Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年11月


「ルー、どうした?」
と聞こえた。

背後から、突然だった。
最悪の事態として予期していたのに、息が止まるほど驚いた。
俺は慌てて、シングルベッドが二つ並んでいる奥の、壁とベッドの間のわずかな隙間に体を滑り込ませた。

「ん?」
「ルームキー、どうした?ちゃんとかけたか?」
「当たり前だろ。ほら、ここに置くぞ。」
「じゃ、これ。」
「よっしゃ。一息だ。」
「乾杯。」
「乾杯!」

声を押し殺した会話だった。
発泡系の飲み物のプルトップを開けたとき特有のプシュッという小気味よい音の後、中が詰まった缶同士をコツンとぶつける音がし、続け様に喉を鳴らしてゴクリゴクリと飲み干す音が聞こえた。
突然入ってきた二人の男は、声からして、体育の吉田と小茂田に違いない。

しまった、この部屋は保健室の桜田先生の部屋だと思ったのに、違ったのか!
俺としたことが、確認が甘かった。
よりにもよって、体育の口うるさいジジイたちの部屋とは!
特にアメフトの小茂田は、何かと言うと口より先に手が出る。
あいつ、頭が悪いから、口で説明できない分を腕力で補おうとするのだ。

「プハー、うまい。」
「やっと人心地ついた。」
「いくら修学旅行の引率だからって、沖縄に来てビール1杯飲むなとは、ふざけるなってことだよな。」
「まったくだ。昔はよかったよなぁ。」
「もう20年以上も前になるのか。あの頃は公明正大に飲めたもんだ。」
「ああ。旅行業者がビールをケースで差し入れてくれたりしてなぁ。」
「夜の打合せには、つまみもドドンと並んで。」
「乾杯の後で、今日の報告だの、明日の相談だのしたもんだ。」

ジジイたちは缶ビールをこそこそ飲みながら、昔を懐かしんでいるらしい。
そんな時代があったとは信じられない。
が、俺が生まれる前の話だ。
引率と言えば、24時間勤務中だろう。
酒を飲んではいけないくらい、当然じゃないか。
酔っぱらって仕事していたほうがおかしい。

「あの頃は、生徒の質もよかった。」
「そうそう。話が通じたよな。」
「説明しなくても、『先生たちはもうすぐ宴会だから、部屋の移動はその時だ』とか言ってなぁ。」
「俺たちも、やつらがハメを外しすぎないのはわかっていたから、打合せの1時間くらい、思い出づくりをさせてやってもいいかと思ったもんだ。」
「打合せが終わるころに、若いやつを廊下に出して、うまく『もう終わるぞ』と匂わせてやったりして。」
「それから、部屋の確認に行ったな。」
「ああ。あっちこっちで遊んでるやつらを引っ張り出して、大げさに『廊下に正座!明日の自由行動禁止!』とか言ってなぁ。」
「あはは。それもいい思い出だって、こないだの同窓会の時も言われたよ。」
「こっそり酒飲んでたヤツも、俺たちが気づいてないと思っていてね。」
「あれ、分かっちまうものだんだよなぁ。」
「あははは。知らぬは生徒ばかりなりってことだ。」

俺には意味が分からない。
わざと部屋を入れ替わらせてやるだと?
酒を飲んでいた生徒を見逃したってことか?
それを職務怠慢と呼ばずに、何と言うのか!
そんなやつが教師をしているから、日本の教育はダメになったのだ。

「今はダメだな。」
「ああ。ダメだ。生徒の質が落ちたな。」
「俺もそう思う。今しか考えない。自分のことしか見えない。」
「悪さをしたかったら周囲をよく見ればいいものを、教師が堂々と見回っている時間に、平然と部屋でたばこを吸っていたり。」
「酒を入れたカバンを入口近くに片付けもせず放り出しておいて、口が開きっぱなしだったり。」

「自分の部屋に女子を呼び込んで、とたんにヤりだすんだから、見逃すどころの話じゃない。」
「男だけじゃない。女の方も平然と同じことするからな。」
「修学旅行で妊娠しました、なんて言われたら…。」
「言われかねないところが恐ろしい。」

「自由時間に女子部屋に潜り込んで、下着泥棒なんて可愛いほうか。」
「いや、バカの一言だな。自分が持ってきたものがなくなったら、騒がれるに決まっているのに。」
「部屋に入ったところで見つかったとかいうのがオチだな。」
「我慢がきかないやつが本当に増えた。」
「どうして世の中、そんなになっちまったかな。」

俺はギクリとした。
が、俺は別に盗もうとしたわけではない。
桜田先生のカバンの中を、ちょっと、見てみたいと思っただけだ。
どんな下着をつけているのか、ちょっと見てみたかっただけだ。
他愛のない好奇心だ。
断じて、盗む気などない!
ゆえに、バカではないのだ。
愛だ、愛!

「ああ、いつまでこの仕事するかなぁ。」
「俺ら、あと5年で定年じゃないか。」
「その5年が、しんどいと思わないか?」
「いつからかなぁ、仕事が面白いと思えなくなった。」
「息苦しんだよ。」
「意味のない書類ばかり増えて、会議も増えて。」
「部活にも出られない。」
「出てもなぁ。面白くもない。」
「こないだの話、したかな?」
「なんだ?」
「どうにも試合に勝てないから、走り込めと言ったんだ。」
「おお。それが?」
「そうしたら、走り込みが辛いと言って、やつら母親を連れてきやがった。」
「母親?!」
「しごきだと!ふざけんな。お前ら、陸上部だろうがっ!」
「つまらん、つまらん。走るのが辛い陸上部なんか辞めちまえ。」

ふと、二人が口を噤んだ。
きっと、この先のことを考え込んでいるのだろう。
どうやら喉を鳴らす音も消えた。
ビールも尽きたに違いない。
早く出て行ってくれないかな。

「そろそろ行くか。見つかったらフショージだからな。」
「まったく、教師だって人間だぞ。2泊3日まるまる勤務なんてあり得るか?休憩時間くらい作れってーの!」
「ルームキー、桜田から預かったんだろ?迷惑かけちゃならんから、うまく返すんだぞ。」
「大丈夫だ。大学の後輩だし。」
「そういうことじゃねーだろ。将来のある若者に迷惑かけるのは先輩のするこっちゃない。」
「分かっている。いくら怪我の応急処置が必要だからって、自分の部屋に鍵もかけずに出かけるとは、あいつもまだ甘い。ま、だから俺が閉めてやるって預かれたんだけどな。」
「経費節減だからって、俺たちが副校長と同室とは!」
「あの石頭がなんで来るんだか!」

そ、そういうことか!
やっぱりここは桜田先生の部屋だったんだ。
このジジイたち、先生の部屋に忍び込んで、こっそり酒飲んでいたんだな!
許せん。
絶対に教育委員会に訴えてやる。
いや、新聞にするか、ネットに流してもいいぞ!
俺は無理な体勢もあって、息が上がるのを止められないほど苦しくなった。

また、二人が静かになった。
俺は、限界に近かった。
気付かれないうちに、さっさと出て行ってくれ!と祈るばかりだ。

「ところで、小茂田。」
「なんだ?改まって。」
「お前、体育館裏の話、知っているか?」
「体育館裏の話?なんだ、呼び出しか?」
「違う。埋蔵金だ。」
「ま、埋蔵金!?」
「しっ!声がでかい。誰に聞かれるか知れない。静かにしろっ。」
「ま、埋蔵金って何だ。」
「いいか、同期で長年しんどい仕事を頑張ってきた者同士と思って、お前にだけ教えるんだぞ、絶対にほかのやつに言うなよ。」
「言わないから、早く教えろ!」
「うちの体育館裏に、小さな祠があるだろ?」
「ああ、あるある。ずいぶん古いらしいな?」
「文化財の指定を受けているから、敷地内でそのままになっているんだが、あの下に、なんと埋蔵金が眠っているんだよ。」
「本当なのか!?」
「ああ、本当だ。校長室に代々伝わっていた古文書が最近解読されて、分かったんだ。」
「そんな話、知らなかったぞ。」
「当たり前だ。こっそり調べたに決まっているだろう。」
「いったい、だれが埋めたんだ?」
「徳川家康。」
「と、徳川埋蔵金ってやつか!!!テレビでいくら探しても出ないやつだろが?」
「そうだ。それが、意外と浅いところに埋まっているらしいんだ。」
「なんでまた?」
「事情はともかく、校長が今度一緒に掘り出そうって、誘ってくれたんだよ。」
「いつ?」
「この修学旅行から帰って、代休明けの火曜日だな。お前も来るか?」
「行く!」
「よし。それを楽しみに、アホくさい修学旅行を乗り切ろう。」
「ほほほっ。いいねぇ。」

ジジイどもがやっと部屋を出ていった。
ガチャッと鍵がかかる音を聞いて、俺は全身から力が抜けてしまった。
それにしても埋蔵金とは。
怪我の功名。いい話を聞いた。
帰ったらすぐに、掘ってみよう。

俺は、なんとか桜田先生の部屋から抜け出した。
周囲によく気を配ったが、うまい具合に誰もいなかった。
勇気を奮って行動したことで、俺の将来に黄金色の光が差してきた。
ジジイどもの飲酒を告発するかどうかは…。
埋蔵金が先だな。

「やっぱり。」
「なんと、先客がいたとはな。よく気付いたな!」
「なんだか、気配がしたんだよ。」
「あれは、2-5の春山徳太郎だな?」
「間違いない。」
「あいつは格別のアホだから、きっと帰った日の夜、シャベル持って埋蔵金を掘り出しに来るぞ。」
「そこを捕まえて、問いただせば、今日のことを告発しようなんて考えは捨てるだろう。」
「それにしても、埋蔵金とは、とっさの嘘とはいえ、よくも思いついたもんだ。」
「ふん、くそ面白くもない。信じるか?普通。俺はうそだと見抜いてくれることを祈るね。そんなアホを毎日教えていると思いたくない。」
「しかし、悪いことはできないもんだ。」
「バレるはずがない缶ビール1本で、ホントにクビが飛ぶとこだったよ。」
「くわばら、くわばら。」






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「ルー、どうした?」
「そ、それが…だめなんです!すみません、ほんっとにっ!」

デビュー時から世話になっている編集の三枝さんは、プレッシャーをかけすぎない程度にしつこく連絡をくれる。
「何枚、書けてる?」
「何枚…あの…ゼロのまま…」
「ゼロォッ??」
電話の向こうで、端正な額を左手で押さえながらのけぞる姿が見えるようだ。
「す、すいません。」
「いったい、どうしたんだ?何があった?きっかけは??」
それがわかったら、苦労はしない。
「と、とにかく、あと1時間、いや、30分ください。三枝さん、お願いしますぅ!」
「わかった。30分たってゼロのままだったら、ほかの作家に回すからな。いいな?」
「ありがとうございます。死ぬ気で頑張ります!」

電話を切ったものの、出るのはため息だけで、アイディアのかけらも降ってはこない。
「死ぬ気を出したら書けるっていうなら、作家はみんないつでも死ぬ気だよな。お安い御用だ。」
つまらない愚痴が口を突いて出てくる。
いつか、こんな日が来るのではないかと思っていた。
先輩作家からもさんざん聞かされた、「頭真っ白 魔の時」が、俺にもとうとうやってきた。

小説を書き始めたのは小学生の頃からだ。
おもろい友達をモデルにしたり、空想の世界の魔人と妖怪を戦わせたり。
ネタに困ることなど全然なかった。
世の中のすべてが小説の材料で、誰もを主人公にできる気がした。

大学生の時、何度目かのコンクールに応募した作品が、三枝さんの目に留まって、声をかけてもらったのが、デビューのきっかけになった。
デビューといっても、いきなり単行本が出せたわけではない。
あっちの雑誌にちょこっと、こっちの雑誌にちょこっとと、短編やらエッセイやらを書いた。
小説家だから小説しか書きませんなんてご時世ではないのだ。
エッセイストはエッセイしか書かないかもしれないが、小説家はエッセイも書く。
特に、紀行文は大切なジャンルだった。
俺は、書くために、旅を覚えた。

作家としては、至って平凡な展開だと思う。
ちょっと話題になることが続いたころ、単行本の話をもらった。
それまで書き溜めていたものから、三枝さんのお眼鏡にかなった小説を手直しし、出版した第一作『羊は雨の夢を見る』は、サラリーマン層の心をつかんで、大ヒットとなった。

すぐに次作の話が来て、第二作に選んだのは『カサブランカを花束にして』だ。これは、甘いタイトルに惹かれたのか、女性からのウケがよかった。
第三作は書下ろしにしようという話になった。
しかも、マルチメディアを意識して…つまり、最初は小説だけれど、ドラマ化、映画化、漫画化をあらかじめ想定して書けというお達しだった。
これは、面白いチャレンジだった。
三作目にしてドラマ原作となったら、そしてそのドラマがヒットしたりすれば、その後の発展は火を見るよりも明らかではないか!

その三作目『フローラルバトル』は、男女の恋愛を描くのが王道だった当時、女性二人を主役にしたストーリーが目新しく、イメージしていた女優が2人ともオファーを受けてくれたこともあって、大当たりのドラマ化、続編を映画化、そこらへんをすべてまとめて漫画化の運びとなった。
『フローラルバトル』で初めて、締切に追われるという経験をしたが、それは「充実感」と言い換えられるようなプレッシャーで、どちらかと言えば、本当の作家として認められた喜びの方が大きかったのだ。

あれから、何本書いたのだろう。
書いて、書いて、書きまくった。
テレビにも出た。賞ももらった。
ついでに、嫁ももらった。
俺の小説のファンだという女性のひとりと、会ってみたら妙に気が合った。
会ったとたんに「ああ、俺はこの女と結婚するなぁ」と思ったのだから、しかたない。
実は嫁もそう感じたという話になって、結婚を決めるのに劇的なドラマなどなかった。

しかし、いつからと言われて、こうして振り返ると、あの結婚したあたりから怪しくなった気がする。

嫁がいる暮らしは、静かで落ち着いていて、温かかった。
一人暮らしが不便だったわけではないし、落ち着かなかったというのでもない。
寂しいと思ったこともないし、別に困ってもいなかった。
でも、二人になってみたら、以前の自分がひどく依怙地で、偏屈な気がした。
俺も普通に人間なんだなぁなどと、おかしなことを考えた。

そうだ。あのあたりから、小説を書く題材に困るようになった気がするぞ。
嫁を連れて、旅行にもでかけた。
けれど、風景がきれい、飯がうまい、温泉が心地よい。それだけだった。
旅先の人が語る、都会では考えられないようなエピソードも、何ら刺激とはならなかった。

それでも、困った時には、子供のころから書き溜めた、あれやこれやが俺を支えてくれた。
あれとこれをつなぎ合わせたり、こっちとそっちをかけ合わせたり。
それでこの6年ほどをしのいできた。
でも、もう、そのストックも底をついた。

今は、書きたいとすら思えないのだ。
しかし、世間は俺の小説を待っている。
出版社も、編集さんも、みんなが待っている。
とっとと出せと怒鳴りつけたいところを、忍耐に忍耐を重ねて待ってくれている。
俺はその期待に応えたい。
でも、今までのように、世間をあっと驚かせたり、同情を引いたり、共感を呼んだり、スカッとさせるようなものは何一つ、浮かばないのだ!

30分くれと言ったうちの10分が過ぎた。
俺は居たたまれずに、仕事部屋を出て、リビングに行ってみた。
リビングでは、嫁が相変わらずパッチワークをしている。
キッチンに回り込んで、蛇口から勢いよく出した水をコップ一杯飲みほした。
それから、嫁の向かいのソファーに、ドカッと腰かけた。

「俺、もう書けないみたいだよ。」
「そう。仕方ないわね。」
嫁は、パッチワークから顔を上げもせずに答えた。
「仕方ないわねって、お前、平気なのか?心配しないのか?」
「心配したら書けるの?だったら、心配するけど?」
「いや、そういうことでは…。」
「あ、ここできた。」
一区切りついたらしい嫁は、だいぶ大きくなったちぐはぐな布をふわりと膝から落として、俺の方に向き直った。

「書けないなら、書けるまで、書かなきゃいいじゃない。」
「おいおい、簡単に言うなよ。編集さんも待ってくれているんだぞ。」
「だって、あなた、機械じゃないし、編集さんの道具でもないのよ。れっきとしたクリエイターでしょ?だったら大切なのは、あなたのタイミングじゃない。」
「そうは言っても、今度の企画は大きいから、逃すのは惜しいんだよ。」
「逃したら、何か失うの?」
「へ?」
「その企画とやらを逃したら、もう二度と書けないの?」
「いや…そういうわけでは…。でも、待ってくれている人たちの期待を裏切る。失うのは、信頼だよ。」
「作家なんて水物、信頼している方がどうかしていると思うわ。」
「おいおい…。」
「信頼って、するほうの責任でしょ?された方には応える義務があるわけじゃないわよ。」

俺はあっけにとられた。
俺の嫁は、こんなことをいう女だったのか?
「理想は理想だと思う。でも、現実はたいがい理想通りじゃないのよね。だとしたら、見つめるべきは理想の方じゃなくて、現実じゃないのかしら。」
嫁は、まるで晩御飯のメニューを相談するかのような口調で、処世術を語っている。
「現実と戦うからおかしなことになるのよ。事実を認めないで抵抗するから狂っていく。今、あなたの事実は、書けない、書きたくないってことなのでしょう?だったら他人が何を言おうと、自分の現実を受け入れるしかないでしょう。」

俺が返す言葉を探しきれずにいると、嫁は続けて言う。
「戦略を立てるのよ。今がこうだと認めて、そこからどうするかを決めるの。
私には、あなたが永遠に書けないなんて、どうしても思えない。
だったら、学生に夏休みがあったり、サラリーマンにお正月休みがあるみたいに、あなたも『書き休み』があってもいいじゃない。それで、その間に、これからどうやってまた書けるようにしていくか戦略を練れば、休んだことがかえってよかったってことになるかもしれないでしょ?」

ごく普通のOLだった嫁が、いつの間にこんなことを言えるようになったのだろう。
俺が書くことには、一切口出ししない嫁なのだ。
乾ききった大地に降り注ぐ雨のように、嫁の言葉は俺の胸に沁み込んでいった。
「そうだな。あと10分でお茶を濁すより、あと10分しかない現実を認めるか。」
「あと10分まで追い詰められた小説家の小説を書くんじゃなければね。」
嫁はコロコロと笑って、ココアを淹れてくるねとソファーから立ち上がった。

俺は、真っ白になっていた頭の中に、一筋の光が差してきたことに気が付いていた。
現実、抵抗、認める、戦略、追い詰められた男…俺自身。
戦略…戦略!

「おい!」
俺はソファーから勢いよく立ち上がった。
カウンターキッチンの向こうから、ココアの袋を手に持った嫁が顔を上げる。
「俺、三枝さんのところへ行ってくる。」
「そう。いってらっしゃい。」
「しばらく帰ってこないかもしれないけど、大丈夫か?」
「うん。平気。」
嫁は穏やかに微笑んでる。

「お前…パッチワークしながら、すごいことを考えていたんだなぁ。」
靴を履きながら言うと、嫁は吹き出した。
「当たり前でしょ。全然関係ない布同士をつなぎ合わせて、一つの作品にするのよ。適当にやっていたら、ただの継ぎはぎにしかならない。どう進めていくか、どう進んでいるか、常に戦略を立てるのがキルトよ。」
「そうなのか。」
「ルーさん。」
「ん?」
「いってらっしゃい。」
「おうっ!」
「もしもすっごい小説が書けたら、記念に指輪がほしいなぁ。プラチナの、ちょっとかわいいデザインのをみつけたんだけど。」
「ああ、買ってやる。待ってろよ!」

財布とケータイだけ握って飛び出した俺は、駅に向かって走りながら、三枝さんに電話をかけた。
「俺、書けるかもしれない。今からそっちに行きます。俺を缶詰にしてください!絶対、書いてやる!」


俺の代表作になった『プラチナキルト』は、こうして誕生した。






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「ルー、どうした?」
「今日も空が青いなぁと思ってさ。でも、あの辛気臭い歌は歌うなよ。」
「なんだ、今日は朝のお勤めの代わりに発声練習してきたのに。」 
「ほんとか?」
「アホンダラ。うそに決まっとろうが!」

ミノは今日も野球のユニフォームでやってきた。
ということは日曜日だ。
先月、加納伝五郎という、時代劇に出てくる側用人か浪人みたいな名前のパワフルな加入者を得て、こいつのチームは破竹の勢いなのだそうだ。

怪我人の心理とは微妙なものだ。
人の幸福を呪うつもりなど毛頭ないのだが、やたらと健康で元気な人間を見ていると、どうしようもなく不愉快な気分になってくるのだ。
しかも、元気な幼馴染の坊主だから、なおさら憎い。
昨日の土曜日は、親と離れて暮らす施設の子供たちを、シロイルカのショーが有名な水族館に連れて行くボランティアにでかけるのだとか言って、ずいぶん早い時間に帰って行った。
まったく、心も体も健康なところを見せ付けられた気がして、帰っていく後ろ姿に「コケちまえ!」とつぶやいたものだ。

「まだ痛むのか?」
「まあな。」
「ついてなかったな。もうすぐリハビリを始められるという時になって、コケて同じところを骨折するとは。」
「もういい。」
「でも、トイレでよかったよ。階段だったら大変な事故になっていたところだ。」
「どうしても、トイレで用をたしたかったんだよ。毎回看護師呼んで、女性がいるところでしか用が足せないなんて、耐えられなかったんだ!」
「だよな。わかるよ。だから、ついてなかっただけだ。骨の方は一度ついてたわけだから、またくっつくさ。あはは!」
「お前、人の骨だと思って粘土細工みたいな言い方するな。」

こいつはどこまで暇なのだろう。
毎日毎日やってきては、この調子で、おちゃらけたことを言って帰っていく。
最初は鬱陶しいと思ったが、口とは裏腹で、実はけっこうありがたい。
バイクの事故で入院した最初のころは、親も同僚も見舞いに来てくれたが、2か月にもなると足は遠のいていく。
親はたまに来るが、洗濯ものだのなんだのをどうにかすると、さっさと帰っていく。
トイレで滑って転んでまた骨を折ったときは、両親そろって枕もとで爆笑していた。
退屈だからもっと会いに来てくれなんて、いう相手ではないのだ。
だから、ミノが毎日顔を出してくれ、他愛のない軽口を言い合うのは最大の気晴らしなのだ。

さっき青空を見上げていたのは、こいつの今日の試合はどうだったろうかと考えていたからだ。
退院したら、礼の代わりに一度応援に行ってやろうか。
で、話題の伝五郎さんの肉体美を拝んでみるのも面白い。
「で、どうだった?」
いつもはこいつが勝手に話し出す野球のことを、今日は俺から聞いてやろう。

「それがさ。ひどいもんでなぁ。」
「え?絶好調じゃなかったのか?」
「いやいや。期待外れだったよ。」

どうしたというのだろうか。
「怪我か?」
「いや、理由はわからない。でも、まず、主役が出てきやしないんだ。」
「主役が?」
今、こいつのチームの主役は、間違いなく伝五郎さんだ。
「奥さんの具合が悪いんじゃないのか?」
「奥さん?そんな詳しいことはわからないが、自分のところに閉じこもって、出てこないんだ。」
「そりゃ、重症だな。」
俺は、まだ会ったことがない伝五郎さんのことが心配になった。

「でも、ほかにもいるだろ?」
「ああ。でも、ほかもバタバタで、見られたもんじゃなかったんだ。」
「バタバタ?」
「ああ。段取りは悪いし、チグハグだし。」
「段取り?段取りって、いつもやってることだろ?」
「そりゃ、練習に練習を重ねているんだろうけど、生き物だからなぁ。」
「生き物って言うな。」
「当然ジャンプのところで、そのまま通り過ぎられたら、見てる方はシラけるぞ〜。」
どうやら、守備に問題があったらしい。

「それに、みんな声の出し方もおざなりだったんだよなぁ。」
「ああ、それはよくないね。声は大事だ。」
「だろ?めったに聞けないから、こっちは楽しみにしてたのに。」
「めったに聞けないのか?」
「そりゃそうだ。」
「へー。」
こいつのチームは、こいつに似ず、よほど暗いのだろうか。
無言で野球やって何が面白いのだろう?

「挙句には、みんなで踊りだしてお茶を濁す始末だ。」
「踊りだす?」
「ほかに時間のつぶしようがなくなったって感じだ。」
「だからって、踊るのか?」
「いやはや、ひどいもんだ。」
「そんな…。ほっといていいのか?」
「よくはないが、どうしようもないだろ?」
「何言っているんだよ!」
俺は心底、熱くなっていた。

「お前、さっきから他人事のように文句ばっかり言っているな!」
「他人事って…だって、実際、他人事だからなぁ。」
「お前らしくもない。さ、さっさと行って、もう一回会って来い!」
「え?」
「会って、話し合うんだ。」
「は、話し合う??」
「みんな、何か事情があるんだよ。いい年をして、踊りだすなんて、尋常じゃない。」
「いい年って、それほどじゃないと思うが…。」
「つべこべ言ってないで、話を聞いてやれ。きっとみんな何か困っているとか、悩みがあるんだよ。」
「いや、いくら俺でも、それは無理だよ。」
「やってもいないうちから、諦めるのかっ?」
「諦めるも何も、できっこないじゃないか。」
「もういい。お前がそんな冷たいやつだとは思わなかった。」
「なんだよ。ひどいこと言うなぁ。」
「ひどいのはお前の方だ。奥さんの病気が重くなって気が気じゃないとか、嫁や息子と揉めているとか、きっと事情があるんだろうに…。」
「それは否定はしないが、そんな複雑な環境だとは思えないが…。飼育員もいるんだし。」
「バカ野郎!いくらなんでも、飼育員とは何事だ!お年寄りを何だと思っているんだ!」

不意に話をやめたミノが、俺の顔を気持ちが悪いほど見つめてきた。
「な、なんだよ。」
「おい、ルー。お前、何の話をしている?」
「何って、お前の野球チームの話に決まってるじゃないか。」
「ほ?」
「お前がそんな気持ちで、町のお年寄りたちと野球をしていたとは思わなかったよ。ああ、幻滅したね。言うに事欠いて飼育とは!」
「黙れっ!」
ミノの一喝が6人部屋の病室に響いた。

「俺は、昨日見たシロイルカショーの話をしているんだ!」
「はぁ?!」
「お前がいつも野球の話しかしないとうるさがるから、てっきり、昨日のことを聞かれたんだと思ったんだよ。」
「……。」
「ショーが始まっても、シロイルカが自分の水槽から出てこないんだよ。しかたなしに、イロワケイルカが3頭くらい出てきたんだが、これも機嫌が悪いかして、何度お姉ちゃんがシュッと合図を送っても、ジャンプしないんだ。締まりがないったらもう、話にならん。しょうがなしにイルカが引っ込んだあと、アシカだのトドだのが出てきたんだが、こいつらも言うこと聞かなくて。曲に合わせてウォッウォッとか声を出すはずが、キーッと一声でおしまい。仕方なしに、お姉ちゃんたちが踊りだして、そしたら動物もちょっと一緒に踊ってさ。それでおしまいだったんだよ。今まで見た中で、最低のショーだった。連れて行った子供たちでさえ、どこで盛り上がっていいかわからないくらい残念なショーだったって話さ。」
「うーーーー。」

俺は、うなるしかなくなった。
「ルー。お前、勘違いも大概にしろ。俺はシロイルカと機嫌が悪い理由を話し合えと言われても、できんからなぁ。」
ミノがニタニタしながら、俺をいたぶり始めた。
「イロワケイルカがジャンプをしない理由が、家族とのいざこざかどうかも、聞き出せるかどうか、難しい問題だ。」
「だから、俺はてっきり、伝五郎さんたちのことかと…。お前も、はっきりイルカのことだと言わなかったじゃないか!」
「おや、逆切れですかぁ?」
ミノが腹を抱えて笑っている。
「おい、ルー。」
「なんだ。」
「お前、早く元気になれ。」
「うーーー。」
「お前のような頭のキレのいい人間でも、2か月もじっとしているとボケるものらしいからな。」
俺は、返す言葉を思いつかなかった。
それでも、このまま言い負けるのは悔しかった。

「うるさい!お前の口は、俺の頭のキレより悪いぞ!」
「いや、お前の頭と比べられるほど悪くないよ。」
「ああ、神様、お助けください。こいつと話していると、地球の砂漠化より、私の心の砂漠化の方が心配になります!」
「無礼者!僧侶の前で神様にお祈りするとは!」
「ふん、心の狭い坊主に、仏様も嘆いておられるだろうさ。ねぇ、みなさん!」

退屈しのぎに、俺たちの話に聞き耳を立てていた同室の患者たちが、一斉に大爆笑…のはずだったが、きょとんとした顔で俺を見つめている。

俺は、諦めて、窓の外を見上げた。
空はまだ、腹が立つほど青かった。







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「ルー、どうした?」
俺は声の主を振り向きもせず答えた。
「空が、今日もやけに青いなぁと思ってさ。」
「なんだ。変な方向を向いているから、首も痛めたのかと思った。」
そして、含み笑いの後で、俺の知らない歌を歌いだした。
「小さな 窓から 見える この世界が僕のすべて
空の 青さは わかるけど 空の広さが わからない〜♪」

「なんだ、その辛気臭い歌は?」
俺の振り向いた顔がよほど不機嫌だったのだろう。
その分とばかりに笑顔を浮かべ、ミノは大げさな手振りで説明を始めた。
「松山千春だよ。知らないのか?」
「松山?ああ、もしかしたら、あの北海道かなんかに住んでいるハゲか?」
「それだよ。でも、そんなひどい言い方をするな。80年代のスーパースターだぞ。」
「そうか、そうか。わかったから、6人部屋の病室で不気味な歌を歌うな!」
ミノは「すまん」と素直に謝ると、許しも得ずに俺のベッドの脇の丸椅子に腰かけ、職場の同僚が見舞いに届けてくれたが、まだ俺には飲めないコーラを見つけると、くれとも言わず、勝手に飲み始めた。
今日は日曜だから、ミノは野球のユニフォームを着ている。
地域の元気なおじいちゃんたちが集まって作った野球チームで、まだ35歳のミノはエースピッチャー兼AED管理者を務めている。
今日も試合の帰りなのだろう。

「ま、しょうがないよな。確かにここからじゃ空しか見えないもんな。」
ミノは手の甲で、唇についたコーラの泡をグイッと拭いながら、俺がさっき見上げていた窓を眺めやり、同情をこめた眼差しを送ってきた。
「でも、まぁ、もうしばらくの辛抱だよ。全治2か月なら、そろそろ半分過ぎたじゃないか。折れた骨もくっつき始めたんじゃないか?」
「まあな。けど、全治ってのは骨がくっつくまでの期間で、そのあと地獄のリハビリが待っているから覚悟しとけと脅されてる。」
「しかたないだろう?命が助かっただけで文句は言えないさ。バイクで思い切り電柱に激突したんだぞ?普通なら俺の親父の世話になっているところを、医者で済んだんだ。仏様のご加護と思って感謝しろ。」
「うるさい。わかってる。それに、何万回も言ったが、おれはクリスチャンだ。」
「そうだっけ?」
とぼけた答えの後、合掌して頭を下げやがった。

いつもの不毛な会話だが、イラつく気力ももう残っていない。
働き盛りの独身男性が1か月も、複雑骨折した足やろっ骨や鎖骨を固定されたままベッドから動けずにいてみろ。
いくら命が助かったからと言って、そうやすやすと感謝などする気になるものか。

ミノとは小学校からの付き合いだ。
俺の親父の転勤で、神戸からこの街に引っ越してきて、住んだ家の隣に、ミノの親父の寺があった。
こいつは、住職の跡取り息子なのだ。
実際、すでに俺には分からない種類の修業を終えて、ときおり袈裟を着て親父のスクーターにまたがり、法事にでかけたりもしている。

不運にも、俺もこいつもミノルという名前だった。
小学校の同じクラスになったのはまぁ、よかったのかもしれない。
でも、級友からはウケが悪かった。
「ミノル!」と呼ぶと、ふたりそろって振り向くからだ。
こいつは「実」と書き、俺は「稔」というハイセンスな漢字を書く。
が、小学生にとっては、どちらも「ミノル」でしかない。
俺たちは、へんなあだ名をつけられる前に、話し合いで決着をつけることにした。
その話し合いの結果が、前からここにいたこいつが、名前の前半を取って「ミノ」、あとから来た俺が「ルー」になったというわけだ。

坊主がどれだけヒマなのか知らないが、俺が入院して以来、こいつは毎日やってくる。
平日も、週末もなく、必ず来るのだ。
一度、法事の帰りだと、袈裟姿のまま見舞いに来たことがあった。
そんな姿でベッドの脇に座られ、合掌しながら話しかけられてみろ。
縁起でもないことこの上ない。
出入り禁止を申しわたしてやったら、さすがに反省して、袈裟で来ることはなくなった。

俺はそんなに寂しくないし、お前の顔を見てもうれしかないと何度言っても来る。
しかも、毎回手ぶらで、かえって俺にもらった見舞いの品を勝手に飲み食いしやがる。
そんなミノが、一昨日、明日の土曜日は来られないのだと言い出した。
「そうなのか?」
別に、来てほしいわけじゃないが、毎日のものがないとなると、気になるのが人情というものだ。
俺の理由を問う目に、ミノはニタリと答えた。
「朝は月イチの大勤行、昼は法事が2件、夜は合コンに呼ばれた。」
「合コンだと!?」

この生臭坊主が!
昔から、こいつはそれほど女性に興味がないようで、浮いた話はあまり聞かない。
付き合っていた女性がいた時期もあるようだったけれど、こいつがどこかの寺に修業にいっている間に消滅したそうだ。
でも、女というのは、ガッつかない男には気を許して寄ってくるものらしい。
俺がどんなに努力しても近づけもしないような女が、こいつには平気で頼みごとをしに来たりするのだ。

「どんな合コンなんだ?」
「わからん。数が足りないから来いと、サダに言われた。お前がいたらお前だったんだろうが、これだもんな。」
「いちいち気に障るやつだな。何の情報もないのに受けたのか?」
「いや、ジョイがどうとか、キャビンアテンダントがどうとか…」
「女医?客室乗務員??」
「だから、分からないよ。」

うそをつくな。
分かっているから引き受けたのだろう。
あー、なんてこった。
千載一遇のチャンスだったのに!
俺たちと同じ小学校からの友達であるサダは、親父さんの不動産業を継いだ若社長だ。
金にも時間にも困らない彼は、よりよい縁を手繰り寄せるとか言って、合コンセッティングに邁進しているのだ。
俺も毎回呼ばれていたのに、今回に限って、雨で濡れたマンホールの上でバイクを滑らせている場合じゃなかった!

「で、どうだったんだ?」
俺は夕べの女性たちの話が聞きたくてたまらず、悔しかったが自分から問いかけた。
「おお、それがさぁ、今回は10人もそろってさ。」
「なに?10人も!すごいじゃないか。」
「だろ?あの、余っている感じは普段味わえないからさぁ、興奮したよ。」
「こ、コウフン…。で、どんな人だ?」
「一言でいうと…グレイト!」
「グレイト?!」

俺は不謹慎にも生唾を飲み込んでしまった。
「どうグレイトなんだ?」
「なんていうか、体が違うんだよな。」
「か、体が??」
「そうなんだよ。ちょっと着崩した襟元から、胸のあたりがのぞいてたんだけど、こう、盛り上がっていてさぁ。」
「な、お前、そんなの見ちまったのか!」
「じっくり見つめたよ。決まってるじゃないか。」
「じっくり??この変態!いくらなんでも、初対面で失礼だろうが。」
「でもさ、お前だって、あれを目の当りにしたら、見つめずにはいられないぞ。」
「そ、それはそうかもしれないけど…。そんなにスゴかったのか?」
「そうなんだ。すごいなんてもんじゃないね。あの盛り上がり方は尋常じゃない。腕なんかもこう形がよくてさ…。でも、色は白いんだ。」
「色白かぁ。」
「俺、聞いたんだよ。ずいぶん色が白いですねって。」
「おまえ、やけに積極的だな。よほど気に入ったんだな。」
「そりゃもう。ほかに盗られるくらいなら、食らいついて離さないと思ったね。」
「信じられん。清廉潔白なお前がなぁ。」
「いざというときは、俺だって食らいつくよ。」
俺の頭の中で、坊主頭のミノがダイナマイトバディのゴージャスな裸婦に食らいつくカラーの映像が浮かんだ。

「で、色が白いですねってお前が言ったら、相手はなんて答えたんだ?相手にしてもらえたのか?」
「もちろんだよ。それまでに他の話題でもずいぶん盛り上がっていたからね。」
「お前にそんなトーク術があるとは…。」
「それがよ。『夜の仕事なんです』って言うんだよ。」
「よ、夜の、仕事!?」
「そうなんだよ。聞けば深い訳があってなぁ。なるほどなぁと思ったよ。夜に体を使う仕事だから、ああいう風になるわけだ。」

体を使う、夜の仕事。
そうか。そのゴージャス裸婦…いや、美女はプロか!

「ミノ。悪いことはいわない。そいつはやめておけ。」
「なんでだよ?向こうはその気になってくれているんだぞ。」
「その気って、お前、もうそんなところまで話が進んでいるのか?」
俺はミノの速攻ぶりに度肝を抜かれた。
「気が変わったら困るだろ?専属になってくれって、頭を下げた。」
「おいおい、専属って…。何をしゃれた申し込みしてんだよ。専属じゃ、むこうさんも商売にならないじゃないか。」
「そんなことないよ。仕事の邪魔は決してしないと約束した。」
「信じられない!仕事を続けていいと????だって、プロだろ?いいのか、お前?」
「プロだからこそ、やめてくれなんて言えないよ。世間から軽くみられる仕事だけど、なくてはならない、誰かがやらずには済まされない仕事じゃないか!」
「そ、それは、一概に否定はできないけど…でも…。」

俺はなんとかして、ミノに思いとどまらせなければと思った。
なんだかんだいって、純情なミノなのだ。
海千山千のプロの手にかかったら、寺ごと身ぐるみはがされて捨てられるに決まっている。
「他にもいい縁はあるさ。この話は諦めろ。お前のためだ。」
「なんだよ、ルー。会ったこともないくせに!」
「会わなくたってわかるさ。お前がそんな世間知らずとは知らなかったよ。」
「世間知らずだと?」
「だいたい、その人は何歳なんだよ?」
「それそれ!聞いて驚くなよ!なんと54歳だっていうんだ!」
「54だって!? 54ってお前…。」
「若いだろ?これも仏さまのご加護だよなぁ。仏縁だと思ったら、ホントしびれたよ。」
「しびれたのかよ!お前…そういう趣味だったのか?いくら坊主だからって、そこまで譲らなくても…。」
「譲るってなんだよ。とにかく決めたんだ!」
「おい、早まるな!」
「いや、ぐずぐずしていたら盗られちまうんだよ。」
「誰が盗るんだよ、盗られたってかまうもんか。もっと若いのにしろ。子供だってほしいだろ?」
「子供?」

不意に口を閉ざしたミノが俺を、気持ちが悪いほど見つめてきた。
「ルー、お前、何の話をしているんだ?」
「何って、夕べの合コンに決まってるだろ?それより、とにかく、そんな年増はやめておけ。いくらダイナマイトバディに目がくらんでも、54歳じゃ、あと何年維持できるかわかったもんじゃないぞ。世間に吉永小百合は一人しかいないんだ。どの女もそうだと…」
「黙れ!」
ミノの一喝が響いた。

「この愚か者!俺は今朝、俺のチームに初参加した加納伝五郎さんの話をしているんだよ!」
「デンゴロ?」
「ああ。日中は病に倒れた奥さんの看病に専念していて、夜、道路工事をしているんだ。もともとダム建設なんかをして日本中を渡り歩いた建設のプロなんだそうだが、奥さんのことがあって、夜間の工事限定で仕事をして生活費を稼いでいるんだ。最近、日曜だけヘルパーさんを頼むようになって、前からやりたかったと野球をしに来てくれたんだよ。」
「ほへ?」
「今日の対戦相手の聖町ブラザーズも伝五郎さん獲得を狙ってるんだ。なんたって平均年齢70歳の我がチームに54歳の伝五郎さんが参加となったら…。しかも、いつもカスカスの9人でやっていたのが、10人になったら、ひとりずつベンチで休めるんだぞ。年寄りをフル稼働させて痛めつけて、坊主が仕事を作ろうとしてるんじゃないかと陰口たたかれなくて済むようになるじゃないか!!」
「な、そういうことか…。なんてこった!じゃ、合コンは?」
「実は夕べ新仏があってな。合コンはキャンセルした。今日の葬儀は親父に頼んだ。」
「あ…。」
「おい、ルー。お前、その煩悩、どうにかしろよ。なんならここで経のひとつも読んでやろうか。心が洗われるぞ。」

俺は深い深いため息をついて、もう一度窓を見上げた。
やっぱり空は、ムカつくくらい青かった。






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「ルー、どうした?」

前を歩いていた史彦が振り向いた。
「もう、ここでいい。寒いっ!」
私が足を止めた右側に、一軒の飲食店があった。

『カピバラ食堂』
暖簾に染め抜かれている。
変わった名前だ。
しかし、食堂を名乗るからには、食事ができるにちがいない。
蕎麦屋のような引き戸はしっかりと閉じている。
当然だろう。
2時間ほど前から降り始めた雪はどんどんひどくなって、車が走らない道路は、すでに真っ白になっている。

「ルーがいいなら、ここにしよう。」
本当は、史彦もいい加減寒かったのだろう。
数歩戻ってきて、私の前に立ち、引き戸を開けた。

「いらっしゃいませ。」
涼やかな女性の声がする。
史彦に続いて店に飛び込み、後ろ手で戸を閉めた。
顔の皮膚がヒュッと炎に照らされたように暖かな室内だ。
肺の中に突然入ってきた温度のある空気のおかげで、私はようやく呼吸ができるような気がした。

帰ったばかりの客がいたようだ。
声の女性はテーブルに残ったティーカップやグラスをトレイに乗せ、一目でわかるくらい丁寧にテーブルを拭き清めているところだった。
「お寒かったでしょう。お好きなテーブルをお選びください。」
初めて来たとは思えないほどフレンドリーに、けれど決して馴れ馴れしくない言葉に、私は半ば感心し、すでに居心地がよくなっている自分に気付いた。

史彦は、店の一番奥にある、先ほど女性が拭いたばかりのテーブルを選んだ。
私はコートを脱ぎ、マフラーと手袋と帽子を取り、隣の椅子に並べて置いた。
帰るまでに乾くといいけど。
さっき口喧嘩をしたばかりの史彦と、この帽子が乾くまで、ここに座っている自信はなかった。

店内には、私たち以外は誰もいない。
まだ閉店には2時間ほどありそうな気がするが、こんな雪の夜に、わざわざ外食する人もいないと思われる。
まして、それほど目立つ場所にある店でもなかった。
そう思って店内を見回すと、蕎麦屋にあるとしか思えないテーブルや椅子と、壁に描かれた巨大な温泉カピバラの絵がなんとも不釣合いだ。
それに、このテーブルの後ろの窓辺に飾られた花は、さりげないけれどかなり高級で、 細々と続けている街の定食屋には実に不釣合いに見えた。

「こちらにメニューを置きます。どうぞごゆっくりお選びくださいね。お水をお持ちしましたけれど、何か温かいお飲み物を先にお持ちしましょうか?」
そう言いながら差し出されたおしぼりが温かくて、それだけで胸がジーンとしてしまう。

「先にメニューを見てもいいですか?」
史彦が聞くと、
「もちろんです。どうぞ。」
女性は一度置いたメニューを開いて、史彦に手渡すと、静かに下がっていった。
その挙措のひとつひとつが上品で、私はうっとりしてしまった。

「あれ?ここ、定食屋じゃないんだ。」
史彦が言うので、女性を追っていた目をメニューに向けて驚いた。
定食もあるけれど、フレンチもある。イタリアンもある。あ、ベトナム料理まである!
ひときわ大きく書かれた「カピバラオムレツ」は、どうやら看板料理のようだ。
メルヘンだわ!どんなオムレツかしら?
私はすぐに注文するものを決めた。

例によって、史彦はまだ迷っている。
メニューが定食だけとか、フレンチだけとかなら、まだ時間が短縮できたかもしれない。
でも、こうまでワールドワイドにおいしそうなものが並んでいると、史彦の手順ではどうにもダメだ。
メインがこれなら、ワインは…いや、こっちだとワインじゃなくて…まてよ、前菜にこれを食べたい、するとメインは…
もはや頭の中はカオスの世界に違いない。

その時、引き戸が若干乱暴なほどの音を立てて開き、初老の男性がひとり飛び込んできた。
「いやー、ひどい降りだ!開いててくれてよかったよ。」
どうやら常連さんのようだ。
「まあ、星川様!」
先ほどの品のよい女性が駆け寄った。
男性から鞄を受け取ると、当たり前のように窓際の席に置いた。

「これは星川様。しばらくお見えにならないから、どうなさったのかと妻といつも話していたんですよ。」
厨房から、オーナーと思われる男性が出てきた。
熊に例えるしかないような大柄な人物で、この人がこの上品な女性の夫かと思うと、美女と野獣という言葉しか思い浮かばない。
この組み合わせも不釣合いだわ。

「いろいろあって、忙しくなってね。」
「スミレさんはお元気ですか?」
「ああ。元気なようだ。でも、まだ会わせてもらえなくてね。あちらの小学校に通い始めて、なんとかなじんだらしいのだけど。」
「そうですの。お寂しいですわね。」
「いつも気遣ってくれてすまない。一人暮らしになってからも、わりと自分で飯を作っているんだが、今夜は帰っても家が冷え切っているのだと思うと、どうもまっすぐ帰る気になれなくてね。せめてスミレがいてくれたらと、また思ったよ。」
「そんな時によくこちらを思い出してくださいましたわ。感謝申し上げます。」
女性が深々と頭を下げた。

「星川様。今夜は何に致しましょう。なんでもお作りしますよ!」
オーナーは、奥さんと同じカピバラの縫い取りがあるエプロンをしている。
それがまた、似合うような、不釣合いなような、不思議な感じだ。
「そうだなぁ。冷え切ったから、ビーフシチューにでもしてもらおうか。ライスの気分ではないから、パンを少しだけ、ガーリックトーストにして添えてくれ。」
「かしこまりました。」
オーナーは無骨な顔を笑顔満面にして厨房に消えていった。

「では、ワインは赤になさいますか?」
「ああ、そうだね。」
星川様と呼ばれた客が答えると、厨房から声だけが聞こえた。
「では星川様、ワインを少し残して、私どもにいただけませんか?」
「構わないよ。一緒に飲もう。」
「いえ、そうではなく、ヴァン・ショーをこしらえようと思います。」
「おお!それはいいね。ぜひ頼むよ。」

「ちょっと、史彦!いい加減に決めてよ。私、お腹空いちゃったんだから。」
「うるさいな。決まったよ。」
そういって格好つけて手を挙げて女性を呼んだ。
「はい。お待たせいたしました。」
「こちらの前菜と、ビーフシチュー。僕にもガーリックトーストにしてくれますか?」
「はい。承りました。」
「ルーは?」
「私はこの、カピバラオムレツを!それと…。」
「はい?」
「ヴァンショーって何ですか?」

本当は史彦の注文を聞いて、何よ真似して!と言ってやりたかった。
でも、私も美味しそう!と、話を聞いていて思ってしまった。
「ホットワインのことを、フランス語でそういうのです。赤ワインにはちみつやレモン汁、いくつかのスパイスなどを入れて作ります。体がとても温まるのですよ。こんな雪の夜には、お帰りの寒さを減らしてくれるかもしれません。」
「それ、私も飲んでみたい…。」
「かしこまりました。このまま降り続いたら、明日の朝には雪だるまが作れるほど積もりそうですもの、ぜひ温まってくださいませね。」
「私の故郷では雪なんてめったに降らないし、私、雪が積もるのを見るのは初めてなんです。雪だるまなんてテレビや映画でしか見たことないわ!」
「まあ!暖かい地方のご出身ですのね?」
「ええ。」

史彦も同郷なのだ。
高校からの知り合いだったけど、就職のために上京してから再会した。
同郷のよしみ、なんとなく心寂しいところに話が合って付き合いだした。
上京して2年。
史彦と付き合い始めて1年と何か月。
東京で初めて迎えた昨年の冬は暖冬で、雪の少ない冬だったから、こんな雪を見るのは初めてだ。

最初のうちは、高校を出てすぐ東京に来ていた史彦の都会的な行動が目新しくておしゃれに見えた。
でも、史彦には毎日会えるわけではないのだ。
なぜなら、デートと言えば、高層ビルのレストランやオシャレなバーばかりだから。
ワイン選びのためにソムリエと会話して、ギャルソンと素材の話で盛り上がり…。
よかったのだ、初めは。
でも、今ではすっかり、鬱陶しくなってしまった。

私は庶民なのだ。
おしゃれなレストランもたまにならばいいけれど、毎回では肩が凝って疲れてしまう。
着ていく服を用意するにもお金がかかる。
まだお給料をもらい始めたばかりで、家賃を払ったら、それほどゆとりはないのに!
私は映画館に行かなくても、家でレンタルビデオを2人で観られたら、それでいい。
でも、私のためにいろいろ考えてくれているのだと思うと、なかなか文句が言えなかった。

でも、今日はとうとうキレてしまった。
こんな雪の中だというのに、予約したレストランに行くという。
でも、私は、あまりの寒さに長靴を履いて家を出た。
だって、ブーツで出たら、たった一歩で滑って転んじゃったんだもん!
雪の上なんて歩いたことないから、長靴にしなかったら、待ち合わせ場所まで行くこともできなかったんだもん。

長靴でレストランに行けるかと叱られて、私はいい加減頭にきた。
レストランより、寒がりの私のことを気にしてよ!
それでも会いに来た私のことを褒めてよ!
怒り心頭の私は、ガシガシ勝手に歩き去った。
さすがに史彦は追いかけてきてくれて、あれこれ言ってきたけど、無視してやった。
そうしているうちに、どこにいるのか分からなくなってしまった。
しょげ始めた私を追い越して、史彦は少し先を黙って歩いた。
そうして、このカピバラ食堂にたどり着いたのだ。

先にビーフシチューの用意ができたようだ。
向かいに置かれた皿の中から、香ばしいブラウンソースの香りが漂ってきて、鼻孔をくすぐる。
軽くソテーしたホタテの貝柱を生ハムで巻いて、オリーブオイルにレモン汁、塩とわずかな胡椒だけでいただいた前菜があまりに美味しかったから、このビーフシチューもとびきりおいしいだろうと思われる。
案の定、先にスプーンを握った史彦は、得も言われぬ顔をしている。

向こうのテーブルにかけた客も、オーナーに賛辞を送っている。
私もそれにすればよかったなぁと思ったところへ、オムレツが届いた。
真っ白で大き目の皿の上に、本当にカピバラがうずくまっているみたい!
お尻の方を少しだけ、スプーンで削って口に入れる。
ふっわふわの玉子がトロリンと口の中に広がる。
こんなにおいしいオムレツを食べたのは、人生で初めてだった。

美味しいものを食べると、人は冷静になれるものらしい。
私は先ほどの怒りがすっかりどこかへ行ってしまったのに、半ば驚いた。
でも、今日こそ、はっきり言わなくちゃ。

「おや、電車が止まってしまったようだ。」
厨房からオーナーの声がした。
「まあ、大変。お客様、大丈夫ですか?」
きれいに平らげた皿を片づけながら、店の女性が尋ねた。
「止まってしまったのなら仕方ないわ。なんとかします。」
「どちらへお帰りですか?」
私が家の場所を告げると、女性は小首を傾げながら下がっていった。

「ねえ、史彦。わたし、これから、高級レストランには特別な日以外は行かないからね。」
「どうして?」
「ほんとは、疲れてしまうのよ。たまにならいいわ。でも、毎回では疲れちゃう。お金もかかるし、くつろげないし、嬉しくないの。」
「喜んでもらえてると思って、一生懸命探したんだぞ。」
「わかってる。だから、言えなかった。」

私たちの間に、気まずい空気が流れた。
「付き合ってもう1年になるんだよ。もう、特別じゃなくていいんじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ。」
「女は高級な方が喜ぶんじゃないのか?」
「そういう人もいるかもしれない。でも私は、ワインに前菜にメインにとかじゃなくて、オムレツで十分美味しいんだよ。焼き魚でいいし、里芋の煮っ転がしでいいんだ。一緒に美味しいもの食べられたら、それでいいの。」

史彦は今までの努力が否定されたと思ったらしく、むっつりと黙り込んだ。
「ヴァン・ショーでございます。」
丁度いいタイミングで、ホットワインが運ばれてきた。
ダブルグラスだから、グラスの中に濃い紫色が浮いて見える。
一口飲んだら、舌の上から喉を通って体の中心まで、じわっと温かさが広がった。
私たち、こんなことで気まずくなっちゃうのかな。
性格の不一致って、こういうことなのかな。

ホットワインは堪らなく美味しいのに、私はちょっと泣きたくなった。
その時だった。
厨房からオーナーが出てきて、私たちのテーブルの横に立った。
もう注文したものは残っていない。
伝票でも届けに来たのかと思った。

「遅くなりました。ご注文のデザートでございます。」
「え?デザートなんて頼んでません。」
「こちらを、どうぞ。」
「は?」

大きなオーナーの後ろから、奥さんが出てきた。
そして、私たちのテーブルの上に、サラダボウルのようなものを置いた。
その上に、高さ30センチくらいの、真っ白な雪だるまが載っていた。

「まだご覧になったことがないと、おっしゃったものですから。」
私は驚きすぎて、声が出なかった。
小さな雪だるまは、紙コップの帽子をかぶり、ニンジンの鼻がついている。
眼もある!よく見ると、目はコンニャクを切ったものだった。
いつの間に作ったのだろう?
私の些細なひとことを聞き逃さずに、こんなに大事にしてくれたんだ!
私は掌で、雪だるまの体を撫でてみた。
じんと冷たい。
掌は冷たいけど、心にはほっこりと明かりが灯った。

「ありがとうございます…。雪だるまがこんなに可愛らしいなんて、知らなかったわ。」
私はうそ偽りなく、心からの感謝を伝えずにはいられなかった。
「こんな雪の夜にお越しくださったのですもの、感謝申し上げたいのは私どもですわ。」
オーナーと奥さんは、私の喜ぶ姿が本当にうれしかったようで、にこにことふたり顔を見合わせてから、そろって厨房へ戻っていった。

「こういう特別も、あるんだな。」
史彦がポツリと言った。
「僕は横着だったかもしれない。人の評判を調べて、金さえ払えばいいものが手に入ると思ってた。それでルーが喜ぶのは当たり前だと思ってた。でも、人の意見を調べるだけで、僕自身で考えたことはほとんどなかったのかもしれない。」
「そんなことないよ。史彦にはとても大事にしてもらっているって、いつも思っていたよ。でも、これからは、普通でいようよ。高級でなくていいから、もっとたくさん会いたいな。」
「そうだね。このホットワインや雪だるまみたいにね。」

店を出るとき、温かい部屋の中で、あの雪だるまは2割くらい痩せてしまっていた。
でも、私はそれを手袋をはめた手で持って出た。
外はどこもかしこも真っ白で、音がない世界になっていた。
「電車は止まってしまったけれど、バスがまだ、動いているようです。バス停はこの通りの向こうの大通りに出たらすぐにありますから、どうぞお気をつけて。」

奥さんが調べてくれたらしい。
どこまで行き届いた店だろう。
「また来ます!」
そう答えたのは史彦だった。
「お待ちしております。今度はお足元のよい日に、お立ち寄りください。」
オーナーまでそろって見送ってくれた。

バス停まで、史彦と腕を組んで歩いた。
店に入る前とはくらべものにならないほど、寒さが気にならなかった。
史彦が持ってくれた雪だるまをバス停において、帽子の紙コップに、鼻のニンジンと眼のコンニャクを入れた。
全部持って帰りたいけど、バスの中に雪だるまは持ち込めない。
「それ、どうするの?」
「明日の朝、雪だるまを作って、くっつけるの。」
「じゃ、その雪だるま、僕が作ってあげるから、今夜泊まっていい?」
「……いいよ。」

私たちは、今まで以上に仲良しになった。






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