう歌いたくない。」
ぼそりと言う声を聞いて、何か言えと言ったのは自分なのに怒りが煮えたぎった。
「歌いたくない?何を言っているんだ。そんなの、今言うことか?」
「歌うのは私よ。私の気持ちが最優先でしょう?三木さん、お客様に言ってきてよ。私、今日は無理。」
その言い草に、私は怒りを通り越して呆れかえった。
「なぜ私がお客様に言うんだ?そんなことは自分で言え!」
「だって、三木さん、私のマネージャーでしょ?」
そういいながら、ルーは顔をあげた。
予想外に強い視線に私が言い返す言葉を一瞬ためらうと、ルーが先に言った。
「私、大切な人ができたの。今度ちゃんと三木さんにも紹介するわね。今は歌より彼との時間が大事なの。」
「ふざけるな!」
叫ぶ前に声を失ったのは、ルーが髪をかきあげた首筋に、赤紫色の斑…それが真新しいキスマークであることくらい、誰が見たってわかるだろう…が見えたからだ。
私は震えだした手で、自分のバッグをつかみ上げた。
「好きにしろ。」
彼女の後ろでおろおろと様子を見守っていたメイクの女の子やスタッフをおいて、私は部屋を出た。
そのまま通りに出て、コンサート会場を後にした。


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「ルー、どうした?」
「どうもしないけど、いざ退院となると、思いがけず4か月も慣れ親しんだこの部屋が立ち去りがたくて…。」
俺が思わず未練を口にすると、俺の荷物がパンパンに詰まったチェックの紙袋を2つ両手に提げたミノが、よだれが垂れそうな声で言った。
「じゃ、もうちょっと入院するか?」

冗談だとは重々承知しているが、なんだかムカッ腹が立ったので、うるさいと声に出して言って、病室から廊下へ踏み出した。
「なんだ、やっぱり帰るのか。」
まさか本気で俺が留まると思ったわけではないだろうが、ミノが落胆した口ぶりで言う。
まったく、縁起でもない奴だ。

このところリハビリが進んで、時折通りの向こうのコンビニまで外出したりはしていたのだが、いざ退院となると、どういうわけか心細さが募る。
骨は本当にくっついたのだろうか。
ちょっと激しく動いたら、またパキッとバラバラになるのではないか。
根拠のない空想が頭の中を駆け巡り、落ち着いていられなくなるのだ。

「お前、ナースステーションにちゃんとお礼に行くんだろうな?」
「当たり前だ。手土産も用意してもらったぞ。」
母さんに頼んで届けてもらったヨックモックの袋をミノに見せてやった。
ヨックモックは営業の基本だ。
小さい、数がある、手が汚れない、そして、美味い。

「お前なぁ、営業に行くんじゃないんだぞ。4か月も世話をかけておきながら、ヨックモックか?!」
ミノは細かいところを突いてきた。
「いいじゃないか、美味いんだから。」
「無粋な奴だ。そんなことだろうと思って、用意しておいたぞ。これも一緒に渡すといい。」
「なんだ?」
「こういう時には治一郎だ!」
「あのバウムクーヘンか!確かに、あれは美味かった。」

骨折の最初は、甘いものを控えよとのことで食べられなかったが、そのうちOKが出て、普段はそれほど甘党ではないのだが、どうしても何か食べたくなった。
ミノにその話をすると、翌日買ってきてくれたのが、治一郎のバウムクーヘンだったのだ。
大きなリングではなく、小分けになったクーヘンが4切れ入っている手ごろなサイズの袋物だ。
食べてみると、しっとりとして甘すぎず、こんなに美味いバウムクーヘンは生まれて初めて食べたと思った。
ミノにもそう言うと、フフンと鼻を鳴らして、
「このうまさが、わずか216円。店に出向かないと買えないんだ。」
いいことを知っているだろう?と言わんばかりの顔をしたのだった。

「このフロアの看護師さんは全部で8人。何があるかわからないから、10個箱詰めしてもらったぞ。」
「あ、ありがとう。すまないな、気を遣わせて。」
「ふん。」
どういうわけか、今日は毒が吐けない。

ナースステーションであいさつを済ませて、階段へ向かった。
背後で、これ治一郎じゃない、センスいいわねぇ、ほんと、これ大好きだけど、わざわざ買いにいかないと手に入らないからなかなか食べられないのよねぇと、明るい歓声が上がっている。
背中を耳にしているに違いないミノが、顔中を笑顔にしている。
だからだろうか、いつになくタラタラと歩いて、なかなか進まない。
「おい、ミノ。そんなにゆっくり歩かなくても、俺はもう大丈夫…」
「ミノルさん!」

ミノをせかそうとしたとき、声をかけられた。
振り向くと、小学校からのギャグ同様、ミノも一緒に振り向いた。
実さんならこいつのことだ。稔さんなら俺を呼んだことになる。
が、声だけでは分からない。
これだから面倒で、俺たちはミノルをミノ、俺をルーと呼び分けることにしたのだ。

口を開いたのはミノの方だ。
「理緒ちゃん!」
「理緒ちゃん???」

小走りに寄ってきたのは、俺の担当ナースの脇坂理緒さんだ。
小柄な体型ながら見事なプロポーションで、しかも明朗闊達、彼女のおかげで、暗くなりがちな病院生活がどれほど救われたか知れない。
「よかった!すれ違ってしまったみたいで、慌てました。」
「巡回中というので、待っていてもかえって迷惑かと…。」
言いかけた俺の言葉を制して、ミノが言う。
「こいつの無礼ときたら、つける薬がないよ。」
なんだ?この馴れ馴れしい口のききようは!

「退院ですもの。早く帰りたいのは患者様みなさん同じよ。」
かえって脇坂さんがたしなめてくれている。
俺は味方を得た思いで、心強くなった。
「ミノルさん、岩田さんを早く送ってあげて。」

ん?
ちょっと待った。
岩田さんは、言わずと知れた俺のことだ。
じゃ、ミノルさんは、誰だ?
こいつか?!
俺は瞬きを忘れてミノを見た。

「わかったわかった。じゃ、話の続きは今夜。」
「うん。楽しみ!」
何の、話だ???

「おい。ミノ。お前、何の話をしているんだ?」
「ああ、今の話か?言ってなかったっけ?」
もちろん。聞いていたらわざわざ質問しないだろ?
「今夜、なんだか知ってるか?」
「今夜はクリスマスイブに決まってる。」
「そうだよな?だから、理緒ちゃんとデートなんだ。」
「ふーん。……………え?」

俺の思考回路がフリーズした。
でーと?
誰と、誰が?
脇坂看護師を見ると、なんと、かわいい子犬のような彼女が、耳まで真っ赤にして恥じらっているではないか!

「いつの間にそんなことになったんだ?」
「だってお前、毎日毎日お前の見舞いにきて、お前の様子を聞いているうちに、すっかり理緒ちゃんと意気投合してなぁ。あははっ!」
俺の心の底から、ムクムクと何かが立ち上がってきた。
嘘をつくな!
俺の見舞いは口実で、飽きずに毎日通ってきたのは、脇坂看護師に会うためだったんだな!

俺は何か言ってやらずにはいられなかった。
「だからって、坊主がクリスマスイブか!」
キレのない攻撃だ。
でも、しないよりましな気分だった。

「私がお願いしたんです、岩田さん。」
「え?」
「私、お仕事始めてからいっつも、クリスマスイブは先輩に頼まれて夜勤を代わってあげていたんです。いつか私も予定があるからって言いたくて、きれいなイルミネーションとかクリスマスディナーとか、楽しみたくて。そう言ったら、ミノルさんが是非叶えに行こうって言ってくれて。」

それなら、相手は俺でもいいじゃないか!
なんでミノなんだ?

「それに、ミノルさんの仏様のお話、私本当に好きなんです。心が洗われるわ。」
ダメだ。俺に仏様の話はできない。
でも、キリスト様の話ならできるぞ。今夜はそっちの方が相応しいだろうに。
俺だって、俺だって岩田さんのことは気に入っていたのにぃ
トンビに油揚げを攫われたぁ!

「と言うわけだよ。ルー。お前も気付いていると思っていたんだが、悪いなぁ。」
うるさい。その勝ち誇った思いやりが、かえって痛い。
「そうか。よかったじゃないか。脇坂さんはステキな女性だ。大事にしてやれ。」
偉そうに言ってみたが、覇気のかけらもない。

「なんなら、お前も一緒に行くか?クリスマスディナー?」
「誰が行くか!」
「いいんだぞ。俺たち、大晦日も一緒に過ごす約束してるから。」
「ええ。岩田さんもご一緒に。」
だから、その思いやりが痛すぎるんだってば!

「大晦日は、お前、仕事だろうが?」
ミノの家は寺だ。
しかも、結構大きな寺なのだ。
年越しはいつも初詣の準備だの、年越しの行事だの、大忙しのはずだ。
「そうなんです。私たち、一緒に除夜の鐘デートのお約束を。うふっ。」
「除夜の鐘デート…。」

「親父が一昨年くらいから、108回も鐘を突くのはつらいと言い出して、去年は俺がひとりで突いたんだ。今年は理緒ちゃんも一緒に突こうって誘ったら、彼女、ぜひやりたいって言うんだよぉ。」
「私たちの幸せな気持ちを鐘に載せて、世の中に響かせたいな、なんて思ってぇ。」
「二人で仲良く、鐘を突きましょうね!」
「はいっ。」

勝手にしろ。
俺は一晩耳を塞いでやる!
俺の入院中に、勝手に愛を育んでいたのかと思うと、ふつふつと嫉妬と怒りが湧いてくる。
でも、それをここで顔や言葉に出してしまったら、俺は史上最低の男だ。
耐えろ、耐えるんだ!

「俺、ひとりで帰るわ。」
ミノが持っていた紙袋をふたつひったくって無理矢理受け取ると、俺は勢いよく歩き出した。
ミノと脇坂さんが俺の突然の行動に無言のまま、呆然と後ろについてくる。

一刻も早くこの場を立ち去りたくて、エレベーターの手前にある階段を下ろうとした。
動揺と焦りと大きな荷物とで、リハビリ中の俺の脚がもつれた。
なんといっても、複雑に骨折して治ったばかりの脚だ。
あっと慌てたが、完全にバランスを失った。
両手の荷物が、余計にいけなかった。

「危ない!」
1段踏み外したところで、両側からガシッと支えられた。
「大丈夫ですか!」
「気を付けろよ。エレベーターにしようぜ。ほら、荷物貸せ。」
ミノと脇坂さんが支えてくれたのだ。
おかげで、俺は再入院の危機を逃れることができた。

荷物をミノに渡し、体勢を立て直し、ため息をついた俺の後ろで、二人の声が聞こえた。
「危なかったわ。」
「初めての、二人の共同作業だったね。」
「やだ、ほんとだわ。もし岩田さんがまた怪我して入院延長になったら、私の今夜の夜勤決定だもの。よかった。」
「あはは。」
「うふふふ。」

俺は、階段を見つめた。
わざと、飛び降りてやろうか…

その時だった。
ふわりと右ひじのあたりを掴まれた。
振り向くと、脇坂さんの笑顔がぶつかった。
「さ、エレベーターまでご一緒します。これも担当看護師の仕事ですから。」

くそっ!
俺は、安全かつ円滑にエレベーターに載せられ、玄関の外へ送られ、タクシーに乗せられてしまった。
これでは怪我のしようもない。

「ひとりで帰りたいんだったな。」
恋人を得て有頂天の生臭坊主が勝手なことを言っている。
「ああ。お幸せにっ。」
「ありがとう!」
こいつ、嫌味も通じない。

動き出したタクシーの中で、俺はぐったりと眼を閉じた。
「お客さん、退院でしょう?調子悪そうに見えますけど、大丈夫ですか?」
やけに柔らかく、温かないたわりの言葉が耳に届いた。
不審に思い、目を開ける。
丁度、赤信号でタクシーが止まった。
ぐるりと振り向いた運転手を見て、俺は目を丸くした。
気にもかけなかった運転手が、制帽の下から長い黒髪を背に流した、大きな黒目が印象的な美女だったからだ。
まるで黒木メイサだ!
独身かな?と考える端から、落ち着け、落ち着けともう一人の俺の声がした。

今夜はクリスマスイブ。
教会へ行こうか。
この荒波だった心が静まるように。
クリスチャンの俺には、ふさわしい夜の過ごし方に思えた。
幸い、こんなに綺麗な運転手さんが送ってくれるのだ。

「行先、変えてもいいですか?」
「どちらへ?」
「セント・カタリナ教会へ。」
「はい。承りました。あの…」
「は?」
「カタリナ教会って、あの、ステンドグラスが美しいと評判の教会ですよね?」
「ええ。確かにきれいですね。」
「ゴスペルの聖歌隊も有名な。」
「ご存知ですか?俺も好きで、よく聞きに行きますよ。」
「まぁ!私、評判を聞くばかりで、一度も入ったことがないんです。なんだか、無関係な人が入る場所ではないような気がして。」
「そんなことはありませんよ。誰でも、いつでも入れます。門はいつでも開いていますから。」
「お客様、いつもいらっしゃるのですか?」
「ええ。」
「では、ずうずうしいお願いですけど…ご一緒してはいけませんか?」
「え?」
「私、やっぱり一人では。でも、見てみたいんです。いけませんか?」
「いいですよ。」
「まぁ!ありがとうございます!神様からクリスマスプレゼントをいただいたみたい!うれしいわ!」

俺はもう一度目を閉じた。
仏様はミノの味方かもしれないが、神様は俺の味方だ。
さっき階段から飛び降りなくてよかったな。

眼を開けて、タクシーの窓越しに空を見上げた。
高いビルがビュンビュンと動いていく向こうに、清々しい青空が広がっていた。






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「ルー、どうした?」
パパの声が泣いているように聞こえたから、私はびっくりしてパパの顔を覗き込んだ。
やっぱり、パパの目には涙の粒が光っていた。

「いったい、どうしたって言うんだ?」
パパがもう一度言った。
ルーお姉ちゃんにすがりつき、やせ細った両方の肩をつかむと、ゆさゆさと揺さぶった。
でも、ルーお姉ちゃんは表情ひとつ変えずに、パパの顔を見ようともせず、ぼんやりとしている。

ここは、ルーお姉ちゃんが入院している病院で、このお部屋にはお姉ちゃんしかいない。
お隣のベッドは空いていて、ママが休む時に使っていたそうだ。
でも、今、ママはいない。
看病に疲れて、倒れてしまったママは、いま、家で眠っている。

「どうしてなんだ?何度検査しても、お医者さんは病気はもう治っているって言っているんだぞ。
なのに、退院の日になると、決まって高い熱が出たり、意識を失ったりする。
もう5回もだぞ!
どうしてだ?家に帰りたくないのか?
お医者さんは、これは体の病気ではなくて、心の病気だと言っている。そうなのか?」

私はまだ子供だけれど、パパが本当に困っていることだけは分かる。
でも、もしもルーお姉ちゃんが本当に心の病気なら、そんなふうに責めているみたいな言い方をしてはいけないんじゃないかという気がする。
そして、思った通り、無表情なお姉ちゃんが、表情を崩さないまま泣き出した。
どこか遠くを見ているような眼から、大粒の涙だけがこぼれ落ちている。

「ママは倒れてしまったぞ。
ママを困らせて嬉しいか?
本当は、ママが気に入らないんだろう?
というより、俺に復讐したいんだな?そうなんだろ?」

ルーお姉ちゃんは、返事をしない。
ただ、涙だけを流し続けている。
私はとても怖くなった。
小さいころからそうだった。
私は、お姉ちゃんが、いつもとても怖かった。



年の離れた姉妹で、私が小学校に上がるより早く、お姉ちゃんは高校生になった。
そして今年、私が1年生になった。
お姉ちゃんは高校2年生になったが、急に学校に行かなくなった。
最初は具合が悪いって言っていたけど、だんだん、元気な日でも家にいるようになった。
私が学校から帰ると、ママとお姉ちゃんがテレビを見ながら笑っていて、私はなんだか仲間外れにされたようで、悲しくなってしまったものだ。

でも、それも最初のうちだけだった。
ママは私が帰ると、すぐに私の話を聞いてくれた。
楽しそうに笑ったり、ほめてくれたり、教えてくれたりした。
だから、帰った時にママがお姉ちゃんと二人で笑っていても、平気になった。
私は、ママが私に向くと、夢中になって学校の話をした。
それで、話し疲れて、ふと気づくと、ルーお姉ちゃんが、ゾッとするような視線で、少し離れたところから私を見ているのだ。

お姉ちゃんはおとなしくて優しくて、私たちはケンカなんかしたことがない。
どちらかというと、私がわがままを言ってお姉ちゃんを困らせるのだけど、お姉ちゃんがいつも譲ってくれて、ケンカになる前に終わる。
そうすると、ママが言うのだ。
「ルーはさすがお姉ちゃんね。心が優しくて素敵な女性。でも、マユ、あなたはわがままでいけないわ。ルーお姉ちゃんを見習いなさい!」
そうして、ママは私の頭にコツンとゲンコツの真似をする。
「ごめんなさい…。」
私があやまると、決まってママは私を抱き寄せて、ギュッとして、「いいのよ、分かれば。」って許してくれるのだ。
私はそんな時、とっても嬉しくなる。
けど、そういう時も、気が付くと、お姉ちゃんが怖い目で私を見ている。
それで、余計ママにしがみつく。
ママは、私が自分から離れるまで、抱き寄せていてくれるのだ。

ルーお姉ちゃんが学校に行かなくなって3か月、長い夏休みがやってきた。
毎日ママとお姉ちゃんと過ごしているうちに、私はお姉ちゃんが学校に行けないことを忘れてしまっていた。
なんだか、家にいるのが当たり前だったから。
でも、9月になって、私がまた学校に行くようになると、お姉ちゃんはどんどん具合が悪くなって、とうとう入院してしまった。

ママは毎日病院に通って、お姉ちゃんのそばにいるようになった。
完全看護とかいって、別にママがいなくても困らないらしいのだけど、ルーお姉ちゃんが喜ぶからといって、ママは毎日毎日、病院に行った。
学校から帰っても、ママが家にいないのはとっても寂しかった。
それでも我慢できたのは、お姉ちゃんが心配だったのと、夜帰ってきたママが、お布団に一緒に寝てくれるからだった。
ママに頭をなでてもらい、暖かい腕に包まれていると、一人で寝る時よりもずっとよく眠れた。

お姉ちゃんが落ち着いてきたからというので、私はパパと一緒にお見舞いに行った。
11月の初めだった気がする。
ベッドの上で、かわいいパジャマを着て座っているお姉ちゃんはずいぶん元気になっていて、ママと笑いながら話をしていた。
私にも、珍しく、お姉ちゃんから話しかけてくれた。
「マユ、ママがいつも病院でごめんね。寂しいでしょ?」

私は答えた。
「ううん。大丈夫だよ、お姉ちゃん。おうちに帰ってから、ママと一緒に寝てるから、寂しくないよ。だから早くよくなってね!」
「そう。よかった。」
お姉ちゃんの声はいつものように優しくて、口元は笑っていたけれど、目が青白く光った気がした。
怖かった。

そのあとだろうか。
病院から、夜になると電話がかかってくるようになった。
お姉ちゃんが夜になるとひどいことになって、看護師さんがママを呼ぶのだ。
晩御飯の前に一度帰ってきたママは、また病院に行かなくてはならない日が増えた。
そのうち、夜になっても帰ってこなくなった。
ママが病院にいると、お姉ちゃんはひどいことにならないらしく、パパもママも、私に我慢してねと何度も言った。
私は、寂しくて不安だったけど、パパが仕事から急いで帰ってきてくれるようになったこともあり、一生懸命我慢することにした。



「復讐、なんだろ?」
パパがまた言った。
恐ろしい声だった。
「違う。」
低い、乾いてかすれた声。
それがこの日初めて、ルーお姉ちゃんが出した声だった。。

「じゃ、何なんだ?本当の気持ちを話してくれ。あのことを根に持っているのだろう?」
「根に持って?」
お姉ちゃんの声が、悪い魔女のように変わっていた。
「根に持つ?そんな言い方しかできないの?私をずっとだましていたくせに!」
「やっぱりそうか。そういうことか。」
私には意味が分からない。

「マユ、教えてあげる。」
ルーお姉ちゃんの口元が、醜く歪んだ。
お姉ちゃんは、お人形さんみたいに綺麗で、私はいつもうらやましくて、私もお姉ちゃんみたいに綺麗だったらよかったのにって思っていた。
でも、今はもう思わない。
それほど、お姉ちゃんの顔は醜かった。

「やめないか!」
パパが私の腕を引っ張って、病室から連れ出そうとした。
「あたしはね、ママの子供じゃないの!パパはあんたのママと浮気して、私を生んだママを捨てたのよ。私はまだ小さくて、何も覚えていなくて、あんたのママを自分の本当のママだと思ってた。でも、違ったの。学校で戸籍謄本のことを習ったから、興味本位で自分の戸籍謄本をとってみたの。それでわかったのよ。パパを問い詰めたら、白状したわ、本当のことを!」

私には何の事だかさっぱり分からない。
パパは私を引っ張る腕から力が抜けてしまったようで、ドアの近くでお姉ちゃんに言い返した。
「ママはお前の本当のママになろうと、努力してきたじゃないか。ずっとお前だけを大事にして、自分の子供を産もうとはしなかった。」
「当たり前でしょ!あたしのママが自殺したのは、あの人のせいなんだから!」
「ルー!お前、どうしてそんなことを!」
「おばあちゃんに聞いたのよ。自分のことだから、きちんと知りたいって言ったら、話してくれたわ!」
「お袋…バカなことを…なんで俺に言わないんだ…。」

「マユ!あんたのママは、私からママを奪ったのよ。だから私はあんたからママを取り上げてやる!」
私はお姉ちゃんの言うことが怖くて、パパの後ろに隠れて、足にしがみついた。
パパが私の背中を抱いてくれた。
「やめないか。この子には何の罪もない。恨むなら俺を恨め!それに、出来事はお前が思っているほど単純じゃなかったんだ!」

不意に、ヒーッとひきつるような笑い声が、お姉ちゃんの口からこぼれ出た。
黒板を爪でひっかいたような笑い声は、止まることなく響き続けた。
バタバタと何人かの足音が聞こえ、扉が開いて、駆け込んできた。
お医者さんと、看護師さんたちだ。
「さ、お部屋から出てください。お嬢さんも、ね?」
若い看護師さんに背中を押されて、廊下に出た。
「許さない!とことん不幸になればいい!」
扉が自然と閉まる寸前に、呪いの声が聞こえ、扉が閉まると同時に途絶えた。

ベンチがある待合室まで行くと、パパは力なく座り込んで、両手で頭を抱えた。
私はパパがかわいそうで、パパの短い髪を撫でてあげた。
「マユ。」
パパが顔を上げて、私に言った。
「パパもママも、お姉ちゃんが何をしようと言おうと、決してマユを悲しませたりしないからね。」
「うん。分かってる。」
私は心の底から、パパの言葉を信じていた。
「お姉ちゃん、かわいそう。」
私がつぶやくと、パパが消えそうな声で言った。
「そうだね。」
「お姉ちゃんは、私のこと、嫌いだったんだね。」
パパは、答えない。
「私のことだけじゃなくて、パパのことも、ママのことも、嫌いなんだね。」
「どうも、そうみたいだ。参ったな。」

私は心が石になったみたいに重たくなっていた。
真っ暗な部屋の中に閉じ込められたみたいな気持ちだった。
生まれて初めて、本物の憎しみを目の当りにしたからだろう。

でも、私はひとりではなかった。
パパがいて、ママもいる。
でも、お姉ちゃんはひとりぼっちなんだな。
寂しいだろうな。

パパを元気づけたかったけど、なんて言ったらいいかわからなかった。
パパ以上に疲れて、病気になってしまったママに、どうしてあげたらいいかも分からない。
自分が、思っていた以上に子供で、どうしようもなく無力であることにムシャクシャした。

「なぁ、マユ。」
「なに?パパ。」
「おうちに、帰ろうか。」
「うん。」
「ママと3人で、ごはん食べよう。」
「うん。」
「パパは思うんだ。今日はいい日だって。」
「どうして?ルーお姉ちゃんにひどいこと言われたのに?」
「ルーお姉ちゃんがひどいことを言ってくれたからだよ。」
「わからない。私、怖かった。」
「お姉ちゃんはずっと、本当の気持ちを言えなかったんだ。でも、今日、やっと、本当はとても怒っていて、寂しくて、どうしようもなかったんだってことを、話してくれたんだよ。」
「……。」
「だから、今日はいい日だ。」
「そうかな?」
「まずはね、マユ。パパとマユが元気になろうな。」
「どうして?」
「パパとマユが元気になれば、ママもきっと元気になるよ。そして、3人で元気でいたら、お姉ちゃんにもいつかきっと、元気を分けてあげられる。」
「そうだといいね。」
「ほんとにね。」

「さあ、帰ろう。今は、離れることが愛だと思う。」
パパの言葉の意味は分からなかったけど、私はこの日、少しだけ、愛の意味を知った気がした。






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「ルー、どうした?」
正樹が声をかけてきた。
俺が黙ってケータイの画面を見つめていたからだ。
部活後のマクドナルドは、俺たち高校生の憩いの場だ。
どうでもいい話をくっちゃべって、さあて帰るかと思った時に着信した。

「いや、意味の分からないメールなもんで。」
「誰から?」
「母ちゃんから。」
「へ?おまえんちの母ちゃん、ケータイなんか持ってたっけ?」
「買ったんだよ、先週。このスマホの時代に、やっとカンタンケータイ。」
「へー。」

正樹にケータイの画面を向けて見せた。
「どれ?ん?なんだこりゃ。」
画面には、呪文のようなひらがなが並んでいる。

こはんてきたはよけれ

やたらと文字がでかい。
なにしろ、年取ってから俺を生んだだけあって、母ちゃんはすでに老眼なのだ。
こんな設定ができたのか。意外だ。
それはそうと、何が言いたいのだろう。

「わかった!」
しばらくケータイを見つめた正樹が、目を輝かせて笑っている。
「おばさん、濁点の打ち方知らないんじゃないの?」
「かもしれない。」
「これ、『ごはんできた』だよ、きっと!」
「あー。なるほど。じゃ、『はよけれ』は?」
「ま、たぶん、『はよかえれ』とか打とうとして、カ行をエ段まで送っちゃったんだろうね。」
「あーー。そういうことか。」
「ちゃんと濁点の使い方と、スペースの入れ方、教えてやれよ。」
「教えたよ、何度も!漢字変換だって教えたんだよぉ。」

この3日ほど、うるさくせがまれて、メールの打ち方を何時間も教えた。
母ちゃんは、俺と一緒の時はなんとかなるのだが、「大丈夫やで、もう」と言う割には、翌日、授業中に平気で電話をかけてきた。
しかも、何度も!
何かあったのかと、休み時間にかけなおしたら「メール送っただけや」ときた。
メール、来てないって。

「もう帰る」と速攻返信したら、間もなく返事が戻ってきた。

わかつたきおつけれ

「っ」の使い方も教えなきゃ。
でも、「気を付けて」が正しいというところは、今更俺が教えることだろうか?

「おまえんちの母ちゃん、ホント面白いよなぁ。」
正樹は思い出し笑いが止まらなくなっている。
「うるさいよ。人んちの母ちゃんで笑うな。」
「コテコテの関西人だもんな。」
「まったく、もう東京で暮らしている年数の方が長いっていうのに、いまだに関西人抜けないんだ。つーか、関西人にしがみついてる!」
「あの、ヒョウ柄、東京で手に入るところがあるとは驚きだ。もしかして、通販か?」
「通販なんてオシャレなこと、できるわけないだろ?あれは里帰りしたときに、本場でまとめ買いしてくるんだ。荷物持たされる俺の身になってほしいよ。」

母ちゃんは機械音痴で、ケータイが無理なくらいだから、パソコンなんてとんでもない。
それでも通販は、電話でもできる。
母ちゃんは新しもの好きでもあるので、一度は試してみた。
あの、甲高い声で有名な社長がやってるやつ。
「ゲンリッチ」とかいう、お肌がプルプルになるという触れ込みの、オールインワンジェルだ。
「うそやろ?あのオバハンに効くんなら、ワタシが使こたら綾瀬はるかになってまうがな!」
「アホ!元々の造作が全く違うっつーの!」
「そうか?」
そうか?って、あんた、鏡持ってんのか??

ちなみに、母ちゃんのせいで、おれは標準語と関西弁のバイリンガルだ。
友達の前で関西弁を使うような無神経なことはしないし、母ちゃんに標準語で話しかけるような情のないことはしない。

それはさておき、あの時、せっかく電話したのに、ゲンリッチは母ちゃんの元には届かなかった。
「かわいそうな姉ちゃんでねぇ。」
は?
どうやら、注文の電話に出たお姉さんの人生相談に乗ろうとしたらしい。
声が湿っぽかったから、何か悩み事があるはずだ、おばちゃんが聞いたげると言ったのに、遠慮して何も言わん、東京者は人を信用せんから…
いやいや、母ちゃん。
電話交換手というのは、甲高い声出すと人の癇に障るから、わざと湿っぽい声から始めるねんて、と教えてやったが、後の祭り。
それに、あの通販会社のコールセンターは、大分だか熊本だか忘れたが、とにかく九州にあるはずだ!
湿っぽい声のお姉さんは、東京モンではなくてくまモンかもしれないのだ。
注文をすっかり忘れて電話を切ったのだから、母ちゃんを綾瀬はるかにしてくれる魔法のジェルは、いくら待っても届かないのだ。

「俺さぁ、おばさんのヒョウ柄も好きだけど、家にいるときの恰好が一番好きだよ。」
なーにが好きなものか!
「その話はやめてくれ。」
「あれ、今も着てるのか?」
…………着てる。
「うっほー!」

正樹が腹を抱えて爆笑している。
仕方ない。
母ちゃんの家着は、なんと俺の中学ジャージと体操着なのだ!
胸に中学の校章が印字されていて、四角の中にマジックで苗字を書いた、あの白い体操着を…今では少し黄ばんでいるあの体操着を、後生大事に着ているのだ。

何度やめてくれと言っても、母ちゃんはあのジャージを捨てない。
丈夫だし、汗をよく吸うし、サイズはぴったりだし、高かったし。
母ちゃんの根拠は岩のようにガッチリしていて、崩しようがない。
「お前、高校卒業したら、部活ジャージをプレゼントしてやれよ。」
「やだよぉ。」
「いや、あれよりは見られるって。」
そういう問題だろうか?

じゃあなと、正樹と別れた。
電車に乗るのはたった3駅。
降りて歩いていると、また母ちゃんからメールが来た。

カツアゲたはやくきて

カツアゲ!
俺は焦った。
家にいたんじゃないのかよ!
助けを求めるような状況なんて!

走り出したところで、急ブレーキをかける。
待てよ。
濁点が打てない母ちゃんのメールが、『カツアゲ』と濁点を使ってる。
わかったぞ。
トンカツ揚げたってことだな!
かつって打ったら、カツアゲが勝手に出てきたので利用したんだろう。
ほら、「た」だけひらがなになってるもんね。
俺は一瞬力んだ分、脱力してしまった。

ったく、なんて母ちゃんだ。
トンカツは俺の大好物だ。
だから、知らせたかったんだろう。
早く帰ってきてほしいんだ。

どんなに機械音痴でも、クルクルパーマで俺の中学ジャージを着ていても、俺は母ちゃんが大好きなんだ。
ま、図に乗るから、絶対に言ってやらないけどね。

俺は急ぎ足で家に向かった。







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「ルー、どうした?」
私は、はっちゃんに、足元に落ちていた袋を持ち上げて見せた。
「ね、これ、落し物みたい。」
「落し物?誰か置いていったんじゃないの?」
「でも…。」
周囲を念入りに見回してみたけれど、人の気配はない。
大きな公園の遊歩道で、明るいうちはジョギングの人や散歩の家族連れが通るけれど、 すっかり暗くなった今は、そんな人も見受けられない。
私たちだって、普段はこんな道は通らない。
予備校の帰り道、急いで帰りたいから、近道のために通ったのだ。

「寒いから、早く帰ろうよ。」
はっちゃんは急ぎ足でここまで来たことからもわかるように、本気で先を急いでる。
「うん。でも、落とした人、困ってるかも。」
「何が入っているの?ゴミじゃないの?」
「ゴミにしては重いけど…。」

私は、どこにでもある白い紙袋の中を覗いてみた。
厳重に封がされているわけでもない。
中にもう一つ、茶色の紙袋が見えた。
薬局で薬を買うと入れてくれる、あの茶色の袋だ。
真四角の手触りがした通り、出てきたのは札束だった。
「はっちゃん、これ、お金だ!」
「うそっ!」
私たちは一番近い街灯の真下まで行って、じっくりと確認した。
100万円の札束が3つ、風袋が付いたまま無造作に入っていたのだ!

「これ、100均で売っているおもちゃじゃないの?」
「にしても、よくできてるね。」
「ま、確かに。だとしたら、これヤバいよ。」
「そう?事情は分からないけど、落とした人がいたとしたら、すごく困ってるよ。」
「ルー。よく考えてよ。こんなところに落としたとしたら、すぐに探しに来ると思わない?」
「どこで落としたのか分からないのかもよ。」
「なんか、ヤバいお金だよ、きっと。関わるのやめようよ。」
「はっちゃん、刑事ドラマの見すぎだよ!」 
「ああ、もうめんどくさい!あたしは帰るよ。もうすぐ『秀吉ラプソディー』が始まっちゃうんだ。今日は録画予約を忘れちゃったから、絶対帰る。1週間にこの1時間だけが私の憩いの時間なんだよ?最終回だけ見逃すなんて、耐えられないもん。」
「うん…。」
「じゃ、行くからね。ルーもそんなもの、そこに置いてくか交番に届けるかして、早く帰った方がいいよ。センター試験まであと1か月ないんだよ。ここまで頑張ってきて、冷えてインフルエンザで受験に響いたなんて、笑えないからね!」
「うん。わかってる。交番に届けて、すぐ帰るよ。」
「よし。じゃーね!」

はっちゃんは分厚いマフラーでもう一度口元をきっちり覆うと、勢いよく走り去った。
ひとりになってみると、空気の冷たさが肺に突き刺さる。
早く交番に行って届けようと、私も歩き始めた。
ここから交番へは、今来た道を駅前まで引き返さなくてはならない。
家まではもう一息、そこまでなのに。
確かに、ちょっと面倒くさいなと思った。
明日でも、いいか。
10歩歩いたところで立ち止まった私は、そのままくるりと向きを変えて、家に帰ることにした。
寒くて面倒だから。
それしか、理由はなかった。
はずだった。

ヒンヤリとした部屋に戻り、手早く制服を脱いで部屋着になる頃には、少しずつエアコンがきいてきて、空気が暖かくなった。
すると、机に置いた紙袋が俄然気になり始めた。
別にやましい訳でもないのに、部屋のカギをかけて、机の上に3つの札束を並べてみる。
もう一度よく見たが、やはり本物のようだ。
私がこれを拾ったことは、はっちゃんしか知らない。
そして、そのはっちゃんは、私がこれを交番に届けたと思っている。
私が家に持ち帰ったことは、私しか知らないのだ。

もしも300万円が自由に使えたら、何がしたいかと考えた。
何も、浮かんでこない。
机に載ったパソコンを起動して、300万円で買えるものを調べてみた。
ホンダのフィットだったら2台買ってもおつりがくる。
この前、かっこいいなぁと思って眺めたモンクレールのダウンコートは10着以上大人買いしても楽勝。
一度行ってみたいハワイ旅行も、往復ビジネスクラスで、カハラリゾート最上階のスイートに宿泊して5日間で250万円くらい。あと50万円お買い物ができる!

不思議な気分だった。
家が買えるとか一生働かずに暮らせるという金額ではない。
その気になれば5日で使い切れる額と分かると、何か大したことないような気がしてきた。
使ってしまったら犯罪かもしれない。
でも、ちょっとの間持っているだけだったら…。
誰にも言えないヒミツを抱えるのは、17年の人生で味わったことのないドキドキだった。
明日には交番に届けるのだし。

その夜は、なんだか興奮して眠れないまま、朝になった。

朝方ウトウトしたせいで、寝坊してしまった私は、あの、机の2段目の引き出しの奥にしまっておいた紙袋を取り出さずに学校へ向かった。
一度帰ってから、交番に行こう。
特段、考え込むこともなしにそう決めて、いつものルートをいつものように登校した。

が、何かがおかしい。
誰かが、私を見ている気がする。
でも、何度見回しても、それらしい視線を捕まえることができない。
私は首を傾げながら、寝不足のせいだろうと考えた。

ふと、はっちゃんのことが頭に浮かんだ。
寝坊したせいで、いつもより電車が2本も遅れてしまった。
はっちゃんはもう、学校についているだろう。
ふと、はっちゃんが、夕べ私が紙袋を拾った話を、みんなにしているのではないかと、思った。
なんといっても、インパクトのある出来事だ。
あれからどうした?交番に行った?と聞かれるに違いない。
行ったと言えば、嘘をつくことになる。
行かなかったと答えたら、どうなるだろう。
「本当は、もらっちゃうつもりだったんじゃないの?」と、言われるに決まっている。
はっちゃんは優しい子だから、私にそんなことは言わないかもしれない。
でも、立場が逆だったらどうだろうか。
私はきっと、「ネコババを決め込むつもりだった?」とからかってしまう。

コートの中で、全身からじっとりと汗が滲んできた。
今朝の電車は暖房が利きすぎてる!
盗もうとなんかしてないわ!
私は、心の底で、うすうす気づき始めた。
夕べまっすぐ交番に行かなかったこと、今朝寝坊を理由に交番を後回しにしたことが、いかに愚かな選択だったか。

また、誰かに見つめられた気がした。
おかしい。
見張られているのだろうか。
あと駅1つで降りるというところに来て、私はじっとしていられなくなった。
頭の中で、黒づくめの男たちが、お金を取り返すために、私の家になだれこむ様子が何度もリプレイされていたからだ。
何も知らない母が抵抗して、男たちに殴り倒される。
違うの!
お金は返すわ!
私はいつもの駅で降りると、あわてて反対側のホームに回り込み、家に戻る電車を待った。

考えれば考えるほど、危険なことだらけに思えてきた。
あのお金は、麻薬かなんかの取引の代金だったのかもしれない。
やましいお金だから警察に落としたと届けられずにいるのかもしれない。
お金を置いた人が、親分にお仕置きされて、殺されてしまっていたらどうしよう。
私が、殺人の原因を作ったことになる!

頭の中が鉛色に染まっていく。
一番の親友だと思って疑ったことがないはっちゃんに、秘密を持ったのが、何より苦しい。
寒かったから、後回しにしただけなの!
でも、大好きなはっちゃんから、「本当は…」と疑いの言葉を言われるのは辛すぎた。

乱暴にドアを開けて、家の中に駆け込んだ。
驚いた母が出てきて、どうしたの?と追いかけてきた。
何でもない、途中で気分が悪くなったのと、言うしかなかった。
まさか、机に隠した300万円を取りに来たとは言えない。

母は、とても驚いて、私の部屋までついてきて、熱はないのか、夕べ寝冷えをしたのではないかとあれこれ聞いてくる。
朗らかで、やさしい人なのだ。
そして、いつも正しくて、成功する。
私が拾ったお金を家に持ち帰ったと聞いたら、何と言うだろう。
言えなかった。

母を部屋から追い出すために、パジャマに戻ってベッドに入って見せなくてはならなかった。
学校には、母が欠席の連絡を入れてくれることになった。
母が部屋を出たとたんに飛び起きて、引き出しを開ける。
あの紙袋は、入れた時と変わらない様子で、そこにあった。

安全地帯であるこの部屋に戻ったことで、私は少し冷静さを取り戻した。
とにかく、あのお金を交番に届けて、このことから逃れ出よう。
今すぐ出ては、母に疑われかねないので、あと1時間くらい休んでから、もう治ったと言って家を出ればよいに違いない。
行動計画がはっきりすると、全身が疲れに包まれた。
夕べ、あまり眠れなかったせいもあるのだろう。
ぐっすりと眠り込み、目覚めたらもう12時が目前だった。

3時間も眠っちゃったわ!
少し慌てて布団を跳ね上げたとき、また、あの視線を感じた。
まただ!
絶対、絶対に誰かが見ている。
部屋の中をじっと探すが、今回も正体が分からない。
心の中に、またゾゾっと悪寒が走った。
のんきに寝ている場合じゃない。
交番に行かなくては。

その時、鞄の中に入れっぱなしだったスマホがコロンと鳴った。
ラインだ。きっと、はっちゃんだわ。
鞄に手を伸ばしかけて、あわてて引っ込めた。
読んでしまったら、きっと書いてある。
どうしたの?大丈夫?だから夕べ言ったじゃない、あんなお金なんか放っておいて…

私は両手で髪をぐちゃぐちゃにかき回した。
とんでもないことに巻き込まれてしまった。
交番だって同じじゃない!
どうしてすぐに届けなかったのか、盗むつもりだったのだろうと言われたら、なんて言えばいい?
寒かったからなんて言い訳が、通用するとは思えない。

私は何もかも面倒になった。
そうだわ、このまま、何もなかったことにしよう。
学校は、しばらく休んでもいい。
風邪が治らないと言って、家で勉強していればいいのよ。
大学に入ってしまえば、高校の友達とは滅多に会うこともないだろう。
はっちゃんだって、その頃には、紙袋のことなんか忘れてしまうに違いない…いや、忘れてほしい。

また、視線を感じた。
だんだん、視線が熱を帯びていくようだ。
やめて!
私は頭から布団をかぶった。
本当に、寒気がしてきて、私は唇を震わせた。



センター試験当日の朝を迎えた。
とうとう私は、あれから一度も学校に行けなかった。
でも、勉強はしていたと思う。
集中はできなかった。
お金の落とし主が、私を監視しているからだ。

朝早く、家を出た。
私が家を出られただけで、両親はもう合格したかのように喜んだ。
駅に向かう。
あの視線が、じっとりとついてくる。
家の外は危険だ。
私は今日、生きて帰れないかもしれない。

不運はもう、始まっていた。
誰にも会わないように、とても早く家を出たのに、ホームにはっちゃんがいたのだ!
はっちゃんは手を振りながら駆け寄ってきて、呆然とする私に抱き付いた。
「ルー、よかったぁ、ラインしてもメールしても返事ないし、心配してたのよ。具合はいいの?」
「うん。心配かけてごめんね。」
ホームに向かって、キキキーと大きな音を立てながら、電車が駆け込んでくる。
はっちゃんが、まだ私の両腕をしっかりとつかんだまま、私を揺さぶって言った。
「あんなお金なんか拾うから、おかしなことに巻き込まれたんじゃないかって、ほんとに心配したんだからね!」

私は反射的に、全力ではっちゃんを突き飛ばした。
その反動で、体がグラリと線路の方にむかって揺らいだ。
ホームの半ばまで入ってきていた電車が、すぐそこに見えた。
「キャーッ!」
はっちゃんの悲鳴が耳障りに響いた。
体のバランスを失いながら、私はホームの向こうから、私をじっと見つめているあの視線の主をようやく捕まえた。
一瞬、視界をよぎったその姿は、私と同じ制服を着て、私の顔をしていた。






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