Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年10月


「ルー、どうした?」
隣に座っている親友は、ずっと無言のまま真正面の噴水を虚ろな眼差しで見ていたのだが、今は首を少しだけ巡らせて、何もない方向を見ている。
できるだけ静かな、圧力のない声になるよう気を付けながら、私はもう一度尋ねてみた。
「ルー?どうしたの?何を見ているの?」

ルーはスローモーションで私の方を見ると、無表情のまま答えた。
「あれ。」
ルーがのそりと指差した方向を改めて見てみる。
晩秋の青空の下、人々がのんびりと行き交っている。
幼い子供を連れた母親や、旅行鞄を提げた人たちもいる。

道路の向こうは芸術大学、そして博物館。
幅の広い横断歩道を歩く人の中には、異国からの旅行者も多数見受けられた。
かと思えば、この公園の端の方、木立のあたりを歩いている人の中には、たぶん家もなく、家族もなく、その木立の奥で寝泊まりしているかと思われる人々も見えている。

ルーが言う「あれ」が何のことかわからず、私はもう一度聞いてみようかと思ったが、やめておくことにした。
もしかしたら、それは、ルーにしか見えないものかもしれないからだ。

ルーに何があったのかは、正直なところ、よくわからない。
ルーはいろいろと話してくれた。
けれど、ルーが見たり感じたり聞いたりしたことばかりだから、当然だけど、そういうふうに感じているところにそう言われたら、そう思うしかないよねと納得せざるを得ないことばかりだ。
しかも、断片的で要領を得ない。

もしも私がその場にいて、少しでも客観的な立場で出来事を観察できたなら、もう少し違う見方もできるのかもしれない。
が、ご近所さんで小学校6年間同じクラスで、その頃は親友だったいうだけで、高校から後は通った学校も就職先も、仕事の中身も何もかも違って、それぞれに新たな人間関係を持ち、互いに少しずつ離れていった。それほど会いもしなかった仲なのだ。

一人暮らしをしながら仕事をしていたルーが突然実家に帰ってきたと母から聞かされたのは、三月ほど前、まだ暑い盛りのことだ。
ずっと実家暮らしの私には、海外や地方へ、仕事だの結婚だのでこの街から離れていった友人が多いので、 ルーもその中のひとりであり、それが帰ってきたと聞いても、別段どうとも思わなかった。

でも、おばさんがわざわざやってきて、娘が会いたがっている、来てやってちょうだいと言った。
事情があるとも聞かされた。
驚かないでねと繰り返し言われながら連れていかれたら、ルーが、夏の明け方、木の根元に残っている空蝉のように座っていたのだ。 

会いたがっていたというのも本当なのか、おばさんが私を誘うための口実だったのか、やっぱりよくわからない。
ルーは私を見ると、ひっそりと笑顔を浮かべ、「宿題一緒にやる約束したっけ?」とつぶやいた。
困惑する私に、おばさんが、ルーの背中に隠れて手を合わせている。
私は、ルーの話に乗ってやってほしいというおばさんの気持ちを汲んだ。
「うん。でも、宿題はあとにして、おしゃべりしようよ。」

ルーはその時、古ぼけて目や爪の色が剥げかけ、金髪の縮れ毛がもつれたボロボロの人形を抱いていた。
その擦り切れたベルベットの赤い服を見て、私はそれが、ルーが小学生のころ、とても大切にしていた人形だったのを思い出した。
そして、大切な人形を抱きしめているルーの手首に、真新しい傷が…切れ味のよい刃物を当てたような無数の傷が…ついているのが見えた。
おばさんは、息ができないほど強く口元を押さえて、声を出さずに泣いていた。



小学生の時のルーは優等生で、いつも学級委員をしているような優しい子だった。
いじめなんて絶対しないし、いじめられもしない。
クラスの一員でありながら、どこかクラスから超然としているような子だった。
転校生が来たときや、たんぽぽ学級の子たちが音楽や体育の時間だけやってくるときも、真っ先に寄っていって面倒をみてやる。
そういう子だった。

でも、中学、高校と進むにつれ、私たちは同じように、普通の女の子になった。
これといって人に勝るものはない。
絶対の趣味があるわけでもなく、特徴もない。
格別美人でもなく、かわいくもない。
どうしても叶えたい夢があるわけでもなく、それを探しに行く気持ちもなかった。
それでも、当たり前に社会人になり、いつか結婚して、自分たちの両親がしたように家族をもつのだろうと、漠然と思っていた。

当然それぞれ恋もした。
お互いに、彼と歩いているときにばったり出会ったこともある。
そんな時は無言で見交わしながら、「私の彼の方がステキだもん!」と思ったものだった。
きっと、ルーも同じことを考えていたと思う。
思っては、おかしくて笑えるのだ。

おばさんが呼びに来た日以来、私は時間ができると、ルーを訪ねるようになった。
ルーは何時に行っても、寝ていることはめったになくて、いつも同じ場所で、同じ人形を抱いてぼんやりと座っていた。 
すっかり忘れていた出来事を不意に言われ、思い出した私が驚くこともたびたびあった。
かと思えば、誰と勘違いしているのか、もうくびになってしまったはずの仕事の段取りを相談されたり、最近別れたらしい恋人の愚痴を聞かされることもあった。

それだけではない。
ルーは見えないものが見えると言ったり、いない人がいると言ったりした。
私には聞こえない声を聴き、怯えることもたびたびあった。

私は当惑しきった。
どうしたらいいのかわからないではないか!
こんなふうになっている人に、頑張れとかしっかりしろとか言ってはいけないことくらい、無知な私だって知っている。
けど、大丈夫とかなんとかなるとかいう、無責任なことも言えなかった。
本を読んだり、ネットで調べたり、詳しそうな知人に聞いたりしてみたけれど、どれも、ルーを目の前にすると机上の空論になった。
それでも私は、ルーに会いに行くのをやめられなかった。

夏が去り、短い秋がやってきたころ、ルーはすっかり無口になっていた。
少しは頭の中が整理されたのだろうか、過去の思い出を語ることはほとんどなくなったが、幻覚や幻聴は続いているようだった。
ある日、ふと思いついて、私はルーを散歩に誘ってみた。
すると、不思議そうな顔をして見せたルーは、思いがけないことを言った。
「噴水が、見たいな。」
ルーに会いに来るようになって2か月、ようやく対話ができた初めてのことだった。

まるで幽霊のように、ルーはふわりふわりとゆっくり歩く。
私はその脇に寄り添って、同じ速さで歩くのが大変だった。
ゆっくり歩いてみて、自分が普段いかに速く歩いているかに気付いた。
ルーは、一度にひとつのことしかできなくなっている。
「ながら」がない。
だから、歩いている間は何も話さない。

なのに私は、返事をしないルーに、思いやりのつもりでずっと語りかけていた。
今日はいい天気だね、ルーに歩く気力がわいて嬉しいよ、ほら博物館に人がいっぱい並んでいる、何の展示だろうね…
でも、何度目かの散歩のときに、私は気付いた。
ルーは歩くのに精一杯で、返事をしないだけでなく、聞くこともできていないのではないか。
私の声は耳障りな雑音になっているのかもしれない。
私は口を閉じた。
ルーの眉間に寄っていたしわが、ゆっくりと消えていくのを私は見た。
あのしわは、歩くのがしんどくてついていたのではなかったんだ!
思いやりから出た言葉でも、時に暴力になり得ることを私は知った。

石の段差にフリース毛布を敷いてルーを座らせた。
ルーはされるがままに腰かけると、高く低く溢れ出す水の形をじっと見ている。
それだけだ。
口を閉じた私は、ただルーの横にいるだけになった。
小一時間そうした後、ルーの体が冷える前に、家に連れ帰るのだ。

だんだん散歩に慣れたルーは、私が行くと、調子がよい日は黙っていても外に出ようとするようになった。
それは、好ましい変化のように思われた。
それでも、相変わらずほとんど何も話さない。
いつも同じ場所に座り、同じように噴水を眺めていた。
私はそんなルーにぴったりと体を寄せて、腕と腕を触れ合わせた。
私の体温が伝わって、私がそばにいることがルーにわかるといいな。
それしか、できることがなかったのだ。



「あそこに、ハトが、いるね。」
だいぶ間があってから、ルーがぼそりと言った。
なるほど、さきほどルーが指差した方向に、確かにハトの群れが地面に降りていて、えさをついばんでいる。
珍しいな、ルーがそんなことを言うのは。
「ハト、たくさんいるね。」
私は短く答えた。
そうか。ルーはハトを見ていたのか。

「こども…」
「こども?」
言われてみれば、まだ歩き方がぎこちない幼子と、その姉だろうか、もう少し大きい子が、ハトを追い回して遊んでいる。
「かわいそう…」
「かわいそう?」
「ハト、かわいそう。」
ルーの目から大粒の涙がぼたぼたと落ちた。

「こどもが、じっと、していたら、ハトは、安心して、寄ってくるのに。あんなに、脅かして、不安に、させて。」
ルーの目には、こどもがハトをいじめていると見えているのだろう。
確かに、しつこく追い回しては歓声を上げている姿は、動物愛護の精神からは遠いかもしれない。
「ルー。心配しなくても大丈夫よ。ハトは羽があるし強いから、こどもに追いかけられたぐらいでは不安にならないし、ちゃんとエサも食べられるよ。だから、泣かないで。」

バッグからハンカチを出して、ルーの涙をぬぐってあげようとした時だった。
ルーの焦点がぼやけた目が、私を捉えた。
「ハトの、なかにも、わたしみたいな子が、いるかも、しれないのに。」

そうだわ。
私は自分の冷たさに気付かされた。
それでも、ごめんと言えなくて、また黙ってルーの腕にくっついた。
ルーはそれきり何も言わず、くっつけた腕を振り払おうともせず、また噴水を眺め始めた。
ルーは、こんな時でも、どこまでも優しかった。







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「ルー、どうした?」
大声で聞いてきた夫の質問の意味が分からなくて、私は掃除機を止め、聞き返した。
「何?」
「だから、ルーだよ、カレールー!」
「なーんだ。さっきカウンターに置いたスーパーの袋に入っているでしょ?」
「ないよ。ないから聞いてるんだよ!」
「そんなはずは…」

掃除機をテレビの前に置いたまま、私は袋の中を自分で確認した。
すでに夫が取り出した玉ねぎやニンジン、じゃがいも、いつもより若干ゴージャスな牛肉や、彼のリクエストで買い足した焼き肉のタレとかセロリとかが、全部取り出されてカウンターに並べられている。
だから、袋の中はもう空っぽで、確かにカレールーが入っていない。

「あ!」
そうだ。
私は思い出した。
「バーモントカレーじゃなくて、グリコのZEPPIN中辛を買って来て」と言われたので、 探したのだったっけ。
なんでも、ルーが二層になっていて、ほかのものとコクが違うらしい。
めったに料理などしない夫だが、私の誕生日である今日は料理担当をするといって、彼が唯一ハズレなしに作れる料理、カレーが今夜のメニューと決まった。
ほかに用事もあるからと、買い物は私がすることにして、頼まれたものを買い揃えたはずだった。

「ごめん!買い忘れちゃった!丁度ZEPPINを探していた時に、お隣の佐々木さんの奥さんに会って、一緒にレジに行っちゃったんだわ!」
「ママ、そそっかしー。」
娘の多喜まで夫と一緒に笑っている。
「ルーがないとカレーにならないけど、いいの?」
「わー。私、今夜はカレー気分満タンよ!でも、掃除途中だし…。ねえ、多喜ちゃぁーん…」
「ダメ。これから、ママのバースデーケーキ作るんだもん。」
「その前に、ちょっとだけ買い物行ってきて!お願い!」
「もうバター溶かし始めちゃったもんねー。」

それが買い物に行けない理由になるかどうかは怪しかったが、小学生のころと違って、中2の娘はこのところ言い出したらガンとして譲らず、自分の主張を貫く。
大人らしくなってきたということか?と思うと、かわいくないけど、頼もしかったりもする。

私は楽しみにしているのだ。
自分の母が看護師で仕事が忙しく、忙しくないときは疲れていて、子供の自分が気遣ってやらなければなならない存在だったことを、いつも寂しく思っていた。
だから、多喜が年頃になったら、私は多喜と友達みたいになって、コンサートやショッピングにふたりででかけるのだ!
本音で言いたいことが言い合える親子。
遠慮して、言いたいことも我慢して、大人ぶって過ごした自分の子供時代を、多喜には繰り返させたくなかった。

「しょうがないなぁ。もいっぺん買い物に行ってくるから、待ってて。」
「ママ、よろしくねー。」
夫も娘も、それぞれに機嫌よく、私の誕生日を祝おうとしてくれている。
なんだかくすぐったい幸福感。
もちろん、悪い気がするはずがない。

外はすでに暗くなり始めている。
日中買い物に出かけたときは、きちんと着替えてメイクも整えたけれど、帰宅したときにすっかり着替えてメイクを落としてしまった。
歩いて7分くらい、ご近所のスーパーだからまあいいかと、普段着のままサンダルをつっかけて出かけた。

いつもの週末なら朝いちばんに掃除を済ませるのに、今日は外出が先だった。
もうすぐクリスマスイルミネーションが飾られる駅前の並木道を過ぎながら、すっかり手順が狂っちゃったわと思った。
イルミネーションか。
素足のつま先が冷たく感じる季節になったことに、一年ってホント早いわと襟元を合わせたとき、目が、駅から出てきたひとりの女性をとらえた。

どこかで見た女性だと思った。
黒いエナメルのピンヒールにタイトなスーツ。
ひじにかけたケリーバッグはきっと本物で、100万は下らないだろう。
手にした書類をきれいなネイルの指先でトントンとたたきながら、脇を歩くスーツのイケメンと何事か話しながら歩くその姿は、10年前の自分のようだ。

10年前。
それで思い出した。
初枝さんだ!
あれは、初枝さんに違いない。
私が会ったとき、彼女は今の私のような恰好をしていて、私は、今日の彼女のようなスーツを着ていたのだ。
どうして彼女がいまここに?

初枝さんは、夫の前妻で、多喜の生みの母なのだ。

私はそこから一歩も動けなくなった。
向こうから歩いてきたまま、彼女と連れの男性は私に気付きもせずに、横を通り過ぎていった。
「そこのデザインはやはりこちらの方が…」
そんな彼女の声が聞こえた。
恐る恐る振り返ったが、初枝さんはやはり私に気付かなかったようで、そのまま遠ざかり、姿を消した。



私はふらふらとスーパーにたどり着き、食品コーナーを通り過ぎると、レジの先にあるベンチにへたり込んだ。
まさか、こんな風に彼女を見かけるとは思ってもいなかった。
こんな近くに!
仕事のようだったけれど、私たちがここにいることを知っていて来たのだろうか。
それとも偶然?
心臓が、どくどくと音を立て、耳の後ろが脈打っている。

私と夫とは、夫がまだ初枝さんと夫婦でいる間に知り合っていた。
会社の同僚で、気軽にランチも行けば飲み会もする気の合う仲間のひとりとして。
妻が浮気をしている気がすると、彼から相談されたのが、ふたりだけの時間をもつきっかけになった。
本当のところ、初枝さんが浮気をしていたのかどうかは今も知らない。
でも、夫は離婚を決め、親権は絶対に渡さないと息巻いていた。
初枝さんは娘を連れて出ると言ってきかないらしかった。

当時の私には夫への恋愛感情はほとんどなく、ただ、気遣わしい男性だと感じる程度だった。
でも、今となってはそれも自信がない。
そう思っておくことで、不倫じゃないわと自分に都合のよい理解をしたかっただけかもしれない。

あの日。
私が初枝さんに会った唯一の日。
休日だった。
私は夫に呼ばれて、お昼ご飯を一緒に食べることにした。
駅のそばのファミレス。
何を着ていけばよいかわからず、ファミレスには不似合いと感じつつも、仕事着にしているスーツを着て、ハイヒールを履き、仕事使いのバッグを持ってでかけた。
デートだと誤解されるのが嫌だった。
でも、誰が誤解するのを恐れているのか、自分でも分からなかった。

行ってみると、夫はまだ3歳の多喜を連れていた。
可愛らしい女の子だった。
色が白くて、ほっそりとして、髪を少し伸ばして三つ編みにし、先にリボンを結んでいた。

人見知りをしない女の子はおしゃべりで、一人暮らしでどちらかといえば静かに過ごすことが多い私には、楽しい会食だった。
多喜ちゃんがお子様ランチについていたプリンをおいしそうに食べていた時だった。
不意に、ジーパンにTシャツ姿、かなり履きこんだスニーカーの女性がテーブルの脇に立った。
「初枝…。」
「ママ!」
ふたりの声で、それが初枝さんだと知った。

「そっか。そういうことなんだ。」
初枝さんは化粧っ気もなく、家事をしていた専業主婦そのままだった。
「でかけたんじゃなかったのか?」
「私がでかけたら、女と会うわけ?」
「違う。昼飯を作るのが面倒だったから、外に食べに来ただけだよ。」
「じゃ、この人はなに?」

燃えるような眼で睨まれた。
その鋭い表情が、私の脳裏に焼き付いた。
私は自分の立場がどういうものか、うまく言葉にできなかった。
まごまごしていると、初枝さんは低くふふふと笑い出した。
自嘲的な笑いだった。
「わかったわ。私が出ていく。多喜は置いていくわ。さよなら。」

夫は、驚いた顔をして何も言わなかった。
言わない代わりに追いかけたりもしなかった。
ただ、多喜ちゃんだけは、火がついたように泣き出した。
ママ、ママと追いかけようとした。
何をどこまで理解したかわからないが、ママとは会えなくなるのだということが、この幼い心にも瞬時に理解できたのだと思うと、いたたまれなかった。

2人席の通路側にパパがいなかったら、きっと多喜ちゃんはママを追いかけたに違いない。
でも、パパを乗り越えられなくて、そのパパに抱きすくめられたまま店を出た。
泣き止まない多喜ちゃんに、私は言ってしまったのだ。
「泣かないで。私が多喜ちゃんのママになるから。多喜ちゃんを一人にはしないから!」
両親が取り合うならまだいい。
母に捨てられた幼子の胸の内や将来を思うと、切なくていとおしくてたまらなかったのだ。
そうやって、私は人生初の夫と娘を同時に得た。

あれから10年。
結婚した私たちはこの街に引っ越して、新しいマンションを買った。
初枝さんからは一度の連絡もなく、多喜はただ一度の面会さえしていない。
私は初枝さんがどこに行ったのかさえ知らず、何をしているかと話し合ったこともなかった。
多喜も、どういう気持ちからか、初枝さんのことを言い出したことが一度もない。
もしかしたら、幼すぎて覚えていないのだろうか?と思ったりもする。
その不自然なほどの態度に疑問を感じつつも、言われても困る自分の都合が、そのことをはっきりさせるのを拒み続けてきた。

夫は、本当に初枝さんと連絡を取っていないのだろうか。
多喜は初枝さんに会いたくないのだろうか。
いや、本当に、会っていないのだろうか。
私はたまらなく不安になった。

多喜と過ごす時間がほしくて、私は仕事を辞めていた。
数年前からパートに出るようになったが、キャリアウーマンを自認していたころのスーツの私はもういない。
後悔はしたことがないけれど、あのまま仕事を続けていたら、今頃どんなふうになっていたのかなと思うことはあった。
でも、仕事と引き換えるには、多喜と夫との暮らしは幸せすぎた。

いっそ、初枝さんが死んでしまっていたなら。
私はとんでもないことを考えた。
いっそ死んでしまっていたなら、私は多喜と一緒に初枝さん冥福を祈っただろう。
多喜を生んでくれたことを、心から感謝し、私の心の中に初枝さんを住まわせて、ともに多喜の成長を喜んだことだろう。
ひとりの人間が生きているということが、これほどの重荷になるとは。
正しく生きたい大人の私としては、こんなことを考える自分が許しがたかったが、生身を生きる私は、そう思わずにいられない自分を、叱ることができなかった。


「そうだ。ZEPPINカレー…」
いつの間にか眼のふちにたまった涙をぬぐって、私は立ち上がった。
夫のリクエスト通りの中辛を買い、また初枝さんに会うのではないかと半ば怯えながら家路を急いだ。

「おっそーい!」
「何買いに行ったか忘れちゃったんじゃないかって話してたんだよなぁ。」
「もうすぐケーキも焼けるよ!でも、ちょっと冷ましてからクリームで飾りをつけるから、それまで見ちゃだめだよ!」
「ほら、ルー出して!もう入れないと、味がしみ込まないよ!」

何も知らないふたりが、口々に話しかけてくる。
ここには、私が大事に築き上げてきた幸せが揺るぎなく存在している。
でも、本当に揺るぎないのかしら?
背筋を冷たいものが滑り落ちていく。

「ママ?」
「なに?」
「お掃除、やっておいたからね。掃除機もちゃんと片づけたよ。」
「ああ、ありがとう。」
「それでね、あのね、冬のスカートがほしいんだけど、買ってくれる?」
「え?いいけど、行けるの?部活は?」
「テスト前だから、土日ともお休み!」
「行こうよ、3人で。パパがふたりにプレゼントするよ、おしゃれな妻と娘はパパもうれしい。」
カウンターごしに、夫が声をかけてくる。
「うん。じゃ、行こうか。3人で。」
「やったぁ!」

お誕生日おめでとうと、ふたりから花束をもらった。
多喜が焼いてくれたパウンドケーキには、私の好物のドライフルーツがたんと入っていて、脇にそえた生クリームがとろけるように滑らかで甘かった。
そして、夫が作ってくれたカレーの味は、これといって特別なものではないけれど、かけがえのない私の家族の、特別な味がした。

いつか。
もしも、いつか、初枝さんがこのふたりを取り戻しに来たら、私は見苦しく戦おう。
髪をふり乱して、涙を滝のように流して、唾を飛ばして懇願しよう。
正しくなくても、カッコ悪くても何でもいい。
私はあなた方を手放したくない。決して、決して離れない!
夫のカレーの、いつもより大きなじゃがいもをほおばったとき、肚が決まった。
さっきまで、ふたりの気持ちや行動を疑っていた自分が、微笑みながら消えていった。
がんばって。
消えていく、不安な自分に励まされた。

「どうしたの?ママ、泣いてるの?」
多喜が驚いている。
「パパ、多喜、ありがとう!」
私の大切な宝物たちがふたりで目を丸くして見合った後、
「おおげさー!」
と笑い出した。






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「ルー、どうした?」
「ねぇ、聞いた?林田さんと佐伯主任の電撃結婚!」
取引先から急いで駆け付けた私を見るなり、瑠寿香が声をひそめて耳打ちした。
「そんな話がしたくて呼んだの?」
書類が詰まったトートの外ポケットからタオルハンカチを出した私は、これ見よがしに首筋の汗をぬぐった。
いくら今日の営業部一の話題といっても、噂話のために千葉にいた私を都心のレストランに、ランチに間に合うよう来いと呼びつけるなんてどうかしてる!
けっこう本気で走ってきたこと、気づいて感謝してほしいわ、くらいの気持ちがわざとらしい行動をさせていた。

「違うけど、びっくりしたじゃない?」
「そりゃねぇ。ルーはもう食べたの?私ランチまだなのよ。注文していい?」
「私は食欲ないから、今日はコーヒーだけにする。注文して。」
だったらなぜランチに?といぶかりながら私はメニューを手に取った。
けど、移動の疲労でたいして見る気にもならない。
目が合った店員がやってくると、すぐに注文した。
「明太子スパゲティとアイスティ。アイスティはすぐに持ってきてください。」

「ねぇ、みいちゃん。佐伯主任、ひどくない?林田さんって長男なんでしょ?」
「ああ、 どっちが苗字を変えるか勝負したって話?」
「それよ!それが愛する男性に対する仕打ちかしら?」
アイスティが待ちきれなくて、私はテーブルの水に手を伸ばした。
この店のウォーターサーバーはおしゃれだ。
テーブルに1本ずつ置かれたボトルは、もとはペッシェビーノというイタリアワインのボトルだ。

このボトルのラベルをはがし、滅菌消毒してウォーターサーバーに使っている。
中にはミントの枝と、薄くスライスしたレモンが一枚。
そしてキンキンに冷えた水が入っているのだ。
いつもこのボトルの水が、外回りからたどり着いた喉を爽やかに潤してくれる。
OLの幸せは、職場に複雑な人間関係がないことと、近所に気の利いたランチの店があることだわ…。

「で、なんだっけ?」
「だから、佐伯主任よ!どうして自分が林田の姓を名乗らないの?今なら夫婦別姓だってアリでしょ?」
「ああ、その話ね。あれは、佐伯主任の愛の証よ。」
「それが分からないのよ。どうして、年下の夫に自分の姓を名乗らせるのが愛なの?」
「わからないかなぁ。佐伯主任はバツイチでしょ?」
「知ってる、知ってる。前の旦那さんは、確か開発部の…。」
「そう。今は偉くなってもう部長さん。」
「離婚の原因とかは知らないけど、佐伯主任、そうとう参っていたわよね。」
琉寿香もその頃の佐伯主任を思い出したようだ。

そのころはまだ主任ではなくて、私たちと同じ平社員だった。
明るいというよりは勝気で、向日葵というよりはカトレアのような女性だった。
「結婚して、名前を変えて、離婚して、また旧姓に戻して。
心の痛手が大きい時に、煩雑な手続きにはほとほと痛めつけられたって、何かの時に話してくれたことがあるの。」
「その煩雑な手続きを、今度は林田さんになすりつけたんでしょ?!」
「ルー、それって、一面的すぎる。」
私の言い方がきつかったからか、琉寿香は息を引いて、ちょっとむくれた。

「佐伯主任は、林田さんのこと、真剣に愛しているんだと思う。
今度は絶対に別れたくない、一生添い遂げたいって思ってる。
だから、保険をかけたんだと思うな。」
「保険?」
「そう。林田さんといえば、営業部きっての…。」
「めんどくさがり!」
「でしょ?だから、結婚する時に、名前を変更する手続きが面倒であればあるほど…。」
「そっか、二度としたくないと思うわね、彼なら。」
営業部の人たちの帰社を待って、経費を清算する仕事を一手に引き受けている琉寿香は、林田さんの面倒くさがりを生々しく思い出したのだろう。
「つまり、林田さんに離婚手続きが面倒だから、別れるのはやめようって思わせるためじゃないかって、私は思うよ。」

「でも、やっぱりそれって、どうかな。」
「なんで?」
「はっきり言えばいいじゃない。私と別れないでって。」
「まぁ、言ってもいいけど、結婚する前の年上の女からそんなこと面と向かって言われたら、けっこう重いと思うよ〜。」
「重いかな?本音で語り合うことこそ大事だと、私は思うわ!」
「そうかなぁ。本音だからこそ、簡単に言わないほうがいい時も、あるんじゃないかな、おとなの世界ってさ。」

琉寿香は、私の答えが不満だったようだ。
ふたりの間にねっとりした空気が停滞した。
話している途中で届いた明太子スパゲティが乾いてしまう前にと、話半分にせっせと口に運んだのが気に障ったのかしら?
そもそも、なんでわざわざ忙しい日のランチ時に、どうしても会いたいなんて言ってきたんだろ?

「ルーってば、ほんとに話したいことは何?」
食後に、少しぬるくなり始めたアイスティを飲みながら尋ねると、ルーは勢いを取り戻した。
やっぱり、何かあったんだわ。

「彼と、別れたの。」
「うそ!なんで??」
2人は相思相愛だったんじゃなかったの?
話を聞くばかりで会ったことはなかったけれど、琉寿香とは同期同学年の気安さで、飲みながら、食べながら、彼とのホットな話題を微に入り細を穿って聞かされてきた。

「夕べ、聞かれたのよ。今まで付き合ってきた男は何人?って。」
「へぇぇ。で?」
「迷ったけど、答えたわよ、正直に。」
「何人くらいだっけ?」
「8人…かな。」
「ルーは続かないからねぇ。」
「ふん。そしたら、彼、その8人とはどこまでいってたの?って言い出して。」
「どうしてそういう話になっちゃったのよ?」
「一緒にドラマ観てたのよ。ほら、最近すごい視聴率で話題の、夫婦がそれぞれに浮気するやつ。」
「ああ、あれ。なんでそんなもの、2人で観るかな?」
「なんか、関係ない世界だからさ。で、私が聞いたの。あなたもけっこういろいろ付き合ってきたんでしょ、今再会したら、そういう関係になっちゃうわけ?って。」
「おお、大胆な質問だね。」
「そしたら、彼、過去は過去で、今は君だけだよーって。」
「全然雰囲気悪くないじゃないの。それがどうして別れ話になるの?」
「で、今度は彼に聞かれたわけ。君は何人くらい付き合ったの?って。」
「なるほど。で、8人と正直に答えたわけね。で、どういう付き合いだったかと聞かれて、まさか…。」
「答えたわよ、正直に。だって、過去は過去だって彼もいうし、愛し合う2人の間で秘密はいけないと思ったから。」
「はぁ???」
「私、悪くないと思わない?だって、彼を信じて正直に言うことのどこがいけないの?うそよりいいに決まってるじゃない!」
「正直って、8人とも深い仲でした、あなたが9人目ですって言っちゃったってこと?」
「うん。そしたら急に立ち上がって、寝室に行ってごそごそしてるなーと思ったら、トランク持って出てきて、さよなら、君とは無理だって出て行っちゃったのー。んで、今朝になっても帰ってこなくて、メールも電話も着信拒否された!」

琉寿香は待っている。
私が「それは彼の横暴だわ」とかなんとか言うのを。
でも、言えるはずがない。
彼は、真実が知りたかったわけではないのだろうと分かるから。
自分が彼女の中の一番だと、確認したかっただけではなかろうか。
いつか何かがあったとき、自分も1/10の男だと言われるのかと思ったら、堪らなかっただろうな。

うそがいいとは言わない。
誤魔化すのが最善とも思わない。
けれど、彼女は本当に彼を愛していたのだろうか。
愛とは、自分がうそをついた痛みを抱え続けることよりも、真実を知った相手の心の痛みを避けてやりたいと思うことではないのだろうか。
そもそも、いくら過去は過去と言われたからといって、何を言っても相手が傷つかないと思うほうがどうかしている。
相手が私のありのままを100%受け入れなくてはならないと思うなんて、それこそ子供じみた甘えなんじゃないかしら。
自分をしっかり持った大人なら、許せないことや譲れないことが、ひっそりと、でも確かにあるはずだもの。

私はそれを琉寿香に伝えようかと考えた。
でも…。
やめておこう。
私は彼女の友達で、教育係じゃないもんね。
それに、私が感じることがすべて正しいとは限らない。
私の口からは、彼女の思い違いを指摘する言葉の代わりに、まったく違うものが飛び出していた。
「ね、ルー。やっぱり私、デザート食べたいわ。ケーキ、一緒に注文しない?」
「ケーキ?なによ、人が深く深く傷ついているときに!」
「それとね、佐伯夫妻の結婚パーティー、企画しようよ。主任ったら、再婚だから何もしないなんて、私たちが面白くないわ!どう?何かしたくない?ねぇ、ねえ!」








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「ルー、どうした?」
「どうもしないわよ。何か文句ある?」
接待で遅くなったとはいえ、まだ日付が変わる前に帰宅できたのに、妻は不機嫌色のオーラを全開にして、ひとり酒を飲んでいた。
すでに、受け答えが喧嘩腰になっている。
くわばら、くわばら。
酔いが強いふりをして、さっさと寝室に逃げるべし。

「遅くなってすまなかったね。じゃ、おやすみ。君もあまり遅くなるなよ。」
ちょっとろれつが回らないあたりを強調しつつも妻への配慮を見せて立ち去ろうとしたのだが、無駄な抵抗だったようだ。
「妻の話なんか聞く価値ないってわけ?」
「そんなことないよ。美味しそうに飲んでいるから、邪魔しちゃ悪いかと思って…。」
「美味しい?夜中に豆電球で飲む安いウイスキーが旨いってか??」
そういえば、テーブルの上の電燈は豆電球になっている。
侘しさを醸し出す作戦だったのか!
「聞くよ。何かあったんだね?」
「あったわよ。情けな〜〜〜いことが!」
 
妻がガンッと音を立ててグラスを置く。
見れば、安いウイスキーと呼ばれたボトルは、俺のメーカーズマークではないか。

赤い封蝋を切るのは、格別よいことがあった時にと決めて隠しておいたのに。
気づいていたのか! 
がっくりきたが、しかたない。
見つかったのがブッカーズでなくてよかったと思うことにしよう。
いや、隠し場所を変えた方がいいか。



俺はせめて厄を落としたくて、ミューズで丁寧に手を洗った。
それからテーブルに戻り、しかたなしに座った。
俺の酒だ。
飲まずにいることもないだろう。
おそろいのグラスを出してきて、手酌にした。
えもいわれぬ芳香が鼻孔をくすぐる。

「で?どう情けなかったか、聞かせてもらおうか。」
すでに酔っている妻の眼が座っていて、闇夜の猫のようにギラギラと光っている。
「周一よ。」
「周一?あいつ、また何か君を怒らせるようなことをしたのか?」
「面談、行ってきた。」

迂闊だった。今日が面談日だと何度も言われていた。
同行してくれとまで言われたのに、どうしても休めないと断った。
それをすっかり忘れていたとは!
「それで?」
「いきなり聞かれたわよ。『進学資金は潤沢ですか?浪人は何年までできますか?』って。」
「進学先の前に、浪人の話か?」
「そうよ。それも、浪人できますか?じゃなくて、何年できるか?って聞かれたのよ!」
「つまり、周一の成績は非常にむごいことになっているってことだな。」
「そんなことは、分かってる!」

分かっていたなら、今日に限ってそんなに怒ることもあるまいに。
などと考えている俺を、妻はすでに青白くなった目で睨んでくる。
「おい、あまり飲むなよ。それで、どこらへんに行けそうだって?」
「わからないって言われたわ。」
「え?」
「地域の中学校から高校へ進んだ時とちがって、確実な線は見えないものだから、全国模試の結果を参考に当たりをつけるしかないのだけど、周一の場合はさっぱりわからないって。」
「どうして?」
「はっきりしているのは、周一が進学希望先に挙げているような大学に一発で入るのは可能性ゼロ、お金さえ払えば誰でも入れてくれるようなところならまぁ、資金次第でなんとか。あとは、本人の劇的な成長に頼るしかないですね、アハハ!だそうよ。」

俺がいくら鈍感で迂闊な夫でも、担任から面と向かってそんなことを言われた妻の落胆と憤りくらいは理解できる。
「いくら3年間持ち上がっちゃった担任でも、可能性ゼロと断言されるのはどうかと…。」
「いいえ!先生がおっしゃるのは間違ってない。恥ずかしいけど、きっとその通りよ。腹が立つのはその後!」
妻はテーブル越しに身を乗り出してきた。
「私が返す言葉もなく帰ってきたら、周一がそこで漫画読んでた。」
妻が指差した先は、今俺が座っている場所だ。
「それも、受験生の高3男子が少女漫画よ!」
周一は子供のころから、男の子が好みそうな戦隊ものよりプリキュアや妻が読んでいる少女漫画のほうが好きだった。

「母の胸の内も知らずに、無邪気にハハッとか笑って、私を見たとたんに、漫画を指差してこう言ったのよ。『母ちゃん、この子、可愛くね?萌え〜〜!』」
周一の口まねがとても似ていたので、俺はつい吹き出した。
そんな俺を口から炎でも吐き出すかと思われるほど恐ろしい顔つきで睨んだ妻は、机を平手でぶったたいた。
「『萌え〜』よ!情けないったらありゃしない!!!!」

妻ははその時のことをまざまざと思い出したのか、怒りに目を潤ませて説明してくれた。
妻の話はこうだ。

はぁ?と睨みつけたら、形勢不利と感づいた息子は、そそくさとテーブルから逃げ出した。
そのだらしない姿を見たら沸々と怒りがわいてきて、思わず背後に駆け寄り、息子の背中に向かって思い切り跳び蹴りを食らわしてやった。
これまで、手をあげたことなど一度もなかった。
大事に大事に育ててきたはずなのに。
私の可愛い、ステキな王子様のような男性になるはずだったのに。

萌え〜??

この、バカ息子がぁっ

廊下に腹這いに倒れた息子は、驚いた顔で振り返ると、ニヤリと笑って言った。
「何すんだよ、母ちゃん!痛てーだろーが!」
こいつ、蹴られて喜んでいるのかしら?
そう思ったら、情けないのを通り越して、呆れ返った。
「もう、あなたのために晩御飯なんか作らないからね!掃除も洗濯も、全部自分でしなさい!」
何の説明もなしに啖呵を切られて驚くだろうと思いきや、息子はやはりニヤリニヤリとしている。
「何急に怒ってんだよ〜。更年期じゃねーの?」
妻は起きかけた息子の脇に駆け寄り、背中を思い切り踏んづけてギャフンと言わせてやった…。

俺は黙って立つと、風呂場に行った。
昨日の残り湯がそのままになっている。
周一は、晩飯を作ってもらえないと知っても動じることなく、じゃ駅前でラーメン食ってくるわと出かけていき、1時間もしたら戻ってきて、自室で音楽を聴いていたらしい。
ごめんなさいと謝って、妻にご飯の支度を頼まなかったことも、妻のプライドを傷つけたようだ。

手早く風呂の掃除をして、浴槽に新しい湯を張った。
扉の脇に、洗い立てのバスタオルとフェイスタオル、それからラベンダーの入浴剤を出しておいてから、テーブルに戻った。
妻は机に頬杖をついていて、疲れ切った顔をしていた。
もはや飲む気はないらしい。

「もう遅いけど、風呂掃除したから入っておいで。そんな気になれないかもしれないけど。」
「ああ。ありがと。」
言うだけ言って怒りの空気が抜けたのか、妻は素直に応じた。
のそのそと立ち上がり、風呂に向かう。
「なあ、ルー。」
「なに?」
「いや、いいよ。」

風呂場に消えた妻に、俺はほんとは言いたかったのだ。

周一は確かに不甲斐ないところがある。
けれど、俺たちはあいつのために生きているわけではないし、あいつも、俺たちの願いを叶えるために生きてるわけじゃない。
もう子供じゃないんだ。
あいつには、あいつの人生がある。
自分で選んだ道を、歩かせてやろうよ。
転ぶ自由ってもんも、あるんじゃないのか?
大学に行けないなら、行かなくていいし、行きたいなら自分で勉強するだろう。
でもそれは、親の問題じゃなくて、彼自身の問題だ。
俺たちは、あいつが俺たちの見栄を満たしてくれると信じるのではなくて、あいつは、あいつが選んだ人生を自分の力で歩いて行くだけの力を持っていることを信じてやろうよ。

でも、まぁ、こんな話は今夜でなくてもいいか。

風呂場から、ザバンと乱暴に湯が揺れる音がする。
俺は息子の部屋を覗きに行った。
小さないびきをかいて寝ている息子は、いつの間にこんなにデカくなったのか、ベッドからつま先がはみ出している。
お前、大人になったんだな。
母ちゃんに、さりげなく抵抗していたんだろ?
蹴られて嬉しかったか?
お前がもう、母ちゃんが守ってやる弱い存在じゃなくなったって証拠だもんな。

俺は息子の部屋のドアを閉めて、ニヤリとした。
親子だなぁと思った。
俺も、ある日突然母さんに蹴られたことを思い出したのだ!







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「ルー、どうした?」
とうとう、妻は泣き出した。
どうもおかしいと感じたのは、誤解ではなかったようだ。
子供みたいに大粒の涙をぼろぼろこぼし、ほら、鼻水まで垂らして。

「いったい、どうしたんだ?」
「あ、あなた…。」
帰宅してからずっと、様子がおかしいと思っていた。
どちらかというと勝気で明るい性格で、物事を深く悩むタイプの女ではない。
じっとしているのも苦手で、いつもちょこまかと動き回っている。
それが、今日に限って口数も少なく、どこかうつろな眼をしている。
時折深いため息をつき、俺が遅い食事をひとりで摂っている間、いつものようにテーブルに座ってお茶を飲みながら、足が貧乏ゆすりをしていた。

体調が悪いのか?
いや、こいつの健康なことと言ったら、いつも病気の方から失礼しましたと逃げていく。
それでも、何が重大な病気が発覚したとか…?
いやいや、それなら分かった途端に電話をかけてくるはずだ。

まさか、子どもができたとか?
一瞬、そうに違いないと思ったが、やはりこれもハズレだろう。
なんといっても妻は一昨日から絶賛出血中だ。
妊娠中にそんな出血したら、それこそ泣いている場合ではないではないか!
生理痛という言葉も妻にはないらしいから、今日に限って体がつらいというのもなさそうだ。

「あなた、ごめんなさい!」
妻はむせび泣きながら、謝り始めた。
おいおい、泣かないでいいから、理由を説明してくれ。
浮気でもしたというのか?好きな男ができて別れたいとか?
いや、きっと違う。
そういうことなら、妻はバチーンとサヨナラを突き付けて出ていくだろう。
「あなたのことは嫌いじゃないけど、もっと好きな人ができちゃったんだもん!」とか言って。
こと恋愛に関して、俺の妻はとても無邪気なのだ。
そこが気に入ったのだから、俺もどうかしている。

いや、今はそんな話はどうでもいい。
「ルー、どうしたんだ。何かあったのか?話してごらん。」
そういいながら、俺は自分のひらめきに緊張した。
借金、ではないだろうか。
専業主婦のルーは、デイトレードを趣味にしている。
株の売買だ。
お小遣いをコツコツ貯めて資金を作り、投資を始めた。
詳しいことは知らないが、けっこううまくやっているらしく、時々「今日は儲かったから」と、ステーキを奮発したりする。
現物だけという約束だったが、もしかしたら信用取引に手を出して大損して…。

「ルー。もしかして、金か?」
恐る恐る尋ねると、妻はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔の下で、唇が震えている。
「なぜ、それを…。」
「やっぱり!どのくらいなんだ?」
「それが、それが…。」
「何十万ではなさそうだな。」
「ごめんなさい!」
「何百万か?」
「ううん…」
妻は激しく首を振った。
「何千万か?このマンションくらいか?」
そんなことになったら、どうすればいいのだろう。
まだローンもガッツリ20年は残っているというのに!

「…億…なの。」
「なに?いま、なんて言った?」
「だから、8億なのよぉ!」
「な、な、何言っているんだぁ!!」
俺は頭が真っ白になった。
専業主婦の分際で、8億も、どうやったら借金できるんだ!
住宅ローン4千万円返すのも一生ものだというのに、8億!
国家予算じゃねーか。空母でも買ったのか??
俺は激発する感情の止め方など考えもしなかった。

「馬鹿野郎!お前、いったい、何やってるんだぁ!」
心臓が止まりそうなほどバクバクと音を立てている。
耳の奥がキーンと鳴って、両腕がワナワナと震える。
もしもこの腕が震えなかったら、俺は思い切り殴りつけていたかもしれない。

「こんなことになるなんて、思ってもみなかったんですもの。いえ、ちょっとは思ったけど、まさか現実になるなんて!」
「だから株なんてやめておけばよかったんだ!」
「え?」
「お前、8億も借金して、どうするんだよ。どうやって返すんだ?そこを考えてやったのか!それに、どうしてそんなになる前に相談してくれなかったんだよ!」
「ま、待って…。」
「待ってて解決策が見つかるのか?ああ、本当にどうしたらいいんだ!」

妻は俺のそばににじり寄ってきた。
「あなた、誤解してるわ。」
声をひそめていうと、俺の耳に唇を寄せてきた。
誤解とはなんだ。いまさら色仕掛けで誤魔化そうとは姑息な!
「当たったのよ、ロト7。キャリーオーバーで8億円。」
蚊の羽音よりも小さな声でささやくと、顔を離してひきつった笑いを見せた。

「うっそーぉ!」
叫んだ俺の口を思い切り塞ぐと、周囲を見回し、騒ぐなと脅しをかけてから、ようやく解放してくれた。
「ほ、ほんとなのか?」
「ええ。この前、きまぐれに買ってみたのよ。昨日抽選日だったのを思い出して朝刊で調べたら、当たってるじゃない。慌ててネットも調べたし、宝くじ売り場で当選番号見てきたし。どれも間違いなく、同じ数字だったの。」
俺たちは知らない間に、床の上に正座で膝をくっつけて正面から向き合い、両手を握りあっていた。
「み、見せてみろ。」
「これよ。」

妻は後ろのソファーの下の隙間に思い切り腕を突っ込み、床にほっぺたをくっつけながらごそごそうごめいて、奥の奥から新聞の束を引き出した。
その束の隙間から、当たりくじらしい小さな紙きれを引き出す。
「こうしておけば、泥棒が入っても気付かないわ!」
「よく考えたもんだなぁ。でも、間違えて捨てないか?」
「それも、そうね。見て、ここよ、ほら。」

妻の錯覚ではなかった。
確かに、くじの数字と新聞発表の数字は完全に一致していた。

「ど、どうしよう。」
「私たちの人生、きっと変わっちゃうわよね。私、怖くて、すぐに連絡できなかったの。ごめんなさい。」
「そんなことは謝らなくていい。職場で悲鳴を上げなくて済んだんだ。ナイス判断だったよ。」
「ねぇ、分割で毎年1億円ずつ受け取れるとして、あなた、何がしたい?」
妻が危険な冒険計画を持ちかけるような顔でささやいてきた。
こんな平凡な家に盗聴器をしかける輩もいないだろうに、さっきから俺たちはひそひそ話を続けている。
俺も何に使うかと考えていた。
「まず、住宅ローンを完済したい。お前は?」
「金華堂のみたらしだんごが食べたい、かな。」
「みたらしだんご?」
妻の一番の好物はみたらしだんごだ。
どんなに不機嫌でも、大喧嘩をしても、みたらしだんごを買ってきてやると機嫌が直る。
「だって、金華堂のみたらしだんご、1本450円もするのよ!信じられる?きっと素晴らしく美味しいのだと思うけど、高すぎて買えなかったから、この際絶対食べてみたい!」
「なぁ、俺たちって…」
「悲しいくらい夢がないわね…。」

一晩中眠くならなくて、ふたりでこれから何がしたいかと話し合った。
でも、ハワイ旅行とかソファの買い替えとか、どれもその気になれば今すぐできるようなことしか浮かばない。
結局、今までなかったのはお金ではなくて、勇気と決断力ではないかと思い始めた頃、夜が開けた。

8億当たったと知っている今朝も、納豆ご飯とみそ汁の朝食を食べて仕事に行く俺に、妻は妻で、以前からの約束で、今日はお友達と映画に行くのと言う。
「そうか。楽しんでおいで。」
「まだ細かい約束してないんだけど、多分夕方には戻るから。」
「ああ、わかった。」
じゃ、いってらっしゃいと、見送る笑顔はいつもの妻の顔だった。

「ただいま。」
妻が食べたいと言った金華堂のみたらし団子を3本も買ってきてやった。
なるほどうまそうな団子で、みたらしあんが今日ばかりは黄金色に輝いて見えた。
彼女の喜ぶ顔が見たかった。
どんな美味しい声をあげるだろうと、心だけでなく足どりも弾ませて帰って来たのだ。
ところがだ。
帰宅した時の、いつもの返事がない。
家の中は明かりもついていなくて、しんとひんやりしている。
「おい、いないのか?」
滅多にないことなので、ザワリと胸が騒いだ。

自分でリビングの明かりをともし、テーブルに鞄と団子の包みを置く。
そこで、妻の文字の走り書きを見つけた。
『あなたへ 私、やっぱり    』
そこで途切れて、使っていたボールペンが投げ出されていた。

全身の血が音を立てて引いていく。
俺は無意識のうちに寝室へ向かった。
妻の荷物はすべてそのままになっている。
他の場所も確認したが、通帳や印鑑もそのままで、ないのは普段使いのバッグだけのようだ。

恐る恐る、ソファーの下の新聞の束を引き出した。
どこを探しても、当たりくじは挟まっていない。
リビング中に新聞を撒き散らして捜したが、どこからも出てこなかった。
場所を移したのかと、冷凍庫や本棚や茶ダンス、トイレのペーパー置き場まで、妻が思いつきそうなところを全部探してみたが、やはり8億円の当たりくじは出てこなかった。

妻は携帯電話を持っていない。
専業主婦で家にいるから、用事があったら電話で済むと言う。
待ち合わせに不便だろうというと、妻はサラリと笑った。
「だって、ちょっと前までは私たち、誰もケータイなんて持たずに待ち合わせたでしょ?それに、私はいつもウチを待ち合わせの場所にしてもらうから、全然平気よ。」
俺の稼ぎは大したことないから、妻のこの配慮がありがたかったものだ。

でも、今となっては、なぜケータイくらい持たせなかったかと悔まれる。
出て行ってしまったのだ!
俺と分け合うのがいやで、富を一人占めしたくて、出て行ったんだ!
そんな女だとは、いや、そんないじましい人間だとは思ってもみなかった。
なんてやつだ!
俺が買ってやった指輪も、テレビの横に置いたままだ。
ステキすぎるから、いつも見ていたいのととか言ってそこに飾ったくせに、置いていきやがった!
そりゃそうだよな、どうせ安物だ。8億あったら、もっとゴージャスな指輪が好きなだけ買えるだろう。
くそ、くそ、くそ!
悔しくて、悔しくて、ギリギリと歯ぎしりした。
床に散らばった新聞を思い切り蹴りあげたら、足が滑って尻もちをついた。

「あ、あなた、おかえりなさい!ごめんなさい、遅くなっちゃって!やだ、どうしたの?」
玄関のドアが開き、ぱたぱたと足音に続いて、妻が現れた。
乱暴にまき散らされた新聞の真ん中に転がる俺を見て、眼を丸くしている。
「いや、その…。おまえ、どこ行っていたんだ?」
「どこって。やだわ、聞いてなかったの?今朝言ったじゃない、お友達と映画に行くって。」
「映画?」
そういえば、そんなこと言っていたっけ。
「だって、書き置き…。」
「ああ、ごめんなさい。思っていたより1回遅い回に行くことになったから、あなたより早く帰れなかったらと思って書きかけたんだけど、お友達が来ちゃって、ま、朝も話したしいいかって、やめちゃったのよ。」
くそ。そんな馬鹿な…。
「お前、当たりくじ、どうしたんだ?」
「ああ、あれ?間違って新聞と一緒に捨てちゃったら元も子もないってあなたがいうから、別の場所に隠したわ。」
「別の?」
「うふふ…。」

妻が野菜室を開けて、プランターで育てている小松菜やミニキャロットの種を仕舞っているジップロックを出してきた。
「ほら、ここ。これなら絶対捨てないもん。」
「あ…」
「やだわ。あなた、捜したの?どう?気付かなかったでしょ?これで泥棒も気付かないって証明できたわね!」

新聞紙、片づけてよねと言いながら、着替えもせずに夕食の準備を始めた妻の後姿を見て、俺はたまらなくなった。
いじましいのは、俺の方だ。
こいつを疑うなんて。
「ルー、ごめんな。」
俺は思わずつぶやいた。
「え、何?」
なんでもないと誤魔化した。
言えるはずがない。
お前が8億円を一人占めしたと誤解して悪かったなんて言えるはずがないではないか。
なんてことをと思っていたら涙がこぼれてきた。
「やだ、あなた、どうしたの?何泣いてるのよ?」
「新聞踏んで転んだ時、腰を打ったんだよ。」
「ちょっと、大丈夫?」

俺は理解した。
昨日、こいつが泣いていた、あの涙の意味を。
こいつも、一度は考えたんじゃないだろうか。
このまま俺に何も告げずに、8億と共に消えることを。
そうして、その可能性は、これからも居続ける。

本当に、なんてことかと思った。
俺たちが8億円で最初に手に入れたのは、疑念という、ほしくもないプライスレス商品だったのだ!






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「ルー、どうした?」
担任のカッピーがゲジゲジまゆげを寄せて私の顔を覗きこむ。
カッピーは自分のクラスの生徒を全員あだ名で呼ぶ。
だから、私たちも担任を柏原先生とは呼ばず、あだ名で呼ぶ。
カシワバラだからカッピーではない。
まだ29歳というのに、頭のてっぺんが心もとない彼の姿を、口の悪い子たちがカッパカッパというので、そこまで直接では芸がない、もう少し捻ろうということになった。
丁度、山Pの大ファンがいて、じゃ、カッピーでいいじゃないという。
そのちょっと間が抜けた音が彼にピッタリなので、彼は瞬時にカッピーになった。
ま、本人にじかに呼びかけるときはちゃんと「先生」というが。

「ど、どうしたと、おっしゃいますと?」
「おっしゃいますじゃないだろ?なんだよ、この点は!」
カッピーがひらひらさせている細長い紙には、言わずと知れた期末テストの点が書いてあるのだ。
通称「短冊」。
七夕の願い事を書く短冊のような夢はカケラもない。

「お前は俺が初めて担任を持った去年のクラスにいた子だ。
そのまま2年目も俺のところ、真面目で努力家だし、期待は大きい。
ところがだよ。
なんだ、これは?」
ああ、何もおっしゃいますな。存じておりますとも。

「現代文84点、古典95点、日本史92点、地理90点、生物98点、地学91点、保健100点、英語89点 」
職員室のど真ん中で読みあげなくたっていいではないか。 
個人情報漏えいだ!
「先生、 いま、わざと1科目飛ばしました?」
「ふん。気付いたか。現代文の84点がどうにもお前らしくないから、担当の如月先生に尋ねたら、なんでも東大の入試問題をもじったから元々平均は胴体着陸寸前、お前が最高点だというじゃないか。」
そりゃぁそうだ。私は現代文をこよなく愛しているのだから。

つい、ふんと小鼻を蠢かしてしまったのがいけなかった。
カッピーは余計に声を張り上げた。
「それが、なんで俺の数学だけ2点なんだ?20点じゃないぞ、2点だぞ!理由を説明しろ、理由を。さあ!」
「理由でございますか?」
「このままでは、俺は数学教師としての自信を失いそうなんだ。他は何でもできるお前が、なぜ俺の数学だけ、ここまでひどい点が取れるんだ?勉強しなかったのか?他の科目に時間をかけすぎたとか?」
「とんでもないことでございます。数学の勉強をせずに試験を受けるなどあり得ません!」
これは本当だ。
私だって一生懸命勉強したのだ。
現代文を漢字の確認だけで終えたのに比べたら12倍は時間をかけた。

「じゃ、いったい何なんだ?やっぱりお前、あれかな?俺のことが嫌いだからか?」
カッピーはとんでもないことを言いだした。
「違います。そんな畏れ多いこと、考えてません。」
「お前のその異様に丁寧な言葉遣いも気に入らん。」
「先生はもう、私の目標ですから。ヒーローです、はい。」

そうなのだ。
カッピーは単なる数学教師ではない。
実はアメリカの大学を出ていて、英語の教師もできる。
でも、専門は心理学だ。
だから、本業はと問えば心理士ということになるそうだ。
心理士になる過程で、ついでにと公民の教員免許も取ったらしい。
でも、病気になった人の相談に乗るカウンセラーより、病気の予防をしたいと考えたというから大したものだ。
それで、大学に編入学し、数学教師の免許を取ったという。
その尊すぎる志を聞いた時、私は心底この教師に興味を持った。
英語や社会の教師でよかったじゃないかと思うかもしれないが、数学で悩む子が一番多いから数学教師になりたかったという言葉を聞いた時、興味はリスペクトに変わった。
数学!あの鬼のように性格の悪い学問の征服者!

「ヒーローってお前、もしかして…。」
「嫌いなんじゃなくって、ラブなんじゃないの?」
通りがかった保健室の美木先生がとんでもないことを言う。
美木先生は名前のとおりの美人だけど、口が悪い。
誤解を恐れずになんでも言うから、うかつに相談なんかできないとみんなが言っている。
しかもカッピーの大学の後輩で、ふたりは付き合っているという噂もある。
大学院だの留学だの編入学だのを積み重ねてようやく昨年教師になったカッピーと違い、大学を出てすぐにこの高校に赴任した美木先生のほうが教員歴は長く、その分態度もでかい。

「ち、違いますよ!何言ってんですか!!」
「あら、あたしには丁寧な言葉使わないの?失礼な娘ね!」
「おい、そうなのか?ダメだぞ。俺は教師としての一線を越える気はないからな。」
「だから、違いますってば!」
「ふふふ。テレちゃってぇ。」
もう、どっか行ってほしいのに、美木先生はニヤニヤしながら立ち去る気配がない。

「だとしたら、なぜここまで数学だけできない?」
「私にもわからないんです。」
「じゃ、できるだけ子どもの頃の記憶に遡って、数学とか算数とかにまつわる思い出を3つ話してごらん。」
カッピーが真剣な顔で言うと、美木先生がキャァとはしゃいで、カッピーの隣の空いている席に座りこんだ。
「出たぁ!柏原先輩の早期回想分析!」
「は?」
私はなんだかいやな予感がして、逃げ出す理由を探し始めた。
「ルーちゃん、逃げようと思ってるでしょ?ここは先輩に任せて、しっかり聞いたほうがいいと思う。先輩はこの方法で論文書いているくらいだからね。私も後学のために立ち合わせていただくわ。いいわね、ルーちゃん?」
「意味がわかりません。」
「いいの、いいの。さ、ルーちゃんも座って。」
美木先生は勝手に如月先生の椅子を引き寄せて私を座らせた。

「思い出して。どんな些細なエピソードでもいいよ。」
「エピソードといわれても…。」
私は過去の記憶をあれこれ探ってみた。
「小2の冬にインフルエンザをこじらせて1週間入院しました。退院が終業式で、3学期、久しぶりに学校行ったら、みんな分数をやってて。わたし、ひとつも分からなくなっていました。」
「その時、どう思った?」
「うーん、よく覚えてないけど、恥ずかしくて、怖かったかな。」
「そうか。次は?」
「えーっと、小学校5年か6年のとき。通知表もらったら、どの科目もみんなAだったのに、たったひとつBがあって、それが算数で。でも、Aがいっぱいですごいからきっと褒めてもらえると思ったのに、父はひとこともほめてくれなくて、たったひとつのBのために何時間も叱られました。苦手な体育も鉄棒だったから必死で練習してAもらったのに。」
「ああ。それだけでだいたい分かる気がするよ。でも、あと1つ。」
「うーんと、そうだ!九九が覚えられなかった!」
「九九?暗記科目が得意なお前がか?」
「はい。特に七の段とか八の段とか。いまだにふっと分からなくなります。毎日しつこく言わされて、言えなくて笑われて、恥かいて、叱られて。」
「それも、お父さんにか?」
「はい、父です。」
「そういう時、お母さんは?」
「一緒に笑ってましたね。」
「お前、確か長女だったね。」
「はい。3姉妹の一番上です。」
「ああ、きっとそうだな。だいたいわかったよ。お前、多分水泳もダメだろ?」
「えー!なんで分かるんですか?ダメです。いくら練習してもうまくならないんです。息継ぎができないから、背泳ぎ専門です。」

カッピーは不意に人懐こい笑顔を浮かべた。
「ルーは苦労したんだな。」
「いえ、まぁ、数学と体育には泣かされましたけど、苦労というより努力不足で…。」
「そうじゃない。お前、家族と一緒にいても、なんだか寂しかったり、不安だったりしたろう?」
私は絶句した。どうしてそれがバレたんだ?
「自分一人が家族じゃないような気がしたり、リビングにいるより、自分の部屋に一人でいる方が好きだったり。」
なぜ?数学の思い出しか言わなかったはずだわ!
「なんでも余裕でこなすふりをしているけど、内心では自信がもてなくてビクビクしてる。でも、そういうカッコ悪い自分がばれないように、必死で努力して、人から一目置かれたいと切望している感じかな。」
うそだ。誰にも話したことなんかなかったのに!
「叱られたというけど、実際は言葉の暴力に近かったろう。本当に殴られていたとしても不思議はない。」
ああ。どうしてそこまで!
「お前の記憶の中では、人と何かしたことが楽しいまま終わった記憶があまりないんじゃないのか?馬鹿にされたり、寂しかったり、恥をかいたり、悔しかったり。」
私は、驚きすぎて頷くのも忘れてカッピーの丸い顔を見ていた。

「そうして、ルー。ここが一番大事だ。お前は今まで命を削るように努力して生きてきたと思っている。だから、その見返りに、努力が評価され、自分が優れていると感じていなくてはならないとも思っているよな。人は、お前を評価しなくてはならないと。」
「いえ、そんな!」
この時ばかりは言い返した。そんなにずうずうしい人間じゃないわ!

「いいんだ。ルー。人はね、誰でもそう思っているんだよ。」
「私も思ってるもん。」
美木先生が口をはさんだ。
「人より優れていたい、いつでも優越感を感じていたい、人から認められていたいと思うのはごく普通のことなんだ。でも、お前はそれが、なかなか叶わなかったね?」
どうしてだろう。私の目から、不意に涙がこぼれ落ちた。
「だから、人が信じられなくなった。一番信じられない人間が自分自身だ。違うか?」
分からない。そうなのだろうか?

「数学はね、ルー。この世で一番安定した学問なんだ。」
「あ?安定ですか?」
「そうだ。解き方があり、必ず答えがある。しかも、答えはひとつだ。」
「はぁ。そうですね。」
「だからね、答えがあると信じて、最後まで丁寧に解いていくことができる者にとって、数学はわざわざ苦手にする必要がないんだよ。」
「そうなんですか?」
「水泳も同じだ。人間は浮くようにできているし、コツさえ分かれば息を継ぐのもそれほど難しくない。ところが、水が信じられず、教えてくれる人も信じられず、ひとりでもがいていては、何時までも泳げるようにならない。」
「そう、だったかもしれません。」
「数学と水泳に共通することはね、最初からはできることは少ないが、地道に続けていると必ずできるようになるという点なんだな。でも、自分ができるようになると信じられない人にとって、結果が見えない努力を強いられるようで、耐えがたい。だから、最初から苦手です!とアピールすることで、できるまでの努力を回避するんだよ。努力してできなくて少ない自信をなおさら失うより、最初からできないほうが楽だからね。」
「難しいです…。」
「そうか。まぁ、理屈はいいよ。とにかく、ルー。数学が苦手なのは、お前の場合、脳の欠陥でも知識不足でもない。努力不足でもない。実際、努力してもできなかっただろ?できないほうが都合がいいと思いこんだせいだっていうことだ。」
「思いこんだって…。」
「できるんだよ、お前にも。数学も、水泳もな。必ずできる。だから信じてやってみろ。諦めないで、答えが出るまで食らいつけ!俺が応援するから。」

私は感動してますます涙が止まらなくなった。
今までひた隠しにして来たいろいろなものを理解してもらえただけで嬉しい。
それに、聞いたことがない温かな励ましまでついていた。
カッピー、いい先生だな。こんな担任に出会えて幸せだわ。

その時、じっと聞き耳を立てていた美木先生が、ううっと泣き出した。
「なんだ美木。どうした?」
「そうだったのね!」
「なんだ?」
「あたしに言ったのと同じじゃない!」
「たまたま美木のケースと同じ背景だっただけだよ。」
「うそ!これが先輩の口説きの手口ね!」
「はぁ?!真っ昼間の職員室のど真ん中で、短冊片手に女生徒口説くヤツがどこにいる?」
「ひどいわぁ、信じていたのに!この手口で何人の女の子を落としたの?」
「ばか。そもそもお前を口説いた覚えもないぞ。それに、男子生徒にも同じ手法を使ってるの、お前知ってるだろ!」
「信じられない!両刀使いだったのね!鬼畜にも劣る所業だわっ!」
「ルー、聞いたろ?人間を信じられず、自分も信じられないと、末路はこうだぞ。コイツの勘違いを解くより、微分積分の方がずっと簡単だ。」

私は思った。
世の中には、不可思議な人々が、たくさんいるのかもしれない。
そうして、私は決めた。
将来は心理学者になって、美木先生の勘違いを微積分より簡単に解く方法をみつけようと。









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「ルー、どうした?」
「コウさんよ。わかるかね?」
「そりゃ、わかるさ。」
「どうも、体調が悪くてなぁ。」
「そろそろかい?」
「そろそろ、だろうかなぁ。」
「淋しくなるなぁ。」
「とはいえ、今すぐというわけでもなかろうよ。」
コウのため息が、梢をすり抜けてヒュウと鳴った。

「ずいぶんと、長い時が過ぎたなぁ。」
「そうさなぁ。どれほどであろうかなぁ。」
「ルーが出てきてから、550年というところか。」
「ではコウさんは、もう600年か。」
「長い時であったなぁ。」
「ひと所におるというに、多くのものを見たなぁ。」
「多くの人を送った。」
「多くの仲間もなぁ。」
ルーのため息が、梢をすり抜けてヒョオと鳴った。

「行基さまがお通りの折、われらに名付けてくださったのは1300年も前のこと。」
「行雲流水。欅のスイが枯れてしまったのは、ほんにほんに、悲しかったのう。」
「おうおう。淋しかったのう。」
「ウンが香って、わしが咲く。スイが赤く染まってコウさんよ、お前様は常緑じゃ。」
「一番の長生きと思っていたスイさんが倒れたのだから驚いた。」
「あれはほんに驚いた。スイさんは美しかったのう。」
「心も美しい木であった。行基さまが名付けた我らがじじばば様が枯れたとき、スイさんは泣きの涙であったとか。」
「けれどわれらの父母様がすでに育っておったから。」
「名を継いで、ここにこうしてそろって立って。」 
「まさかあのスイさんが、嵐で倒れるとは思いもせなんだ。」
「しかし、倒れた後も材木となって、天子様のお道具になったのであろ?」
「そうそう。家々の大黒柱にもなったわなぁ。」
「絶えてなお。えらいことじゃ。」
「ほんにえらいこと。立派な木であったなぁ。」
ふたりの思い出に、梢がフワワと鳴った。
 
「スイさんが語ってくれたいにしえの出来事が、私は大好きであったよ。」
「おうよ、コウさん。不思議な話があったなぁ。」
「我らも見ておらぬ公家や武家の話は、面白かったのう。」
「私は飛脚の話が好きでなぁ。えっさほいさと走ってきて、あちらの茶店で休むところを、おあしが惜しいとスイさんの、根っこに座って休む話じゃな。」
「そうそう。裾を端折った尻にびっしり汗かいて。」
「その汗かいた尻でドコンとスイさんの」
「根に座られて音をあげて。」
「犬のいばりは気にせぬが」
「飛脚の尻に騒ぐとは」
「ほんに気のよい木であった。」
ほほほ、はははとふたりの笑い声が梢をすり抜けてサワワと鳴った。

「ウンは元気にしておるかのう。」
「あまりに見事な梅であったから」
「大宰府へ、もらわれて行きおった。」
「あれがおった頃は、にぎやかであったなぁ。」
「花が咲いたらメジロがたわわ」
「うぐいす背を反りホーホケキョ」
「実がなれば、子どもがわんさかやってきて」
「青梅は食ってはならぬと叱られて」
「叱った親が後で来て」
「梅の実拾って酒つくる。」
あはは、ふふふとふたりの笑い声が梢をすり抜けてソヨヨと鳴った。

「ほれ、あの大地震の日は恐ろしかったのう。」
「かわかわ揺れる我が枝の」
「葉先につかまるこがねむし」
「ころがりおちて火に焼かれ」
「あわれ露と消えにけり」
「ここから見える家々が、みな壊れてしまった。」
「人々が泣いておった。」
「たくさんの人が亡くなったなぁ。」
「ほんにたくさんであった。」
思いにふけるふたりの梢がヒユルルルルと鳴った。

「しかし、ほんに恐ろしかったはあの戦の時。」
「空から数え切れぬほどの爆弾が降ってきた。」
「焼け野原になったのぉ。」
「なにも残らなんだ。」
「あの時、われらが足元で」
「息絶えた子供らの顔が忘れられぬ。」
「その子供らを抱えて、焼け焦げた母の顔々をどうして忘れようか。」
「切なや。」
「悲しや。」
「今は傷も消えたといえども、我らの身もまた焼け焦げた。」
「けれども雨あられの爆弾に当たらなんだは神仏のご加護。」
「行基さまが憐れんで、お守り下されたのであろう。」
「もう、戦はいやじゃ。」
「あってはならぬ。戦はもういらぬ。」
2人のため息で、梢がゴゴウと鳴った。

「…コウさんや。」
「はいはい、ルーよ。」
「長い長い時であったが、わしは今この時が、一番のお気に入りじゃ。」
「小学校の正門の脇。毎日子どもらが元気に通る。」
「足元はすぐそこまでアスファルトに覆われ、子が育たなんだは残念だが。」
「命続く限り、この門を通る子どもらを見守ろうぞ。」
「そうよな。身の内側が朽ちてきて、いずれ花咲かす力も尽きようが。」
「春にそなたが咲かねば、子どもらが落胆するぞ。何よりわしが寂しい。」
「できるだけ、ゆるゆる逝くとしようよ。」
ルーの微笑みで、梢がサラリと鳴った。

その時、保育園の送迎バスが門の外に停まった。
バスの扉からかわいらしいエプロンをした保育士が飛び出すと、後からわらわらと幼子が降りてきた。
「さあ、みんな。ここに集まって!」
はーいと声がして、子供たちが門の真ん中に集まった。
「こちらの木の名前が分かるお友達は?」
「知ってるー。こっちはね、松だよ!」
「正解。では、こちらは?ヒントはね、春になるとピンクのお花がたくさん咲きます!」
「わかった!桜だ!!」
「その通り!小学校の校長先生にうかがったら、この松の木は600年、桜の木は550年もここにいるそうです。」
「ふーん。」
「みんなの少しお兄さんやお姉さんたち、今この小学校に通っている先輩たちが、みんなと同じこばと保育園にいたとき、ここへ松ぼっくりやサクランボを拾いに来たことがありました。」
「そうして、拾った松ぼっくりやサクランボを保育園のお庭に埋めておいたら、小さな芽が出て、少しずつ大きくなりました。」
「それがいま、みんなでお世話をしている『お友達の木』です!」
保育士がふたり、かわるがわる言って聞かせる言葉で、子どもたちはだんだん分かってきたらしい。
「そうなの?」
「『お友達の木』は、いつかこんなに大きくなるの?」
「すごいなぁ!だって、松の枝と桜の枝が、ほら、ここで握手しているよ!」
子どもたちは頭の上を見上げた。門の上で、二本の木の枝が交わって、アーチを作っている。
「ええ。この門の木は、こうしてとても仲良しだから、みんなにもこの木みたいに仲良しになってほしくて、保育園のお庭に植えたの。いつか、お庭がなくなっちゃうくらい大きくなるといいわね!」
「ほんとだ!ほんとだ!」
「大きくなーれ、大きくなーれ!!」

「なんとなぁ。」
「そうであったか。」
「我が子らも、子どもたちのそばで育っておったか。」
「ありがたや、ありがたや。」
「コウさんや。」
「はいはい、ルーよ。」
「行雲流水とは、ひとところから動くことがならぬ我らには似合わぬ名と思っておったが、ただただあるがままに生きるとは、幸せなことであるよなぁ。」
「そのことよ、そのことよ。」
ふたりの声が響き交わし、梢がカラカラと鳴いた。






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