Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年06月


「言い返したのですか?なんと?」
「はい。『あなたは何もかもに恵まれているから、私の苦労など理解できるはずもない』と。」
「それはそうですよね。こんな広い敷地に住んで、料理人に庭師に運転手?そんな暮らしをしている人に、庶民の気持ちなんか分かるはずもないわ。まして、庶民の苦しみなんか!」

スミレは、自分が育った環境や経験を、かなり特異なものと思っていた。
別に隠すつもりはないから、必要があれば、昨日校長に話したように話題にするけれど、自分から積極的に披露する気にはなれない。
なぜだかは分からない。
けれども、話したところで誰も分かってくれないだろうと思う。
誰かに分かってほしいのか?というと、迷いがある。
迷いはあるが、「分かりますよ」と簡単に言われたら、たまらなく腹がたつに違いない。
だから、きっと安住さんも同じだろうと思ったのだ。

「ですが、花音さまは静かにこうおっしゃいました。
『恵まれた者は苦労しないなどと、恵まれたことがないと思っているあなたに、どうしてわかるの?』
これには、返す言葉がありませんでした。
悔し紛れに、私は問いました。
そんなどうしようもない私のどこがお気に召して、お屋敷に置いてくださったのですか?と。
ずっと、疑問に思っていたことでした。
すると、花音さまは、私の疑問を簡単に解いてくださいました。」

安住さんは俳優張りの男前だ。
だから、きっと姿が美しかったからだろうと、スミレは思った。
それ以外に、一瞬のうちに相手とつながっていようと決心する理由がスミレには思いつかなかったからだ。
人と付き合うのはスミレにとって、いつもどこか疲れる一大事業のように感じられた。
例の、言葉にできない不安は、ひとりでいれば感じないでいられる。
自分は人と交わることに向いていないと思う、大きな理由のひとつだった。
一見優しそうに見える人も、付き合ってみればそうでもないものだ。
親切だと思った人も、その親切は長くは続かない。
人々は、あっという間にスミレを落胆させてきた。
だから、深く知らない方がいいのだ。
関わりすぎるのは痛みしか生まない。 
男も、女も、淡く、当たり障りのない範囲で付き合うのがよいのだとスミレは信じている。
だから、男性はとくに、見た目が美しい人を眺めているのが一番だと、スミレは内心いつも思っていたのだった。

それでも、それを口に出すほど未熟ではなくなっていた。
黙って続きに耳を傾けていると、安住氏は意外なことを言った。
「花音さまは、私が言ったことを注意深く聞いていてくださったのです。」
「言ったこと?」
「はい。私は確かに、花音さまに言ったのです。僕に仕事をください、と。花音さまはそれをしっかりと聞いてくださっていました。」
「それが、何か…?」

安住氏は深い笑顔を浮かべた。
「ええ。『あなたはあの時、お金をくれと言わず、仕事をくれと言いましたね。私はそれが気に入ったのです。』とおっしゃるのです。」
「わからないわ。同じことですよね?」
「そうですね。私も意図して言葉を選んだわけではありませんでしたから、そう言われて大層戸惑いました。
でも、花音さまはおっしゃるのです。
豊かな者を見ると、誰もがお金をくれとか貸してくれと言う。
でも、私が言った『仕事をくれ』というのは、結果ではなくチャンスをくれというのと同じだと。
チャンスさえあれば、あとは自分の力で結果を出すからという、宣言に聞こえたそうなのです。
そんな宣言をするのは、自分の力を信じている者にしか言えないからと。
私はそんなに深い考えがあったわけではないと言うと、だからなおよいとおっしゃる。」
「なぜ、ですか?」
「それが本音だからだそうです。」
「本音…。」
「そうです。本音です。
相手に合わせて、状況に合わせて、思考し判断した末に選んだ言葉ではなく、魂からこぼれ落ちた言葉だからこそ、大切にしたいと思ったのだと言われました。
一体誰が、見ず知らずの、通りすがりの者の言葉を、そこまで注意深く聞き、価値を見出すでしょうか。
それもわずか15歳の少女がですよ。
そうして、チャンスをくださっただけでなく、2年にもわたって黙って見守ってくださったのだと知ったのです。
私の完敗でした。」






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なんとも引き込まれる話を聞きながら歩いているうちに、大きな家が見えてきた。
ああ、あれがお屋敷かと思い、そちらに足を向けようとしたのに、違う方へ歩いていこうとする安住氏にスミレは声をかけた。
「あちらがお屋敷ですよね。こっちが玄関に見えますけど、別の方向から入るのですか?」

ちょっと驚いた顔をした安住氏は、ぱっと明るい表情を見せた。
「あなたのおじい様も、同じことを考えられたそうですよ。あちらはお屋敷ではありません。後藤という、代々この家の執事を務めている家族が住んでいます。この敷地には、そういう家がいくつもあるのです。小さな町のような感じですね。」
「では、安住さんもこういう家に住んでいるんですか!?」

どう考えても豪邸としか言いようのない家だったが、ご主人の住まいではないらしいことに、スミレは心底驚いた。
「いえ、私はお屋敷の中にお部屋をいただいていますので、そちらに。」
「そうなんですか。ご家族はどうされているんですか?みなさん、お部屋をもらっているなんて、すごく広いんですね!」
「そうではありません。私に家族はおりませんので。」
「え?安住さん、独身ですか!?」
「はい。」

どうやら先ほどの話から察するに、仕事が恋人というよりも、人生の転機をもたらしてくれた花音さまに人生を捧げたのだろうと想像できる。
なるほど、まるで小説のような世界だ。

「それにしても、人を雇うのにとても慎重な松重なのに、安住さんは調べもしないで雇ってもらえたなんて、すごいですね。」
「そうではありません。もちろん、調べられましたけれど、まだ若かったですし、家族も何もない私を調べるのは簡単なことだったのでしょう。
私はこちらで、台所仕事や庭仕事、掃除や旦那様の運動のお伴など、さまざまなことを学ばせてもらいました。
もう一度大きな転機がやってきたのは、花音さまが高校を卒業なさる時でした。」

「何が起きたのですか?」
まるで連続ドラマの続きを聞くような気がして、スミレは家庭訪問にやってきた教師であることを忘れるほどに、安住氏の話に引き込まれていた。

「花音さまが留学なさることになったのです。松重の方にとって、これは珍しいことではありません。会長ご自身も大学はイギリスで寄宿舎生活を送られています。
私は二十歳を過ぎていましたが、さまざまな経験から、こちらでのことは、大概できるようになっていました。
運転免許も取らせてもらいましたから、時折、ご家族のおでかけにお伴することもありました。

けれど、お聞きかと思いますが、この家には、それぞれの仕事をしている専門家がおります。
庭師も運転手も料理人も、私が入り込む隙間などありません。
私はとてもひねくれていましたから、そういう人々の誇り高い仕事を見るにつけ、自分には何もできない、できるはずがない、一生こうして手伝い仕事をして終わるのだと、常々声高に嘆いていたのです。

それを旦那様が聞きつけておられたようです。
花音さまもご存じだったのでしょう。
私も花音さまのお伴をして、留学するようにと、旦那さまから命が下ったのです。
青天の霹靂とはこのこと。
私はひっくり返るほど驚きました。」

それはそうだろうと、スミレも思った。
東京から長野に行くと聞いただけで、とても驚いた記憶がある。
それを、雇い主の命令で留学?
それも、遊びに行くわけではないので、何年も学問に励むのだ。
きっと、言葉にも困るだろう。

「驚いただけでは済みません。
私はいかに才能に恵まれていないか、留学など不釣り合いな身の上であるかを懸命に訴えました。
そうして、私の言い訳を聞いていらした花音さまにお叱りを受けたのです。

『あなたはいったいいつまで、そうやって甘えたことを言い続けるつもり?
英語が話せなくて困るなら、英語を学ぶために時間を使うのが有効というもの。
そうやって言い訳に時間を使っても、英語は話せるようにはならないわ。

あなたは確かに、類まれな悲しみに出会ったかもしれない。
それはそれは、辛かったと思うの。
でも、かつて辛いことがあったからといって、なぜ今の生活までつまらないものにしておくの?

あなたの未来をどうするかは、今のあなたが責任を持って決めることでしょう。
過去は変えられないけれど、未来は変えられるかもしれない。
そのために、今日の努力が大切なのではなくて?

中野のお料理がおいしいのは、中野が人生をかけて料理の腕を磨いているからよ。
倉橋の運転が心地よいのは、倉橋が運転に命をかけているから。
私ども松重の家の者たちは、そういう方々に支えていただいて、毎日を素敵に生きているの。
だから、皆さまに支えられるだけの価値ある人生を生きる責任があると思うの。
そのために、私も一生懸命に己を磨きたいの。

あなたがいつまでもママに守ってもらいたい小さな子供のように甘えていたいなら、そうしたらいいわ。
でも、できることなら、今、ここで考え方を変えて、目の前の問題にまっすぐ立ち向かうような人になってほしいの。
あなたには、それができると思うから。』

あの、おっとりとした優しげな口調はそのままに、そんなようなことをおっしゃるのです。
私は雷に打たれたような気分でしたねぇ。
言い方が優しいだけに、深く心に突き刺さりました。
なにしろ、年下の女の子に、あなたは子供のように甘えている、などと言われたのですから!
私は反射的に言い返しました。」






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「もしかして…」
「ええ、そうなんです。その車に乗っていたのが、花音さまでした。お父上の松重会長もご一緒で。」
「まぁ!」
「花音さまはまだ高校1年生で、入学されて間もなかったので、毎日車での通学だったのです。
しぶきをあげた運転手が飛ぶように降りてきて、僕に心から詫びてくれました。
その時、この車の持ち主がどういう人かを、僕は当然知りませんでした。
けれど、こんな立派な車の人が、雨の中、傘もささずに降りてきて、僕に頭を下げてくれたんですよ。
嬉しかったなぁ。
ああ、僕はまだ、人間として扱われるんだなぁというようなことを、思ったように記憶しています。

でも、すっかりひねくれていた僕は、そんな思いを上手に口に出すことなどできませんでした。
砂が交じった水たまりの水を頭からかぶって、着ていた服も汚れていました。
もともと傘もさしていなかったのだから、濡れているのは当然です。
普通の人なら、ひとしきり詫びたら、クリーニング代でも握らせて、それ以上の関わりは面倒とばかりに立ち去るものではないでしょうか。

その運転手も、きっとそうするに違いないと思った僕は、先制攻撃をしかけました。
自分が貧しい庶民だからこんな仕打ちをするのではないか、とか、金もなく、職を得るのも失敗したうえに、こんな不運に見舞われるとは、自分はなんとつきがないのだろうとか、言いたい放題に八つ当たりをしたのです。
運転手は困った顔をしていました。

でも、 その時、車の後ろのドアが静かに開いて、中から花音さまが降りていらっしゃったんですよ。
僕は、そのときの光景を今でも昨日のことのように覚えています。
雨の中に、天女が舞い降りたような美しさ、優雅さ。 
手には傘をお持ちになっていたのに、さそうとはなさらず、僕や運転手と同じように、激しい雨に打たれておいででした。

運転手が慌てて車に戻るようにと申し上げたのですが、花音さまは静かにたたずんでいらして、戻ろうとはなさいません。
僕もさすがに、場違いな無礼を働いたことに気付き、ばつが悪くて、穴があったら入りたいと思いました。

そんな時ですよ。
花音さまがおっしゃったんです。
『うちの者が大変な失礼を申し上げました。心からお詫びします。どうしたらお許しいただけるかしら?』 
僕は花音さまの真新しい制服がどんどん濡れていくのに耐えられなくなりました。
だから、もういいからと言って、立ち去ろうとしました。
でも、花音さまは僕の腕をとらえて、おっしゃるんです。
『このままでは、わたくしの気持ちが治まりませんわ。何か、お役に立たせてください。』

こんなお金持ちの上品な年下の少女にこんなことを言われて、僕は少し面倒に感じました。
もう本当に逃げ出したくなっていたのです。
だから、絶対に叶えられないことを言えば呆れて許してくれるだろうと考え、こう答えたのです。
『では、僕に仕事をください。あなたの家で雇ってくれればいい。』って。
何を馬鹿なことをと言われるのを期待したのですが、花音さまの答えはまったく逆でした。
『よろしくてよ。』」

安住氏が花音の口調を真似るのが可笑しくてしかたないのに、なぜかスミレは笑えなかった。
人の人生というものは本当に不思議なもので、落ちるところまで落ちてしまうと、あとは浮かぶしかなくなるようにできているらしい。

「それから、花音さまは車に戻っていかれました。
僕が呆然とその後ろ姿を見ていたら、『どうなさいました、一緒に参りますよ』ときた。
世間知らずのお嬢様が何を言うかと思いました。
だって、誰だってそんな話、本気にしませんよね?
事実、車の中から松重会長の声がしました。
『おやおや、お嬢さん。あなたは街で出会った困っている人を、そうやって全部雇うつもりかい?』

会長がおっしゃるまでもないことです。
そんなこと、できるはずがない。
でも、花音さまのお考えはまったく違っていました。
『あら、お父様。わたくしが街でどれほどの困った方に会うかしら。そうして、もし出会ったとしても、わたくしがその方を気に入る確率がどれほどあるとお思いになって?お父様にとってこの方は大勢の困っている方のひとりかもしれないけれど、この方の人生にとって、わたくしどもにできることはとても大きな出来事だわ。お願い、お父様!』

それをお聞きになった会長のお言葉も、予想外のものでした。
『なるほど、もっともだ。私のお嬢さんは本当に思いやりがある。』
いや、納得している場合ではないだろうと、驚いたのは僕の方だったなぁ。

今考えると、ずうずうしいにもほどがある話ですが、僕はそのとき遠慮もなく、花音さまについていきました。
それが、このお屋敷で働くきっかけだったのです。
どうです?小説のような話でしょう?」






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悲鳴を上げただけでなく、思わず安住氏の背中にすがりついたスミレが見たものは、長い尾を引いてとぼとぼと歩くオス孔雀だった。
「はぁ?」
よく見ると、その孔雀が現れた植え込みの向こうには、メスの孔雀もいるし、他のオスも悠々と座っている。
そうか、これが「動物もいる」とおじいちゃんが言っていたアレなのか!

「大丈夫ですか?驚かせてしまったようですね。」
「ああ、いえ、こちらこそすみません。取り乱しまして…。」
スミレは慌てて安住氏の背中から飛びのいた。
「なんだか色ツヤのいいクジャクですね。」
「おかしなことをおっしゃる。クジャクというのはみな色ツヤがよいものなのではありませんか?」 
安住氏が吹き出した。

「動物がいると、祖父から聞いてはいたのですが、ちょっと油断していました。他にもなにかいるんですか?犬とか、馬とか?」
「犬はおりますが、馬は那須の方におりまして、こちらにいるのは鹿とかウサギとかいった小動物ばかりです。」
鹿は小動物か?という率直な疑問が湧いたが、こだわってもしかたがないので、スミレは勇気を出して別の質問をすることにした。 

「安住さんはいつからこちらのお屋敷にお勤めなんですか?」
「18歳の時からですから、もうずいぶんになりますね。なぜ?」
「いえ、いまどき、執事なんていうお仕事が募集されるって不思議な気がして。それに、どうやってそんな募集があることに気付くのかと思ったので。すみません、立ち入ったことを。」
「いいんですよ。確かに、初対面に近い方からそんな質問を受けたのは珍しいですが…。」
「すみません、いいです。不躾なことを聞いてごめんなさい!」
スミレは恥ずかしさで体温が5℃くらい高くなった気がした。

「私がまだ小学生の時、両親が離婚しましてね。原因は父の浮気だったそうですが、それまでこれといって夫婦喧嘩をするでもなく、穏やかな家庭でしたから、両親が別れるなど、信じられませんでした。父も温厚な人物でしたし、外に女性がいたなどと、いまだに信じられないくらいです。でも、嘘ではありませんでした。父は母と離婚して、その女性と再婚しました。すでに子どもも生まれていて。父は、母と私との家庭を捨て、そちらの女性と子供との家庭を選んだのです。」

安住氏は相変わらず、静かにぼそぼそと話す。
その内容の過激さと話し方が合っていないことが、スミレの心をなおさら悲しくさせた。

「母は、女手一つで私を育てることを選択しました。慰謝料とか養育費とか、要求する権利は十分に持っていたはずですが、母はそういうものを受け取りませんでした。小さなアパートで、生活は苦しく、母は働きづめでしたから、意地を張らずにお金をもらえばいいのにと、子ども心に思いました。でも、今なら母の意地が分かる気がするのです。母には、自分を捨てた夫よりも、私を捨てた父親が許せなかったようでした。 私の前で、父親のことを悪く言うことは決してありませんでしたが、どれだけ悔しかったろうと思うと…。」

スミレも、どれだけ悔しかったろう、悲しかったろう、自信を失ったことだろうと思うだけで、涙が浮かんできた。
「でも、母は僕のために強くなってくれました。泣き言は言わず、せっせと働いて、僕を高校に行かせてくれた。僕もその気持ちに応えたいと思いました。アルバイトをしながら勉強も手を抜かなかった。僕がアルバイトをするようになって、母はとても楽になったと喜んでくれました。ふたりで少しずつ貯金もできるようになって、僕が卒業したら記念旅行に行こうと言って楽しみにしていたんですよ。」

いつの間にか、安住氏が自分を「僕」と言いだしたことに、スミレは気付いていたが、何も言わなかった。
安住氏は、小さなアパートのどこかに置いてある貯金箱か通帳か、そんなものを思い出しているのかもしれなかった。遠い目をして、口元をほころばせた。

「旅行、どこにいらしたんですか?」
「いえ。行けませんでした。その日はもう、永遠に来ない。」
スミレは息を飲んで安住氏の目を見つめた。
永遠に来ない日。私は、それを、知っている。
「母は、僕が高校3年のときに亡くなりました。病気でした。僕は大学進学が決まっていましたが、働いて、母を看病するつもりでした。いくらでも看病しようと決意していました。一生寝たきりでもいいと思っていました。でも…。」

その先は、聞かなくても分かる気がした。
果たして、その通りだったのだろう。
安住氏は細かなことは言わなかった。
誰にでも、思い出したくないことや、何年たっても言葉にできないことがあるものだ。

「僕が高校の卒業式を迎えたとき、母はすでに土の中で眠っていました。僕は何もかも、やる気を失いました。大学に行く理由も、働く理由もわからなかった。父とはあれ以来一度も会ったことはなく、母の葬儀にも来ませんでした。母の気持ちを思うと、頼る気にもなれませんでしたしね。親類もいるにはいましたが、引き取って育ててもらうには大人になりすぎていました。」
そして、行政が施設に措置してくれるのも18歳までなので、彼は必然的に自立しなくてはならなくなったのだろう。

「自暴自棄になる気力さえなかった。生ける屍とはあの頃の僕のことだ。いつ寝て、いつ起きて、何を食べているのかさえ分からなくなっていました。でも、現実は、そんな僕を甘やかしてはくれませんでした。家賃も払わなくてはならないし、わずかな貯金はたちまちなくなり、あとは母との旅行のために貯めたあの金に手をつけるか、それがいやなら悪事をはたらくか、本気で働き口を探すかしかないところまで行くのには、さして時間がかからなかった。」

途方に暮れた高校生の安住氏の姿を想像していたら、写真でしかしらない若い父の姿がそこに重なった。想像の中でスミレの父も、安住氏と同じように途方に暮れてうなだれていた。
「ぼんやりしてはいられないと悟ったある日のことです。たまたま、この近くを歩いていました。バイトの面接を受けたのですが、断られた直後で、ひどく落ち込んでいました。夕方にはまだ早いというのに、ひどい夕立ちまで降ってきて、僕はびしょぬれになっていました。

運の悪いことは重なるものです。
そんな僕を後ろから追い越して行った車が、大きな水たまりに入り、盛大に水しぶきをあげたのです。僕はそれを頭からかぶりました。
もう、言葉も出ません。
情けなくて、涙さえ出てこなかったなぁ。

けれどね、スミレさん。その水しぶきが、どん底の僕が浮かび上がるきっかけになるなんて、運命とはわからないものです。」






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3時にと約束した家庭訪問に、少し早めにでかけようと決めたのは、昨夜祖父と話をした結果だった。
「なんと、そんなことがあるのか!驚いた、驚いた。あのお屋敷にお前が。そうかぁ。家庭訪問なぁ。」
祖父はしきりに感心したり、改めて驚きなおしたり、電話の向こうであたふたしている様子が手に取るように伝わってきた。

「なんと深いご縁だろうかなぁ。そうか、そうか。 」
ようやく気持ちが落ち着いたらしい祖父が、ふふふと笑って秘密を打ち明けるようなひそひそ声で言ったのだ。
「約束の時間丁度に門の前に立つと、結果として遅刻するぞ。あのお屋敷をなめてはいけない。」
「何?なめるつもりはないけど、どういうこと?」
「こう、道路に面して正門があるんだけどな、その先がまた長い。」
「そうなの?」
「そうそう。長い、長い。動物が歩いていたりもするからなぁ。」
「は?動物?」
「百聞は一見にしかずだよ、スミレ。そうして、もうひとつ。最初に見える家には注意だな。」
「意味わかんない。何それ?」
「いいか、スミレ。松重の皆さまのお役に立てるなら、私もこんなに嬉しいことはない。しっかりおやり。」

言いたいことを言うと、祖父はおやすみと勝手に電話を切ってしまった。
もう、おじいちゃん、最近マイペースに拍車がかかっている。
元気で助かるけどさ…と思いつつ、言われたことの意味が飲み込めないままその時間を迎えていたのだ。

登校2日目の花恋嬢は、初日と同じように黒いリムジンを正門前に横付けし、執事にドアを開けてもらってから、ふわりと降りてきた。これも前日と同じように、いつの間にか執事が手にしたランドセルを受け取り、あでやかに背負うと、ここは前日と違って、同じ時間に登校が重なったクラスメイトたちと手を振りあいさつを交わして、なかよく昇降口に向かって行った。

職員玄関からさりげなく見守っていたスミレに目礼を送り、安住氏はさっと立ち去った。
その同じ人物が、2時半に正門前に立ったスミレを迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、先生。ご案内いたします。」
「これは、申し訳ありません。よく私が到着する時間をご存知でしたね。私、お伝えしませんでしたよね?」
「いえ、こちらにいらっしゃる方の多くが、こんなタイミングでお見えになりますので。」

大きな正門脇には守衛室が建っている。人のよさそうな人物が、中から安住氏に小さく合図を送ったようだ。
了解、こちらは不審者ではないということで。
その人物の眼が、そう語った気がした。

「あの、安住さん。花恋さんのお母様にお目にかかる前に、できれば伺いたいことがあるのですが。」
スミレの思いきったような声に、安住氏は首をかしげるようにして、スミレを振り向いた。
「改まって、何でしょう?なんでもお尋ねください。」
「あの、私たちは…いえ、私はいったい、何を期待されているのでしょうか。」 
「期待、でございますか?」

安住氏が一瞬歩みを止めたので、 スミレもその一歩後ろで立ち止まった。
これは大切なことだった。
自分が松重の人々の期待に応えられるような人材だとはどうしても思えなかったのだ。
知識も人格も経歴も、何も人に秀でたものはない。これといった特徴もない。なのに?

スミレの顔が鬼気迫るものであることに気付き、安住氏は微笑みかけた頬を引き締めた。
「スミレ先生。松重の者は、なにも『期待』はいたしません。」
「期待、しない?」
「はい。期待はなさいません。そういう考え方を選ばれません。」
「どういうことですか?」
スミレは畳みかけるように問いかけた。

どう説明したものか、と思案顔だった安住氏は、静かな声で、ゆっくりと語り始めた。
「松重の者たちは、誰かが何かしてくれるをの期待して待っているようなことはしないのでございます。必要だと思ったものは、それがある場所から選び取ります。それが見つからないならば、生み出そうとなさいます。そうやって成長してきたのが松重グループなのですよ。」

スミレは安住氏の言葉を噛みしめ、今度は落ち着いた声で尋ねた。
「では、聞き直します。松重の皆さまは、何を選びとった結果、私どもの小学校をとお考えになったのですか?」
聡い女性だなと、安住氏は小さく感心した。なるほど、だてに苦労してきたわけではないらしい。
「それは、後ほど若奥様からお話しがあると思います。」
「若奥様?」
「あ!申し訳ありません。花恋様のお母様のことを、私どもはそうお呼びしています。ちなみに奥様とは会長の奥様、花恋さまのおばあさまのこと、大奥様が会長のお母様のことでして。」

「では、花恋さんのお父さんは若旦那さまで、会長さんが旦那様でしょうか。大旦那様が…。」
「大旦那様はすでにお亡くなりなのです。私はお目にかかることがありませんでした。」
「そうでしたか。祖父から聞いたことがあります。素晴らしく人望がある方だったそうですね。」
「はい。現会長もその人望を引き継ぎたいと精進されていましたから。」

再び歩きだしたスミレは、安住氏の背を追いながら、先ほど言われた「選ぶか生み出すかで、期待はしない」という言葉に心を奪われていた。
恐ろしいほどに潔い、力強い生き方だ。
お金も時間も、それを支えてくれる人も必ずいるからできる、金持ちだけに許された生き方だと思いたい自分がいる一方で、そんな考え方はここの人々の生き方を説明するのに正しい理解ではなく、自分のふがいなさを実感しないための言い訳なんだと冷静に分析している自分の声の方が大きいことに気付く。

ぼんやり歩いていると、足元からガサリと大きな音がして、スミレは飛び上がった。
「ぎゃあっ!」






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「味のみなもとスタジアムで日曜日といえば、日本代表のエキシビションマッチのことですか?」
「そうです。ご存知でしたか。」
「ご存知も何も!昨日、滝沢健太が帰国したと聞いて、チケットを手に入れようとしたのですけどダメだったんです。もうがっかり!」
スミレが場をわきまえずに失言するのを、校長が目配せで制した。

「あっ!すみません。私ごとでした!それで、その試合が何か?」
「はい。その試合に、こちらの小学校の皆様をご招待したいとのことなのです。」
「え?ゴショウタイ??」
今度ばかりは校長も、スミレと声を合わせて頓狂な声をあげた。

「ネットでチケットが5万円で取引されていましたよ。まさか、ほんとうですか??」
「間近になってのことですから難しいかとも存じますが、なにとぞお計らいください。実はこれは、早くお友達と仲良くなりたいとの、花恋さまの思いを旦那様が…いえ、お父上がお受けになり、思いつかれたことなのでございます。」
「本当に本当ですか?全員でなくても、親子で行けば軽く500人は超えてしまいますよ!」
「大丈夫でございますとも。味のみなもとスタジアムには松重の社員専用席がございます。」
「知らなかった!そうなんですか?」
驚くスミレに、安住氏が尋ねた。
「おや、サッカーにはお詳しいはずですのに。おじいさまにお聞きになっていらっしゃらなかったのですか?」
「え?」

安住氏の発言に、校長が怪訝な顔をする。
スミレも驚いた。なぜ今ここで、おじいちゃんの話が出てくるんだろう?
私がサッカーをしてきたことまで知っている?

「失礼ながら、担任におなりの方のことを、少し調べさせていただきました。非礼を伏してお詫び申し上げます。お許しください。」
スミレは驚かなかった。
巨大組織であるものの、「人の松重」と言われるだけあって、採用などのときには慎重に慎重を期してその人柄から言動、過去の出来事まで調べるということは、祖父から折に触れて聞かされていた。
今日子おばさんが『安曇野おらほの家』を任されるときにも、そういう調査が行われていたと、後になってから聞いた。

担任の身上調査をされていたと知って憤慨し、憮然とした表情の校長を無視して、スミレは頷いた。
「それで、祖父のことが分かったのですね。」
「はい。長野のご出身とのことでしたし、スミレさんというお名前、それからおじいさまのこと、私もわずかではございますが、覚えがございました。」
「安住さんがですか?以前お目にかかったことがあったでしょうか?」
「いえ、大旦那様…松重誠一郎会長から伺ったのでございます。」
「ああ、会長さんから!そうでしたか。」
「はい。大旦那様も、あのスミレさんが花恋の先生になってくださるかとおっしゃって、深いご縁をたいそうお喜びでございます。」

話についていけない校長が、スミレの袖をひっぱって、説明を求めてきた。
それはそうだろう。
そこでスミレは、自分の祖父がもともと松重物産で働いていたこと、自分が長野の施設に預けられていた際に、新規事業を任され、長野に松重のデイケア施設を開所したこと、その施設は会長たっての願いで進められたこと、中学生の時に、直接会長に会っていることなどを説明した。

校長と一緒になって頷きながら聞いていた安住氏は、
「会長は今も、我が代で最高の事業は『おらほの家』の設立だと折に触れておっしゃいますよ。」
「そうなのですか。それはありがたいことです。祖父もどれほど喜ぶか。」
「お元気でいらっしゃいますか?」
「はい。おかげさまで。引退してからは祖母のお骨まで長野に移して、お友達と仲良くおらほの家に通っています。来月は『ロンドンおらほの家』に交流に行くんだとか言って、喜んでいました。」
「そうでしたか。後学のため、私も一度お目にかかりたいものです。」
安住氏は微笑んだ。
スミレはやっと、その微笑みがまるで俳優のように端正であることに気付いた。
ハリウッド映画に出てきても不思議ではないだろうと思うにつけ、さぞかしモテたのだろうと好奇心が湧くのを押さえこんだ。

「スミレ先生ならば、松重がご縁のある人をどのように大切にするか、きっとご理解くださると思います。どうか関心をお持ちの皆様に、足を運んでくださるよう、お伝えください。私ども一同、心から歓迎いたします。」
「校長先生、お受けしてもいいですか?」
スミレは一応、校長の意向を確かめた。が、心は決まっている。
ここで校長が断ると言っても、断固見に行きたい!

「本物のサッカーを間近で見るのは、子どもたちにとってもよい影響となるでしょう。ありがたくお受けいたします。」
校長の言葉に、スミレは思わずガッツポーズで立ちあがった。
「あ、私も、いいですよね?」
スミレの心配を、校長が先に、かなり遠慮がちに尋ねてくれたのは助かった。
「もちろんですとも!」
「すごい、校長先生!」
「ほんとだ、スミレ先生!子どもたちもどんなに喜ぶか‼すぐに案内文を作って起案してください。今日の帰りにはお知らせをみんなに持って帰ってもらいましょう。」
「はいっ!」

安住氏はにこやかに二人のやりとりを見届けると、静かに辞去していった。
校長室のドアの外で、花恋と一緒になったようだ。
少し声がしたかと思うと、ノックの音がして、花恋だけが入ってきた。
「校長先生でいらっしゃいますか?松重花恋と申します。世間知らずなものですから、何かとご迷惑をおかけすると思いますが、どうかよろしくお願いいたします。」
と、朗らかな声で挨拶すると、静かに深く礼をした。

5歳児が世間知らずなのは当たり前ではないか。
それとも、庶民の生活を知らないということか?
この挨拶を聞いた大人は少なからずそう思ったが、彼女のあいさつがとんでもない謙遜であることに、次第に気付かされることになる。

「さあ、花恋さん。朝の会の時間になりました。教室に行きましょう!」
職員打ち合わせの間、校長室でそのまま待っていた花恋を迎えに行き、スミレは教室に誘った。
スミレは、自分は転校当初、新しい環境が恐ろしくて、まわりの人が怖くて、声も出なかったことを思い出した。
マリアンヌがいてくれなかったらどうなっていたのだろう?
思い出せば出すほど、担任としての自分の役割がいかに重要かを思い知る。

ところが、このお嬢様には、そんな恐怖心など微塵もないようだった。
「松重花恋です。カレンって呼んでください。みなさんと早く仲良くなりたいです。よろしくお願いします!」
クラスの子供たちは、花恋の自己紹介を聞いただけで、すっかり彼女の虜になってしまったようだった。






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漆黒のリムジンが、正門の向こうに停まった。
助手席のドアが開いて、ダークスーツの男性が音もなく降りてくる。
そのまま数歩移動し、後部座席のドアを開けた。
アカデミー賞の授賞式に訪れた女優のような優雅な身のこなしで降りてきた少女が、花恋だった。

いつ手にしたのか、男性がランドセルを差し出すと、少女はガウンを羽織るようなしぐさで、するりと背負った。
そして、職員玄関に続く石畳の通路をこちらに向かって歩き出す。 
ダークスーツの男性は、軽く脇に控えた後、ご主人様の二歩ほど後ろを黙ってついてくる。
職員玄関の外で一部始終を見ていたスミレは、少女に駆け寄ってひざまずきたくなる衝動を感じて戸惑った。

「松重花恋と申します。今日からお世話になります。よろしくお願いいたします。」
スミレの前で立ち止まった少女は、スミレが声をかける前に名乗った。
これが5歳の子供の言うことか?
瞬きを忘れて見返すと、少女は確かに5歳児の大きさの顔をして、まっすぐにスミレを見返し、微笑んでいる。
しかし、この微笑みは、5歳児のものではない。
いつか旅行先で見た聖母マリアの白い彫像にそっくりではないかと、スミレは思った。

「担任の笹山スミレと申します。」
スミレの方がどぎまぎして、思わず深々と頭を下げてしまった。
花恋の後ろから、ダークスーツが言った。
「わたくしは執事の安住と申します。転校初日のご挨拶に、本来ならば母上が同道するところでございますが、臨月を迎えておられ、体調思わしくなく、失礼ながらわたくしがご挨拶にまかり越しました。」

「弟が、生まれますの。」
少女はもうスミレと友だちになったかのように、スミレのそばに駆け寄り、大切なヒミツを打ち明けるような声で言う。
「まぁ!お姉さんになるんですね。」
「ええ。でも、お母様のお加減が悪くて…。」
眉をひそめてつぶやく様子を見て、スミレは一気に心配になってしまった。

「花恋さんですね?スミレ先生はそちらの…ああ、安住さん、安住さんと少しお話があるので、みんなが登校する前に、学校の中を私と一緒に歩いてみませんか?」
スミレの背後から声をかけたのはチヨコ先生だった。
「まぁ!そうですね。楽しそう。安住、行ってもいいかしら?」
「はい。いってらっしゃいませ。」
「後で校長室でまた会えますよ。」
花恋はチヨコ先生に言われ、笑顔で頷くと、職員玄関から右に折れた先にある昇降口へ歩いて行った。
花恋は片手に下げていたキルティングバッグから上履きを取り出している。

「花恋さんのげた箱は、こちらですよ。」
二人の様子を見守るスミレの耳に、いつの間にか敬語で話しているチヨコ先生の声が届く。
「あ、私、隣のクラスの…みんなチヨコ先生って呼びますから、そう呼んでください。
花恋さんの担任はスミレ先生でいいですよ。」
「はい。よろしくお願いいたします、チヨコ先生。」
「あ、いえ、はい、こちらこそ。」

安住氏を校長室に案内し、転入の挨拶といくつかの事務処理を終えると、安住氏が言いだした。
「お母上が、今回の転校のことを大変心配しておられます。」
「そうでしょう。
私どもの学校は、校長の自分が言うのもなんですが、上品でも先進的でもありません。
本当に、本当によろしいのでしょうか。
私どもも心配しております。」

「いえ、そういうことではありません、校長先生。」
安住氏はきっぱりと否定した。
「お母上のご心配は、そういうことではございません。
何事も新しいことを始める時には勇気と気力とがいるものでございましょうが、それをお支えしたいお母上ご自身が丁度産み月。
花恋さまのおそばにいることも難しいタイミングなのでございます。
まして次のお子がお生まれになれば、しばらくはそちらにかかりきりになってしまわれます。
そのことをお母上は案じておられるのです。
そのため、本当は入院を勧められているのですが、今もご自宅で静養されています。」

母とはなんと有難いものなのか。
自分の体調よりも、娘の転校のストレスを思いやるものなのか。
父親も、こんなふうにつき添える執事もいながら、それでもそこまで気遣うのか。
スミレはふと、自分の母を思い出していた。
私のお母さんとは、ずいぶん違うようだわ。
意地悪な思いが心をよぎった。

「そこで、お忙しいのを承知で大変心苦しいお願いなのですがスミレ先生、松重の家へ家庭訪問にお越し願えないでしょうか。よければ、明日にでも。」
「明日ですか!?」
「担任になる先生に、ぜひともお目にかかってご挨拶申し上げたいと申しておりますので。」
「はぁ。」
スミレはなんと答えてよいか分からない。
家庭訪問は4月中から始めて、先日ようやくすべて終えたところだ。
転入生ならば、追加で訪問するのは何の問題もないのだが…。

「行かせます、はい。」
スミレの答えなど知ったことではないというように、校長が先に答えた。
「お越し願えますか。ありがとうございます。では、明日、花恋さまのお帰りの車に…」
「いえ!」
思わずスミレは半分腰を浮かせて、大きな声を出した。
「少ししなければならないことがありますので、花恋さんの下校は1時半ですが、私は3時ごろにおうかがいさせてください!」
「承知いたしました。申し伝えます。」

さっき見た漆黒のリムジンに自分が乗るなどあり得ないことだと思ったので、強く勧められないことを心底ほっとありがたく思った。
そういえば、家庭訪問に保護者の車に同乗してはいけないルールがあったんだわ。
何も焦らなくても、ルールを盾にお断りすればよかったんだ。
後から冷静さが少しだけ戻ってきた。

「それから、これはお父上からの伝言なのですが…。」
「はい、何でしょう。」
「今度の日曜日に、味のみなもとスタジアムでサッカーの試合があるのをご存知ですか?」






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 Hikari地方は梅雨入りし、昨日も今日も大雨が降り続いています。
 週2回、なんとか更新を続けているところですが、今日は5月の読書記録を。
 2014年5月に読んだ本は2冊でした。数は少ないですが、じっくりと読み返しながら読み進めたい良書でしたので、十分かと思います。
 これまで、仕事柄もあり、興味もあり、心理学につながるような本はそれなりに読んできたつもりですが、アドラー心理学には衝撃を受けました。くり返し出てくるように、様々な人生哲学に取り入れられ、これまであちらこちらで見かけた思想ではありますが、こうして新ためて真意を知ると、なるほどと深く頷くところが多くありました。
 心も、行動も、不都合なものほど、しかたなしにそうなっていると思いたいものです。しかしながら実際は、すべての責任は自分にある。自分がそうであれと選択した結果なのだということですね。
 丁度、書いている小説もエンディングに向けて、エピソードは出来上がっているものの、どう描いていこうかと思っていた時期でした。天啓を得た思いです。
 関心をもたれた方は、ちょっとお手にとってみてくださいね!



Hikariの読書記録 - 2014年05月 (2作品)
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月曜の朝、出勤途上のスミレの顔といったら、これを仏頂面と呼ばずしてどれを呼ぶのかというような表情をしている。
それもそのはず、あれほど胸を躍らせて探した試合のチケットはすでに完売していて手に入らなかったのだ。
ふと思いついて、ネットオークションサイトも覗いてみた。
目指すチケットをみつけ、喜んだのも束の間、なんと5万円の値が付いている。 
スミレはがっかりした。
とても入札する気にはなれなかったのだ。

それに、今日出勤すると、例の転入生がやってくる。
いったい何を思って有名私立小からどこにでもありそうな公立小学校に転入などするのか。
いくら考えても理由がわからないではないか。
過剰な期待を寄せられても、応えることなど到底できないだろう。
そのときの失敗感を想像するだけで、何もしないうちから疲労感が湧きあがってくる。

スミレの仏頂面にはもうひとつ理由があった。
昨夜のことだ。
そろそろ暑い日が出てきたので、半袖のシャツを用意しておこうと箪笥をのぞいていた時、久しぶりに見る服に気がついた。
それが、別れた彼とまだ仲がよかったころ、デートのために迷いに迷って買った服だったのだ。

またぞろ、 あの「言いようのない不安」が胸に湧きおこってきた。
その瞬間、スミレに電撃が走った。
わかったのだ。
スミレは、誰かと親密になるのが怖かったのだ。
怖くて、避けたかったのだ。

年ごろの女性として、彼氏がいることは重視したい点だった。
出会いにも事欠かないし、声をかけてくれる人も後を絶たないから、人選にも困らなかった。
最初のうちは、スミレも夢中になれる。
もっと好きになってもらいたくて、努力もする。
その服が、そんな時期のスミレの気持ちを象徴していた。
普段の彼女なら到底選ばないような、レースのフリルとシュガーピンク。
相手の好みを刺激しようという魂胆がレースの向こうに透けて見えている。

「じゃ、また明日。」
彼氏が当たり前のようにそう言ってくれる時の安堵は、何物にも代えがたい喜びだった。
しかし、時間がたつにつれ、あの不安が頭をもたげてきて、スミレは相手の実際よりも、不安の方に気をとられるようになるのだ。
それは、言葉に置き換えれば「私の言うこと、することを、相手は本当に心地よく思っているのだろうか?本当は不愉快なのに我慢しているのではないか?」という不安なのだと、スミレは気付いた。

その不安にとらわれると、スミレは相手が我慢していないかどうか、必死に探るようになる。
そうして、相手の些細な言動が、スミレを嫌っている証拠のように思えてくるのだ。
確かめたい。でも、はっきりと嫌いだと言われたらどうしようと思うと、言葉にできない。
そのうち、その重苦しさに耐えかねて、いっそ別れてしまいたいと思うようになる。
すると、別れる理由になりそうなこと…それも、相手が原因で、自分は悪くないと思えるような大義名分…が、必ずみつかるのだ。

つきあった相手はそれぞれ、共通点も、脈絡もあまりない。
共通の見た目とか、趣味とか、年齢とか、そういうものが感じられないことにも気付いた。
誰でもよかったの?
スミレは自分に問いかけた。
答えはイエスだ。
自分は目の前の相手ではなく、ただ「前とは違う人」を探していただけだった。
前とは違う性質の誰かなら、違う結果を持ってきてくれるかもしれない。
スミレは自分の期待を目の当たりにした。
しかし、期待に応えてくれようとしていたかもしれない相手を断ち切ったのはいつも自分だったのだ。

駅の改札を抜けて、いつもの並木道を歩きながら、スミレはため息をついた。
「自分が変わらなきゃいけないことは分かってる。でも、どう変わったらいいのか、分からないわ。」
あれほど咲き誇っていた桜が、今は新緑一色になり、その緑も日に日に濃くなっていく。
「木はいいわよね。きっと悩みもなく、季節に合わせて刻々と間違いなく変わっていけるんだから。」
自分のつぶやきが八つ当たりだと分かっているだけに、情けなくて泣きたくなった。

「スミレちゃん、おはよ!」
後ろからチヨコ先生が声をかけてくれなかったら、スミレは本当に涙をこぼしていたかもしれない。
「ん?どうした?具合悪いの?」
「そんなことない。転校生が来るから、緊張してるだけだと思う。」
「そっか。先生が緊張してるんだから、本人はもっと緊張しているのかな?」
「どうだろうね?」

その姫君がやってきたのは、時計が丁度8時を指した時だった。






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活動的にしていても、していなくても、週末は平等にやってきては過ぎていく。
スミレ先生の土日も、ぼんやりぐったりぐずぐずと思い悩むうちに、飛ぶように過ぎていく。
掃除も買い物も終え、夕やけが少し空を染めるのを見上げながら、リビングに落ち着いたスミレは、何とはなしに、テレビのリモコンに手を伸ばした。

ニュースを伝えている女子アナの声が先に聞こえ、一瞬遅れて映像が見える。
「…空港には大勢のファンが押しかけ、帰国した滝沢選手を出迎えました。」
派手とかオシャレとかいうわけではないが、洗練された姿でスーツケース片手に空港内を歩く滝沢選手を見て、老若の女性たちが歓声を上げている。

「ああ、帰って来たんだ、滝沢健太。いい男だなぁ。代表選出おめでとう。」
スミレはテレビの中の人物に向かって話しかけた。
あと1ヶ月もするとワールドカップが開催される。
その最終代表に選ばれた滝沢健太選手は、現在海外クラブチームに所属している。
30を少し過ぎたくらいだろうか。
サッカー選手は若くてやんちゃなイメージの人が多いが、この人は少し違う雰囲気を醸し出している。
が、実際は見た目より若いのかもしれないと迷わせるような風貌をしている。

「…滝沢選手はマリンズに所属していましたが試合出場のチャンスに恵まれず、自らセレクションを受けて現在のクラブへ移籍し、頭角をあらわしたという異色の経歴の持ち主です。代表選出前に行われた最終合宿に初召集、今回のサプライズ選出となりました。高いポテンシャルを評価されてのことと思われますが、来週に控えたチャレンジマッチには出場すると期待され、類まれな身体能力と経験が織りなす神業をわれわれの前に見せてくれることでしょう。」

自身が女子サッカーに夢中の中・高・大学生時代を過ごしてきただけに、スミレはこの滝沢健太という選手の名前や経歴を、テレビのアナウンサー程度にはすでに知っていた。 
悲運の天才、無名の天才と、時折深夜のサッカー番組に取り上げられることもあった。
スミレはこの人物をテレビでみるたびに、亡き父と重ね合わせずにはいられなかった。

幼い時からジュニアチームに所属し、ユースで活躍し、エスカレーターに乗ったようにJリーグへ。そして海外へ。そういう選手もいるのは確かで、それこそ能力を人生がサポートしているようなものだと思う。
ユースで活躍とはいかず、高校サッカーに身を投じた者の中にも、選手権の代表などになれる学校で頭角を現わせば、自然と世間が目にする機会に恵まれるわけで、早くからJの選手として契約が進むようなケースも多い。

しかし、多くのサッカー人は、そんなふうには生きていくことができない。
どれほどサッカーを愛し、夢中になろうとも、どれほど時間も体力も費やし、泥だらけになって己を磨こうとも、芽が出る選手は一握りだし、Jリーガーになれるのは、そのなかのさらにほんの一握りに絞られる。
あとは、趣味としてサッカーを続けていくか、指導者となって後進に望みを託すか。

あるいは父のように、サッカーを卒業し、思いを残していても過去のことと眼を逸らし、応援に徹するか。
あるいはサッカーなんかとつばをかけ、見向きもしなくなるか。
大概がそうやって、あの魅力的なスポーツから離れていくのに、滝沢選手はそのどれも選ばなかった。
自らを信じ、国内よりももっと魅力的な場所へ自分をつないでいった。
そして、きっとコツコツと努力したのだろう。
今は大輪の花を咲かせている。
亡き父も、母が言うほどにサッカーを愛していたのなら、私ができたからと諦めずに続けて、自分の道を開拓していたら、こうして花咲くことがあったのではないか。少なくとも、命を捨てるようなことにはならなかったのではないかと、思わずにはいられないのだ。

滝沢選手は中盤も前線もこなす、爆発的な得点力を持ったタフガイだ。
日本人には稀な、しなやかな身体をもっている上に、体中のどこにも眼が付いているのではないかと思うほど、相手を出し抜くのがうまい。
だから、そこから生み出されるゴールは、ねらってねらって…というのではなく、いつも、え?そんなところからそんな方法で?というミラクルになる。
これが、サッカーをかじった人間にはたまらない魅力となって映るし、サッカーを知らない人でも、ファンタジスタと言われるとそうに違いないと見え、またまた話題になる。

現在の滝沢選手は、公然の秘密兵器として、ワールドカップを心待ちにする人々の胸を躍らせているのだ。

いよいよ来週は、その姿を間近に見られるのか!
スミレは会場に足を運ぶには…と、パソコンを立ち上げて調べ始めた。
いつのまにか、さっきまでの重たい気持ちをすっかり忘れて。






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