Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年09月


「ルー、どうした?」
「うん。物理と倫理は終わった。英語はただ訳せばいいというから後回しにしたんだけど、ずらずら大量の英文が続いていて難しそうでしょ。手が出せないよ。よっちゃんは?」
「あたしも物理と倫理は終わらせた。読書感想文は夏休み前に書いちゃったし。英語は後回しにしてるうちに今日になっちゃった。やばいよね〜。ミクは全部終わらせたんでしょ?」
「それが、私も実は英語が…。」
「ひえ〜〜

よっちゃんと私は声をハモらせて驚いた。
ミクが宿題終わってない?
ミクとよっちゃんと私の3人は中学からの友達だ。
だからよく知っている。
計画力、実行力共に群を抜いているまじめっ子のミクが、夏休みが終わる3日前に宿題を終えていないとは、真夏に雪が降るような驚きだ。
しかも、ミクは英語を得意としている。
「なにかあったのぉ?」
私たちは疑問というより心配になって尋ねた。
ミクならば、何を差し置いても英語から始めるはずだから。 

「それがねぇ。わからないのよ。」
「わからない?何か悩み事でもあるの?体調悪い??」
「ああ、そういう意味じゃなくて、本当に分からないの。」
「え?英語が?」
「そう。あの英語が。」
「ひえ〜〜

私たちは再び声をそろえて情けない声を出した。
ミクにわからない英語が、私たちに分かるはずがない。
確かに、ざくっと目を通してスルーを決めたのは、知らない単語が多すぎたからだ。
初対面の英単語のプロフィールをいちいちチェックして、他の単語との相性を想像しつつストーリーをつかむなんて途方に暮れる知的重労働だ。
私同様、英語が苦手な兄貴が言っていた。
「ルー、いいか?英語は筋トレだぞ。辞書を引く指を極限まで鍛えた者が勝つ!」
勝ったためしがない兄貴の言葉には妙な真実味がある。 

部活帰りの夕方である。
そこは私学のありがたさ、部室にシャワーが完備されているので、みんなスッキリ汗を流し、髪から洗いたてのシャンプーの香りがしている。
たまたま3人とも塾が休みとあって、帰りの足が自然と緩む。
「ねえミク、ルー。あたし、英語の宿題持ってきてるんだけど、どこかで一緒にやらない?」
「あ、いいね!3人寄れば文殊の知恵というし。」
「出たぁ!ルーの歩くことわざ辞典!」
「ああ、ごめんね。私、これからちょっと約束があって。」
申し訳なさそうな言葉を笑顔でさらりと言ったのは頼みの綱のミクだ。
「わかった!トオル君でしょ?」
「うん。待ち合わせしてるの。ゴメン、行くね!」

これが青春ですと背中に大書してあるような走り方で去って行ったミクを見送り、今のところ恋愛の神様に見込まれていないよっちゃんと私は、現実と向き合うことにした。
「しかたない。お互い頼りないけど。」
「ひとりよりはずっとましね。せめて励まし合いましょ。」
「駅前のサリーズのカウンターなんていいんじゃない?」
「そうしよ。めっちゃ喉渇いたし。」

私たちは歩いている間に、苦手な英語と向き合う勇気を奮い起すため、わざと陽気に噂話に興じた。
夏休みの噂はどれも曖昧だから、身勝手な妄想で脚色する余地が十分にある。
ふたりの間で、付き合い始めたと噂のカップルのいくつかがすでに破局し、いくつかは言葉にできないような深みにはまっていることになった。
「あー、ミクがいる〜!」

サリーズに入ってカウンターに座ろうとしたところで、よっちゃんがミクを見つけた。
どうやらトオル君はまだ着いていないらしい。
「なんだぁ、一緒になっちゃったね。」
「ねぇ、ミクぅ、トオル君が来たら私たち店を出るから、お願い、それまで一緒にやって!」
「わかった、わかった。一緒にやろう。実はトオル君にも、英語の宿題を手伝ってもらいたくて待ち合わせしてるの。」
「なーんだ。そうなんだ!」

天から蜘蛛の糸が降りてきた気分だ。
なんと言ってもトオル君は医学部志望の秀才だ。
高校1年の夏の宿題英語など、お茶の子さいさいに決まっている。
まじめで賢いミクとはお似合いのふたり。
同じクラスだからいつも見ているが、教室でも平気でくっつき、会話している。
どんな愛の言葉をささやき合うのかと最初は興味津々だったクラスメイトだが、夏休み前にはふたりに興味を失った。
だって、このふたりが話すことと言ったら、歴史に数学に英語に…受験対策ばかりなんだもん!
かくしてふたりは、予備校で忙しい放課後をつかう必要なく、すべての授業と休み時間を、大好きな恋人と、受験という共通言語で愛をささやくデート会場にすることに成功していた。

グラスの水滴がプリントにつかないように気をつけながら、それを広げると、目を覆いたくなるほどたくさんの英文が書かれた紙数枚がテーブルに整列した。
1、とページが打たれた最初の紙を3人で覗きこむ。
タイトルも、筆者もない。本当に、大量の英文だけなのだ。

「これじゃ、説明文なのかエッセイなのかもわからないね。」
私が言うと、よっちゃんが首をひねりながら尋ねた。
「でも、ウッチーのことだから、自分で書いたってことはないよね。」
ウッチーこと内村先生は、この宿題を出した非道な英語教師だ。
「ないと思う。めんどくさがりのウッチーなら、絶対コピペだよ。それにこれ、パソコンのフォントとちょっと違う文字だよね。」
「きっと、エッセイか説明文よ。だって授業で小説とかやってないし。」
「コピペなら、どこかに訳された文章があるかもしれないね。」
「有名なものならね。」
「昨日の夕刊の記事でさぁとか言われたら終わるね。」
「あー、ウッチーなら言いかねない!」

周辺をいくら話したところで宿題は進まない。
私たちは鼻をつまんで現実の海に飛び込むことにした。
冒頭文をみつめる。
「あ、電話。ちょっとごめん。」
ミクはスマホを握って席を立ち店の外へ出て行った。

For the most wild, yet most homely narrative which I am about to pen, I neither expect nor solicit belief.

なんだこれは????
知っている単語が極端に少ない。かつ、知っていても、さっぱりわからない。
aboutとpenという顔なじみがいることで、わずかに慰められる程度だが、見知らぬ異国の地で、鮨屋の看板を見つけた程度の慰めだ。出てくるものがおなじみの寿司である保証はどこにもない。

短く強い息を吐き、単語調べに取りかかった。
知っている気がする単語も調べておかないと、意外な使い方をされていないとも限らない。
wildは…

「ねぇ、ルー。翻訳サイトに打ち込んでみるってのはどう?」
「翻訳サイト?」
「ほら、見て。アプリがあるよ!」
「その手があったねぇ!」
「なんだか卑怯な気がしなくもないけど。」
「ウッチーも自力でやれよっってプレッシャーかけてたし。」
「でも、背に腹は代えられませぬ。時間がない!やってみようよ。」

よっちゃんがスマホで捜した翻訳サイトにそのまま文章を打ち込んだ。
「よしっと。はぁ?」
出てきた日本語を見て、よっちゃんは素っ頓狂な声を上げた。

”私が書こうとしている最もでたらめであるが、最も家庭的な物語のために、私は信念にも期待しなく、それも求めません。”

「意味がわかんない。」
「信念にも期待しなくって…そこ、日本語に見えないね。」
「うーん。先を見たら想像つくかな?次の文はっと。」

Mad indeed would I be to expect it, in a case where my very senses reject their own evidence.

ワンセンテンスが極端な長文ではないというだけで、何か助かった気がするが、それは錯覚にすぎないことなど百も承知だ。

「はい、できた。へ?」

”まさしくその感覚が彼ら自身の証拠を拒絶する場合、ひどく本当に、私はそれを予想することになっています。”

「いやがらせか?」
「この日本語を翻訳するアプリはないのかな?」
「サイトがダメなのかも。他のアプリにしてみよう。」
「そういう問題かな?」
「あった。こっちで、3行目を…」
「待って、よっちゃん。結論を先に見るのはどう?」
「結論?」
「推理小説読んでるわけじゃないからさぁ、説明文なら、最後がどうなるのか確認したら話題の方向性が見えて、最初の謎も解けるんじゃないかしら?」
「なーるーほーどー。ルー、あったまいい!」
よっちゃんは褒めてくれたけど、これは兄貴からの受け売りだ。

「…うー。長いぞっ。」

Upon its head, with red extended mouth and solitary eye of fire, sat the hideous beast whose craft had seduced me into murder, and whose informing voice had consigned me to the hangman. I had walled the monster up within the tomb!

もうほとんどイジメとか虐待を受けている感じがする。
「だ、だめだぁ。」
よっちゃんの声が絶望的に響いた。

”赤い延長した口と火の孤立目で、その頭の上に、航空機が私を殺人に引き込んだ、そして、知らせている声が私をハングマンに引き渡した恐ろしい獣は、座りました。私は、墓の中で怪物を壁でふさぎました! ”

「なんか、吐き気がしてきた…。」
「航空機が私を殺人に引き込んだ?騒音公害の被害者の手記かな?」
「墓の中で怪物を壁でふさぐって、霊能力者の告白?それとも沖縄の防空壕とかの話かな?」
「沖縄戦の記録ってのはありうるね。来年の修学旅行、沖縄だし。」
「だよね。けど沖縄なら戦争より、基地問題じゃないの?タイムリーだし。騒音も問題になっているよね?」
「なるほど。でも、恐ろしい獣って?肉食獣だよね。赤い延長した口って、こういう、悪魔みたいに裂けた口のことでしょ?」
「そうよね。でも、火の孤立目って…目って孤立するのかな?顔の他のパーツから目だけ離れているんだろうか。火のっていうんだから黄色いんだろうかね。顔の長い恐竜かな?沖縄に恐竜いたの?」 
「…知らせている声がって、誰が何を知らせているんだろう?」
「文法的にはハングマンに知らせたんだね。ハングマンって誰?」
「調べるよ。…あ、あった。辞書によるとですね、絞首刑執行人のことらしいよ。」
「絞首刑!?米軍機の騒音公害の被害者が殺人事件を起こし、絞首刑になったという話ってこと??」
「被害者なのに?あんまりだね…。」
「その場合、肉食恐竜とどういう関係があるんだろうか…。それに、その恐竜、どこに座ってたの?」
スマホから顔をあげて、よっちゃんと見つめ合う。
完全な敗北の表情だ。
きっと、私の顔も。

「わかった、わかったよ!」
ミクが戻ってきた。
「遅いじゃない。」
「トオル君、来られなくなっちゃったの。で、英語の宿題の話、聞いてみた。」
「わかったの!?」
「うん。トオル君がいうにはね、これ、小説なんだって。」
「小説!?」
「エドガー・アラン・ポー。」
「ポー?」
「それなら知ってる!」
私は知識をひけらかした。
「昭和初期の推理作家・江戸川乱歩があこがれて自分のペンネームにしたっていう、アメリカのミステリー作家だよね?」
「そうらしい。で、これ、代表作の『黒猫』っていう短編小説なんだって!」

よっちゃんは急いで『黒猫』の翻訳を探した。
「あった、これだ!」
3人で一斉に小さな画面を覗こうとして、互いの頭をしたたかぶつけ合った。
「読んで!」
私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰とは言えないと思う。
「おー。そう言ってもらえると、なんか分かる気がする。結末は??」
「えーっと。あった!
その頭の上に、赤い口を大きくあけ、爛々たる片眼を光らせて、あのいまわしい獣が坐わっていた。そいつの奸策が私をおびきこんで人殺しをさせ、そいつのたてた声が私を絞刑吏に引渡したのだ。その怪物を私はその墓のなかへ塗りこめておいたのだった!

「そいつって、誰?」
「恐竜じゃないことは確かみたい。」
「タイトルが『黒猫』なんだから、赤い口で目を光らせているのは猫なんじゃないの?」
ミクに言われて、わたしたちは初めてちょっとだけ納得した。
「航空機じゃなくて奸策なのね。どうしてその2つが入れ換わるのかさっぱりわからない!」
「孤立目って、片方だけの目って意味だったのね。そう言ってくれたらいいのに。」
「あとはこの訳を全部読むしかないね。」
私たちは同時にため息をついて、顔を上げた。
私たちはそれぞれにスマホを取り出し、翻訳された『黒猫』を読んだ。

妻を殺害した男が遺体の隠し場所に困り、自宅の壁に塗り込めてしまうことを思いついた。一部始終を目撃していた黒猫が非難がましく鳴いていたけど無視。自分の完全犯罪に満足していた男は、ある日来客に、新たに塗り替えられた壁を自慢して見せた。手にした杖で壁をコンコンと叩くと、中から猫の鳴き声がする。なんと杖で叩かれた衝撃で壁がザラッと崩れ、中から妻の死体と、死体の頭の上に座った黒猫が出てきた!

「なんだこりゃ。ウッチー、許さん!」
「ほんと。高校1年生にこんな反教育的で意味不明な小説読ませてどうする気なんだろ?」
「どうせ、『君たち、これが小説と気付かず、意味が分からないと悩んだだろう?そういう先入観が、学習を阻害するのですよ』とか言うにきまってる。」
「あー、なんだか軽く殺意が湧いてきたっ
よっちゃんが右手をグーにして息を吹きかけている。
「月夜の晩ばかりだと思うなよっ!ミク、これ、英語でなんて言うの?」
「待って、ミク!翻訳サイトで調べたい!」
私は主語をつけて、日本語を打ちこんだ。
「あなたはいつも月夜だと思ってはいけない…と。はい、出た!」

You must not think that it is a moonlit night all the time.

「ミク、読んで!」
ミクのなめらかな発音に、3人で腹を抱えて笑い転げたのだった。






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「ルー、どうした?」

嫌だと思ったら、もうダメだった。
あれほど愛した人なのに、どうしてここまでと、自分でも思う。
でも、もう戻れない。
あなたはすでに、私が愛したあなたではない。
いえ、変わったのは私かしら。

「どうしたんだよ。早く来いよ。」
夫がまた声をかけた。
「今、いいところだから、あとちょっと。ごめんなさいね。」
「またかよ。」
吐き捨てるような声がした。
またかと言いたいのは私の方。
でも、両手で口を押さえてこらえた。
大事な日までは、些細なことにも気を配らなくてはならない。

結婚して6年。
子どもはまだいないけど、それなりに幸せに暮らしてきた。
職場結婚だったが、今は別々の会社に勤めている。
つまり、ダブルインカム ノーキッズ。お金に不自由はない。
夏休みを合わせてとって海外旅行にも行ったし、お正月に限らず、双方の実家を行ったり来たりもしている。
どちらの親もみな健在で、穏やかな人柄の人たちだから、もめ事もない。
まだ20代の後輩が、事故で障害を負った親御さんの介護に頭を悩ませている。
愚痴っちゃいけないと思うし何も嫌なことはないのだけど大変なんですと打ち明けられた時、心の底からその重みに同情した。
そして、少しでも彼女の気持ちを自分の痛みとして感じたくて、いずれ私にもそんな日が来るのだと考えてみた。
が、ずっと遠い先のようにしか感じられず、ぼんやりとかすんでいて実感が湧かないのだ。
仕事と家事の両立も、夫の手助けもあって、それほど悩んでこなかった。
結局、私は幸せなんだと本気で思っていた。
半年前までは!

私の毎日で、これだけはと大切にしている時間がある。
家事を終わらせたあと、入浴を済ませ、布団に入る前のほんのひととき、読書をするのだ。
これは子どもの頃からの習慣で、私の精神安定剤と言ってよい。
夫も理解してくれ、一緒に並んで、それぞれ好きな本を読んでから眠りにつくのが常だった。
それが、半年よりも少し前、疲れたという夫に先に休んでもらうことが増えるようになった。
別段、気にしてもいなかった。
確かに、一日中パソコンや書類と格闘したら、もう活字は見たくない気分になることもあるだろう。
私がベッドに行くころには、夫はすっかり眠っている。
そうこうしているうちに、夜のことが、まったくなくなった。
私は夫に尋ねてみた。私の本がいけないの?それとも、私?
すると夫は言ったのだ。どちらも違うよ、すまないね、俺が疲れているだけだよ。

それから、今度は夫がちゃんと声をかけてくれるようになった。
それが、決まって、私が本を読んでいる時なのだ。
夢中になっていて気付かなかったこともある。
呼んだのに返事がないから寝ちゃったよと言われた。
私は夜の読書をやめた。
すると、今度は夫の帰宅が遅くなったり、酔って帰ったりするようになった。
そうして、私が本を読んでいる時に「限って」、ルーおいでと呼ぶのだ。
おかしいと気付かない方がおかしい。

世間の女性たちは、こんな悩みを誰に相談するのだろう。
母にはとても聞けないし、仲が良くても同僚に尋ねる気にはなれなかった。
仕事の合間に「ねぇ、あのことどうなった?」と尋ねられたり、毎朝顔色を覗われたりすることを想像しただけで気が重くなる。

そうだ、鈴香がいるじゃない。鈴香なら打ち明けてもいいかな。
私と同期の総合職で、何かと気が合い仲が良かったのだが、鈴香はあっという間に結婚して寿退社した。
やはり同僚だった私の夫・謙司とも鈴香の夫ともみな顔なじみで、双方の結婚式にも出席し合っている仲だった。
もともと、男好き…いや、合コンが好きで男あしらいもうまかった鈴香なら、こんな相談にも乗り慣れていて、私の話も気軽に聞いてくれるに違いない。
思いついただけでどこか救われたような気がした。
このまま抱えているより、ずっといいわ。
とはいえ、すぐに連絡する気にもなれず、明日にはと思った夜のことだった。

帰宅した夫が、テーブルにゴロンとスマートフォンを置いた。
「買い替えたの?」
「ああ。仕事で使うし。みんな持ってるからな。社に戻らなくてもネットが使える環境がやっぱり欲しくなったんだよ。」
以前は、ケータイなど電話とメールさえ使えれば十分と言っていたのに、急に気が変わったのだろうか。
それとも、仕事で不都合が?と思いつつ、似たような仕事をしていて困っていない自分の旧式の携帯電話を思うと、何かがひっかかった。
「やっぱり面白い?話しかけると返事をするってホント?ケータイからのメールってどんなふうに見えるの?絵文字は使えるの?」
欲しいわけではないものの、興味津津の私は矢継ぎ早に質問しつつ、夫のスマホを手にした。

それまで、夫のケータイを覗き見たことは一度もない。
する必要もなかったし、人間としてしてはいけないことだと思っていた。
それに、テレビで「男のケータイの中に女の幸せは入っていない」なんて言っているのを聞いてから、ますます見る気にはならなくなった。
その時も、夫の秘密を覗こうと思ったわけではない。
ただ、面白そうな機能に関心を持っただけだ。
「どこ触ると立ち上がるの?」
言いつつ、広い画面を見よう見まねで指でなでる。
すると、セキュリティ發鯑力せよ、というような画面が出た。
ちょっと驚いて夫の顔をみると、夫は慌てたふうもなく、スマホを取り上げて両手の親指で何事かを打ち込んだ。
そうしてひとしきり、メールの画面などを見せてくれてから、ぽんと鞄に放り込んだ。
家族割は引き続き使えるのかな?と思ったし、お前も一緒に替えようよと言ってくれたら考えたのにとも思ったけれど、口には出さなかった。

その時はそれで終わったのだ。
いつもならテーブルに出しておくケータイを、なぜ鞄に入れたのかなんて気にもならなかった。
けれども、いつものように本を読んでいた時だった。
寝室から、小さく笑い声が聞こえた気がした。
続いて何か、話し声。
怪訝に思った私は、そっと様子を見に行った。
ああ、なぜそっと行ったのだろう。
「どうしたの?」って普通に言えばいいのに。
扉の向こうを見る前に、夫の声を聞き取った。
「ああ、替えたよ。大丈夫。仕事で使うって言ったら納得してたよ。……うん、うん。そうだね。これからはLINEでね。大丈夫だよ。あいつはLINEの使い方なんて知らないし、興味もないよ。それに、このスマホには12ケタの暗証番号を入れたから。うん、すごいだろ?絶対に見られる心配はないよ。じゃ、続きはLINEでね。」

やっぱり、女がいるんだ!
もうずっと前から分かっていた気がした。
はっきりそうと分かってしまうのが怖かった。
足音をさせないようリビングに戻ってから、カッと熱くなった胸と混乱し続ける頭で考えた。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
あの人に確かめようか。
でも、立ち上がれなかった。
立ち上がれないから、確かめられない。
自分でも言い訳だと分かっていたけど、どうしようもない。
そう思ったとたんに立ちあがり、また寝室を見に行く自分がいた。
ドアをそっと開け、隙間から夫の様子を見た。
ベッドに腹ばいに寝そべって、笑い声を立てながらスマホをいじっている夫の後姿を見ながら、LINEってのをしているんだろう、その女相手に、と確信した。
そして、さっきの、高校生のような話し方をしていた夫の声を思い出したら、急激な吐き気が突き上がってきて、思い切り両手で口を塞いだ。
苦しくて、両目からぼとぼとと涙が落ちた。

翌日。
私は出勤途中で鈴香に連絡を入れ、相談したいことがあると頼み、帰り道に立ち寄らせてもらうことにした。
一日、もやもやと仕事に集中できず、ミスばかりして上司に叱られ、ますます落ち込んだ。
何度も行ったことがある鈴香の家にたどりつき、鈴香の顔を見たとたんに涙がこぼれた。
「ごめんね。急に。」
「いいのよ。どうしたの?何かあったのね?」
「うん。それがね…。」
私は恥も外聞も捨てて、夫の浮気のことを鈴香に話した。
鈴香は途中から黙って私に話をさせ、真剣な表情で耳を傾けてくれた。
「そうか。でも、思いすごしなんじゃない?ちょっとした遊び相手とか、可愛がっている部下とか。」
「そうかもしれない。でも、私、もっと深い仲だと思う。」
「女房が思うほど夫モテもせず、って言うよ。」
「だけど…。」
だけどと言いながらも、私の思いすごしだとキッパリ言ってくれる鈴香の言葉が天の声のように聞こえ、一晩極限の緊張を続けてきた心と体が緩んで、少しずつ温度が戻ってくるような気がした。
鈴香はいい友達。
ありがたいな、ほんと、こんな思いやりのある友達がいて、私は幸せね。


丁度その時、チャイムが鳴った。
小走りにインターホンを覗き、ちょっと待っててね、荷物みたいと言って印鑑を持って出て行った鈴香を見送り、冷めきった紅茶に手を伸ばした時、ふと、そこに鈴香のスマホが置いてあることに気がついた。
「鈴香もずっとケータイだったのに、替えたんだ。みんなスマホになっちゃうなぁ。」
なんとなく手に取り、画面をスクロールしてみた。
すると、LINEと書いたアイコンが出てきたので、そこに指を載せてみた。
どこをどう押したのかわからないが、ずらりと画面が変わって、メッセージがいくつも並んでいる画面になった。
それを見て、私は石になった。

夫の顔写真と、確かに「謙司」という名前が並んでいる。
写真からの吹き出しに、「今、なにしてる?」というメッセージ。
その下には、鈴香の顔。「あなたのこと考えていたとか、言ってほしい?」
また夫の顔。「考えてた?」
鈴香の顔。「教えない。ルーに気付かれてない?」
夫の顔。「気付きっこないよ。あいつを誤魔化すのは簡単。」
鈴香の顔。「だよね。ウチの夫も楽勝。」
夫の顔。「面倒だから離婚なんて考えないけど、お前のことは絶対手放さないから。」
鈴香の顔。「ルーには悪いけど、だまされてもらう。私も、あなたがいなくちゃダメ。」

私はそれ以上読めなくて、あちこちをめちゃくちゃに押して画面を切った。
着ていたシャツの裾でゴシゴシこすって指紋を消すと、もとあった場所にスマホを戻した。
そのすぐ後に鈴香が戻ってきた。
「ごめんね、待たせて。なんだか宅配の人が荷物間違えちゃって。」
「そう。」
「話が途中になっちゃったね。」
「うん。ごめんね。鈴香の言う通りかも。私、ちょっと考えすぎよね。」
「そうだよ。ご主人、優しい人じゃない。ルーを裏切ったりしないよ。」
「ありがと、鈴香。私、帰る。」
「なんで?せっかく来てくれたんだからご飯食べていってよ。夫は先週から海外出張で留守なのよ。」
「そ、そうなんだ。でも、今日は帰るわ。」
「じゃ、無理に引き留めないけど、いつでも相談に乗るからなんでも話してね。いい?ひとりで思いつめないでね。」
「ええ。」

だまされた。だまされた。だまされた。
うそつき。うそつき。うそつき。
裏切り者!裏切り者!裏切り者め!!
絶対、絶対、絶対許さない!

ボロボロ泣きながら、めちゃくちゃに歩いた。
悔しかった。
悲しかった。
切なすぎて、このからだを切り裂いてしまいたいとさえ思った。
頭の中で研ぎ澄ました刃物を抜き、何万回も夫と鈴香に切りつけた。
ねじ伏せ組み倒し、際限なく踏みつけ、蹴りつけ、喉が裂けるまで罵倒した。
それでも飽き足りない自分のどす黒い毒に自分が中毒した。

女として鈴香に負けたことよりも、信じていた夫が私の友達と浮気をしていたことよりも、私をズタズタにしたのは、あのふたりが、私を簡単にだませると思っていたことだった。
馬鹿にされた。
他のことすべてを許したとしても、ただその一点だけは許せなかった。
せめて顔写真じゃないとか、実名を出さないとか、そういう気遣いを見ていたら、ここまで怒り狂うことはなかっただろう。
しかし、ふたりは私を馬鹿にしきって、一切の配慮をしなかった。
ひとでなし!
あのふたりがひれ伏し、涙を流し、見苦しく許しを請うても絶対に許さないと、憎しみを深く心に刻んだ。

あの日から半年。
私はいまも、何も知らない顔を続けている。
そうして、前にもまして真剣に本を読んでいる。
「ルー、来いよ。どうした?」
夫の身の毛もよだつ誘いに、さも申し訳なさそうに言い訳をするのにも慣れた。
夫は文句をいいながらほくそ笑んでいるに違いない。
愚か者め。
今に見ているがいい。

私はかつて手に取らなかった推理小説ばかりを読んでいる。
そこには、許しがたい人非人を完璧な手段で亡きものにした天才たちが溢れている。
不運なことに、天才は天才を呼ぶらしい。
あり得ないほどの推理力と行動力で決して見えないはずの犯罪計画を明らかにする刑事がいて、天才たちは「罪」を暴かれる。
そのたびに、私は我がことのように悔しくて、われ知らず涙がこぼれる。
あなた方の仇も私が打つわ。
今に見ているがいい!
私はきっと、成し遂げる。
この許しがたい愚か者たちを、私の手で、しかも完全にそうとは知られない完璧な方法で、この世から葬り去って見せるわ。






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「ルー、どうした?」
「うん、ちょっと先に行ってて。」

声がした方向を振り返ると、友達から離れて、ルーさんが走ってくるところだった。僕たちは、思わず粕谷先輩の顔色を見た。
「おい、俺達、いないほうがよくね?」
修一に言ったはずが、粕谷先輩にも聞こえたらしい。
「ばか。気ぃ使うな。」
「みんな、おはよ!」
ルーさんの、透き通る声がした。
今日も晴れそうだ。雲ひとつない青空、都会より酸素がたくさん入っていそうな空気は少し湿った緑色の香りがする。どちらの部もこれから朝練だ。昨日の疲れがしっとりと重く残っているが、気分は悪くない。

ルーさんが部長をしている女子テニス部は、毎年男子テニス部と合同で合宿に行く。僕たち陸上部は単独合宿していたが、今年はテニス部と合同ということになった。理由はひとつ、経費節減。テニス部も陸上部も、微妙な部員数と道具のせいで、それぞれ2台ずつ大型バスを借り上げないとでかけられない。それを、2つの部で3台にすることで、ぐっと経費が減らせることに先生たちが気付いた。宿舎もテニスコートと陸上フィールドを両方持っている宿舎を一緒に借りることにした。大人数なので、ちょっと宿泊費も安くなり、合宿費が安くなったのが嬉しい。

しかし、問題がなくはなかった。高校の部活から恋愛を切り離すなんて無理なこと。密かに付き合っているカップルはさておき、この2つの部には、学校で知らぬ者はいない、美男美女カップルがいるのだ!

それが、われらの部長、粕谷先輩と、テニス部のルー先輩だ。どちらも高3の夏、すでに引退してもいいのだが、ルー先輩は推薦で進学したい先が決まっている、粕谷先輩も、陸上つながりで進学先がもう決まったも同然の状態ということで、余裕の参加になっている。他にも、引退はしたが合宿には行きたいという人たちがどちらの部にも多くて、にぎやかな合宿なのだ。ま、おかげで合宿所のムードは毎年明るく、お祭り騒ぎだ。ストイックになりすぎないのも助かるのだと、先輩から聞かされた。つまるところ、夏の恋も花盛りになるんじゃないかと、誰もがちょっと期待しているわけだ。

宿舎は一緒でも無駄な交流はせぬようにと、お触れが出たのはムカつくがしかたあるまい。でも、もともとサワヤカな2人は、そんなことはお構いなしのようだ。
「やっぱり涼しくていいわね、山中湖は。」
「そうだな。強豪校が来ているから、合同練習は励みになるよ。」
「陸上部のみんなは元気?」
「ああ。こっちに来てから長距離のやつらが調子を上げてる。」
2人して清々しい会話を交わしている。この二人を見ていると、高校生の「お付き合い」がどういうものか、分からなくなってくる。まさか、これで満足しているわけじゃなかろうな?頼みもしないのに生々しい状況報告をしてくる友達もいるので、女の子とはトンと縁がない僕にはますます分からない。


僕と修一は、気付かれないように三歩下がって、くるりと2人に背を向けた。そのままそっとフェードアウトしようとした時だった。
「おおい、粕谷ぁ!」
陸上部顧問の馬場先生が、寝起きのボサボサ頭と着古したスウェットのまま、先輩を呼んだ。
「朝練の連絡がある。ちょっと来い。」
「はい!」

粕谷先輩はじゃあなと爽やかに手を振って、ルーさんから離れ、先生の方へ駆けていってしまった。取り残された僕たちはちょっと困ってしまって、そそくさと離れようとした。
「ね、桜井君。これ、ちょっとお願いできない?」

ルーさんが名指しで僕を指定してから肩をこちらに向けるので、何かと思ったら、袖の先についた白いリボンのようなものを結べと言っているらしい。
「はい?」
ルーさんのテニスウエアは練習着にいたるまで、いつもとてもオシャレだ。お気に入りのスポーツブランドはクーマのようで、今日も真っ白いポロシャツのふっくらと高く盛り上がった上あたりに紫色のクーマのマークが見える。スコートもシューズもクーマでまとめている。おい、じろじろ見るなよと自分で自分に言ったとたんに目が泳いだ。

「結んでから着ればよかったんだけど、先に着ちゃったの。でも、脱ぐの面倒だし、腕って自分じゃ結べないし。」
脱ぐ、という動詞がルーさんの口から出ただけで動揺してしまう。 
いいのかな?
腕に触らないで結べるかな?触っちゃマズいよな、やっぱり。
困って修一を見ると、修一はご指名が自分じゃなかったことにスネたようで、プイと横を向いている。
「ちゃんと、右と左と、同じようにチョウチョにしてよ。ほどけないようにキュッと強めに。」

僕はルーさんに絶対触らないように気をつけなければと、ゆっくり手を出して、袖についたリボンを指に乗せようとした。
でも、ルーさんが動くから、僕は思い切りルーさんの腕をつかんでしまった。
「す、すみません!」
あわてて手を引っ込めると、
「ほら、早くして。」
ルーさんはますます腕をこちらに突き出してきた。

毎日ラケットを振っているルーさんの腕は、パンッと張っていて、お日様を浴びているのにしみひとつない。
当たり前か。母ちゃんとは違う。
母ちゃんの腕ときたら、しみだらけ、脂肪だらけ。よくもあそこまでたぷたぷと柔らかくなるもんだと思う。母ちゃんにラケットを振らせたら、腕の下に垂れさがった扇のような脂肪のほうがラケットより上手に、広い面積でぶるんと球を打ち返すんじゃないだろうか。

一生懸命母ちゃんのことを考えて、邪な方向へ気持ちが向かないようにしながら、もう一度リボンに手を出す。
今度は、袖の下に隠れていた、お日様にさらしたことがない部分が見えて、手が止まってしまった。
うわぁ!真っ白だ!
これなら、スコートの下の太ももも、めくってみたら真っ白なんだろうな。
い、いかん!

「このシャツね、今日初めて着たの。もう大会目指して頑張るぞーって感じじゃないから、ちょっとおしゃれしたくて。現役のみんなには悪いんだけどねー。」
「とっても、似合うと、思います。」
それ以外の言葉を言う場面じゃないことくらいは鈍感な僕にも分かる。
白い肌よりもさらに白いリボンは幅が広くて、たぶんキティちゃんの赤いリボンみたいな形に結べばいいのだろうと思いつつ、手がうまく動かない。
「こ、これでどうでしょう。」
なんとか片方仕上げておそるおそる聞くと、ルーさんは素振りのように腕を動かして、
「うーん、ちょっと、きついかな。やり直し!」

さっきまで膨れていた修一が、
「じゃ、こっち側、俺がやりましょうか?」
と申し出た。
この野郎、ずうずうしいヤツだ。
「ありがと。でも、人が変わると感じも変わっちゃうから、桜井君にやってもらうよ。」
ルーさんっ!
僕は感激、感動、興奮と、してやったりの気持ちで舞い上がり、ますます緊張した。
修一はむくれて唇をタコみたいに尖らせている。 
任せてくださいルーさん!絶対に、きれいに結んでやる。
今日一日ルーさんの素肌に、僕が結んだチョウチョがとまるのだと思ったら、 頭に血が上った。

その時僕は必死になりすぎていて、ルーさんに頭がぶつかるほど近づいていることに気づかなかったのだ。
「どう?できた?」
ルーさんが突然腕を持ち上げたから、不意を突かれて避けることを何も考えていた僕は、ルーさんの生腕に思い切り、唇をつけてしまった。
「す、すみません、すみません!」
「あーごめん、ごめん。痛くなかった?」
「大丈夫です。すみません!」
「何でもないわよ。きれいにできたじゃない。じゃ、こっちね。」
ルーさんが桜色のつややかな唇でクスクス笑った。 

そこからは、何をどうしたのか、ぜんぜん覚えていない。
「ありがと。桜井君、器用ね。キティちゃんのリボンみたいにかわいい。」
そういって、僕のほっぺたに手をのばし、ピタピタと触った。
「じゃ、一生懸命練習しなさいね!」
スコートの裾をあでやかに翻し、ルーさんはテニス部の部屋の方へ走っていく。
腕の両側で、僕が結んだばかりのリボンがひらひらと朝日を受けて踊っていた。

「言ってやる。粕谷先輩に言ってやる。」
修一のどす黒い呪いの声で、現実に引き戻された。
「や、やめろよ。俺はルーさんが言うから仕方なく…。」
「おまえ、弄ばれてたぞ。なのに真っ赤になって、アホか!」
「弄ぶ?粕谷先輩に頼みたかったのにいなくなったから、しかたなくそこにいた後輩に頼んだだけだよ。」
「お前、ルーさんにとんでもないこと、しちゃっただろ。」
「事故だよ!あれは。出会いがしらの衝突事故だ。避けられなかった。」
「先輩がそう思ってくれたらいいな。」
「おま…!」 

男の嫉妬は醜く執拗だ。
修一の顔が悪魔に見える。
もうすぐ口が耳まで裂けるんじゃないだろうか。
「それにしてもさ。」
修一の顔がいやらしく笑った。
「粕谷先輩とルーさん、どこまでいってるのかな。」
「お前、やめろよ。」
口では言ったが、僕もさっきから考えていた。
ルーさんはステキな人だ。いろんな意味で。
「やっぱ、だろうな。」
修一の一言で、頭の中にルーさんの白い身体が浮かんでしまった。
「朝練、いくぞ。」
僕は修一を無視して走りだした。
宿の玄関を通り過ぎたとき、
「おい、桜井!」
呼びとめられて振り向くと、粕谷先輩が立っていた。
ぞっとした。ぞくっとした。警察に追われる犯罪者の気持ちが分かった気がした。
「朝練、長距離は湖一周。いいか?」
「ハ、ハイ!」
僕は人生で初めて、罪悪感と嫉妬という感情を、同時に実感したのだった。



「パパ、パパってば。起きて。時間よ。美香が待ってる!」
「あー?」
「疲れてるかもしれないけど、もう2回も延期した遊園地なんだから。パパの意地を見せて!」
「おお。わかったわかった。今、夢を見てた。」
「なに?いい夢?」
「高校の、合宿の。ほら、ママが腕のリボン結んでって言った、あの時のこと。」
「ああ。懐かしいわね。」
ベッドに横座りして俺の顔を覗きこんでいる、今でも美しくいたずらっ子のような眼をした妻に、確認せずにはいられなかった。
「あの時、俺のこと、弄んだ?」
「ふふふ。内緒。でも…。」
「でも?」
「美香、美香!パパねぇ、若い頃、かわいかったのよ〜!」
「おい、こら、やめろよぉ!」





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「ルー、どうした?」
俺は不敵な笑みを浮かべ、わざと馬鹿にしたような口調で彼女の口真似をして挑発した。
「ルー、ルー、ルー…」
彼女はまだそう呟きながら、こめかみに指を当てて考え込んでいる。
「ルー、ルー…ルイジアナ!」
なにっ?そうきたか!
「なみだ!」
俺は即答した。
もう音をあげると思ったのに、なかなかしぶとい。

俺たちは今、ただのゲームをしているのではない。
これは、真剣勝負だ。
 
「ダイナマイト!」
「トラブル!」
ふふふっ。これでどうだ。またルだぞ。
「ルワンダ!」
しまった。地理方向に頭が行ったか。
「ダイヤモンド!」

勝負を始めてもうかれこれ1時間になる。
絶対に負けるわけにはいかない。
人生をかけた戦いだ。

「ドー、ドー、ドラキュラ!」
なにっ!ラだと?!
ランプもライトもラッコもライターも、ラクダもラジオも雷雨もライチョウも使ってしまった。
「ラ…」
ふふふっ。
彼女が唇を右の端だけちょっとあげて、意地悪な微笑を浮かべている。
くそっ。何かあるはずだ。 
「ラ…ラー油!」
あ、危なかった。ダメかと思った。
チッ。彼女が小さな舌打ちをする。
 
「ゆー…ゆでたまご!」
彼女も腹が減ってきたのだろうか。 
しかし、この勝負が終わるまでは飯どころではない。
勝負は一瞬の油断で形勢が逆転したりするものだ。
いまのところ、この勝負は互角。
彼女には疲れが見え始めている。
あと、少しだ。

「ゴマフアザラシ!」
「したびらめ!」
「メガネザル!」
うっ。しびれるぜ。俺の見事な「ル攻撃」炸裂だ。
「ルーマニア!」
くそっ。まだあったか。
「アミメニシキヘビ!」
「ビーチパラソル!」
しまった!俺にルがまわってきた。
「ルー、ル…ルッコラ!」
よっしゃっ!
「ラ!?」
さすがに目をむいて、彼女は声を詰まらせた。
いよいよここまでだろう。
彼女は無言で考えている。
「ラムネ!」
案外身近なところから答えを探し当ててご満悦なのだろう。
満面の笑みを浮かべた彼女が小面憎い。
「年賀状!」
「ウォンバット!」
「とろろいも!」
「モモンガ!」
「ガッチャマン!」
息もつかせぬ速攻の応酬に、勝手に口が答えた。
しまった!
「ちがう、ガチャピン!あ!」

「勝負あった!待ったなーし!」
勝ち誇った声で言うと、彼女はソファーから立ち上がり、力強く勝利のガッツポーズを見せた。
ガッツポーズ。
ガはそれでよかったのに。
いまさら気づいても、もう遅い。力強く言い直した分まで「ん」がついていた。ごまかして言い逃れるのは無理だな。 
「頼む。1回だけ。な?」
「なに都合のいいこと言ってるの?ジエンド、しかもお手付きまでしたでしょ?私がジャンケンにしようと言ったのに、運に任せるのはいやだ、実力勝負だーって言ったのも、待ったなし、お手付きなしの真剣勝負だと言ったのも、全部あなたでしょ?」
「くううう。」 

彼女は足取り軽くテーブルに近づくと、茶封筒から書類を取り出した。
「うふふふ。」
笑い声を立てながら傍にあったペンで書類に書き込むと、俺の方に向きを変えて突き出した。
「はい!あなたの番よ。うふっ♪」
「ああ…。」

茶色の枠線の右側、『妻』の欄に堂々と、書き慣れた文字で彼女の名前が書いてある。
「佐伯 菜々子」
俺がため息をつくと、彼女が判決を述べる裁判官のような威厳をこめて言った。
 
「林田君。勝負に勝ったのは私よ。約束守ってちょうだい。ああ、あの面倒くさい氏名変更の手続きをしないで済むと思うと、心が軽やかだわ!2度は耐えたけど、3度目は絶対にイヤ。」

俺は、震える手で、『夫』の欄に初めて書く名前を書き込んだ。
「佐伯 哲郎」
くぅっ。なんてこった。俺、長男なのに!! 

父ちゃん、母ちゃん。ごめん。
勝負に負けて、俺の名字が変わります。






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「ルー、どうした?」
「それがさぁ…見てよ。」

試着室からなかなか出てこない瑠璃絵を待ちきれなくなって声をかけると、瑠璃絵は試着室のカーテンの隙間から右目だけを不気味に覗かせて、こっちに来てと言う。照れてないで出てくればよいものをと思いながら、カーテンの中に首だけ突き入れて覗くと、親しき仲にも礼儀あり、吹き出さなかった自分を褒めてあげたいと真剣に思うような光景が目に飛び込んできた。

「ありゃー
「ダメよね、これ?」
「ああ、まあね。別にこれじゃなくてもいいんじゃない?って感じかなぁ。」
傷つけないように言おうとすると、言葉数が多くなる。
「だよねぇ。」
瑠璃絵はものすごく残念そうに、がっくりとうなだれた。
「わかった。脱いじゃうから、もうちょっと待ってて。」
「ファスナー、下ろせる?」
「うん、多分…」

私はカーテンから首を抜く前に、もう一度瑠璃絵を見た。
なにを思ったのか知らないが、トラ柄のワンピースが欲しいといって買いに来たのだ。探すのかと思ったら、すでに目星がつけてあったらしく、気恥ずかしげに出してもらったのは、全体がトラ柄でノースリーブ、体の線が見事に浮き上がるタイトな仕立てで、スカートもきわめて短いものだったのだ。日常生活のあらゆる場面を想定しても、これを着るチャンスは思いつかないような服だ。
どうしてこれが着たいのかな?
私が考えていると、瑠璃絵はいそいそと試着室に消えたのだった。

瑠璃絵は驚くほど色白で、手足が細い。そして私より頭一つ分くらい小柄で、なんともかわいらしい面立ちをしている。これまでのお気に入りは、色で言えばパステルカラー、お花畑から出てきたようなフワフワしたイメージの服だった。だから、こんなド派手なボディコンを着たいと思うことからして驚きだし、着ているところを見たのも初めてだ。そんな見慣れない瑠璃絵の前面ではトラ柄が極限まで横に引き延ばされている。さらに、向こうの鏡には上がりきらずに背中の途中でとまったファスナーが今にもはち切れそうになっている後ろ姿がバッチリ映っている。どちらの瑠璃絵にも、このトラ柄はいささか小さすぎたようだ。それに、折れそうなほどほっそりした人だと思っていたけれど、パックリと開いた背中から見える体には意外と脂肪がついていて、特にお腹とお尻には迫力があった。

サイズ以外のイメージはバッチリだったのに…と未練たっぷりに振り返る瑠璃絵とその店を出てから、足を棒にして捜したけれど、とうとう瑠璃絵に似合うトラ柄の服は見つからなかった。関西じゃないんだから、そもそもトラ柄に遭遇すること自体多くはないのだ。私たちは歩き疲れて、目に入ったサリーズに入ることにした。コーヒーを買う前に席にへたりこむ。店内が空いている時間でよかった。この疲れきった足腰では、背もたれがないスツールはちょっとキツい。

テーブルにハンカチを投げ出して席を確保してから、勢いをつけて立ち上がり、コーヒーを買いに行く。
私はハニーカフェラテ、彼女はカフェモカだ。トラ柄ワンピースを着た姿をさっき見たばかりだから、彼女のカップを飾る、盛り上がった生クリームとチョコレートソースが脂肪の素に…と思ったが、黙って席に着いた。

「ねぇルー、何で急にトラ柄のワンピースが着たいなんて言い出したの?」
「だって…彼が『うる星やつら』のランちゃんが大好きだっていうんだもん。」
「ランちゃんて…ああ、あのトラ柄のビキニにブーツで『ダーリーン、なんとかだっちゃ!』とか言う、あれ?」
「うん。子どもの頃読んでて、ずっとファンなんだってさ。」
「ファンったって、二次元の世界でしょうが。同じものを三次元の彼女に求めるか、普通?」

瑠璃絵はうっとりと見つめた後、真っ白いクリームだけをスプーンですくって、さも美味しそうに口に運んだ。
「別に、求められてるわけじゃないよ。」
「じゃまた、何だって突然?」
「あたしたち付き合い始めて2年になるのね。最初のうちは何をしてもしなくてもドキドキしたし、ステキだし、毎日キラキラしてたのよ。彼もあたしのこと見ててくれるなぁ、好きでいてくれるなぁって感じることが多くて、すごくハッピーだったの。でも、2年にもなると、何もかも当たり前って言うか、前ほどドキドキしないのよ。」
「なにガキみたいなこと言ってるの?んなの当たり前じゃない。2年もずっとドキドキし続けていたら、心臓が悪くなっちゃうよ。」
「そうかもしれないけど…寂しいのよ。彼、最近うちに来るのも自分の家に帰るのと変わらないなぁなんて言うし、スマホでゲームばっかで、あたしの方見てくれないし。話も聞いてるふりして、あれ、絶対聞いてないもん。」
「で、その彼を振り向かせようと?」
「ちょっとサプライズっていうのかな?いつもと違うのもいいかなぁって。私だって一生懸命考えたんだから!」

ハニーカフェラテはほんのり甘くて、歩き疲れた体にしみこむ美味しさだったけど、飲み進むほど甘味が強くなった。しまった!はちみつがカップの下に沈んでいたらしい。これは、糖分の摂りすぎだわ!
「でもね、見たでしょ?私、最近太っちゃって。」
「運動不足?それとも食べすぎた自覚があるとか?あ、ストレス?」
「わかんない。特に変わったことしてないんだけどなぁ。」
「してないから、だめなんだよ、きっと。」
「そうなの?だって、急に来たって感じなんだよぉ。」
「わかる!だって…」
私も同じだからだ。

「私もなんだよー、ルー!」
「えっ、佳奈ちゃんも??」
「そうなんだ。今も、このコーヒーのはちみつが甘すぎた、しまった!って考えていたんだ。」
「うそぉ。全然見えないよぉ。相変わらず薄いよぉ。」
「薄いのは、肩と胸だけ!お腹から下が、もう、どうしようもない。」
「あーーー!あたしもそれだよぉ。」
「こんなところに同志がいたかぁ。やっぱ、歳のせいかなぁ。」
「うそぉ。歳なんて!ねぇ、もしかしてダイエットとかしてる?」
「してる!ダイエット関連本をダーッと読んで、エッセンスをかいつまんで。」
「おしえて、おしえて!どうしたらこのお腹、ヘコむのぉ?」
「まず、食事は、糖質オフ!」
「糖質?」
「それも知らないの?炭水化物だよ。」
「ああ、ごはんとか、芋類とか、砂糖とかね?」
「うん。でも、減らしすぎちゃダメ。」
「どうして?」
「炭水化物は脳や筋肉の栄養なのね。余ると脂肪に変えて蓄えられちゃうから摂り過ぎはダメだけど、削りすぎると、脳は自分が少ない糖質を確保するために考えるのよ。『あー力が出ない、このままじゃ動けないから、筋肉減らそうかー』って。そうして、基礎代謝の基になる筋肉が、なんと脂肪に変えられてしまうのだ!」
「おっそろし〜〜〜!」
「だから糖質は適度に減らす。で、食べる順は、両手いっぱい分の野菜、少量かつ多種類のたんぱく質、ちょっとだけ炭水化物ね。」
「お肉とかは減らさなくていいってこと?」
「そう。食べるな!って人もいるけどね。1種類どかんと食べないで、幕の内弁当みたいにちょっとずついろいろっていうのがいいみたい。あー、でも、脂質は摂りすぎたくないから、牛乳を豆乳にするとかいう話は実行してるよ。」
「なーーる!で?」
「次は運動。ギッタンバッコン腹筋しても、丸っ腹は凹まない!」
「うそぉ。」
「ジョギングしても、スクワットしても、丸っ腹は丸いまま!」
「そうかもねぇ。それで凹むならみんなやってるよねぇ。」
「だから、お腹をへこませたかったら、お腹の内側の筋肉をぐいっとへこまして、あ、自分は筋肉だった!って引き締まった形を思い出させるんだって。その時に縮む筋肉って、腹筋とは違うものらしいよ。お尻も同じ。キュッと力入れて、引き締めて、それが本来よって思いこませるといいんだって!ちょっとやってみなよ、案外お腹へこますって難しいよ。」
「うーーっ、ホントだぁ。いつの間にこんな!」
「で、継続的に有酸素運動で全体的に余分な体重をゆっくり落とす!」
「有酸素運動ってウォーキングとかスイミングとかね。で、どうなの?効果は?」
「ない!」

そうなのだ。効果はなかなか出てこない。
若い頃は2〜3日食事を減らせば2〜3キロすぐにやせたのに。
「今はさぁ、水を飲んでも太る気がする。」
若い頃…と考えている自分が、もう若くない証拠だと思えて、ずしんと落ち込んでしまった。

「私なんか、今は息吸ってるだけで太るよ。」
「なんとかならないかなぁ。ルーはまだ手足が細いから、なんとかなると思うのよ。私はフトモモまでやられちゃってるから、時間かかりそう。」
「さっきのトラワンピースでつくづく思ったわ。このお腹じゃ、彼の気持ちが冷めても責められないって。」
「あら。彼に『あなたは体型を愛しているの?それとも私?』とか、言わないの?」
「言えないっしょ?」
「まぁ、そうだよねぇ。だって、さっきのルーったら、ランちゃんじゃなくて、
みつばちマーヤだったもんねぇ!」

しまった!と思った時にはもう遅かった。
みつばちマーヤのところに、妙な力を入れてしまったのもいけなかった。
無表情になったルーの指から生クリームをすくっていたスプーンがポロリと落ちて、床でカラーンと渇いた音を立てた。

みつばち




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まだ暑い日もありますが、今年は残暑が優しい気がします。
気温25℃以上では劇的にパフォーマンスが落ちるわたくしとしては、ありがたい限りです。
ちょっと思いつきで書き始めたらすっかりはまってしまった『ルーの物語』連載の途中ですが、8月の読書記録を。

2014年8月に読んだ本は5冊でした。
長いお休みだったのに冊数としては平凡。
でも、夢中になって何度も読み返したのが『太陽を抱く月』2冊です。
いま、NHKとBSプレミアムで放送中のドラマの原作で、これがドラマ以上に面白い。
ハラハラドキドキして、いい夏の味わいになりました。
『タルトタタンの夢』は、秋田への往復の新幹線のお供でした。
こちらも、ゆる〜い推理小説で、1話読むたびに美味しいフランス料理が食べたくなります。
読書とグルメがお好きなあなたにおすすめです!


Hikariの読書記録 - 2014年08月 (5作品)
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「ルー、どうした?」
「うん・・・・。」

夫と並んで、無言でここまで歩いてきた。私が突然立ち止まったので、夫は不思議に思ったのだろう。ベビーカーのカズ君がもぞりと動いたのが気になったのだ。身を乗り出して、カズ君が何かを見ている。視線の先には、小さな神社があった。

階段が5段ほどしかない境内はすべてが見通せるが、誰も遊んでいないし、花が咲いている様子もない。今日はお祭りの日だけど、この神社は会場にならないので、これといった飾りもない。
何を見ているのかしら?
そう思った時だった。
私は不意に、すっかり忘れていた子どもの頃の記憶を取り戻した。



「ルー、どうした?」
「うん。」
「お祭り、始まっているよ。」
「うん。」
「いいかい、ルー。お父さんの手を放してはいけないよ。何か素敵なものを見つけても、ひとりで行かないで、ちゃんとお父さんに言うんだ。今日はすごくたくさんの人が来ているから、迷子になってしまうからね。約束だよ?」
「うん、わかった!」
「じゃぁ、ほら、早く行こう。金魚すくいとヨーヨー、ルーはどっちがしたいかな?」

10月1日。お父さんに手をひかれた私は1年生だった。毎年恒例のお祭りの日だ。通りがかったその神社はお祭りをしないのだけど、境内のどこかから、何かとてもかわいらしいものが、私を見ていた気がしたから立ち止ったのだ。だけど、それをうまくお父さんに言えなかった。

次の日、やっぱりとても気になって、学校へ行く前に神社に寄ってみた。その神社は、おうちから3分ほどのところにある。階段をあがって、あちこち見まわしてみるが、やはり何もないし、誰もいない。 やっぱり気のせいだったんだなと思った時だった。

白くて小さいものが、石灯籠の台座の向こうに、ちらりと隠れた気がしたのだ!
音をたてないように、そっとそっと近づいてみた。

いた!

遠慮がちに私を見上げているのは、それはそれはかわいらしい、真っ白なウサギだった。ウサギは長い耳をピンと立て、赤い瞳で私を見上げていた。耳の中がピンク色なのも、リボンをしているようで本当にかわいらしかった。

「ルー。ルーっていうんでしょ?」
どこから声がしたのか分からず、私は後ろも空も見上げて確かめた。やっぱり、そこにはウサギしかいない。
「お父さんが、そう呼んでたから。」
「うそ!ウサギさんが話してるの?」
「そうだよ。」
「うそでしょう?」
「うそじゃないよ。君には僕が見えるんだね。僕が見える子には、僕の声も聞こえるんだよ。」
「うっわー!どうして話せるの?ウサギなのに?ウサギはみんな話せるの?」
「うふふ。違うよ。みんな話せるわけじゃない。この神社、なんて名前か知ってる?」
「え?ここは宇佐神社だよ。うさ…えっ?まさか、宇佐神社のうさって、ウサギさんのことだったの?あなた、ここの神様なの??」
「ここの神様は僕じゃなくて、僕のおじいちゃん。でも、今月は出雲で神様の総会があるから、出張中なんだ。だから、僕はお留守番をしているの。」
「お留守番なんだぁ。」

私とウサギさんとは、賽銭箱の前の木の階段に腰掛けた。
「ねぇ、ルー。僕とお友達になってよ。」
「いいけど、お友達いないの?」
「うん。いないんだ。僕は神様の見習いだから、たくさんたくさん勉強しなくちゃならないんだ。僕はね、いい神様になりたいんだぁ。たくさんの人の願い事を叶えてあげるにはね、いっぱい修行して、勉強してね、神様のテストを何度も受けて、それからじゃなきゃ、いい神様になれないの。」
「大変なんだね。遊んでいるヒマはないんだね。」
「でもね、ここにお留守番にきたら、ほら、みんなそこで遊ぶでしょ?こういう厚紙をペシッてしたり…」
「メンコね!」
「それから、きらきらした石をパチンってぶつけたり。」
「おはじき!」
「伸びる糸を飛び越えたり。」
「ゴム跳びだよ!」
「それから、あそこの椿の枝に座って歌を歌ったり。毎日楽しそうで、僕もやりたかったんだぁ。だけど、人間には僕が見えないから、友だちになれないんだ。」
「そっか。わかった。これから学校行くから、今は遊べないけど、帰ってきたらすぐ来るから。待っててね!」
「待ってるよ。いってらっしゃい。」
「うん、行ってきます!」
ウサギさんは長い耳の片方をピョコンと折って挨拶すると、スッと消えてしまった。

その日から、私は毎日学校から帰ると一目散に境内に駆け込んだ。
ウサギさんと、いろんなことをして遊んだ。
「僕はね、学校にも行ってみたいんだぁ。」
「行こうよ!私、こっそり連れて行ってあげる。」
「だめだめ。僕はこの神社から出てはいけないんだ。そんなことしたら、おじいちゃんがここに帰ってこられなくなっちゃうからね。僕はおじいちゃんと、おじいちゃんが帰ってくるまでここにいるって約束したんだ。おじいちゃん、いつも約束を守るんだよ。いい神様だからね。僕ね、おじいちゃんとの約束守りたい。」
「そっか。約束は守らなきゃね。じゃ、ここで、学校ごっこしようか。」
「うわぁ、素敵だなぁ。」
「では、出席をとります。」
私はウサギさんを先生のように呼ぼうとして、困ってしまった。
「ねぇ、ウサギさん。あなたのお名前は?」
「ルー。僕に名前をつけてよ。」
「ウサギさん、名前はお父さんやお母さんがつけてくれるものだよ。名前、つけてくれなかったの?」
「いいから、ルーが名前をつけて。その名前で、僕を呼んでよ。」

私は一生懸命、このかわいいウサギさんに似合う名前を考えたけど、どれも気に入らなくて、決められなかった。
賽銭箱の前の木の階段に腰掛けて考えていると、ウサギさんが隣に座って、ヒントをくれた。
「ルーは、何色が好き?その好きな色を名前にしていいよ。」
「色?私ね、白が好き。だからほら、今日のスカートも白でしょう?」
「ホントだね。よく似合うよ。」
「じゃ、白…うーん、えーっと、わかった!」
「なあに?」
「ユキにしよう!白いものと言えば雪だもの。ユキちゃんに決定!」
「うわぁ、素敵な名前だなぁ。うれしいなぁ。もいっかい呼んでよ、ルー!」
「ユキ!」
「はい!」
うふふ、わははと笑い合った。
「じゃあね、ユキ。また明日!」
「うん、ルー。また明日ね。」

ユキと出会って1ヶ月ほどたったある日のことだった。私にはユキにどうしてもお願いしたいことがあった。
「ねぇ、ユキ。お願いがあるの。」 
「なあに?」
「触ってもいい?」
「いいよ。」
「だっこしても?」
「もちろんだよ!」

ユキは、自分からピョンと飛び上がって私の腕の中に着地した。学校のウサギ小屋のウサギたちと違って、重さをまったく感じなかった。でもやわらかくて、ふわふわとした手触りは何ともいえず、私はユキに顔をすりよせ、何度も何度も頬ずりした。ユキからは、花のような香りがした。
「ユキ、大好きよ!」
「僕もルーが大好き!覚えていてね、僕はいい神様になって、ルーが一番苦しい時に、絶対絶対力になるからね!」
「うん。ユキはきっとすごくいい神様になると思うよ。」
「ありがとう!僕、がんばるからね。」
そういって、赤い目で私を見上げた。
「うん。じゃ、ユキ、また明日ね!」
「うん、ルー。」
いつものように片方の耳を折ってさよならをしたユキを私は地面にそっと下ろして、ランドセルを背負った。
あれ?
振り向いたときには、ユキはもう消えていた。
ユキ、今日は言わなかったな。「また明日ね」って。

次の日から、ユキは姿を現さなくなった。どれだけ呼んでも待っても、一度も出てこなかった。初めは寂しくて泣いたけど、じきに忘れてしまった。高校に入って、10月を神無月と呼ぶと習った時、不意に思い出して久しぶりに神社へ行ってみたことがある。広いと思った境内はわずか10歩かそこらで終わるほど狭く、必死でよじ登って座った椿の枝は、目の高さより低かった。ユキが隠れていたそびえ立つような石灯籠も自分の肩より低かったことを知り、自分はいつのまにか、大人になったんだなと思ったのだった。



「ねぇ、あなた。お参りしていきましょう。」
夫に声をかけて、ちょっとためらった後、カズ君を抱き上げようとした。珍しく、カズ君はむずがることなく素直に抱かれた。そのまま石段を上がり、お社の前に立った。片手で鈴を鳴らし、目を閉じて頭を下げた。

「神様。今日、お医者さんが、この子のことを自閉症だと言いました。カズはもう3歳なのに、まだ歩くことも話すこともできません。 物ごころついた時から抱こうとすると怒って泣くし、決まったものしか食べないし、決まったおもちゃでしか遊ばないし。滅多に笑うこともなくて、私の顔も見てくれません。ずっとおかしいと思っていたけど、ただちょっと、ゆっくり育つ子なんだろうと思ってきました。でも、今日、お医者さんが…。私、自閉症がなんだか、よく知りません。でも、治らないって言われました。性格みたいなものだからって。私の今の気持ちは、混乱とか、絶望とか、悲しいとか、どんな言葉でも表せません。どうしたらいいのかも分かりません。でも、神様。

どうか、私に力をください。

この子の人生を守ってあげるだけの力と勇気をください。

これから、心配して待っている私の両親に、このことを話しに行かなくてはなりません。すっかり歳をとったのに、今からまた心配をかけることになってしまって、申し訳なくてなりません。どうか、両親が少しでも心穏やかでいられますように。

それから。
それから、神様。
どうか、どうかこの子の一生が、幸せでありますように!」

「熱心に祈っていたね。」
夫がうるんだ目で私の肩を抱いてくれた。
「ええ。ここの神様はね、約束を守る、すごくいい神様だから。」
ユキはいい神様になれたかな?と思った。どこかで、頑張っているのかな。
そうか、今日はユキと出会った日だ。30年前の10月1日!
「うー、うー。あー。」
カズ君がお社に向けて両手を差し伸ばし、珍しく声を立てた。
「ねぇ、あなた。見て!カズ君、笑ってる!!」



「雪麿よ。」
「はい、おじいさま。」
「えにしよのぅ。」
「はい。」
「こうして、この座をお前に譲るその日、一番にお前に頼みごとをしに来た人が、お前に私が付けたのと同じ名をつけてくれた、あの娘であったとは。」
「はい。私はあの娘と約束をいたしました。今こそ、果たす時と心得ます。」
「ああ。存分にやるとよい。これで私も心穏やかに、因幡に旅立てる。」
「どうかおじいさまも、ご存分のお働きを。因幡に招かれますことは、我々白兎のの誉でございます。」
「ああ、では、行ってこようよ。」
「どうか、道中お気をつけて。お健やかに。」
「それにしても雪麿よ。」
「はい。」
「人無くして神は無い。また、神無くして人は無い。神と人との縁は、なんと深いものよのう。」






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「ルー、どうした?」

湯上りのビールが欲しくて台所へ行ったら、カウンターキッチンの向こうに難しい顔をして何か考え込んでいる妹が見えた。
「ルーも飲む?」
もう一本缶ビールを持っていき、妹が座っているテーブルに置いてやった。
「ああ、お兄ちゃん、ありがと。」
2人同時にプルトップを引き開け、黙って缶をコンとぶつけると、ぐびりと飲んだ。

「あー、うま。で、何考え込んでるんだ。難しい子でもいるのか?」
妹は小学校の先生をしている。
「違う違う。そういうことじゃないよ。」
じゃ男か?と聞きかけて、やめておいた。
相談されても面倒くさい。種をまかなければ芽は出まい。

ふう。
ため息をひとつついてから、妹が言った。
「今日、純子ちゃんに会ったのよ、偶然。」
「へぇ。その名前、久しぶりに聞くねぇ。高校の同級生だよな?」
「うん。で、大学も同じとこ行った。」
「そうだった。お前が小免とって、その子は確か…」
「大学院いって、臨床心理士。」
「ああ、思い出した。カウンセラーになったんだっけ。」
「うん。あんまり接点なくなっちゃって、会ってなかったんだ。お互い仕事忙しいし、なんだかきっかけがなかったっていうか。」
「で?今日は何で?」
「研修会があったのよ。そしたらさ、純子ちゃん、講師として来てたの。」
「へぇ。教員研修の講師って、けっこうすごいじゃん。」
「うん。クリニックでカウンセリングもしているけど、少し前からあっちこっちの企業とか学校とかまわって研修講師もしてるらしい。」

どうもわからなかった。
昔の友だちに再会した話と、話している間も頬杖をついて仏頂面をしている理由がつながらない。
「研修終わってから、声かけに行ったらさ、向こうからもあたしが見えてたんだって。懐かしいねぇって盛り上がって、帰る前にちょっとお茶しようってことになったのよ。」
「うんうん。」
「で、今どんな?なんてことを話し始めてみたら、10年ぶりくらいに会ったのに、全然違和感なくてさ、すっごい盛り上がって。サリーズのコーヒー1杯1時間で居酒屋2軒くらい語り合った気がする。」
「よかったじゃないか。」
「それでね…。」

中学校教師なんぞしていると、あ、この次出てくる言葉は大事だぞと、事前に気付けるようになっちまったりする。
この時もそうだ。
もしもここで言葉を飲み込むようなら、ここだけは聞きだしてやらないといけない。
中学生はとくに、そこらへんがぐちゃぐちゃしているから、大人から手を出してやるのが、ホントに大事な時があるんだよな。
ホントは大人も同じだと、自分は思っている。

「それで、散々盛り上がった話が、ふつっと切れたわけ。そしたら純子ちゃん、じゃ、そろそろ帰ろっか、って言うの。で、グラスとかカップとか片づけてさ、店の外に出て、ちょっと歩いた先で『私はあっち。駅は向こうだからね。じゃぁね!』って、手を振ってさっさと帰っちゃったのよ。」

「さっさと、ね。それのどこにひっかかったの?」
勘のいい妹は、勘のいい兄貴の勘にちゃんと気付く。
「ん。ひっかかった。あたしね、実はどこで切り上げて、どういう別れ方したらいいか、分かんなかったんだ。」
「わからん。どういう意味だ?」
「だって、10年ぶりに会ったんだよ?なのに純子ちゃんが、すごくあっさりして見えたんだ。さっきまで盛り上がったのが嘘みたいっていうか。あたしね、なにかこう、もっと再会に感激して見せたり、再会の約束したりしなきゃいけないかな?って感じてた気がする。」
「別に、いいんじゃないの?」
「純子ちゃんも言ったんだ。『今度はご飯行こうね!』って。でも、鈍感な私でも、今のは社交辞令だなってすぐ分かった。」
「気に障ったのか?」
「そうじゃないんだー。その逆。ああ、それでいいんだぁって感じ?」
「?」
「あたしね、自分の人との距離感っていうのかな?それが純子ちゃんに比べると、近すぎるんだなって気付いたんだよね。こう、なんていうのかな、しがみつくみたいな感じっていうのかな。相手の言うことにはまず一応同意してみたり、相手がしてくれたことには大げさなくらい感謝して見せたり、してきたなぁって。」

妹は兄貴に話しているけど、きっと自分と対話している。
自分は黙って聞いてやればいいんだと思う。
「なんでそんなに相手に近づいちゃうのかって、考えたんだ。そしたらさ、依存したいからなんじゃないかって思った。純子ちゃんは人との距離のとり方が巧いんだよね。だから一緒にいて、すごく居心地がいい。それって、こっちに寄りかかろうとしてないけど、目も離していない距離なんだよね。きっと純子ちゃんは、人に頼らなくても自分の足でちゃんと立てる人なんだなってね。そしたら自分が情けないっていうか、不器用だな、ダメだなーって思っちゃってさ。」

「それってさぁ、俺たち兄妹の場合、仕方ないんじゃねぇの?」
「しかたない?何で?」
「ほら、ウチ、親父もおふくろも高校教師だったろ?あのふたりが互いのどこにホレたのか、いまだに謎だよな。性格の不一致が離婚の正当な理由になるなら、あの二人にはそもそも結婚の理由がないくらい性格が違う。勢いか何かで思い切ったんだろうけどさ、準備ができてなかったのさ、家庭ってもんを作っていく準備がさ。」
「あー、確かに。なんか分かる気がする〜。」
「なのに、あっという間に俺が生まれて、育休中にルーができただろ?おふくろはあの性格で子育てに全力投球、新婚の夫はそっちのけだ。で、親父は親父で、それなら俺は部活に燃える!だったから、ウチは強烈な母子家庭だったわけよ。」
「定年退職するまで、お父さんが家にいるのって、なんか違和感出るくらいだったもんねぇ。」
「そのおふくろが、育休終わって復帰した時、俺たち保育園に預けられただろ?で、おふくろも仕事の鬼に戻った。」
「うん。」
「あれってさ、今の経験と知識から考えるとさ、子どもにとってはマジでキツかったと思うんだよ。」
「あ!」
「それまでおふくろが全力で面倒見てくれていたのにさ、ある日突然自立しろって言われてもムリだよな。必死で助けを求めるよ、甘えていた子どもなら、なおさらさ。不安で心細くてさあ、親父もおふくろも無理なら、身近な誰でもいい、俺たちを助けてくれーって、すがりつくよな、当然。」
「そういうことか!」
「俺たちが県立高校の教師にならないで、市立の小学校と中学校を選んだのもさ、そっちに興味があったからって言ってたけど、実はあの二人と同じフィールドでは働きたくないって気持ち、けっこうなかった?」
「うそ、お兄ちゃんもなの?」
「ああ。そうなんだよ。あれってさ、もしかしたらさ、小さい俺たちより仕事を選んだ二人と距離をおきたかったっていうか、ちょっとした意地悪…復讐心っていうか、そんなもんがあったような気がするんだ。」
「なんか、分かるよ。あたしもそうかも。」
「ルー。お前のおかげで、俺も今、分かった気がするよ。」
「え?」
「俺たちさぁ、もうすっかり自立できているのに、あの頃の記憶だけはしっかり握りしめていてさ、必要もないのに誰かにすがりついちゃう癖があるのかもな。俺にも覚えがあるんだよ。お尻に抜け殻くっつけたまま飛んでるセミみたいなもんだな。」
「そっか。そりゃ風当たりが強くて、疲れそうだね。もういらないね。」
「いらないねぇ。」
「ふふふ。ありがと、お兄ちゃん。じゃ、今夜はお互い、脱皮記念日ってことで。」

背筋を起こした妹に、俺はビール缶を突き出した。
「じゃ、お互いの脱皮に、乾杯!」






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「ルー、どうした?」

呼ばれた研究員は、ディスプレイから一瞬目を離して椅子ごと振り返った。
「主任、もうすぐ解析が終わりそうです!来てください!」
「わかった。すぐ行く。リー、報告を続けてくれ。」
「はい。そういうわけで、今のままでは補助金が打ち切られるということのようなんです。」
「なんと愚かな!」
主任は額に手を当てて、大袈裟にのけぞった。

「我々の研究がどれほど人類に貢献するか、理解できないのか!」
「とはいえ、主任。研究成果がこれでは、説得力に欠けるのではないでしょうか。」
リーは思いきって言ってみた。
案の定、直情径行型の主任は目を三角にして食ってかかってきた。

「説得力に欠けるだと?何を言うか。
我々は、わずか10%しか使われていない人間の潜在能力を100%引き出す技術を開発したんだぞ。これがどれだけ人類に貢献するか、子どもにだって分かるだろう。人類の未来を変える、画期的な技術なんだ!」
「それはそうです。我々にしかできなかった研究でもあります。世界がこの研究の成り行きに注目し、実用化を待っています。しかし、です。」

リーは、ここが肝心と、一度言葉を切った。
大切なことを伝える時ほど、力を抜いたほうがよい。
特に主任に話すときはそうだ。
小さく息を吐き出すと、リーは慎重に言葉を選んだ。

「技術としてはほぼ確立されたと言えます。動物実験ではすばらしい結果しか出ませんでした。だからこそ、人間に対してこれを使い、データを取ることが許されたのです。しかしながら、その結果は散々だったではありませんか!」
「むうぅ。」
主任はうなりながら唇を噛んだ。

「全世界の期待を集めた検体Aをお忘れではないでしょう。」
リーは資料を主任の前に差し出した。
「検体Aは、確かに潜在能力を100%発揮できるようになりました。けれど…。」

資料にはこう書かれている。
  検体Aの能力が開発された割合
  ◎食欲30%
  ◎睡眠欲30%
  ◎想像力15%
  ◎性欲10%
  ◎労働意欲5%

主任は苦虫を噛み潰したような表情で、資料から顔をそむけた。

リーは畳みかける。
「検体Aがもともと発揮していた能力は、彼が持っている能力全体の1割程度でした。その1割の半分は労働意欲、後の生活欲求はそれぞれバランスよく保たれていました。社会人として非常に優秀な人材だったため、第1号検体に選ばれたのです。なのに、実験の結果、彼の潜在能力は彼の生活欲求を伸ばすことのみに発揮されました!」

そんなことは分かっていると言わんばかりに、主任は口を開きかけたが、続く言葉を飲みこんだ。
「検体Aは今どうしている?」
「持っているすべての能力を傾けて食べて寝るばかりです。眠ること、夢見ることに集中しているので、奥様は相手にされず、涙涙の暮らしです。彼のすさまじいばかりの食欲に、どうしたらよいかと連日相談を受けています。」
「まあ、Aの一生分の生活費は国庫から支出されるから、奥さんには頑張ってもらうしか…。」
「なにもしなければ、あの夫婦は円満で、奥さんはずっと幸せでした!」
「だが、Aは今の方が幸せなのだろう?」

そうなのだ。
検体Aは、眠って食べてまた眠る暮らしに、心の底からの満足を覚えているらしい。社会性を失ったというのに、これはどういうことか。

「検体Bも、実験前は極めて優秀な小学校教員でした。彼女の授業力ははかりしれず、他府県からも見学者が絶えませんでした。そこで、その能力の更なる開発を期待して、第2号検体に選ばれました。」
「おお。」
「ああ。」 
いつの間にか集まってきた研究員たちの口から、深いため息が漏れた。
それだけ、検体Bがもたらした衝撃は大きかったのだ。

「検体Bも確実に潜在能力を100%活用できるようになりましたが、開発されたのは…。」

リーがめくった資料にはこう書かれていた。

  検体Bの能力が開発された割合
  ◎性欲75%
  ◎労働意欲10%
  ◎社会適応欲7%
  ◎物欲3%

リーの脇から、ラーが口をはさんだ。
「Bはもともと、持っている能力を2割近く発揮している、珍しいタイプでした。我々はそれがバランスよく伸びるものと仮定しておりましたが、伸びたのは、潜在していた性欲だけでした。」
「なんだ、ラーまで!」
「検体Bは、あふれんばかりの性欲を潜在させることによって高い社会性と教育力を示していたと思われます。それが、能力を100%発揮できるようになってみると、何物にも抑えがたい性欲に支配され、もはや仕事など手につかない状態になりました。」
ラーは燃えるような瞳で主任を睨みつけている。

「で、検体Bは今…?」
「あまりにすさまじい性欲で、一般社会に放置するのは危険なのと、別の研究依頼があったため、本人合意のもと、そちらの研究機関で暮らしています。」
「別のとは?」
「検体Bの能力開発に従い、Bの生殖に関わる身体機能も格段に開発されたようなのです。そこで、高い割合でこの機能が発達した場合、人間の女性は何歳まで妊娠・出産が可能なものなのか実証実験することになったと…。」
「なにっ?」
「仮説は、一生可能、というものだそうです。そのため、あちらでは、Bの求めるままに次々と好みの男性を連れてきて、際限なく営みを…。」
「もういい!それでもBは幸せだと言っているのだろう?」
「そう、そこです!」
リーが引き継いだ。

「検体Bも、教師として高い評価を受けていた過去よりはるかに幸福感、充実感があり、しびれるほどの生きている実感を味わっているというのです。社会的には葬られたと言うのに!」
研究室いっぱいに、重い空気が流れた。

「その後の検体CからWまで、どれひとつとして、われわれが期待するようにはなりませんでした。ただひとつ、検体たちが口をそろえて自分は極めて幸せだという点を除いては!」
「ああ、そうだったなぁ。検体Mは全力で酒のことしか考えない人間になってしまったし、検体Rは飽くなき追求心で動物園やら水族館やらを巡って、動物と会話しようとしている。」
「みんな幸せだと口をそろえていうけれど、社会的に極めて有用だった人物をつぎつぎにドロップアウトさせているだけではないかと、疑問の声が強いんだ。」
研究員が視線を交わしながら口々に話しだした。

リーは大事な話をすることにした。 
「突如姿を消した検体Vが見つかったそうです。」
「おお!どこで?」
「某国の反政府組織が拉致したと…。」
「なんだと?」
「Vは身体機能と闘争心が爆発的に開花しましたが、調整力が伴わず、自分の力をコントロールできませんでした。それが、兵士としてはこの上ない存在だということで…。」
「なんてこった!我々はこの技術を決して戦争には使わせないぞ!」
「当然です。今、政府が各国と協力して奪還にかかっているとのことです。」

ずしりと重たい空気が停滞している。
「主任。我々は誤解していたのではないでしょうか。」
リーは身を乗り出し、押さえた声で告げた。

「確かに、我々には豊かな潜在能力があります。
しかしそれは、社会にとって都合がよい、我々が期待したような部分が、均等に隠されているのではないのです。
伸ばしたい部分だけ、都合よく伸びるのでもない。 
それぞれ、ひどくアンバランスに、時には有害でさえある力を蓄えているのではありませんか?
それを、難なくコントロールして社会適応するために、溢れる部分を敢えて潜在させたと考えるべきなのではないでしょうか。
これ以上の実験継続は危険です。
個人の幸福が社会の不幸につながってはなりません!
国が補助を打ち切るのも、当然だと思います!!」

「う、うるさい!」
主任は机を叩いて立ち上がった。
「実験は全人類数から考えれば、砂粒ほどにもならない微数。
まだ始まったばかりだ。
結論を出すのはまだ早い。
ルーが分析している検体Xこそ、我々の求める結果に到達するだろう。
なんといってもXは…」

「主任!解析が終わりました!」
「おお、ルー。できたか。すぐにこちらへ…。」
研究員の大きな輪ができ、ルーの報告を待っている。
「これです。」
ルーは、解析結果を主任に手渡した。
その紙を凝視した主任の口がガクンとだらしなく開いた。
「な、なんと!こ、こ、これは…!」






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