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あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年08月


「ルー、どうした?」

母さんが、夕飯の買い物から帰ってきたようだ。
廊下から居間の畳を踏む音に続いて、レジ袋をそっと置く音もしたから、私は寝がえりを打ったふりをして、枕代わりの座布団に顔を押しつけた。

「ルー?留美子?」
様子は見えなくても、母さんの心配そうな顔が見えるような気がする。
母さんは、私の息が止まっていないことを確かめると、
「なんだ、眠っちゃったの。」
ため息交じりにつぶやいた。

そうして、私の縮れた髪をそっと2度なでて、立ち上がった。
そのままレジ袋を持つと、台所へ行ったようだ。
冷蔵庫をパタンと鳴らすのを聞きながら、私は切なくなった。
子どものころから母さんには隠しごとをしたことがなかった。
その母さんにも話せない秘密を抱えるようになるなんて、思いもしなかった。

母さんは、3年ぶりに突然帰ってきた娘に何も尋ねない。
どうしていた?
東京で何があったの?
仕事はどうした?と、きっと聞きたいに違いない。
けれど、母さんは少し驚いた顔をしただけで、「おかえり」と笑顔になると、バッグを持ってくれただけだった。
家事を手伝うでもなく、散歩にも行かず、こうしてゴロゴロしているというのに、何かしろと言うこともない。
黙って私の好物を作ってくれるばかりだ。
母さんの優しさが骨身にしみる。
何かひとつ言われたら、私は壊れてしまいそうなの。

トントントンとまな板の、リズミカルな音が響き始めた。
母さんが料理を始めたことに安心して、私は座布団から顔をあげ、寝たまま縁側越しの空を見上げた。
入道雲がソフトクリームのように盛り上がり、ミンミン蝉がうるさいほどに合唱している。
ふと、子どもの頃もこうして寝転んで、空を見るのが好きだったことを思い出した。

隣の家から、高校野球の実況がうっすらと聞こえてくる。
そろそろ、決勝かな。
東京に行ってから、思い出しもしなかったことを考えた。
父さんと母さんと3人で、スイカやとうもろこしを食べながら、よく見たものだった。
別に野球が好きなわけでもないのに、なんだかそうやって3人で同じものを食べて、同じものを見て、寛いでいるだけで幸せだったな。
その時は、それが幸せかどうかなんて考えもしなかったけど。

次にスマホが鳴ったら、私はこの家を出る。
そして、彼と、世界のどことも知れない場所へ行く。
行き先は知らない。知っていたとしても、そこに長く留まることはないのだろう。

彼は、人を殺したのだと言う。

彼とは歌舞伎町で出会った。
この田舎町の平和しかない毎日とは無縁な、危険な香りに憧れた私が先に彼を好きになった。
彼には秘密が多い。
でも、しつこく尋ねて嫌われるより、秘密ごと彼を愛そうと思った。
そんな私が彼にとっても、都合がよかったのだろう。
私はいつどこで何をしているのかさっぱり分からない彼と暮らし始めた。

仕事を辞めろとも言われなかったから、表向きは何も変わらなかった。
ただ、親には言うなと口止めされて、彼のことを両親には話していない。
それでも、彼には私が必要で、私が選ばれたのだと思うだけでよかった。
なのに、それが突然崩壊した。

あの夜、土足のまま、家に飛び込んできた彼が怒鳴るように言った。
「すぐにここから出て、どこかに行ってろ。
人を殺してきた。
きっとすぐに手が回る。
必ず迎えに行くから。」
そういうと、有り金すべて握りしめた。

「あたし、実家しか行くとこがない。」
「わかった。連絡するから。」
彼はそのまま飛び出していった。

私も急いで荷物をまとめ、アパートを出た。
途中気をつけてみたがけど、刑事の気配もサイレンも何も追ってはこなかった。
そのまま、今日で3日目になる。
彼からの連絡はまだない。

衝撃の事態に、始めのうちは興奮していたのだと思う。
彼との逃避行に夢すら感じた。
誰をどうして殺してしまったのか知らないが、彼がそうするには、よくよくの理由があったのだろう。
一番苦しんでいるのは彼なのだ。
理解できるのは私だけ。
警察になんか渡すものか。
捜査の裏をかき、守り抜いてあげようと思った。

それが、時間がたつにつれ、私はだんだん切なく、心許なくなってきた。
どうして警察が来ないのか、それも不思議だった。
彼はすでに捕まってしまったのだろうか。
ニュースを見ても、どの事件が彼が起こしたものかさえわからず、彼が逮捕された話もなかった。
私は、混乱した。

「ただいま!」
父さんの声がすると、母さんが台所から走り出てきて、静かにするよう言ったみたいだ。
「そうか。よほど疲れているんだな。そっと寝かせてあげよう。晩飯は?」
父さんの小さな声がまっすぐに届いてくる。
母さんが何か答えたが、聞きとれなかった。
「いいね。ルーの大好物だ。少しは食が進むといいんだが。」
父さんはしみじみとつぶやき、いつものように着替えに行った。

ごめんね、父さん。

そう思った時だった。
私の心に稲妻が走った。
もしも私が殺人犯と逃亡したと知ったら、母さんと父さんはどう思うのだろうか。
こんなに優しく守り育ててくれた2人に、どれほどの痛みと苦しみを与えるだろう。
3日以上も家にいたのに、なぜ話してくれなかったかと傷つくに違いない。
世間からも後ろ指を指されるに決まっている。
ここでは噂はあっという間に広がるから、もう暮らせなくなるかもしれない。

それまで、私は私と彼とのことしか考えていなかった。
そこへ、父さんと母さんが入ってきたら、ほかの人たちも浮かび上がった。
私をかわいがってくれた係長や課長は管理責任とやらを問われるのだろうか。
同僚たちも警察の取り調べを受けたりして、嫌な思いをさせてしまう。
殺人犯をかばって逃げた女を雇っていた会社だと、会社ごと評判を落とすのかな。
学生の頃、家庭教師のバイトで教えた春子ちゃんは、自分が殺人犯と逃げるような女に教わったことをきっと恥じるのだろう。

私は、それ以上横たわっていられなくなり、むくりを身体を起こした。
私一人の判断で、そんなにも多くの人に悲しみと苦痛を与えていいものだろうか。
いいはずがない。
そんなにたくさんの大きな傷、私には償いようがないわ!! 
彼が人を殺したのは、どんな理由があっても間違っている。
間違いをなかったことにするために、優しい大事な人たちを傷つける?
おかしいわ。私が、間違ってる!

彼は、自分の罪と向き合わなくてはならないわ。
そうしないと、一生逃げるだけの生活になっちゃう。
私が彼を警察から守るってことは、彼をいつまでも罪に縛り付けるってことになるじゃない!!
私が今しなくちゃならないことは、待つことでも逃げることでもない。

「母さん!」
私は大きな声で母を呼んだ。
母は驚いた顔で、台所から飛び出してきた。
「ねぇ、母さん。私、お腹すいちゃった。晩ご飯はなに?」
「晩ご飯はね、あなたの大好きなウナギのちらし寿司よ。」
「すごい!ごちそうね。」
「食欲がわくといいと思ってね。」
「ありがとう、母さん。食べたら私、行くところがあるから、ちょっとでかけるね。」
「……大丈夫?」
「ええ。帰ってきたら、いろいろ話したいことがあるの。待っててくれる?」
「もちろん。」
「明日か、もうちょっと後になっても?」
「当り前よ。3年待っていたのよ。3000年だって待つに決まってる。」

どうやら私の「何も知らずに待つ性格」は母さん譲りのようだ。
母さんと同じ気持ちだよというように、ステテコ姿の父さんが私の肩をぽんぽんと叩いた。
「ルー。飯の前に、ちょっと晩酌付き合え。」






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「ルー、どうした?」

突然足を止め、後ろを振り向いたルーにかけた俺の声はあくまで低く、つぶやきよりも小さかった。
が、あいつを跳びあがらせるには十分な威圧感があったようだ。
ヒッとびくついた後、ルーはひどく怯えた声で小さく答えた。
「ご、ごめんなさい。なんだか人影が見えたような気がして。」

「馬鹿なヤツだ。この不動産屋の従業員は社長も入れて5人。
俺以外の4人が全員出ていくのを、その目で確認しただろう。
それでも念には念をいれて午前2時まで待ったんだぞ。
こんな時間に忘れ物を取りに来るやつもいない。
この時間は警備のガードマンも来ない。分かっているんだ。」

本当に馬鹿な女だ。
そう思いながらも、俺はルーの視線の先をじっと見つめた。
やはり、なにも動く気配はない。
ただ暗闇の底から、見慣れたドアとロッカー、机や椅子がぼんやりと浮かんで見えるばかりだ。

こいつ、やっぱりもうブルってやがる。
人がいないと知りながら声をひそめているのは万に一つの用心だ。
それでも十分に、俺の苛立ちは伝わったらしい。
「わかってる。ごめんなさい。でも、やっぱり怖い。
いまならまだ間に合うわ。こんなこと、やめようよ。」

俺は腹の底から、女なんか連れて来るんじゃなかったと後悔した。
キャッツ・アイでも気取ったか、ルーはグラマラスな身体の線を見せつける、ぴったりとした黒の革ジャンと革パンツで、足元は当然、黒のロングブーツだ。
腰まである茶色い髪にはゆるくウェーブがかかっていて、闇の中でも艶がある。
俺を見上げる顔が、窓越しに差し込む街灯の明かりを受けて、片方だけ闇の中に浮かび上がった。
白くて小さい、整った顔だ。
顔と体がいい女は馬鹿だと聞いたことがあるが、こいつはその通りの女だ。

「お前、もう恨みを忘れたのか。
あんな男、殺してやりたいと言い出したのはお前だろう。
散々おもちゃにされて、ゴミみたいに捨てられたところを拾ってやった俺の言うことが聞けないのか?」
「聞くよ!聞くけど、怖いんだもん。」

社長の南原は本当に、殺しても飽き足りないやつだ。
自分勝手で傲慢で、俺たち従業員のことなど虫けら以下だと思っている。
不動産業は素人には分かりにくい商売だ。
それをいいことに、素人さん相手にどれだけボッタクっているか。
それだけではない。 
表向きは地元の名士だとか言われているが、裏では、政治家と暴力団を密かにつなぐパイプ役をしているのを俺は知っている。
当然、カネと利権のためだ。

「いいか、ルー、よく聞け。
殺してもいいようなところを、カネで許してやろうっていうんだ。
お前だって慰謝料くらいもらって当然だろ?
俺は南原の弱みを握っているんだ。
警察に言えば、南原だけじゃない、ヤツの後ろで甘い汁をすすってるやつらも全部オダブツなんだよ。
それを黙ってカネで許してやろうっていうのに、南原の野郎、値切ってきやがったんだぜ。」

社長社長とこびへつらっていた相手を呼び捨てにするのは爽快だ。
暴力団とのつながりがサツにばれそうになったとき、南原は俺一人が暴力団とつながっていたことにしやがった。
確証を持っていなかったサツに、善人面して一部を認めて見せ、社員が勝手にやったことだと、俺に一切合財なすりつけ、売りやがった。
今までいいように使ってきた挙句がこれか。
ぼやぼやしていたら逮捕されちまう。
つかまったら南原の野郎のことをぶちまけてやるだけだが、どうせなら、その前に高飛びしてやる。 
なのに、ヤツは金を出し渋った。 

「それって、その弱みっていうのが、ほんとは大したことないからじゃないの?」
ルーは天然ボケの頭で案外鋭いことを言ったつもりのようだ。
大発見をした子どものようなドヤ顔で聞いてきた。
「あいつらの金の動きを記録したファイルを持っているんだよ。
大したものに決まってるじゃねぇか。」
「すごい!どうして今まで教えてくれなかったの?」
「こんな秘密、誰にも言うわけないだろ。」
「そのファイル、どこにあるか、教えて。」
ルーがすり寄ってきた。
豊満な胸を俺の腕に押しつけるようにして、耳ではなく、俺の首筋に唇を寄せて話しかける。
こいつの息は、甘い香りがする。 

「あんたは、あたしのこと捨てないよね?」
「ああ。俺はあのジジイとは違う。」
「ほんと?信じていい?」
「うるさい。何度も言わせるな。」
「じゃ、証拠を見せて。」
「証拠?」
「あんたの大事な秘密、あたしに教えて。そうしたら、あたし、あんたのこと今よりもっと信用できるし、安心できるから。ね?いいでしょう?」

俺は考えた。
金庫のありかは当然知っているが、複雑なダイヤルの動かし方を知っているのは、社長秘書という名の愛人だったルーの方だ。
紙に書けと言ったが、実際にダイヤルに触れないと思い出せないと言う。
南原がこいつに溺れて飽きて捨て、こいつが5年も勤めた会社を辞めたのはひと月前だ。
毎日触っていないと、たったひと月で忘れるこいつの頭の悪さはどうだ。
しかし、今はこいつの手に頼るしかない。

「わかった。教えてやるよ。」
「ほんと?その証拠のファイル、どこにあるの?」
「お前の家の、でっかいスヌーピーの腹の中だよ。」
「そんなところに!」
「俺とお前の関係を知っている奴はいないから、一番安全な場所だよ。
誰も絶対に気付かねぇよ。」
「そうだね!あんた、すごいよ。」
「わかったら、とっとと先に進むんだ。」

腕に当たる柔らかな感覚は悪くなかったが、時間をかけてもいられない。
俺はルーを金庫の部屋へ押し込んだ。
ルーは少し足をもつれさせたのか、よろけるように金庫の前にしゃがんだ。
「見えるか?」
「うん。大丈夫だから、その明り消して。誰かに気づかれたら…。」

俺はルーの言うとおりに、ダイヤルを照らしていたペンライトを消した。
この部屋には小さな天窓があるだけだ。
書類棚の奥に、でかい金庫が置いてあった。
暗闇の中でジリジリと音を立てながら、ルーがダイヤルを回している。
こんな暗がりの中で、数字を見なくても、感触で分かるのか? 
隙間をあけておいたドアから漏れる明かりだけを頼りに、俺はルーの背中を凝視した。
いくつかめのジリリの後に、ピン!と金属がはじける音がした気がした。
「開いたっ」
とつぶやくと、ルーがギシリギシリと金庫の扉を動かした。

俺はつかつかと金庫に近づき、まだしゃがんだままのルーの肩を引っ張って、後ろに立たせた。
ペンライトをつけ、金庫の扉を思い切り開き、中を照らす。
驚くことに、金庫の中は札束で隙間なく埋まっていた。
1億か、2億か…。
札束を思い切り握りしめてみると、全身がビリビリと痺れた。
南原の馬鹿野郎、まさか俺にここまでの力があるとは思ってもいないだろう。
ああ、いい気分だぜ。

「ルー、やったぞ。ボストンを持ってこい。
ありったけ詰め込んで、うっ!」

背中を貫く鋭い衝撃で、全身がひきつった。
思わずのけぞった時、真後ろにいたルーの手が見えた。
まっすぐ突き出されたその手には、オレンジ色の火花が散るスタンガンが握られていた。
「て、てめ…」
次の衝撃は、首筋に来た。

床にあおむけに倒れた俺の意識が遠のいていく。
それでも気を失わなかったのは、カツカツカツと革靴の音がして、部屋の明かりが灯ったからだ。
「パパァ!やったわよ。これでいい?」
「ああ、いい娘だ。ご褒美に、お前の欲しいものを何でも買ってやろう。」
「ありがと、パパ。証拠のファイルはうちにあるんだって。」
「ああ、聞いていたよ。」
「馬鹿な男。
私がパパから捨てられたなんて嘘、ちょっと泣いて見せたらすぐに信じ込んでさ。
強盗までやる気になっちゃうんだもん。
大事な秘密、ペラペラしゃべっちゃって。」
「後は金を運び出して、こいつが盗んだように細工するだけだ。
いい女にも、大人の付き合いにも、金がかかるもんだからね。
税金のかからない金にしておくのが、使い道も豊富ってことだ。
サツに余計なことをしゃべられても困るしな。一石二鳥というやつだ。 
さ、若い者を呼んでおいで。」
南原に形のよい尻をひと撫でされると、ルーは悠々と出て行った。

ルーを見送った南原が俺を見下ろし、革靴で俺の肩をギシリと踏みつけた。
最後の意識が途切れる間際、南原の声がこう言った。
「馬鹿に見せられる女ほど、怖いものはないねぇ。」






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「ルー、どうした?」

クエスチョンかい?
ノー プロブレム!
アイ アム オッケーさ。

「なんだよ、それ?」

オー ベイビー!
わからないかい?
これがミーのニュー テイストさ。

「いい加減にしろよっ」

おいおい、アングリーかい?
落ちつけよ、フィーリン グッドでいこうじゃないか。
そんなにアイ・ホエールをスタンディングさせるなよ。

「普通にしゃべれよっ」

ノー、ノー!
ノーマル トークで 結局ウィーはどうなった?
ノー・人気、ノー・ワーク、ノー・マネー。
もう家賃どころか、食費もないんだぞ。
今週のディナーはずっと、シュガーとソルトだけだった。
これぞほんとのノーマル、ノー・○だ。
俺たち、いま、○つけられることはナッシングだぜぇ。

「だからって何だよっ」

ノー・マネーな俺たちなら、ノー・真似でいこうぜ。
誰もやらないことやって、目立ってやろうぜ、ベイビー。
イングリッシュまじりのクールでクレイジーなトーク、
誰も真似できないぜぇ。

「うるせぇ。からみにくいんだよ!」

いじってくれりゃいいんだよ。
お笑いなんて、どこにツボがあるか分かりゃしない。
やってみたモン勝ちだと思わないか?

「そこには英語が入らねぇのかよ?ツボはカタカナで言っても日本語だっ」

うっ、ア リトル ディフィカウトだっただけさ。
いっそユーもイングリッシュでレッツ トゥギャザー!
ワンかエイトかやるだけさ。
崖っぷちだろ、ウィー?

「は?鬱陶しいんだよ。俺は降りる。勝手にやれ!」

ウエイト、ウエイト!
プリーズ行かないでくれ。
ユーがいないとミーは、ハンドもフットも出なくなる。
ピンなんて無理だよぉ!
相棒じゃないか!

…相棒って、英語でなんて言うんだろう…あい、ぼう、アイ、ボウ?
わかった!
カムバーック!マイ ラブ・スティックゥ〜!

ユーがいないと、ミーは…ああ、行っちまった。
 
これでミーのヒップにファイヤーだぜ。







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「ルー、どうした?」

朝っぱらから暑苦しい日だった。
いつものように、時間もこちらの都合もお構いなしにやってきたくせに、そのまま立ちつくしているお前に、俺は思わず尋ねた。
明らかに、顔が青ざめている。

「おい、座るとかしゃべるとか、しろよ。」
返事がないのでしかたなく、俺は放っておくことにした。

ルーと呼べば3回に1回は、その呼び方はやめろと言い返すくせに、今日はそれもなしか。
こいつの名前は龍一という。
ガキの頃からの隣同士。幼馴染の気安さで、省略して「リュウ」と呼ぶ。
こいつの親がそう呼ぶくらいだから、まあいいだろう。

いつだったか、ふいに口が回らず、「リュウ」が「ルー」になった。
なんだかいい響きで気に入った。
以来、こいつは俺の「ルー」だ。
こいつは結構人気者だが、こいつをルーと呼ぶのは俺だけだ。

「どうしたんだよ。」
こいつと俺の付き合いは、生まれてこの方、もう29年になる。
いろんなことがあるたびに、こいつのツラを見てきた。
が、こんな様子は滅多にない。

ちょっと気味が悪くなって、俺は大股でルーに近づき、強引に座らせようとした。
デカい男が部屋の入口に突っ立っていては暑苦しいからだ。
すると、どういうわけか、反抗的に手を振り払いやがった。
「てめぇ…」
「朝子が、嫁に行く。」

「朝子が?そうか、めでたいじゃないか。おめでとう。」
「何がめでたいもんか!」
さっきは座れと言っても座らなかったくせに、ドスンと音を立てて、今度は勝手に座った。
「朝子はお前の5つ下だから、24だろ?適齢期ってやつだ。妹が嫁に行くのがめでたくないのか?」
俺はこいつの気持ちを知りながら、わざとらしく言ってやった。

「24だぞ。まだ若すぎるだろ。」
勝手なことを言いやがる。
「で?相手はどんな男だ。」
「慶応大学経済学部出身の青二才だよ。」
「青二才?若いのか?」
「27だとよ。」
なんだ、2コ下なだけじゃないか。
だったら俺らも青二才かよ。

「くねくねしやがって、論理的思考のカケラも感じないアホだ。」
ルーは決めつけるが、アホは慶応に入れないから、こいつの目が曇っているのだ。
「あんなやつが、朝子と一緒に、ふたりだけで暮らすんだぞ。」
「そらそうだろ、結婚するんだから。新婚が今から親と同居?ありえねぇよ。」

俺は、知っている。
でも、こいつの口からは聞きたくない。
「あんなやつが、俺の大事な妹と?あんなこと…とか、こんなこと…とか、するんだぞ!許せるかぁ!」
「アホか。それは親父さんが考えることだろうがよ。兄貴が言ってどうするよ。」
「うっ…。」

口ごもったルーは、俺が一番聞きたくなかったことを、とうとう白状した。
「好きなんだよ、朝子が。」

俺は頭ごなしに言い返した。
「馬鹿。お前、朝子は妹だぞ。」
「分かってるよ!そんなの、お前に言われなくても分かってる。
だから、諦めようとしたさ。
高校の時にはもう、どうしようもなくなってたから、めちゃめちゃ勉強したし、剣道部にも入ってさ。 
雑念を振り払おうと、打ち込んでもみたさ。
でも、だめなんだよ。

お前、なんで俺が剣道部を選んだか、知ってっか?」
俺が剣道をやっていたからだと思っていたが…違うのか?
「頭をさぁ、竹刀でバカスカ叩かれてるうちに、忘れるんじゃねぇかと思ったんだよ。
健気だよなぁ、俺。」
どついてやろうかと思った。

「研究所に入ってからも、わざと家に帰らず実験に集中して、留学もして、いろんな女性に出会いもしてさ。」
いろんな女性ったって、お前、俺は知ってる。
お前の周りにいたのは、色気もなにもない”リケジョ”と、モルモットのメスくらいだ。
お前の実験はモルモットを殺さない。
俺は、お前のそういうところが…。いや、それはいい。

「でも、だめだったよ。
他の女に興味はない。朝子ぉ!」
俺は、ガツンと言ってやることにした。
「お前、本気で朝子のことを思っているんだったら、テメーの下心より、あいつの幸せを優先してやれ!」
「あいつの、幸せ?」
「そうだよ。自慢のお兄ちゃんが、実は妹に恋をしたしょーもないヤツだとバレてみろ。どんなに悲しみ、苦しむと思う?そんな思いをさせていいのかよ!」
「いや…。」
「好きなものを嫌いになれとは言わねぇ。
けどな、世の中には、どうしようもならないこともあるんだよ。
てめぇひとりの満足のために、人を犠牲にするな。
朝子は嫁に行く。これは、現実だ。
現実と、向き合え!」

ルーはとうとう黙ってしまった。
でも、帰る気はないらしい。

ルーよ。
俺が今、どれほど嬉しいか、お前は知らないだろう。
お前と俺はいま、とんでもない秘密を共有した。
お前の苦しみを、支えてやれるのは俺だけだ。
俺は、それでいい。

馬鹿野郎、泣き出したか?
ほんとに、しょうもない奴だ。
抱きしめてやりたくなって、俺は…。









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「ルー、どうした?」
君の声が聞こえる。
「ねえ、どうしたのよ。」
かなり、慌てているね。パタパタとスリッパの音が近づいてきた。
「さっきまで元気にテレビ見てたじゃない?なに?大丈夫?」

そうだった。
どこかの温泉にサルが何匹も入っているところを見ていたのだった。
今度冬が来たら、君と行ってみたいなと思ったりしていた。 
そうしたら、急に胸のあたりが苦しくなって、息ができなくなったのだ。
君を呼ぼうとしたけれど、声が出なかった。
いとおしい君の背中が視界の中でだんだんぼやけて、とうとう見えなくなった。
今はもう、目をあけることもできない。

「ルーってば!」
君の手が、僕の背中をさする。
それから、僕の鼻のあたりに耳を寄せてきた。
僕は不意に自由になって、そんな君の姿を天井から見下ろした。
君の白い手の中に、ぐったりと頬を埋めているのは僕に違いない。
そうか、僕は、死んでしまったのか。

「ルー、ルー!息をしていないじゃない!なに?どうして!?きゃーっ!!」
君の悲痛な叫び声が部屋いっぱいに響く。
ごめんよ。そんなに悲しませて。
君は体ごと僕を抱きしめ、ボロボロと涙をこぼしている。
ああ、これ、心臓マッサージだね。
痛いなぁ。
骨が砕けてしまいそうだ。
頼むから、諦めて。もう、僕は戻れない。 
ごめん。ほんとうに、ごめん。

ずっと長く君を支えていくつもりでいたんだよ。
君ときたら不器用で、あちらこちらで辛い目に遭うから、僕が君の心の支えになってやらなくちゃって思っていた。
まさか、こんなに早く、こんなに突然、君と別れる日がくるなんて思いもしなかったんだよ。

君が泣きながらケータイを掴んだ。
どこにかける?まさか救急車じゃないだろうね。
違うらしい。よかった!
 
なら、理奈ちゃんだろうか。
まだ朝早いよ。理奈ちゃんはバイトが遅いから、寝ている時間だよ。
迷惑かけちゃだめだよって僕の声は、君にはもう届かないんだね。
ほら、やっぱり出ない。
いいんだ。それでいい。 
もう一回かけようなんて、思っちゃだめだよ。
どのみち、僕はもう生き返らない。 

君とは何年こうして暮らしたのだろう。
君は本当に僕を愛してくれたね。
僕は、君の笑顔も泣き顔も、怒った顔まで好きでした。
それから、寝顔のかわいいこと!
きっと君の心が純真だから、いつもあんなかわいい顔をして眠るんだろうね。

君の細くて白い指も、黒くて長い髪も、本当に好きだった。
君と一緒に食べるご飯のおいしさにくらべたら、ひとりで食べるご飯なんか、食べなくてもいいと思ったくらいだったんだ。
君はいつも、なんでも僕に話してくれた。
僕がどれほど嬉しかったか、君はちゃんと分かってた?

僕は自信を持って言えるよ。
君がどんなに僕を好きでも、僕が君を愛する気持ちの大きさに比べたら、きっと煮干しとクジラくらいに違う。 
だけど、君の思いが煮干しなら、僕は煮干しも大好きだ。 

君は男運がないくせに移り気だから、好きになるヤツはどれもろくな男じゃなかった。
結局いつも辛い思いをして、君は僕の元へ帰ってきたね。
どうして僕だけのものになってくれないのか、僕がどれほど寂しかったかなんて気にもかけないで。
でも、君を僕以上に幸せにしてくれる男がいるなら、でしゃばっちゃいけないと自制していたんだ。
それでもどうしても気に入らないヤツの時は、こっそり嫌がらせもしたんだけどね。

もう、立ち上がる気力もなくしてしまったんだね。
お願いだから、そんなに悲しまないで。
簡単に気持ちを切り替えられても、それはそれで寂しいけれどさ、そんなに悲しまれると、先に死んだ自分が許せなくなる。

またケータイ?
今度はどこにかけるの?
「総務部をお願いします。」
あ、会社か。
おいおい、大丈夫か?
僕のことは、決して、決して言ってはいけないよ。

「申し訳ありません。今日はお休みさせてください。すみません。」
そんな泣き声で言ったら、相手がびっくりするだろう?
いいかい?理由を聞かれたら、体調が悪いって言うんだよ。
間違っても僕のことを言ってはいけない。
そんなことをしたら、信用をなくすどころか、職を失うよ!
「すみません。今日は、無理です。ルーが…」
ほら、だめだと言ったろう!黙れ、もう言うな!

「ルーが死んでしまったんです。ルーがぁ!」
ああ、なんてことを。
「な、そんな。そんなひどいこと、言わないでください!」
ひどくないよ。
相手が言うほうが常識と言うものだ。
僕のことはいいから、どうか…

「ルーはペットじゃありません!猫だけど、猫だけど、私のたったひとりの家族なんです!」

ああ、とうとう言ってしまったね。
しかも、それだけ言って、電話を切ってしまうなんて。
大変なことになってしまった。
どうしよう。 
クビにならないまでも、次に出社したら、君はきっと白い目で見られてしまう。
また辛くなる。
そうして、また泣くんだね。
その時、君はいったい誰に泣き言を言うんだろう。
僕がいなくなったこの部屋で、ひとりで膝を抱えて、ひとりで泣くの? 

やっぱり、君をおいて先に逝くなんてできないよ。
心配で、心配で、たまらない。
君はこれから誰を抱いて愚痴をこぼすの?どこでほっと一息つくの?
僕がいなくちゃ、君はどうにかなってしまうだろう。

だから、決めたよ。
僕はこの部屋で、ずっとこのまま、君をずっと、ずうっと見守っている。

ルー


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Hikari的大連載が終わったところで、7月の読書記録を。
2014年7月に読んだ本は3冊でした。
引き続き、アドラー心理学の勉強を続けています。
とにかく、文章が難解。
ひとこと一文字を追わなくてはならず、時間がかかります。

『珈琲屋の人々』は、評判の良いドラマを先に見て、原作に手を伸ばしました。
私の個人的な感想だと思いますが、かつては、どんなストーリーであっても、映像より原作の方が確実に面白いと思っていました。
が、最近は、映像の方がよくできていたなぁと思うことが増えています。
このドラマも、主演の高橋克典さんと木村多江さんとが、声を張らずにボソボソと会話する、あの話し方があって初めて、このストーリーが生きると思うのです。
また、原作の、やけに言い訳がましい、ちょっといい加減にしなさいよ!というところが、ドラマではすっぱりと整理されていたりします。だから、よけに展開が面白くなるような…。
演出技術がどんどん向上しているということでしょうか。
または、優れた原作だからこそ、多くの職人の手を経て磨かれれば、さらに輝きを増すということでしょうか。



Hikariの読書記録 - 2014年07月 (3作品)
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昨日で、1年以上にわたって連載してきた小説『生きるのに必要なことは全部サッカーが教えてくれた』を完了しました。
長いことお読みいただき、本当にありがとうございました。

話があちらこちらへ行き、必要以上に書き込んでしまったところも、ええい!いいやと飛ばしたところもあると自覚していたので、読んでくださっていた方にとってはどう見えているのだろうと、ずっと気がかりでした。

あれは、昨年の春、出勤のバスが渋滞にはまり、なかなか進まなくてそわそわしていた時のことでした。
異動してまだ日が浅く、その渋滞がどれほど深刻なものか分からなくて、遅刻しないようずい分早く家を出ていたものの、どうにも落ち着きません。
けれど、私がいかに焦ってみたところで渋滞が解消することはないし、バスが空を飛ぶこともありません。
ここは落ち着くのが肝要と、自分に言い聞かせました。 
運よく座席に座っていたので、目立たないように深呼吸した後、目を閉じました。
すると、唐突に、ある風景が浮かびました。

芝のキレイなサッカー場、試合後のヒーローインタビューに呼ばれた選手が、突然のプロポーズをしています。
プロポーズを受けた女性はと見れば、なんと子どもを連れている。
隠し子だったんですね。
いったい、何が起きたのかとキョロキョロしている私は観客席に座っています。
周囲の人々は、目の前で起きたものすごいサプライズに右往左往。
陽炎が立つほどに湧きたっています。
雑然とした騒音、ビールやタコ焼き、焼きそばのにおい、選手たちの汗に濡れて肌に張り付いたユニフォーム、固くて小さな椅子に長く座ったせいか、ちょっと腰が痛い感じ…。
ふと振り返ると、ガラス張りのVIP席から見下ろしている人の姿が見えます。
不思議とそれが、小さな女の子に見えました。
私は思いました。
高くて遮るものがないから、一部始終が全部丸ごと見えるのでしょうね。
安全で、快適で、居心地がよいことでしょう。
でも、そこにはないものが、こっちにはあるのよ。
あなたもこっちに来て、タコ焼き一緒に食べない?
ピッチでは、先ほどプロポーズに成功した選手が、サッカーについて素晴らしいことを語っています。
ガラスの向こうの少女は考えています。
この選手を、いつか私のチームに呼ぶわ!決めたっ!!

ふと我に返って目を開けると、まだバスはいくらも進んでいません。
そのとき見上げた看板まで覚えています。
自分でも不思議なほど唐突で、脈絡のない空想でした。
でも、空想と忘れるには、あまりに印象的な映像でした。
バスがやっと目当てのバス停にたどり着くまでの間に、これを題材に書こうと決めていました。
つまり、この小説は、320話のうち、318回目から320回目までのエピソードからスタートしたのです。

1年間抱き続けたその時の映像を、とうとう書きだすことができた時の喜びは、例えようがありませんでした。
あまりの忙しさに、途中何度か連載をやめようかと思ったこともあったのですが、続けてよかったと本気で思いました。
いくつか書いてきましたが、これほど書ききった!と感じたのも初めてです。

予定より長くなりすぎ、連載ペースも落ちたことから、ワールドカップブラジル大会前に終わる予定は大幅にずれて、夏のサッカー・インターハイ決勝まで終わってしまいました。
それでも、海外リーグ戦は続き、日本代表には新しい監督がやってきて、話題に事欠きませんね。

今回の登場人物たちには、本当に愛着を持っています。
できればそのうち、スピンオフドラマを書きたいです。
また何か、着想が降ってくるのをお楽しみに!

皆さまのご愛読に心から感謝します!
それでは、みなさんご一緒に…かんぱ〜い!カンパイ!






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「先生、私、決めました。
大きな夢を持ちます。その夢も、もう決めました。」
小学1年の聡明な少女は、目をダイヤモンドのように輝かせている。
白桃のように染めた頬は、この少女の真剣な思いを言葉と一緒になって伝えようとしている。

「どんな夢ですか?」
花恋の期待する通りの問いかけをして、スミレは答えを待った。
花恋は手すりを離し、スミレの方を向くと、凛と立って答えた。

「大おばあさまは、お仕事に夢中になりすぎて、幸せな家庭を作れなかったとおっしゃるの。
花亜おばさまは、本当はとてもお仕事の才能がおありだったのに、仕事も家もお捨てになって、目の前の幸せだけを選ばれたわ。
それを知っている母は、父に頼まれたこと以外は会社のことはせず、家庭のことだけが自分の役割と思っているみたい。 
松重に生まれた女の人は、みんななんだかうまくいっていない気がするんです。
それで私、どうするのがいいのかな?ってずっと考えていました。
弟が生まれることになって、別に私が跡を継がなくてもよくなったし。
私、自由だなぁ、なんでもできるなぁって。
けど、なんでもできると、何していいかわからなくて。

でも、先生、今日わかりました。
私は、誰とも違って、今までおばさまたちがなさってきたことよりひとつ、多くを望んで努力しようと決めました。
会社のこともできるようになって、でも、 すっごく幸せな家庭も持って、子どもも育てます!」

「ええ。花恋さんならできますよ、きっと!」
この小さなレディは、間違いなく、今の言葉を実現するのだろう。
スミレは確信した。
「それでね、先生。 私、松重にプロサッカーチームを作ります!
それで、私のチームに滝沢選手に来てもらいます!
だって、サッカーと滝沢選手が本当に好きになったのですもの!」
今度はスミレが、花恋に近づいて、彼女を抱きしめた。

お帰りの時間ですよと花恋を呼びに来た安住に誘われて、スミレも一緒に帰ることにした。
もう少し、誰かと一緒にいたかった。
誰か?
違う。この人たちと一緒にいたいのだわ。

花恋をリムジンに乗せてから、スミレも乗せようとした安住が、小さく言った。
「スミレさん、私も今夜は本当に感動しました。
私も、今からでも遅くない、夢を持とうと本気で思いましてね。
さしあたり、滝沢選手にあやかって、お嫁さんを探そうかと思います。」

スミレは、気のきいた答えをして、安住を笑わせたくなった。
「安住さん、私、あなたと結婚するような気がします。」
自分の口を突いて出た言葉の意味を理解するのに時間がかかったが、安住が目を丸くしている間にわかってしまい、頭を抱えた。
「あ、いえ、そういうわけでは…きゃー!」
安住が爆笑している。
素敵な笑顔だ。
たまらなく恥ずかしいことをしてしまったが、どうやら安住を笑わせたいという目論見だけは成功したようだった。



ワールドカップ本大会が終わって、3ヶ月が過ぎた。
身体ごと融けてしまうのではないかと思った猛暑も今は思い出になるほど、爽やかな涼風が吹いている。 

「いいかい、みんな。ボールは足のここで蹴るんだ。
でも、蹴るのと同じくらい、転がってきたボールをピタッと止めることが大事なんだよ。
やってみるからね。よく見ててね。スミレ先生!パス出して!」

1年生2クラスの合同体育に、滝沢健太が出張授業に来てくれている。
大学までサッカー漬けで過ごしたスミレは、滝沢のパートナーとして、模範を見せるのにはもってこいだ。
子どもたちは、有名選手と担任との意外なコラボに狂喜乱舞している。

「さ、わかったかな?じゃ、やってみて!」
滝沢が言うと、子どもたちはボールを蹴りながら校庭に散らばっていった。 
「滝沢さん、大丈夫ですか?痛みませんか?」
スミレは心底心配だった。
「ええ。まだリハビリ中なので、思い切り走ったり蹴ることはできないけど、痛みはありませんから、心配しないで。」
「そうですか?ならいいけど、絶対無理はしないでくださいね。」
「大丈夫ですよ。俺もサッカー教室で人生棒に振る気はないし。それに、今日は久しぶりにいい気分ですよ。やっぱり、ボールに触っていると、気持ちが違ってくる。」

日本代表の惨敗は、初戦で滝沢が敵の激しいファウルプレーを受け、腰を痛めたのがきっかけだったと言わざるを得ない。
担架でピッチから運び出され、そのまま病院に向かったと聞いた時は、体中が震えるほどの恐怖を覚えた。
学校の体育館をパブリックビューイングにして、スミレたちと一緒に見ていた霧島親子は声をあげて泣き出したほどだった。

滝沢の怪我は深刻なものだったが、彼は少しも深刻にならなかった。
連日報道される談話は、彼の精神がいかに強いかを物語っていた。
「怪我で戦線離脱したのは悔しいし、応援して下さったみなさんには、期待に応えることができず、本当に申し訳ないと思っています。
でも、俺はこれから新婚になる身ですからね。
妻の温かい看病を受けながら、息子を急に転校させることもなく、親子水入らず、大好きな日本でゆっくり過ごすチャンスをもらったと思っています。
この怪我がなかったら、ハネムーンも1週間が限度ですからね。
ツイてますよ!」

一時は選手生命が終わるかと言われた滝沢だが、日本で治療に専念した結果、順調に回復し、あと少しで練習にも復帰できるというところまできている。
霧島親子…すでに入籍したので、滝沢親子と呼ぶべきか…もともに、ドイツへ旅立つ日が近づいている。
そこで、滝沢選手の提案で、体育の授業でサッカーをする時、ゲストとして彼を迎えることにしたのだ。
プロ選手のこういった地道な貢献はけっこう真剣なものだと聞いていたが、Team Takizawaの面々も一緒に来るし、校長の許可をもらったいくつかの報道機関もやってきて、盛大なものになった。

「パパ!スミレ先生!!」
ジュン君が駆けてきた。
手をつないでいるのはヒデ君だ。
1学期初めの頃、いろいろうまくいかなくて、スミレをさんざん悩ませたヒデ君は、少しずつ問題行動が減って、今ではすっかり落ち着いている。
「パパとヒデ君と3人で練習してもいい?」
ジュン君の願いを聞き入れ、スミレは3人を送り出した。

少し離れたところでは、花恋がサッカーボールを抱えたまま、Team Takizawaのスタッフと話しこんでいる。
「あの松重財閥のお嬢さんですか!これはこれは。
はい、私がエージェントといって、滝沢の契約その他を取り仕切っています。
それが、何か?」
「例えば、今の契約が切れた後にですね、滝沢選手と契約を結びたいと考えたら、どんな準備をしておけばよいのか、教えてくださるかしら?契約金の想定はいかほど?」
「は?」

グラウンドの周囲には、滝沢を一目見ようと、1年生だけでなく、学校中の保護者…9割9分が母親だが…が取り巻いて、コソコソ話してはキャーッと歓声をあげている。
そのなかからひとりが、スミレに近づいてきた。

「お母さん、ヒデ君、見てください。あんなにいい顔で笑ってる!」
スミレがいうと、ヒデ君のおかあさんが嬉しげに答えた。
「先生のおかげです。ヒデを追い詰めていたのは私だったのに、先生は私の話を親身になって聞いてくれて、私に大事なことをいくつも気付かせてくれました。私、あれから考え方を変えて、夫とも姑とも、いろいろ話し合っています。すぐにはうまくいかないこともあるけど…ヒデは変わったわ。ありがとう、先生。」
そういうとお母さんは照れくさそうに、ヒデ君の方に近づいて行った。

「やったじゃない、スミレ先生!」
チヨコが聞いていたようだ。
「私も逃げない、ヒデ君とお母さんのこと、しっかりと向き合ってみるって、宣言したもんね。望みがかなったね。」
「ありがと、チョコちゃん。でもね、私、この仕事…。」
何か言いかけたスミレを、子どもたちが呼んでる。
「何?」
「ううん。なんでもない。行ってくるね!」

先生!こっちこっち!!
小さな手がスミレを招いている。
今、目の前のことに一生懸命になろう。
スミレは思い切り駈け出した。

抜けるような青空の下、子どもたちの無邪気な歓声と白と黒のたくさんのボールが、校庭を楽しげに跳ねまわっていた。


おわり







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重たい扉を開けてロイヤルボックスに入ってみると、快適に空調が効いていて、いつの間にか汗ばんだ肌に乾いた空気が心地よく感じる。
見回すまでもなく、興奮した面持ちの花恋が待っていた。
「スミレ先生!」
スミレに気付くと駆け寄ってきて、腰のあたりに抱きついた。
「花恋さん?」
驚いて見下ろすスミレに、安住が微笑みながら近づいてきた。

「では、こちらは先に失礼します。」
不意に離れたところから声がかかり、安住は身体の向きを変え、そちらへ歩いていく。
何事か囁き合うと、先方を見送るかたちになった。
「花恋ちゃん、またね!」
見るからに武道をたしなみそうな体格の男性集団に囲まれた少年が、軽く手を振った。
場違いなスーツ姿の男性たちは、かっちり着こんだ上着の前を開け、一様に小さなイヤホンをして、あちらこちらに鋭く目配りをしている。

「またね!」
花恋はスミレに抱きついたまま手を振る。

「あの子、どこかで見たような気が…。」
スミレがつぶやくと、花恋が、ああ、そんなこと?といった調子で教えてくれた。
「ヒサヒト君のこと?観たいとおっしゃるからご招待したの。小さい時からお友達。今日はお忍びだから先生も内緒にしてね。」
ヒサヒト君て…あの、皇位継承権第3位の親王のことか??
そういえば、テレビで見たような気がしてきた。
オトモダチなのね…と、またまた別世界を覗いた気がしてくらくらしていると、
「それより、スミレ先生!私、感激しました。」
と、花恋が現実に引き戻してくれた。

「はい。感動しましたね。ジュン君、私たちのお隣に座っていたんですよ。見えていましたか?」
「見えていました。滝沢選手のお話も、本当に感動しました。」
スミレも深く頷くと、花恋は嬉しそうに、さらに力を入れてしがみついてきた。
「先生、あのね、試合の前に、谷川さんがこちらに来て、お話しをしてくれたの。」
谷川さんとは、ゴールキーパーのことにちがいない。
選手を代表してVIPに挨拶に来たのだろう。

「その時に私、お聞きしたの。どうして日本代表は最近強くなったのですかって。」
「まぁ!」
なんと聞きにくいことを堂々と!
「そうしたら、谷川さんが教えてくださいましたの。
滝沢が、チームを変えてくれたのですって。
私、また聞いたの。どうやって?って。」
「ええ、どうしたのですって?」

花恋から聞いたことから察するに、滝沢が仲間たちに伝えたのはこういうことのようだった。

今できること、大事だと思っていることが、それぞれ違っているのは当然だ。
みんな違う環境、違うポジションで、違うことを考えてきたのだから。
でも、いつまでも、それぞれが今信じていることだけをぶつけ合っても、気持ちは一致しないし、チームも強くならない。
では、どうしたらいいのか。

あとひとつ、新しいことができないだろうか。
チームを強くし、勝利を確実に手にするために、それぞれがあとひとつずつ、今までしてこなかったことをやってみるのはどうだろう。
俺たちは何万といるサッカー選手の頂点に立ち、その代表として選ばれた。
時間がないとか、経験がないとか言って、敵も研究しつくしたようなやり方でしか勝負できないチームで満足していていいのか。
俺は、嫌だ。

今いる場所から一歩ずつ、誰もが望んでいる目標に向かって歩み寄ろう。
そのために、敵も想像していない、何か新しいことをひとりひとつずつ始めよう。
誰かだけが譲るのでもなく、誰かだけが頑張るのでもない。
全員で、一斉にやろう。
そして、今までになかった、新しいチームを俺たちの手で生み出そう!

そう言って、アグレッシブなミッドフィルダーとして有名な滝沢が、裏をとられた時に自分が守備に戻ることを約束した。
実際、次の試合から、もともと運動量が多い滝沢だったが、さらに倍増して、攻撃性はそのままに、折に触れ必死の守備を見せるようになった。
その姿が、チームを変えていったのだ。

スミレは、そういうことだったのかと、また感動した。
その結晶が今日の試合だったのだろう。
ディフェンスラインが今までになく高かったのも、清水がセットプレーを蹴らなかったのも、あの真壁がおとりになって敵をひきつけ、味方にスペースを作る動きを再三していたのも、この話から出たことだったのか!

「夢に向かって行動するって、そういうことだったのですね。
自分だけであれこれ考えることではなくて、まわりの人も一緒に、問題から逃げずに行動することだったんだわ!
私、先にお話しを伺っていたから、試合を見て、滝沢さんのお話も聞いて、それがとてもよくわかりました。」
花恋の思いが、まっすぐに伝わってきた。

外の歓声がひと際高くなったので、スミレは花恋とともにガラス際へ行ってみた。
日本代表のみんなが丁度、応援席下を半周まわったあたりにいる。
そこへむかって、走っていく人たちがいる。
先ほど試合を終えた、相手チームの面々だった。

気付いた日本代表たちが待ち受ける。
大きな祝福を受けているのは、やはり滝沢だ。
「ああ、あの背の高い選手は、確か滝沢とドイツでチームメイトですよ。」
スミレが言うと、花恋は頷いた。
「サッカーは、素敵ね。」

先ほどまで激しく競り合った同士が、今は肩を組み、談笑しながら共に歩いている。
花恋は手すりを握りしめて、その様子を見つめていた。






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滝沢に駆け寄ってきた選手たちの頭越しに飛びあがり、乗り越えて、一番前に躍り出たのは真壁と清水だ。
そのおかしな光景に、観客からどっと笑い声が湧く。
「テメー!」
「なにカッコつけてんだよぉ。そういう大事なことは俺たちに先に言え!」
「ふざけんな!何してんだお前!」
キャプテン谷川までもが、野太い声を響かせた。

今では、なぜ今日に限ってミーティングに遅れてきたのか、パスを回せシュートをさせろと食い下がったのかすっかり腑に落ちた先輩2人は、お立ち台から滝沢を引きずり下ろすと、これ以上ないような笑顔でバカスカと、頭と言わず肩と言わず、叩き始めた。
「わははっ!すみませ〜ん!」
頭を抱えた滝沢のおどけた声がマイクから流れ、またスタジアムは笑いの渦となる。

他の仲間からも引っ張られ、小突かれ、組み伏せられそうになり、滝沢はもみくちゃにされている。
手痛い祝福を受け、連れ去られそうになった滝沢に追いすがった女性がいた。
「滝沢選手、滝沢選手!」
あのインタビュアーだ。
この希代の大スクープに喰い込むこともなく終わったとあっては、後で大変なことになるのだろう。
必死の形相でぶらさがっている。
「滝沢選手、いろいろおめでとうございます!最後に、息子さんや、サッカーを愛する子どもたちに、何かメッセージをお願いします!」

「子どもたちにときたか!やるなぁ、あの女子アナ!」
チヨコはまたふと我に返って感心している。
「どうしてやるなぁなの?」
スミレはどこまでもぼんやりしている。
「だって、何か一言って言われたら、この状況だから『これからも応援よろしくお願いします』で終わっちゃうでしょ?でも、子どもたちにって言われたら、何か意味のあることをしゃべらないわけにいかないじゃない。今の滝沢の気持ちをとらえる、かなりうまい質問だと思うわ。」
「ああ、なるほど。」
「あんたさぁ…」
チヨコがまじめな顔で言った。
「もうちょっと、職業意識ってものを持ちなさいよ。」
「だって、今はオフだもん!」
「オンのときだってボヤケてるから言っているのよっ!」
スミレは思わずプッと吹き出してしまった。
 
手荒く引っ張る仲間たちに、待て待てと言いながら腕や足を引き抜き、滝沢はインタビュアーが差し出したマイクに向かった。

「夢を、持ってください。夢を持っても、考えているだけではだめです。夢をかなえようと一生懸命行動していると、夢はどんどん近付いてきて、いつか叶います。夢がかなうと本当にうれしいです。だから、みなさんも、夢を持ってください!」

そこまで一気に話すと、ふと言葉を途切れさせた。
「それから…」
考えをまとめるように、少し口ごもった後、今度はゆっくりと言葉を刻むように語り始めた。

「生きるのに必要なことは全部サッカーが教えてくれました。
夢の叶え方だけではありません。
友だちの作り方も、勇気の出し方も、辛いことを乗り越える方法も、自分を好きでいる方法も、好きな人を大切にすることも。 
サッカーは本当に素晴らしいです。
世界中に仲間がいます。
だから、よかったら、みなさんも、サッカーをもっと好きになってください。
で、いつか俺たちと一緒にサッカーをしましょう!」

会場から地鳴りのような拍手と声援が沸き起こった。
無数に焚かれるフラッシュの中、チームメイトはそれ以上、滝沢がマイクに向かって立つゆとりを与えなかった。
「以上、滝沢選手でした!」
きれいにインタビューをまとめた女子アナにも、ディレクターと思われる人がかけよって、労をねぎらっている。
女子アナは、感極まって泣き出したようだ。

選手たちがぐちゃぐちゃに入り乱れながらも、ピッチを観客席沿いに歩き始めた。
手を振ったり、頭の上に高く掲げた手で拍手を送ったりしながら、選手がゆっくり歩いている。
その時、すみません、すみませんと声がして、首から「STAFF」と書かれたカードを下げた、青いTシャツの男性がひとり、スミレたちの席に近づいてきた。
真っ黒に陽焼けして、白眼がやたらと目立つその男性は、無理やり大きなお腹の課長さんやスミレやチヨコの前を歩くと、霧島親子の前に泳ぐようにたどり着いた。

「霧島さんですね?私、宅間と言います。滝沢のフィジカルスタッフです。」
そういって、彼が着ていた日本代表Tシャツの裾をぐいとひっぱって、ママに見せた。
そこには「Team Takizawa」と金糸で刺繍がしてあった。
単身ドイツへ渡った滝沢も、今では億単位の契約を結ぶ有名人だ。
フィジカル、メディカル、栄養師などの日本人スタッフと個人契約していると聞いたことがあった。

「滝沢のところへご案内します。一緒にお越しください。」
「はい!」
スミレは詐欺師ではないかと疑いのまなざしを向けたが、霧島親子は嬉しげに立ち上がり、先生行ってきますと言って、小さな荷物ごと連れて行かれてしまった。
ぱっくりと2人分の席が空いた。
スミレにはまだ、目の前で起きたことが信じられない。
人の運命が音を立てて変わる瞬間に立ち会ったのだ。
こんなことが本当にあるとは!スミレはまだ心臓が高鳴ったままでいた。

ピッチに目をやると、真壁と肩を組んだ滝沢が大きく手を振りながら歩いている。
いい男だなぁと改めて思う。
責任を果たした後の男というのは、本当に魅力的なものだな。
その時なぜかふと、安住氏の温和な笑顔がスミレの頭をよぎった。

「あのぉ、松重の者です。笹山先生をお呼びするよう、お嬢様から申し付かりまして。本来ならばお嬢様がこちらに伺えばよいのですが、セキュリティの問題がございまして…。」
「わかりました。うかがいます。」
即答したスミレは、周りのものを手早く片づけながら、チヨコに言った。
「チョコちゃん、ごめん。私、行くわ。この人ごみでもう一回待ち合わせるのは大変だから、今日はここで解散ね!」
そうして、チヨコの返事を待たずに、呼びに来た人物と立ち去ってしまった。

「な!」
反論しかけた相手がいなくなり、自分の右にふたつ、左にひとつ空席ができ、憮然としているチヨコの耳に、自分のあだ名を呼ぶ声が入った。
「チョコちゃん、チョコちゃん。」
声の方を見ると、なんと、青いサンタクロースのような丸いお腹の課長さんではないか。

「は?」
「いや、こっちに座っていた人がそう呼んでいたから。」
「はぁ。何でしょう?」
「奇跡の目撃者が、こんな夜にひとりぽつんといることもなかろう?一緒に飲もうと思ってね。」
そういうと、課長さんが缶ビールを差し出した。
なんとなく受け取ってしまったチヨコは、予想外に缶が冷たいことにハッとした。
「キンキンに冷やしてある。うまいぞぉ。さ、たまたま隣になって、すんごいものを見てしまったご縁に乾杯!」
ひとなつこいチヨコはすっかり楽しくなって、先ほどまでスミレが座っていたところへピョコンとお尻を移すと、
「かんぱ〜い!」
水滴が付いた缶を課長さんの缶にコンとぶつけて笑い出した。






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