Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年07月


いくら松重が大財閥だとしても、ワールドカップに出場する日本代表の壮行試合のチケットを、いったいどうしてこんなにたくさん持っていたのだろうかと、スミレは不審に思っていた。
スミレがチケットを買おうとした時には、すでに完売した後だったことを思うと、発売間もなく売り切れてしまったのだろう。
花恋が転校先のみんなと仲良くなるきっかけにと申し出たということだったが、そもそもなぜ松重はそんなにたくさんのチケットを持っていたのだろうか。

どこか疑問に思いつつ、問い質すこともしていなかったが、そういえば花恋が来ないと、ふと振り返ってロイヤルボックスが目に入った時、おおよその見当がついた。
花恋は、そのロイヤルボックスにいた。
安住氏に付き添われ、スミレに向かって大きく手を振っているところだった。
スミレも手を振り返し、あっと驚いた。
驚いたのは花恋のことではない。
その周囲が、たくさんの人で、満員電車のように寿司詰めになっているのだ!

小学生とその家族の集合時間を過ぎると、どこからともなく、バラバラと大人の群れがやってきて、空いている席に着き始めた。
と同時に、ロイヤルボックスには少しずつ隙間ができ始めたようだ。
全校を招待してくれたが、サッカーに興味がなかったり、都合がつかなかったり、人込みを嫌ったり、さまざまな理由から、座席は松重が用意してくれた半分ほどしか埋まっていなかった。
「失礼、こちら、いいですか?」
そんな声とともに、ワイワイと楽しげな集団がいくつもやってくる。
 
「課長、課長!遅いじゃないですか。こっちですよ。うわぁ、課長のTシャツ姿なんて見ちゃったぁ!」
「なんだよ。似合うだろうが?おお?」
「いやだぁ。普段は背広で目立たないけど、その丸いお腹はまるで青いサンタクロースですよぉ!」
「なにっ!?セクハラじゃないのか、今の発言は!」
 
「主任!ビールはこっち、つまみはこっちです。みんなに配っていいですか?ほら、課長もセクハラなんて言っていないで、飲んで飲んで!はい、どうぞ!」
「お、よこせよこせ。俺も配るの手伝うぞ。営業2課の分はどこだ?あっちの主任に渡さなきゃ。」
「お集まりの皆さん、応援の練習します。ご唱和ください!」

松重の社員であることは、明白だった。
なるほどとスミレは思った。
最初から、社員の福利厚生ために、たくさんの席を買い占めていたに違いない!
小学生たちに席を譲るため、空きがわかるまで、花恋たちが開放したロイヤルボックスに詰めていたのだろう。
それが、小学生たちの集合時間が過ぎると、待ってましたとばかりに雪崩れ出てきて、大騒ぎを始めたといわけだ。
にぎやかな集団から目を離し、もう一度ロイヤルボックスを見ると、社員の大集団はあらかた座席についたようで、花恋と幾人かの姿が見えるだけだ。

小学生の親子の間に座席の空きがあると、つめてほしいと優しく声がかかる。
小学生と保護者が慌てて荷物をずらし、列がずれ、また立っていた人が座る。
いくらかは立ち見になりそうな雰囲気だったが、結局皆席につけたようだった。
はっとさせられたのは、スタジアムの巨大スクリーンに、選手紹介の映像が流れ始めた時だった。
あれほどガヤガヤと騒いでいた人たちが、ピタリと静まり、映像を見上げたのだ。

「おおっ!!」
チヨコ先生が感嘆の声を出した。
「なに?」
「さすがニッポンが誇るエリート集団!」
「だから、何?」
「このメリハリをウチのクラスの子供たちに教えるには、どうしたらいいのかなぁ。」
「ほ?」
チヨコ先生の関心は、いつもどこかで自分が運営する教室へと向かっていく。

巨大スクリーンには、誰が今日のヒーローになっても不思議ない有名選手たちの経歴が簡潔にまとめられ、インパクトのある映像と共に紹介されていく。
ひとりひとりに大きな声で声援が送られ、喝采が湧く。
キックオフの時間が、刻一刻と迫っていた。 







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5月の、とある日曜日がやってきた。
味のみなもとスタジアムは、真新しく改装された駅から歩いて10分ほどの場所にある。
日本代表の壮行試合とあって、車道と同じくらい幅の広い歩道はブルーのTシャツを着た観戦客に覆い尽くされている。
誰もが熱に浮かされたように戦況を予想し、勝利を予感して興奮を抑えられない顔、顔、顔。

スミレも高鳴る胸を押さえもせず、チヨコ先生と連れだってスタジアムに向かっている。
9800円もしたレプリカTシャツは財布に堪えたが、買わずにはいられなかった。
お気に入りのスキニーデニムを合わせ、バッグは考えた末に、大学時代持ち歩いていた、グレゴリーのナップザックを引っ張り出した。
よく冷やしたアイスティの水筒と、大きめのタオル。
チヨコちゃんとつまむチョコレートに、のど飴。
午後の試合だけに、日差しが強い時に備えて、サンバイザーとサングラスも入れた。
それから…しばらく考えて、カメラを忍ばせた。

背負ってみると、それなりの重量になる。
重たいなと思ったものの、歩きだせば気になるほどでもなく、チヨコと待ち合わせてからはおしゃべりに夢中で、背中の重さなど一切気にならなくなった。

松重が小学校の子供たちに用意してくれた席は、なんとスタンド正面にあった。
こんな席は取ろうとして取れるものではない。
角度はないがピッチに近いので、フォーメーションを見るには不向きなものの、選手の表情や声には近くて、子どもたちは大喜びしている。

サッカー通のスミレがリードして、チヨコと2人、席を決めた。
ピッチに近すぎず、ドリブルも両方のゴールも視界にきちんと入る絶妙の位置だ。 
チヨコの隣の席には、チヨコのクラスのジュン君とお母さんが先に座っていて、先生こんにちは!と挨拶を交わしている。
先日、チヨコが「精神貴族だね」と評したお母さんは、女手一つでジュン君を育てている。
偶然だろうか。素人はもっと前に座りたがるのに、こんな位置を選んで座るとはサッカーに詳しいのかなとスミレは思った。
 
わざわざ別日程を調整してまで行ったという個人面談の後、歯切れの悪い説明しかしてくれないチヨコに何度かツッコミを入れ、ジュン君のお母さんとのやり取りを聞きだしていたスミレは、自分の両親と引き比べずにはいられなかった。
若くして妊娠が分かり結婚を決めた両親は、自分だけでは背負いきれない現実を互いになすりあったのではないかと、松重家の家庭訪問を終えた後のスミレは長年の疑問にようやく答えらしきものを見つけていた。
 
自分の夢に気づいた父は、娘や妻の存在を理由に、夢の追求をためらった。ゆえに、自分を応援してくれない妻を恨み、娘を重荷に感じ、結局は命がけで夢からも家族からも逃げた。
母は、家族を守る大変さに気づいた時、協力的でない父を責め、恨んだのだろう。ゆえに、父を追いこみ、我が身を責め、常軌を逸することで私を育てる責任から逃げた。
そういうことだったのだろうと思うと、その幼さ、正解に手が届かない切なさに改めて涙が浮かんだ。
だが、その時に思い出したのが、ジュン君のお母さんのことだったのだ。

ジュン君の母の場合、好きになった男性が大きな夢を追いかけ、チャンスをつかんだと知った時の行動は明快だった。男は、愛する女性がいることを言い訳にせず、自分の夢をかなえるという厳しい課題に真正面から挑んだ。女はその成功を信じ、自らは自分に宿った小さな命をひとりで生み育てるという厳しい課題に真正面から挑むことにした。
2人とも、相手の存在を理由に自分の課題から逃げなかった。
なんと、すがすがしいことだろう。
なんと、気持ちの良い生き方だろう。

この親子が、豊かな幸せを感じつつ生活しているらしいことは、チヨコの話でも、普段ジュン君を見ていても感じることだったが、今、すぐ隣の席に座った2人は、真新しいサムライブルーのTシャツを着て、目も表情もキラキラと輝かせていた。
いったいこの少年の父親は、どんな夢を追いかけていたのだろうか。
その夢はかなったのかな。
ジュン君が生まれたことも知らずにいるらしいけれど、こんなにいい子だと知ったらどう思うかしら。
スミレは楽しげに語り合っている母と子から、しばらく目が話せなかった。

「ママ、このTシャツ、かっこいいね!タキザワって書いてあるの、ほんとにかっこいいね!」
ジュン君の声が響いて、ママは楽しげに笑っている。
「やっぱり応援したいものね。テレビで見るはずの試合にこうして来られたんだもの、神様にありがとうって気持ちよね。そのかわり、しばらくマクドナルドには行けないわよ。」
「いいよ、いいよ!」

日本サッカー協会が認定しているレプリカTシャツはけっこう高いのだ。
スミレが買った、背番号や選手名が書いていないものでも1万円近い。
お気に入りの選手の名前や背番号が入っているものは13000円ほどする。
パート先のスーパーの制服のまま授業参観に来たという母は、今回だけは大奮発したのだろうか、2人そろって話題の滝沢健太のネームが入ったシャツを着ているのだ。

キックオフまではまだ30分以上あるというのに、見知った顔が集まって、あたりはお祭り騒ぎになっていた。 






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どうしても、ディナーを一緒にと言ってきかない大黒柱に抗いきれず、スミレは一度帰校して、退勤後に再訪することを約束させられてしまった。

「花亜、久弥は留守番かい?」
という大黒柱の問いに、花亜が嬉しげに答えたのがきっかけだった。
「いえ。一緒に参っておりますよ。お兄様がどうしてもお会いになりたいとおっしゃって、二年ほど前でしたかしら、一度ふたりでこちらに来たことがありましたが、 そのとき、夫はすっかり中野と打ち解けてしまいましたの。それで、今日もこちらに参ると言うと、是非中野と語り合いたいと言うものですから…。」
「おや、では、今も?」
大黒柱はすでに満面の笑みを浮かべている。

「ええ。着いた途端に厨房にこもって、二人で何やら今夜の食事の相談を。中野もまるで息子か孫が尋ねてきたかのような喜びようなんですのよ。」
「久弥の料理は美味しいからね。中野と一緒になってなにか企んでいるとしたら…これは食べなくては一生の損失だ。先生も、一緒にね。いいね。」
大黒柱はそう決めつけると、カラカラと笑い声を立てながら、さっさと立ち去ってしまったのだ。

中野というのは、この家の料理長なのだろうと、スミレは思った。
先ほどから、何度となく名前が出てきていた。
戸惑いはしたものの、スミレはどうしようもない美食への関心も断ち切れず、かといって、一児童の家と個人的なつながりを持つのは、担任としてしてはならぬことで、どちらかといえば、食欲より職責をとるべきだろうと思い悩みながら、もと来た道を引き返しているところだった。
安住氏がまた、同道してくれている。

「困っておられますか?」
スミレの困惑をお見通しの安住氏が尋ねてきた。
「はい。」
スミレは認めざるを得ない。
「では、こうお考えになってみてはいかがでしょう。」

安住氏の言葉に、スミレは足をとめた。
そろそろ夕焼けになりかけた空の下、また孔雀たちが羽根を競っている。
「もし、自分の妹が勤め先に入学してきたら、先生は姉妹の縁をお切りになりますか?なりませんよね?松重はもともと、あなたの家族です。ですから、今新たにご縁ができたわけではなく、もともとつながっていた者同士と言えるのではありませんか?」

そうか、そういう考え方があったかと、スミレは目を丸くした。
「安住さんは、自由な発想を持ちなのですね!」
思わずスミレは感心してしまった。
どうしようもないジレンマが不意に解けた気がしたからだ。
「ありがとうございます。」
安住氏も逆らわない。

「さっき安住さんがおっしゃっていた、花音さんより安住さんの方が恵まれているというのは、安住さんの方が自由だということだったのですね?」
「ええ。そうです。父がいなくなってから、母はそれまで以上に僕を大事にしてくれました。確かに貧乏でしたが、母が私を見捨てることなど想像すらできないほど、私は守られていました。私は母のそばと言う安全地帯にいることに満足して、そこから出ようとしませんでした。もちろん、考えてそうしていたわけではありませんが。」

安住氏の言うことが、今はとてもよく分かるスミレだったので、深く何度も頷いた。
「もしも、母が病に倒れることなく、今も健在ならば、私は母を養うと言う大義名分に隠れて、世間との関わりを嫌い、冒険することもなく、小さな部屋の中でこぢんまりと生きていたのではないでしょうか。自分に自由な選択肢があることなど気付きもせず、気付いても知らん顔をしたに違いない。だから母は…。」
だから安住氏の母上は、才能ある息子を世に送り出すべく、先に旅立ったというのだろうか。

「花音さまは最初から、松重の責任を背負う覚悟を決めておられました。優れた知性と人格とを兼ね備えないと、社員やその家族、何万という人々が不幸になるとわかっていて、片時も努力を怠ることなく、粉骨砕身、己を磨き続けていらっしゃったのです。それに比べてわが身のなんと不甲斐ないこと。目の前のチャンスをつかもうともせず、過去のことをなんのかのと持ち出しては、本当に取り組むべき課題から逃げ続けていたのですから。」

スミレにも覚えのあることだったので、またまた深く頷いた。
「安住さんは、そんなふうに人生を開いてくださった花音さんがお好きだったのでしょう?どうして結婚しなかったのですか?」
自分がどうしてそんなことを尋ねたのか分からず、スミレは慌てて口を押さえたが、もう遅かった。
覆水盆に返らず。言ってしまった言葉も、口の中には戻ってくれない。

「まったく、あなたは臆面もなく言いにくいことを尋ねますね。こんな人は初めてだ。」
スミレは自分の顔から耳まで真っ赤になったことに気付いていた。
思わず見降ろした自分の両手までが真っ赤になっている。

「花音さまは留学当初、寮にお入りになったのですが、いくらもたたないうちに、あちらの別宅でお暮らしになるようになりました。
そこで、最初からお屋敷にいた私も、花音さまのお世話をすることになりました。
花音さまは、こちらにいらした時から、夕方から夜のひととき、部屋におひとりになってお茶を召し上がるのが習慣でした。
どんなにお忙しい日でも、その習慣だけは必ずお守りになっていたのです。
何をなさるでもなく、お話もなさいません。
そのひととき、お側にいることを許されるのは、きまって私だけでした。」

安住氏は刹那、自慢そうな表情を浮かべたが、すぐに消えてしまった。
「あちらに行って、2年を過ぎた頃でしょうか。
時折、そのお茶の席に、ひとりの日本人青年がやってくるようになりました。
そうして、いつしか、私が、その席からはずされるようになっていったのです。
大学を卒業され、帰国される時にはもう、花音さまはご結婚をお決めになっていらっしゃいました。」
なるほど、そういうことだったのかと、スミレはいまさらながら、自分の無礼さに、穴があったら入りたい恥ずかしさを覚えた。

「そういうスミレさんはどうなんです?恋人のひとりやふたり、いるのですか?」
「はい、三人ほどと申し上げたいところですけど、残念ながら今は全員留守中です。」
「おやおや。お互い、モテないようですね。」
「安住さんはモテるのに気付いてないだけじゃないですか?花音さんしか見てないから、他の人が見えないとか。」
「ふう。」
「あ!また!失礼しました!私、いつもはこれほど無礼じゃないです。ホントです。今日はどうかしているんだわ!」

「まったく、気に障る人だ。でも…」
でも、の次にくる言葉は、きちんと受け止めなければと覚悟して、スミレは顔を上げ、安住氏の顔を真正面から見つめた。
「でも、痛快でもある。優しく品よく、理知的な世界で生きてきましたが、元をただせば私は十把ひとからげの庶民の出ですからね。あなたみたいな人といると、気を遣わなくて済む。」
「ホントに?」
「ホントに。」
「よ、よかった!」
「でも、お詫びはしてほしいな。」
「すみませんでした。」
「いや、そういうことではなく。そうだなぁ。焼き肉でもごちそうになりましょうか。」
「焼き肉?」
「スミレさんはお嫌いですか?」
「好きです!美味しいお店、知ってますよ。」
「時折、たまらなく懐かしくなるんですよ。高校生のころ、友だちと行った焼肉屋の味が!」
「なるほど。それでお詫びになるなら、喜んで。」
「で、その時はスミレさんの失恋話をたっぷりと聞かせていただきますよ。今日のかたき討ちです。」
「ま!」

笑いながら門に向かって歩いていく二人の後ろを、孔雀のつがいがのんびりと見送っていた。






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気付いたら今月もあと10日切りましたが、いまさらながら先月の読書記録を書いていなかったことに気付きました〜 

2014年6月の読書は2冊でした。
実は他にも読んでいたのですが、仕事に絡んで急ぎ知りたいことができたりして、中断して他に手を出し、大事なところだけ読んではまた次!としていて、読了しませんでした。
夏の宿題にしますので、いずれご報告します。

それにしても、最近小説とのよい出会いがありません。
何か、こう、ピピッとこないかな。
よかったらご紹介くださいませ!



Hikariの読書記録 - 2014年06月 (2作品)
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「そうしてね…」
花亜が慎重に話しかけてくる。
内容が伝わりにくいことを知って、分かりやすく、誤解させないようにと気遣っているのだろう。
教師になってからスミレは、それまで大して気付くこともなかった相手のそういう配慮に気付くようになった。

「そうして、例えば花音はね、小さい時からこの家で多くの人が集まる日などは、かわいい服を着て、マイクを握ってご挨拶をしていたの。 その前に、上手に話せない頃からもう、松重の家の者として、あちらこちらに両親と一緒にでかけていたの。そのために、同じ年齢の子供たちが公園で砂遊びをしているような時間に、行儀作法を教わったり、英語の家庭教師がついたりしていたの。それって立派な『仕事』よね?」

「花亜さまは、高校生の時には、もうコンサルティングのお仕事をなさっていたのよね?」
花音が小さく肩をすくめて花亜を覗きこんだ。
「ええ、そうよ。初めのうちは楽しかったわ。父も喜んでくれたし、誰からも感謝されて、いろいろなことがよくなっていくんですもの。でも、それがますます増えて、病気の父を屋敷に残して自分はでかけなければならなくなって、学校も時折休んだりして…。」

「確か、女子高生コンサルタントとかいうテレビの取材を受けなければならなくなって、お断りになるために家を出られたのでしたね?」
「断るために…というわけではないけれど、まぁ、そうね。」
スミレは心の底から驚いた。小さい時からパーティーで挨拶?高校生でコンサルタント?それができるようになるための準備にどれほどの時間と努力が必要だったかは計りしれないが、並大抵でないことは分かる。

「つまりね、こういうことなのです、先生。祖母がアフリカの恵まれない子供たちの話をしてくれた時、祖母も私たちも、みな、自分が育った環境は、アフリカの恵まれない子供たちとどこか共通していると気付いたのです。もちろん、飢えたりはしません。けれども、この家に生まれたからには、幼い時から働いて、家に貢献し、当たり前に受け取れるものはほとんどない。」

花音の言葉は重く、深かった。
 「でも、世間では、多くの人々が、それとは違う生活をしていますね?父母からの世話を当然のように受け止め、改まった感謝の言葉なしに毎日三度の食事をし、着替えをし、家に帰れば誰かが迎えてくれるのを疑いもしない。のんびりと好きなことをして、遊びながら育ち、時期が来るまで自分の進路を決めずにおけるし、その時期が来たとしても、どこでどのようにして生き、どう働くか、自由に選べるのですよね?それは、たまらなく豊かなことだと、私たちは考えました。」

自由。
豊か。
そうなのかもしれない。
でも、あまりにも当然過ぎて、思ってもみないことだった。 

「それは…それは違います、花亜さま、若奥様!」
意外な方向から男性の声がした。 そこには、両手の指を色が変わるほどに握りしめた後藤氏が立っていた。
「私どもは、感謝の言葉などなくても、お手当などいただかなくとも、皆さまのお側を離れるものではございません。そのようにお考えだったとは、後藤は悲しゅうございます。そんなふうにお疑いだったとは、ひどうございますよ!私は、私の一族は、そんな気持ちでお仕えしてきたのではございません。あまりと言えばあまりのお言葉。ひどう…。」
言葉が途切れたと思うと、後藤氏は男泣きに泣き始めた。

「まぁ、あなた。そんなことをおっしゃっているのではないでしょう。さあさあ、泣かないで。」
弓子が駆け寄って宥めている。
花亜が立ちあがって後藤のそばまで行き、揺れている肩にそっと手をのせた。

「話のあやとは言え、誤解させてすみませんでしたね。後藤、泣かずともよいのですよ。あなた方が給料だけで働いているだなどと思っているわけではないのです。だって、あなたは私の兄であり、友であり、大切な家族を増やしてくれた人でしょう?松重にどんな苦労が押し寄せても、あなた方はきっと最後まで共にいてくれる。そう信じています。けれど、それは当たり前のことではないの。だから、どうしても、いつでも、感謝の気持ちが湧いてしまうのよ。」

ごうごうと泣き続ける後藤氏を一生懸命に慰めている弓子と花亜を見ながら、スミレは考えていた。
自分は、恵まれない子供時代を過ごしたと思っていた。
あまりに若く子供を持った両親は、家庭を維持する準備ができていなかった。
父の自殺、母の狂気、愛情を注いでくれた祖母の突然の死。
施設での暮らし、母の再婚、義父との暮らしを避けて祖父の家に逃げ帰った日々…

しかし、と、ここでスミレは考えた。
私は、いつも誰かに守られていたのかもしれない。
そうして、守られることが当たり前と思って、守ってもらえないことに不安や怒りを感じていたのかもしれない。

確かに、幼い私には、荷が重すぎる出来事だった。
でも、そのときの記憶そのままに、今でも、誰かに守られて、自分にやってくる危険や努力を肩代わりして振り払ってもらいたいと思っているのかもしれない。
そうして、いつでも、そうやって守ってくれる人を手に入れてきていた。
当然だと思っていたその庇護は、あるいは当然でなく、大きな恵みだったのかもしれない。
そして、気付けば、暮らす場所も、暮らす人も、学ぶことも、働く場所も、いつも自由に決めてきたではないか。

自分のことに考えが沈んで行こうとするスミレを引き戻したのは、いつの間にか現れた、矍鑠とした老女の声だった。
「なんだい、後藤。見苦しい。お前の泣き顔など見たくないから、さっさと下がりなさい。」
「ま、お母さま。お帰りなさい。」
「おや、花亜。来ていたの。遅くなりましたね。こちらのお嬢さんがその先生かい?」
「ええ。今、いろいろとお話し申し上げておりましたの。」

赤いデニムにスヌーピーが描かれた長袖のTシャツを着た老女を、花亜がお母さまと呼んだことから、この人物がすべての根源を作った、アフリカでボランティアをしてきたという、松重の大黒柱であることが容易に察せられた。 
スミレはにわかに緊張した。

「聞いたと思うけどね、先生さまよ。うちのかわいい花恋には、何にも縛られない自由を渡したいのさ。そしてね、その自由を当たり前に持っている仲間たちの中で育てたいのだよ。 松重との縁を結ぼうと虎視眈眈狙っている私立のボンボンや嬢ちゃんたちの中になんぞ、置けるものかね。」

勢いよく啖呵を切ったあと、老女はポツリとつぶやいた。
「ほんとは、私の娘にも、そうしてやればよかったんだが…。」






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「あの…どうして私立ではなく、公立なんですか?私たちの小学校はこれといって特徴のない、ごく普通の小学校です。まぁ、地域柄というか、落ち着いた雰囲気ではありますが…。」
スミレのみならず、校長も同僚たちもみな気にかけていた点だった。
それがまさか、私がいたからという理由ではたまらない。
しかし、先ほどの話によると、どうも私のこと以前に決まっていたようだけれど…。

「祖母が帰国して、私たちにくり返し話してくれたことに、本当の幸せとは…というものがありましたの。」
花亜よりもおっとりとした話し方で、よりたおやかな声だった。
花音はゆっくりと姿勢を正しながら、花亜の後を次いだ。
「食べるものにも事欠くような貧しい暮らしでも、母親たちは幼子を抱いて、懸命に世話をします。それが、当たり前のこととして行われていたと、祖母は言うのです。」

スミレには、花音が言うことがよくわからなかった。
母親が幼子を抱いて世話をするのは当たり前のことで、それがなぜ話題になり、本当の幸せにつながるのか想像もつかなかった。
「少し年上の子どもたちは、どうやって家族のためになろうかと思案し、ある子どもは学校で一生懸命に学び、ある子どもは仕事に出る。そうやって、早くから家族の幸せのために貢献するのだそうです。」

児童労働については、きわめて深刻な問題として、大学で習ったことがあった。
例えば、サッカーボールの8割ほどはアジアで生産されており、手縫いされている多くが、インドやパキスタンの児童による手縫いであったことはよく知られている。
児童労働の結果作られたサッカーボールがワールドカップの公式球になったことで、一斉に知られることとなったこの問題は、雇用側が不買運動などを恐れて児童を解雇したところ、収入源を失った児童がストリートチルドレンとなったり、売春行為に走ったりした報告もあり、単純な問題ではないことが大学生のスミレでも容易に理解できたものだった。

そもそも、教育か労働かと選ぼうとしても、教育機関がなかったり、労働するしかないほど困窮していたりする場合もあろう。確かに、家族のために貢献していることに違いはないが…。
「祖母が深く感じ入ったのは、わずか5歳の子供が労働力として酷使されているという点ではありませんでした。わずか5歳の子供でも、家族の幸せのために貢献しているという自負を持っているという点でした。」

「人の幸せの基準は様々ですから、他人が何を幸せ・不幸せと決めつけるのはおかしなことですが…。」
花亜だった。
「人々は、この松重の家に生まれたと言うと、それはお幸せねとおっしゃる。もちろん否定はしないけれど、少なくとも私にとって、この家の者として暮らし続けるのは、幸せなことではなかったの。」
「それで、家を出て、ご主人と出会ったのですか?」
「まぁ、そういうことです。」

「いったい、何が不足だったんですか?」
スミレは率直過ぎるかと思いながら、素直な疑問を投げかけた。
すると、花亜は花音とすこし顔を見合わせてから、静かに答えた。
「自由、かしら。」
「自由??どういうことですか?私たちとちがって、やりたいことは何でもできるし、行きたい所へもいつでもどこへでも行けるじゃありませんか!」

「ええ。そういう点ではそうかもしれません。でもね、それは、見方を変えれば、我が家の何もかもに、お金が関連しているということでもあるの。」
「おっしゃっている意味がよくわからないのですが…。」
「例えばね、さきほど弓子がお茶をいれてくれたけれど、それは当たり前のことではなくて、弓子がこの家のハウスキーパーとして雇われているからしていることなの。契約があるから、してもらっていることなの。」
「契約があれば、するのは当然ではありませんか?」
「では、あなたはおじい様にお茶を淹れてあげませんか?」

もちろん、そんなことはない。
祖父はお茶も珈琲も好きなので、スミレは祖父の休憩に合わせて飲み物を用意するのが当然のことだった。
なるほど、言われてみれば、お茶を淹れたからと言って給料をもらったこともお小遣いをもらったこともない。

「おじい様があなたのご飯を作ってくれたからと言って、あなたはお金を払ったりはしないでしょう?」
「そんなこと、考えたこともなかったわ!」
「でもね、花音も花恋も、お屋敷の料理を担当している中野というコックが作った料理を食べているけれど、中野も私たちが雇った料理人なの。」
「そうか、お給料を払って、やってもらっているということですね。」
「ええ、そうです。彼らは、もらった給料分だけ働けばよいはずですが、皆が皆そろって、給料以上によくしてくれるのです。だから、松重の者たちは、彼らにしてもらうことすべてに感謝して、受け取っています。」

スミレはようやく、安住氏が「花音さまは何事にも『ありがとう』とおっしゃる」と言った意味がわかりかけてきた。






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「お嬢様!算数、教えてください!」
何やら幼い元気な声がして、感動の再会と驚きとが行きかう大人たちが声の方を振り向いた。
ノートやら鉛筆やらを不器用に抱えて立っているのは、まだ就学前に見える少年だった。
「まぁ!あちらでひとりでするようにと言いましたのに。」
慌てて少年の方に向かったのは、後藤氏の妻と紹介されたばかりの弓子さんだ。

「でも、わからないんです。」
ふくれっ面になった少年は、屈託がなくてなんともかわいらしい。
「では後で教えてあげますから、お行きなさい。今はお客様がみえているのです。わかりましたね?」
弓子が静かに諭すと、聞き分けよく引き下がるかとおもいきや、思いの強い少年のようで、なかなかうんとは言わない。
「後でもいいですけど、分からない算数をそのままにしておくのは、なんだか落ち着かないから…。」

「しょうがないわね。いいわ、サスケ。教えてあげるから、いらっしゃい。」
そういって立ちあがったのは花恋嬢だ。
母の花音が微笑んで、花恋の背中をそっと撫でた。
「ありがとうございます、お嬢様!母様に教えていただいても、いつもさっぱりわからないんです!」
「なんですって!?」
弓子がバツが悪そうに慌てている。
花恋嬢はサスケと呼んだ少年を伴って、その場にいた大人たちに会釈を送ると、何やらはしゃぎながら遠ざかって行った。

「スミレさん。」
花亜が呼びかける。
「佐輔は後藤の息子です。来年には佐輔もあなたの小学校にあがりますよ。後藤が私の乳兄弟であったように、それから、乳兄弟とは違いますが、安住が花音のお側去らずでいるように、佐輔はきっと長く花恋を支えてくれることでしょう。」
「まぁ!」
スミレは何と返事をしてよいか分からなかった。

「私の母は、もうずいぶんな年齢になりますが、結婚したばかりの後藤と弓子を伴って、アフリカへボランティア活動の旅に出たことがありました。丁度そのころ、花音は身重で、体調が優れませんでしてね。まだ若かったから仕方ないのだけど。」
スミレはそれを聞いて、このテラスでぐったりと横たわる花音の姿が見えるような気がした。

「ところが、アフリカに行って間もなく、弓子も妊娠しましてね。すぐに日本に引き返してきました。少し遅れて後藤も送り返されてきたんですよ。若い妻が心配で、母の世話が行き届かなかったようでね、役立たずと罵られたのでしたね。」
花亜はそのときの可笑しさを思い出したように笑う。
「母は現地で共に活動してくれる方々に恵まれ、思う存分ボランティアに専念しました。ふさぎがちだった花音も弓子が戻ってからは元気をとりもどし、二人ともここで無事出産を終え、私たちは二人の新しい家族を迎えたのです。」

なるほど、とスミレは思った。
誕生日が年度をまたいだので学年は違ったが、同じ時期に大きなお腹を抱えて、思いを分かち合いながら、この母二人は絆を深めたのであろう。
「世界を転々と、貧しい人々、病んで困っている人々の間を回った母が帰国したのはつい最近のことです。その間、一度も帰国しなかったものですから、ご自分の曾孫をご覧になったのも初めてでした。そうしてね、スミレさん。母は花恋に一目惚れしてしまったのですわ!」
「一目惚れ…。」
「ええ。これこそ松重の血の結晶と騒いで…いえ、まぁ、曾孫とは私どもが思う以上にかわいいもののようですね。もともと、思いこんだら一直線に突き進むところがあって。歳も歳ですし、無理もないことですが。」

周囲の人々も、花亜の話を聞きながら微笑んでいるところを見ると、その老婦人はどうやらなかなかの元気者らしい。
「そこでね、母はどうしても、花恋を良家の子女が集まる私学ではなく、普通の小学校に通わせるべきだと言ってきかないのですよ。私もそれには賛成でしてね。お兄様や花音たちともよくよく話し合い、松重としては異例のことですけれど、家の近所の小学校へ通わせようと決めましたの。」
なんでまた…。スミレは後で絶対この質問をしようと心に決めた。

「それでね、スミレさん。私、思い出しましたの。あなたのことを。あなたがあの小学校の先生になったとおっしゃって、きてくださったことがあったでしょう?お屋敷の近くだと思ったことを思い出しましたのよ。それで早速後藤に調べさせたら、なんと、1年生の担任をお持ちなのが、あなただと言うではありませんか!私どもは神様に心から感謝申し上げたのです。これはぜひ、話を進めよという啓示だと思ったのです。」
なんとも、大げさな話になってきた。






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「驚いた?驚いたでしょう?」
スミレの顔を覗きん込んで楽しそうに笑っている花恋に目を落とし、もう一度、自分を呼びかけた声の主に視線を戻した。
「どうして?かあさん???」
「ごめんなさいね。こんな時でもないと、お話しする機会もなくて。」
聞きなれた大好きな声の主は、スミレが幼いころから通い続けている洋食屋『カピバラ食堂』のおかみさんではないか。

熊のようなオーナーとは不釣り合いなほど美しく、品の良いこの女性のことをスミレは本当に大好きで、辛いことを抱えて長野に行く前も、さまざまな出来事を乗り越え、大学生として東京に戻ってからも、教師として就職してからも、折にふれては店に通っている。
上品で聡明だけれども、少しも気負ったところや威張ったところがなく、快活な笑顔とやわらかな話し声に触れているだけで、スミレの疲れはいつも消えていく。そして、大きなカピバラを描いた壁を見ているうちに、何か楽しい気持ちが湧きあがってくるのだ。

店の客からも、当のご主人からも「かあさん」と呼ばれているから、スミレはずっと「母さん」だと思っていたが、実は本名が「花亜さん」なのだと知ったのは、大学生になってからのことだった。
そういうことを、知っているに違いない祖父は、なぜかカピバラ食堂の人々のことをあまり語らなかった。

「あ?もしかして、おばさまって言っていたのは…」
花音、花恋、花亜…と、名前の共通点に思い至り、さらにその先にたどりついたスミレは、心臓がドクンと鳴って、そのまま止まりそうな気がした。
「そうなの、先生!花亜おばさまは、おじい様の妹なの!」

言葉をなくしたスミレに歩み寄った花亜は、そっとスミレの手をとり、ささやくように言った。
「ようこそ、松重の家へ。長いこと言わずにいてごめんなさいね。わたくしはこの家を飛び出してしまった身なので、滅多なことではこちらに戻ることはなかったの。でも、今回のご縁をつないだ身としては、今日のこのお席にはどうしても連なりたくて、本当に久しぶりに参りましたのよ。」

「ど、、、どういうことですか?」
スミレのたどたどしい問いかけにすぐには答えず、花亜はスミレの手を引いて階段を上がり、先ほどまで自分がかけていた椅子をスミレに勧めた。
ゆったりと背をベンチに預けていた花音が身を起こす。それをすかさず背後にまわった安住氏が手を添えて助け起こした。
「ありがとう、安住。」
花音は言うと、ほんとうにかわいらしいとしか言いようのない笑顔を浮かべて、スミレに挨拶をした。
「先生、ご足労願って本当に恐縮ですわ。花恋の母でございます。このたびはご縁をいただいて、お世話になることとなりました。いろいろとありましょうけれど、どうぞよろしくお願いいたします。」

自分ごときにあまりに丁寧な挨拶をいただいてしまい、花亜が現れたショックの只中に漂っていたスミレは、もうどうしてよいかわからず、曖昧に頭を下げてから、花亜が勧めてくれた椅子に腰を落とした。
そんなスミレの脇に立ち、花恋は面白そうに言う。
「先生、びっくりしすぎちゃったみたい。大丈夫?お茶でも召しあがる?そうしたら、少しは落ち着くかも。」

そうして、振り返ると、先ほど歩いてきた廊下の方をみやって、花恋が誰かに呼びかけた。
「弓子さん、先生にお茶を。」
「はい。花恋さま。ご用意してございますよ。」
声とともに、ティーセットを乗せたワゴンを押して、その女性がやってきた。
先ほど何人かみかけたメイド服とは違う様子をしている。
そうして、階段の下まで来ると、お盆を運ぶ前に、静かに頭をさげて、こう言った。
「ご無沙汰いたしておりました、花亜さま。お健やかでいらっしゃいましたか?」

「いやだわ。弓子さんにそんな言い方をされると、なんだか背中がくすぐったくなってしまうわ。」
「ですよね!ああ、かあさん、会いたかった!」
お茶のことなど忘れたかのように飛び上がると、とうとう我慢しきれなくなったのか、弓子さんと呼ばれた女性は階段を上がって、かあさんに抱きついた。
「お元気そうね。よかったわ。後藤にはいつも会うけれど、あなたは少しも来てくれないから。」
「ごめんなさい。なんだか気ぜわしくて、うまく時間が作れなくて。ああ、嬉しい!今日はなんていい日なのかしら!」

何度も抱き合って再会を喜んでいるらしい二人を見て、スミレは意味がわからず、その場にいていいかもわからなくて、おどおどし始めた。
それに気付いた花音が、すかさず説明してくれた。
「弓子さんは、我が家で代々執事を務めている後藤の当主の妻なのです。実は花亜さまのお店で働いていたところを、後藤が見染めましてね。まじめ一筋の無粋な男なのですが、彼女を射止めるためにはずいぶんと勇気をふるったようで。」
ことことと笑い声を立てる花音の話でようやく状況が飲み込めたスミレは、自分だけが意外な縁で引き寄せられたのではないことに、小さく安堵を感じていた。

「これ、弓子。失礼ですよ。お茶はどうしました?」
「あ!そうでした。ただいま。」
弓子を叱りに出てきたのは、ご主人の後藤氏なのだろう。
ずいぶんと歳が離れた夫婦のようだ。
勇気をふるってと言われた意味が、なんとなく伝わった気がした。
「花亜さまも、弓子を甘やかしてはいけません。執事の妻がこれでは、使用人たちにしめしがつかないではありませんか。」
「何を偉そうなことを言っているの?家ではデレデレと弓子さんのお尻に敷かれているのでしょう?花音、スミレさん、聞いてちょうだい。後藤ときたら、先日もうちに来た時に…。」
「おお!これはこれは、スミレ先生、ようこそお越しくださいました。おじいさまはお元気でいらっしゃいますか?お懐かしいですなぁ。私のことをご記憶ですか?」

主筋の方の言葉を無理やり遮るという、使用人の風上にもおけない暴挙で、何やら都合が悪いらしい話を妨げながら、後藤氏がスミレを見つめている。
スミレは思い出した。
誠一郎会長が長野に来た時、いつも後ろに控えていた人だ。
「はい。覚えています。そうか、こちらのお屋敷に…。あ!さっき途中にあった、あの家ですね!」
「ええ。最近は那須の旦那様のところと、こちらとを行ったり来たりしておりましたが…。」

「先生、お茶のご用意ができました。どうぞ、いただきましょう!」
花恋は、このサプライズパーティーの女主人になりたいらしい。
スミレに、あまりにも美しくて手に持つのもはばかられるようなマイセンのカップをすすめてから、自分は花音のそばに座り、母の腕に寄り添って、目の前に広がる風景を眺めている。
「さ、後藤のことは後回しでいいから、スミレさん、お茶が冷めないうちに、いただきましょう。」
花亜に言われて、すこしうしろめたいものの、後藤氏との話を切り上げて、ティーカップに手を伸ばした。

よく磨かれたガラス越しに差し込む陽の光を受けて、カップの中の紅茶が金色に見える。
馥郁たる香りとは、こういうことを言うのだろうか。
ミルクは?と問われて首をふったスミレは、そのまま金色の液体を口の中に運ぶ。
えもいわれぬ味わいが広がり、芳香が鼻から抜けてくると同時に、全身の緊張感もほっと抜けたような気がした。
「おいしい…。」
「ありがとう、弓子さん。先生におほめいただきましたね。」

花音の言葉に、スミレは先ほど安住氏が言った言葉を思い出していた。
「花音さまは何をしてもらっても、必ず『ありがとう』とおっしゃるのです…」






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「安住さんの方が恵まれているって、そんなことあるはず…。」
言いかけてスミレは、何かとても失礼なことを言っていると気付き、最後まで言わずにやめた。
それでも、安住氏には意図は十分通じたようで、というよりも、最初からそのつもりで話していたようで、気分を損ねるような表情は一切見えず、ニコニコと微笑んだままだ。

二人で延々と歩いてきた道は、とうとう大きなお屋敷の玄関にたどりついた。
階段を少し上がった先に、ここは裁判所か、博物館か、銀行の本店か?というような大きなエントランスが広がっていた。
ここだけで、スミレの部屋がいくつ入るだろうかと思うと、今日はこれ以上自分と何かをここで比較するのはやめておこうと決意するのに十分な動機になった。

お揃いのメイド服を着た女性たちが歩いている。
ゆったりとしたすその長い服は、掃除や料理に不便ではなかろうかと思うが、彼女たちのシャンと立った背筋が、その服を誇りに思っていることを十分に伝えている。
安住氏とスミレを見ると、すれ違う人は皆静かに目礼する。
どこで靴を脱ぐのだろうかとスミレは密かに思ったが、そのまま二人はエントランスを左に折れて、学校の廊下よりも幅が広い、ピカピカに磨かれた大理石の廊下を進んだ。

「あの…。」
話が途切れてしまったので、スミレは一度は諦めかけたが、どうしても先ほどの話の続きが聞きたくて、安住氏にひそひそと声をかけた。
「教えてください。どうして安住さんの方が恵まれていると思われたのですか?」
「それは、例えば、花音さまに何かして差し上げたとします。すると花音さまは必ず『ありがとう』とおっしゃる。誰に対してもです。でも…」
安住氏がいいかけた時だった。

「スミレ先生!いらっしゃいませ。」
明るい声が響いた。
学校で聞くよりも幾分子供っぽく、というよりも、年齢相応の声に聞こえる。
長い廊下の向こうから、花恋が走ってくるところだった。
家庭訪問を嫌がる子どもも結構多い。
親が先生と何を話すのか、疑心暗鬼になるようなタイプの子どもは、家庭訪問の日は家に帰るのを遅らせたりしがちであることを、スミレはよく飲み込んでいた。
車で送迎されている花恋に、寄り道の選択肢はなさそうだが、それにしても、担任の訪問を心から楽しみにしていたらしいことは、スミレを出迎えた様子から容易に察せられた。

「花恋さん。おじゃまします。」
スミレが挨拶をすると、花恋はスミレの手をとって、こっちよと、案内を始めた。
「お母様はいまテラスにいらっしゃるの。先生、こちらよ。」
「おやすみではないのですか?」
怪訝な声をあげたのは安住氏だった。
「ええ。今日はおばさまがお見えになったでしょう?ずっとお話しをされていたら、とても気分がよくなったのですって!今も…あ!」
花恋は嬉しそうに言ったあと、しまった!という風に、両手で口元を押さえた。

「お客様ですか?」
スミレの方が慌てた。
いくら大きなお屋敷で、いかにも来客が多そうでも、そんな時の家庭訪問はご遠慮したいものだ。
「いえ、なんでもございません。ね、花恋さま。」
「そうそう。ね、先生、なんでもありませんわ。さあ、もう少し先です。あ、ほら、そこの窓から鹿が見えますよ!」
どうも何かをはぐらかされたような気がしたが、言われた方向へ顔を向けると、立派な角の牡鹿が見えたので、今の疑問をつい忘れてしまった。

花恋の案内でお屋敷のあちらこちらを見まわしながら歩くと、廊下がもう一度左に折れ、その先に明るいテラスがあった。
廊下よりも階段で5段ほど上がったところにある、ガラス張りの部屋は、午後のやわらかな日差しに包まれ、つやつやとした大きな観葉植物がいくつも配置されている。
真っ白いテーブルや椅子が並ぶなかにひとつ、やはり真っ白の、ゆったりと大きめのベンチが置かれ、遠目にも鮮やかな刺しゅうを施したクッションがいくつか並べられたところに、ほっそりとした女性が座っている。
白のレースと思われるワンピースが、その身体の細さと、おなかのあたりのふっくらとしたところを強調していて、スミレは一目でこの人が花恋の母、花音なのだろうと分かった。

「スミレさん、ようこそ。」
しかし、声の主は、花音ではなかった。
心持ち、体を横たえるような姿勢で座っている花音の脇に、白い椅子を寄せ、スミレのほうに背を向けて座っていた女性から発せられたものだったのだ。
「え?」
思わず立ち止ったスミレは、その女性がゆっくりと立ち上がり、振り向いて、階段の方へ向かってくるところを凝視した。
「え?あ!うそ!!」
花恋とつないでいた手を離し、思わず両手で口元を覆うのは、今度はスミレの番だった。






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歩いていた小道が不意に木立を抜けた。
眼前に広がる光景を見て、スミレはただ息を飲んだ。
なんだ、これは!?
ここは、本当に、東京か?
そこには視界に入りきらないほど大きなお屋敷が建っていた。
博物館のような建て物の前には、女神を模したと思われる石の彫刻を配した大きな噴水があり、その脇では孔雀のオスが大きく尾羽を広げ、悠々としているではないか。
まるで時間までが違う流れをしているようだった。

「私は観念して、花音さまについていくことにしました。
花音さまが学ばれることは何でも一緒に、そのほかに、経営を…大きな家の経営を学びました。
留学先はイギリスでしたから、私が知りたかったことはいくらでも学ぶことができました。

そうしているうちに、私は気付いたのです。
それまでの2年と少しの間、私は松重の皆さまのおそばにいながら、そのお考えやお暮らしの深いところまでは知ろうともしていませんでした。
ただ、苦労のない、楽しいだけの時間を満喫しているものとばかり思っていたのです。

でも、花音さまのおそばで、その考え方や時間の使い方をよくよく知るにつれ、それはとんでもない勘違いであったと思い知らされました。」

孔雀の脇を通り、噴水をまわりこんでも、正面の階段の上に見える玄関まではまだ間があった。
安住氏の目は、まっすぐにお屋敷を見つめている。

「花音さまは、ありとあらゆることを学んでおられました。
人は誰でも、最初から上手にできることはないのですね。
それは花音さまとて同じことでした。
けれど、花音さまは失敗やおできにならないことを少しも恥とは思われませんでした。

その点、私はまったく逆でした。
うまく話せないことを恥じて、人前で英語を話そうとしませんでした。
見苦しいのを恐れて、ダンスなどもってのほかと、習おうともせず、懸命にレッスンを受けられる花音さまをただ見ていただけでした。

その差は、数週間、数ヶ月のうちに歴然とするのです。
花音さまはメキメキと上達なさり、私は依然として何もできないままなのです。
始めなければ、できないことを認める苦痛を味わうことはありません。
けれど、できる喜びを味わう日もまた来ないのですね。
花音さまは常に、できない自分を認めつつ、今できることを懸命に積み重ねておられました。
だからこそ、私が味わえなかった喜びを味わう資格をお持ちになったのです。

中には、花音さまがいくら努力しても上達しないものもありました。
そんな時にも、花音さまは悔しそうになさりながらも、いつも微笑まれて、では、他のことをしてみましょうとおっしゃるのです。
そうやって、できないことを恐れて逃げることをせず、できないと分かってしがみつくこともなく、花音さまはご自身を詳しく知りつつ、大きく成長なさいました。

そんなお方のそばにあって、私はいつまでも何もできないまま、自分を知ることもなくいることはできませんでした。
私もとうとう、花音さまをみならって、失敗することより逃げることの方に恥を感じるようになったのです。
そうなってみて、私はさらに深く、花音さまのおっしゃっていたことを理解しました。
本当は、花音さまよりも私の方がずっと苦労が少なく、恵まれていたのです!」







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