Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年03月


「俺は研究には向いているが、人をまとめるとかいうことにはとんと向いていない。
自分のことをしながら、他の研究員の研究がどうなっているかを気遣い、
その一方で、自分たちのユニットが他に遅れを取らぬよう、使える研究開発をせねばならん。
研究費がどうとか、スケジュールがどうとか、俺の都合ではどうにもならないことばかり、年中なだれ込んでくる。
競争と人間関係と研究との三角関係は、俺をとことん疲れさせた。
けれど、俺にはほかに生きる道はないと思っていた。
なにより、収入がよかったからな。
このポジションを手放すのは愚かな人間のすることだと思いこんでいたのだよ。

しかし、7年前のことだ。
俺はとうとう疲れきって、倒れてしまってなぁ。
ばたりと倒れたわけじゃないんだ。
ちょっとひいただけの風邪がいつまでたっても治らない。
少し疲れただけなのに、夜には熱が8度だ9度だと出るんだよ。
乾いた咳がコホコホと出続けて、夜は眠れず、昼は集中できず、何も食えなくなった。

今日子さんは、そのころ既に教育から福祉の分野に移っていて、もみの木設立を県議会に通すための仕事をしていた。
今日子さんは平気なのだよ、人の上に立つことと、自分の仕事に没頭することを両立できる。
けれど、さすがに具合の悪い旦那がいては、平気とはいかなくなった。
入院でもすれば苦労もかけなかったろうけど、そういう病気でもない。
大事な時だ、迷惑になってはならんと思えば思うほど、具合が悪くなってなぁ。
どうしても、立ち上がれない朝が増えた。
熱は下がらなくなり、咳はとまらなくなった。
しかし、医者は風邪ではなさそうだという。

仕事を休んで横たわっていたある日の昼間だった。
俺は唐突に気付いたのだよ。
人間には、自分にしかできないことがある。」

「自分にしかできないこと?天命とか、そういうことか?」
新吉は尋ねてみた。黙って聞くべきとは思いつつ、この話の先が読めなかったからだ。

「いや、そういうことではない。
眠ること、食うこと、出すこと、病気になること、治すこと、運動すること、何かを感じること…。これらは、他の人に代わってもらうことができないだろう?
誰も俺の代わりに眠ってはくれないし、俺の代わりに薬を飲んで病気を治すことはできないんだ。
俺はね、新ちゃん、研究所のいろいろに気をとられているうちに、この『自分にしかできないこと』をないがしろにしていた、無視していたと覚ったのだよ。
それでは、生きていると言えないじゃないかと思った。
俺は、呼吸しながら死んでいるのと同じだと。

丁度そのころ、今日子さんは県議会を通ったもみの木学園設立の責任者になることが決まった。
きっと、彼女は当分自分のことを棚に上げて、全身全霊でこの仕事に向かうだろう。
いい機会だと思った。
俺は、俺と俺の大事な奥さんの「生きる」部分を担う決意をした。
よい食材を手に入れ、美味い飯を作り、心地よい家で毎晩よく眠れるように。
顕微鏡や白い壁だけでなく、いろいろなものを見て、人と語り、心を動かしながら生きる毎日を手に入れることに決めたんだよ。

ついでに、俺には夢があった。
小さいころからの夢だ。
それが、文筆家だ。
俺はその夢も同時に叶えようと思った。
しかし、本を出版する小説家のような才能も根気もないことは分かっているし、何より本を書くために全てをなげうって没頭しては、研究者時代と何も変わらなくなるからな。

その時、ふと思いついたんだよ。
俺は自分が作ったものに対して、いつも情報がほしかった。
もちろん、リサーチ部だのマーケティング部だのの連中が、いろいろな情報をよこしてくれる。
だがなぁ、違うのだよ。
俺が心からほしかったのは、こちらがほしい情報ではなく、使う人が発する、生身の声だった。
だから、もし俺がそういう声を拾い集めて、ほしがっている奴らに届けたらいいのではないかってね。
さっき、聞いたろ?どこの研究員が、ドライヤーで白髪を染めようと考える?
しかし、できたら世紀の大発見だ。
ああいう声を、俺は掘り出したかったんだ。

今日子さんに相談すると、二つ返事で賛成してくれた。
あの時は、本当にうれしかった。
なぁ、今日子さん、俺は心から感謝したよ。
君が、収入より俺の考えを尊重してくれたことにね。
どうやら、世の中は、そういうふうにはなりにくいようだからね。

俺はきっぱり研究所を辞めた。
運よく、うちには公務員がひとりいるからね。
安定収入には事欠かない。
しかも、俺のそれまでの収入で、さして贅沢もせず、仕事ばかりして暮らしていたから、退職金も合わせたら、けっこうな小金持ちになったのだよ。
その小金を使って、この家を建てた。
俺と今日子さんが心地よく暮らすだけでなく、人々がやってきて、言いたいことを言い散らす場所を作ったわけだ。

初めはなかなかモノにならなかった俺の文章も、今では固定客が付いている。
最大の顧客は、あの頃一緒に研究していた仲間たちだよ。
儲かりはしないが、ふたりで食べて行くには充分だ。
このあたりは、野菜も米も、うまくて安いからなぁ。

俺は自分の選択が正しかったと、今では本気で思っている。
毎朝胸一杯に青空を吸い込む。
細胞のひとつひとつに沁み込ませるように水を飲む。
今日子さんは以前と同じように、よく笑うようになった。
くだらないことでも、話し合うようになったしね。
俺はなぁ、わざわざ言うのも気恥ずかしいが、俺の幸せの形はこれだなと思うのだよ。
まぁ、こんな曖昧な仕事では、借金するには信用されないだろうけどなぁ。」

新吉は何ともいいようのない気持ちになっていた。
隆三と今日子は、新吉を挟んで座ったまま、互いの顔をふわりと見つめ合ってニコニコしている。

「隆ちゃん、俺は…」
ふたりが互いの顔から視線をはずし、自分のほうを向くのを感じながら、溜息とともにつぶやいた。
「俺は、今のお前たちのように妻の顔を見たことがないかもしれない。
そんな記憶がない。
それどころか、彼女が生きている間に、俺は彼女の名前すら、呼んだことがなかったのだよ!」






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「おい、これ、読んでみろ。」
妻を亡くし、4つめの季節を迎えてようやく、失ったものに真っ直ぐ向き合う日を迎えた幼なじみに、隆三は白い紙を差し出した。
「これは?」
「まぁ、読めって。」

そこには、多少老眼が気になる新吉にも楽に読める大きめの文字が並んでいる。
言われるままに目を通すと、前日の若い女性たちがバッグについて語ったことがまとめてある。
文章は大方、このバッグの有用性について、宣伝が書かれているわけだが、最後には、これこれのような工夫があれば、さらに使用者を喜ばせるであろうというように締めくくられている。

「なんだ、これは?」
「これが、今の俺の仕事だよ。」
「誰に宛てたものだ?」
「あのバッグを作った会社の、社内報に載せる記事だ。」
「社内報…。」

「これはな。でも、本屋で買えるような雑誌の時もあるし、研究開発の資料の時もある。」
「お前が書いたものが雑誌に載っているのか?」
「ま、きわめて、ごく、稀にだがね。」
「そうだったのか。」
「どうしてそんなことを始めた?と聞かないのかね?」
「聞いてほしそうだな。」

「研究所勤めは楽しかったんだよ。それは、本当だ。
あの会社は、白物家電からオーディオから、医療機器まで、幅広く手掛けているからね。
製品を開発する…というよりは、開発したこの技術は何に使えるか?という感じだったな。
だから、自分のすることに無駄がない。
それは、とても恵まれたことなんだ。

一研究員として、好きなことをしていればいい間はよかったんだ。
今日子さんとも一緒になって、彼女は彼女で子どもたちに囲まれて、毎日楽しそうでね。
でも、楽しいとばかりも言っていられなくなった。

当たり前のことと言えばそれまでだが、勤め始めて時間がたてば、それなりの責任が生じる。
俺は長野に異動になった。
今日子さんはそれに付き合って、慣れた東京の学校を離れ、こちらに移ってくれた。
長野の研究所は広くてなぁ。
子どもたちも、東京都はちがって、素朴で生き生きとしていると、今日子さんは喜んだ。
グランドの大きさが、東京の3倍もある。遠足の行き先といえば、日本中から憧れられるような風光明媚な山々が選び放題だ。
俺たちは、それぞれの仕事に打ち込んだんだよ。

変化は、今日子さんの方に先に来た。
わが妻は、知ってのとおりのキレ者だからね。
あっという間に現場を離れ、教育委員会に招かれた。
それまでは、誰と子どもの名前はいわないが、こんなかわいらしいことがあった、あんな愉快なことがあったと、晩飯を食いながら嬉しそうに話してくれた彼女が、仕事の話は一切しなくなった。
聞いても、話すようなことは何もないのよとしか言わない。
顔色が悪くなり、笑顔が減って、口数も、体重も減ってね。

心配するというよりも、変化にとまどっていた時だよ。
俺にもうねりがやってきた。
主任研究員という役回りがね、やってきた。
一研究者から、自分の研究を進めるほかに、若い研究員たちを束ねる立場になったわけだ。
これが、いけなかった。」






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「……ちゃん、しんちゃん、おい新ちゃん?」
我に返ってみると、いつの間にかリビングには佐々木夫妻だけになり、にぎやかな老婦人たちは姿を消していた。
「大丈夫か?ぼんやりして、呼ばれて答えもしないなど、お前らしくもない。疲れがたまっているのではないか?」
隆三の矢継ぎ早の質問に、まだ頭の回転がついていかない新吉は、かなりのろのろとして見えるようだ。
「おい、どこか痛むか?脳の血管が切れたんじゃあるまいな?」

真顔で言うと、今日子まで一緒に寄ってきて、ふたりで顔を覗き込む。
今日子はそのまま新吉の脈を測り始めた。
あわてて腕を引いた新吉だったが、今日子ががっちりと指先に力を入れたので、振り払うことができなかった。
「いや、いろいろと、考えてしまって。」

脈が正常に時を刻んでいることを確認した今日子は、少しだけホッとした眼差しで、そのまま新吉の足元の絨毯に横座りになった。
隆三は、新吉の隣のソファーに腰かける。
そのまま、ふたりは敢えて問いかけることなく、新吉が話し出すのを待っている様子だった。

新吉は、逡巡した。
このまま黙っていても、きっとこのふたりは無理に何かを聞き出そうとはしないのだろう。
けれども…
どうしても、思うのだ。
もしも、ここに、ミハルもいたら、我々4人で何を話したのだろうか…。

「妻を、思い出していた。」
ぼそりと言う新吉の言葉に、聞き手ふたりは静かに目を見合わせた。
「ミハルさんというのだったね。我々は、とうとう会うことがなかったが。」
「物静かで、平和を愛する人だった。料理も掃除も完璧でね。俺が家庭を顧みず、世界を飛び歩くことができたのは、彼女がしっかりと、俺が帰る場所を守ってくれていたからだと、彼女を亡くしてから気づいた。」

話し始めたら、思い出がとめどなく溢れてきた。
「彼女の両親は、美しい春と書いて、美春と名づけるつもりだったそうだ。でも、画数が悪いと反対する人があって、しかたなしにカタカナでミハルと書くことになったと、いつも残念がっていた。けれど、ミドリが生まれた時は、美しい春には緑色が映えるからと、私たちは迷いなく名づけられてね。ただし、誰にも反対されないように、役所に届を出してから、お披露目したんだがね。」

聞き手はコトコトと笑う。
「ミハルは、こんなに家庭を顧みない夫を持って、きっととても寂しかったろう。子育ても全部任せきりで、俺は好きなことばかりして、家に給料さえ運んでいれば、それで許される、いや、それこそが俺の役目だと思っていた。しかしなぁ。」
新吉は、大きくひとつ息を吐くと、続けた。

「正しいことしか許さない母と、正しくばかりはいられない娘は、いつの間にか息が詰まってしまったのかもしれない。ミドリが早すぎる妊娠をしたのも、背景にはそういうことがあったのだろうと、今では思っている。けれど、それも、本を正せば俺の在りようがいけなかったのだ。」

ふたりは、むやみに慰めたりはしなかった。
そんな言葉は、言う側の優越感と自己満足を支えるだけで、何の意味もないことをよくよくわきまえているのだ。
「彼女を亡くしてこの1年、俺はあまり彼女のことを考えなかった。とにかく残されたスミレやミドリのことで精一杯で、考える暇もなかったんだ。自分の至らなさ、情けなさを痛烈に感じたことはある。彼女の遺志を継ぐためにも、彼女が生きていたらしたかっただろうことを、娘や孫に対して、俺が代わりにしてやろうと決意して、今日までやってきた。けど…」

新吉は、ようやく、一番言いたかった言葉にたどり着いた。
「ミハルは、俺にとってとても大切な人だったんだ。とても、大切な。ミハルはもう年をとることもなく、世界各地のうまい物を食わせてやることもできない。俺は、それが悲しい。」






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「重たいんだよねぇ、このドライヤー。」
梅さんと呼ばれた人の、その一言で、この日の舞台は幕を開けた。
「これでもずいぶん軽量化を図ったんだけどなぁ。まだ重いですか。」
「重い重い。いまさら、二の腕の振り袖肉を減らす気もなし、もっと軽くないと。」
「そうそう。右側乾かして、左に持ちかえるころにはもう、うんざりだ。」
「う〜ん。」

昨日とはだいぶ様子が違っている。
「わかりました。重さは何とかするとして、効果はどうですか?」
「ああ、あのなんとかイオンかい?」
「そうです。その、イオンです。このドライヤーは、風と一緒にイオンが出てくる。そのイオンが髪をつやつやに、しっとりとさせてくれるんですよ。バイキンにも強いから、髪を健やかに保ってくれるんです。実感できましたか?」

先程とは別の婦人が、きっぱりと言う。
「信用できん!」
「そんなぁ。」
隆三が情けない悲鳴をあげる。 
別の剛毅そうなばあちゃんが、先の婦人に加勢する。
「だって、見えんもんねぇ。福さんの言うとおり!」
そうだ、そうだと大合唱になる。
「ですからぁ、出ているんです。小さくて見えないけど、絶対出てるの!」
隆三が、まるで我を張る子どものように言うと、さらに一斉砲火を浴びる。

「見えんもんは信用できん。そりゃ、道理だろう。」
「ほんとに出てるんなら、色でもつけてみたらよかろう。」
「そうだ、そうだ。それに、ツヤツヤでしっとりなんていらん、いらん。頼んでないよ。」
「ばばあと思って舐めてるんだろう。ばばあの髪に欲しいのは、ハリとコシだよ。」
「そうだそうだ。ほっといてもクニャクニャ細くなって頼りないのに、しっとりさせてどうするね。ぼりゅーむがほしいってもんだ。」
ボリュームなどと、普段は使わないのだろう。
無理やり言ってみたようで、ちょっと噛んでいる。

「そのイオンに黒い色をつけてみろ。ドライヤーするたびに、白髪が黒くなったら、信用してやってもいい。」
「そうだそうだ。そりゃいい考えだ。」
囃したてる声々に、半ば腰を浮かせた隆三が食ってかかる。
「もしもイオンで黒い色がついたら、皆さんの顔まで黒くなっちゃうじゃないですかぁ!」
「そこを研究するのが科学者の仕事だろうに?だいたい、髪と肌はこんなにちがう。区別がつかないはずはないだろ?」
「髪も肌も成分はほとんど同じタンパク質で…」
隆三の説明など、もう誰も聞いていない。
 
「おうおう。バイキンは取らんでもいいから、髪が生えてくるような光線でも出してくれ。そしたらじいさんのハゲ頭にも使えるで。」
トメさんのひとことに、一同、爆笑する。

もはや、反論する気力を失ったらしい隆三は、言われるままにメモを取っている。
いつの間にか、ばあちゃんたちは、それぞれに持ち寄った心づくしの自慢料理に手を伸ばしている。
「今日ちゃん、いっしょに食べよう。今日の味噌餅は最高のできだぁ。ホットプレートを貸しておくれ。」
ニコニコと座っていた今日子は、声をかけられると、ホットプレートを取りに行きながら、嬉しそうに答えた。 
「これ、私、大好きですよ。ほんとに美味しい!」
「鶴さんと亀さんは山形の置賜郡出身でね、このクルミが入った味噌餅は、置賜に伝わる逸品なんだよ。ねぇ。」
「日本中にあるものと思ったら、誰も知らんでねぇ。でも、これを食べんと寿命が縮む。」

リビングは、もはや井戸端会議場だった。

新吉は、少し離れたソファーから、黙ってその光景を見ていた。
最初は面白おかしいばかりだった。
見分けのつかない老婆二人が、双子らしいこと、なぜかそれぞれに長野に嫁いだことにも興味をひかれた。 
隆三があたふたするのも面白い。
が、途中から、奇妙な感慨が湧き起こってきた。
 
ミハルが生きていたら、こんなふうににぎやかなおばあちゃんになったのだろうか。
美味い物をこしらえて、茶飲み友達とおしゃべりに興じたかったろうか。
東京の家には、もしかしたら彼女の友達が訪ねてきていたのだろうか。
顔にはしわが刻まれ、少しばかり背が屈み、白髪頭になったのだろうか。
物静かで、几帳面だった彼女も、こうしてガッハッハと笑い、ツバを飛ばしたのだろうか。 

今、新吉の胸を占めているのは、亡き妻のことだった。
生きてこんな時間を過ごしたかっただろうなぁと、不意に思ったのだ。






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納得がいく説明を求める新吉を、隆三はニヤリと見返した。
「お前、今日は帰れ。」
「なんだ?来いというから来たのに、今度は帰れか?無礼な。」
真顔を作って、いかにも怒った風に言い返す。すると、
「お前こそなんだ。正義のライダーだの、火をつけるライターしか知らんだの大ウソつきおって。お前がペラペラペラペラ英語を話すのを、俺が知らないとでも思ったか?」

おや、と新吉は首をすくめた。
覚られていたか。
しかたない。ここは開き直るしかない。
「ああ、英語だけじゃないぞ。フランス語もドイツ語もいける。インド語も、スワヒリ語だって挨拶程度ならOKだ。」
「ひけらかしやがって。そんなヤツに、素直に答えてやる必要はない。明日、出直してこいよ。」
「ふん。もったいぶりやがって。」

新吉は言葉だけ毒づきながら、言われるままに退散することにした。
「今日はこれから集中して、一気呵成に仕上げるんだ。」
背中から、隆三の声がする。
「おう。また、明日な。」
結局、今日子と顔を合わせたにも関わらず、胸の懸念を漏らすことすらできずに帰る羽目になった。

が、不思議なことに、1週間の東京で感じた様々な重たさが、隆三とのくだらないやりとりで、雲散霧消している。
友とはありがたいものだなぁと思う傍から、でも、そんな本音は絶対に言ってやるものかと思う。

しかし、自分の語学力を、あいつはいつ知ったのだろう。
英語好きは高校生以来のことだから、まったく知らないことではないだろう。
けれども、会話に不自由がなくなったのは、隆三と連絡を取らなくなった後のことだった。
仕事の必要に駆られ、興味の赴くままに身に付けたものだが、長野にあっては使う必要もない。
なにか、自慢のような、ひけらかすようなことはしたくなくて、必要もなかったから黙っていた。
だいたい、「俺、英語話せるんだぜ〜。」などと、意味もなく言うほうがおかしいではないか。
隠していたわけじゃない、タイミングがなかっただけだ。
そう、心の中で言い訳している自分に、苦笑いが浮かぶ。
きっと、隆三も、同じだったに違いない。

新吉の語学力について、思い切りネタバラシをしていたのは、水田優だった。
今日子との打合せの合間、何かの拍子にそんな話になった。
どこの国に行っても、新吉は通訳なしで商談をこなす、というような話だった。
それを面白がった今日子が、隆三にも話した。
本当に、仲の良い夫婦なのだ。面白いことは、基本的に何でも共有されている。

そんな事とは知らない新吉が、翌日も言われるままに佐々木家を訪れると、今度はすでに女性たちが集まっている。
昨日の、ミルクのにおいの若手ではない。
40年前はミルクの香りがしていたかもしれないような、人生の先輩たちだ。
大きなダイニングテーブルも、たくさんの椅子も全部埋まっている。
今日子が愉快そうにお茶を供しているところだった。

「あら、いらっしゃい。そちらに掛けていて。お気楽にね。」
今日子は新吉に声だけかけると、接客に戻る。
ご婦人たちは口々に今日子に話しかけ、持参の漬物だの饅頭だのをテーブルに並べていく。
これは一体、何の集まりか?と新吉がこっそりと身を乗り出したところ、彼らのカバンから最後に出てきたのは、ドライヤーだった。 






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「どうもみなさん、お疲れ様です。さっそく、聞かせていただきましょうか。」
リビングの、あの大きなテーブルにそれぞれが着席すると、新吉は声をかけた。
「悪くなかったわ。何より軽いのがいいわね。」
「軽い。」
「そうね。でも、こう、ベビーカーを押す時は肩にかけるから、もう少し取っ手に長さがほしいし、肩に当る部分の、この形、ちょっと痛いのよね。」
別の女性が、先ほど持って入ってきたバッグを取り出して、持ち手の部分を指さしながら言う。
「大きさは確かに、使い勝手がよかったわ。おむつとかミルクとか整理して入れられて、すぐ出せるこの仕切り、なかなか便利だったわ。」
また別の女性が、自分のバッグを開いて見せる。

そう言われてみれば、女性たちはみな、同じバッグを持っているのだ。
「ふんふん。」
隆三はは愛想よく話を聞きながら、女性たちの言葉をメモしているようだ。
「でも、外側にポケットがないのは不便よ。」
「そうね。キーを入れるのもいちいち口を開けなきゃいけないなんて、ナンセンス。」
「例えば、このへんに、文庫本とか入るくらいの大きさの平たいポケットをつけたらどうかな。」
「でも、雨が入りこむのはいやだから、折り返しがほしいわね。」
「あ、でも、ボタンとかマジックテープとかは絶対やめて。邪魔なだけよ。ただの折り返しで十分。」
「それと、このチャーム、いらな〜い!」 
「そうそう。知らない間に子どもが口に入れているし、チャラチャラ音がしてうるさいし。」
「ブランドバッグじゃないんだから、出っ張らない工夫をしてほしいわね。」

口々に要求と言うか難癖と言うか、そういうものが飛び出してくる。
女性と言うのはなぜこうなのか、本当に不思議だが、誰かが何かを言うと、他の同席者が一様に「そうね、そうね」と頷く。
すると、言った本人は本当に満足げな顔をする。
例えば、先ほど出ていたのと反対の意見が出たとしても、「あー」という感嘆詞の後に、「そうねー。」と来る。そうして、その反対意見も受け入れてしまう。
男同士だとなかなかこうはいかない。
特にそれがビジネスだと、簡単に「そうね」などと受け入れないし、己の立場と逆のことが出てきたら、喧嘩にしないよう気をつけながら、白黒はっきりつけるまで、議論を戦わせたくなる。

「カラーバリエーションなんですけど…。」
見るからに控え目そうなひとりが言いかける。
「カラーバリエーション、ですか?」
隆三は、他の人がこの話の先を奪わないよう、気遣っているようだ。
「はい。このバッグは単色だけではもったいない気がします。柄ものがあってもいいかと。」
「柄ものですか。なぜ?」
「ええ、単色だと、どうしても汚れが目立つんです。いつも丁寧に扱うわけでもないし、食べこぼしがついちゃったり、子どものよだれがたれちゃったり。今の色もそうですけど、単色だと、何色でも、そういう汚れがついたらバレバレです。すぐに拭けばいいと言われても、出先だと、つい帰ってからってなるでしょう?それより、花柄とかペイズリーとかで、汚れても気付かれないような模様が最初からついていたら、とっても気楽だなって…。」
つい饒舌になったのを恥ずかしがるように、うつむく顔がなんだかかわいらしい。
どうやら、隆三も、この人のことはお気に入りのようだ。
隠しても無駄だぞ。俺には分かる。


時折話題は脱線し、あっちこっちへずれて行くのだが、そういう時には隆三がさりげなく線路をひいて、話題を元に戻していく。
女性たちは、都合1時間ほど、お茶を飲みながらバッグについてあれこれ話していた。
「ありがとう。じゃ、これ。」
隆三は、茶封筒を一枚ずつ、彼女たちに手渡していく。
「次の話がきたら、また連絡してもいいかな。都合が悪ければ、いつでも断ってくれていいからね。」
隆三が言うと、彼女たちは口々に、連絡してして、必ず来るからーと、明るく答える。

どこか、ミルクのにおいがする女性たちが帰っていくと、 リビングには一気に静けさが帰ってきた。
「姦しい」とはこういうことだったと、新吉はジーンとする耳の奥をなだめながら溜息をついた。
「おい。お前、一体今のは何なんだよ!」
「だから、仕事だよ。」
「頼む、俺にも分かるように説明してくれ。これの、どこが仕事なんだ?」






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「なんだ、その、なんとかライダーというのは?正義の味方の、あれか?」
「ライダーじゃない。 ライターだ。」
「…ライターなんて、火をつけるやつしか知らん。」
「だから、説明しにくいと言ったろう。面倒だから、明日直接見に来るといい。」
「見る?そのライターは見られるものなのか?」
「まぁ、一部はな。話はそれからだ。ほかに用がないなら、今日はもう帰るが、いいか?」

新吉が店に入って、まだ10分も経っていない。
徳利にも半分ほど、酒が残っている。
「なんだ、急ぐのか?」
「いや、晩飯作る約束していたんだよ。まぁ、作らなかったところで別にどうということはないのだが…。」
「ああ、そういうことか。」
新吉は意図を察した。
ふと見ると、和服を普段着のように着こなした女将が、うまそうな里芋の煮物を仕上げたところだった。
「女将、その里芋と、何かみつくろって、こいつに持たせてやってくれないかな。」
「はいはい、お安いご用ですよ。里芋に柚子をのせても?」
「ああ、妻の大好物だ。」
隆三は遠慮なく喜んでいる。
「そうだ、同じ包みを2つ作ってくれ。うちにも持って行ってやろう。すまないね、女将。なんだか肴泥棒みたいだ。」
「何をおっしゃいます。お代はいただきますから、いつお腹に収めていただいても、お客様のご自由ですよ。」
なかなか機転の利く女性のようだ。
「新ちゃん、ありがとう。これで、寄り道の言い訳ができるよ。」

二人は翌日の約束をして、それぞれの家に帰った。
これは…。
思い出したことがあって、新吉は振り返り、もう数軒先にある自宅に、足早に向かう隆三の背中を見た。
「ふん。おやじくさい歩き方になったもんだ。」
子どもの頃、こんなふうに彼の背中を見送ったことが何度もある。
自分がこれから開ける玄関の中には、苦痛と溜息しかないのだ。
けれども、磁石に引き寄せられるように足取り軽く隣の玄関に消えていく彼が開けるドアの先には、笑顔と愛情と温かな言葉に溢れている。
うらやましかったなぁ、本当に。
でも今は、どちらも同じように、自ら開けたいドアがある。
自分を待っている人がいる。
これは、何と幸せなことだろうか。


翌日は夜明け前から粉雪が舞い降りはじめた。
新吉は、約束の時間かっきりに、隆三を訪ねた。
佐々木家のリビングは本当に広い。
特に目につくのは、夫婦二人で使うには大きすぎるかと思われるダイニングテーブルと、なぜこんなにも?と思う数の椅子だ。
スミレを連れて初めてこの部屋を訪れた時にも、なんと剛毅なと思ったものだった。
そうだ、その時隆ちゃんは「客が多いもので、思い切って新築した」と言っていた。

今日子も在宅していて、香りのよい緑茶を運んでくれた。
「で、隆ちゃん、見せてもらおうか。」
気が急くままに言うと、隆三はまぁまぁと手を挙げた。
「そろそろ、始まるから、茶でも飲んでいてくれ。」
「始まる?」

その言葉を待っていたかのように、玄関のチャイムが鳴った。
はいはいと隆三が出て行く。
先頭に立って戻ってきた隆三の後ろには、20代から30代とおぼしき女性が5人、一緒に連れ立ってきた。






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隆三に、今夜ちょっと二人で飲まないかと誘いをかけたのは、新吉が東京から戻った翌日の昼下がりのことだった。
朝のうちに、今日子には重役面接が決まったと電話を入れた。
今日子はそれから一日外出すると言っていた。
ならば、昼間は、家にいるのは隆三一人だろう。
訪ねて行くかと思ったが、昼前に来客があるという。
新吉は、一日オフと決めたものの、頭は佐々木夫妻のことでいっぱい、どうにも落ちつかず、そわそわし通しだった。
病院に行ったミドリはまだ帰っていない。
きっと、買い物ついでに昼食も済ませてくるのだろう。

12月に入ったばかりとはいえ、長野はもう真冬だ。
何度目かの雪は根雪となって、もう春まで解けることはないだろう。
高校生までの18年、見慣れた光景だったが、あれから何十年と、この風景から逃げていた。
雪は、嫌いだった。
雪寄せも、雪下ろしも、踏みしめて歩くのも、冷たく吹きさらされるのも。
けれども、どうしたことか、今、新吉は、雪に対してそれほどの嫌悪を抱かない。
人は自分の心持次第で、見える風景が変わるのだなと、改めて思う。
どうにも冷たい仕打ちばかりの母しか見えなかった頃には冷酷だった雪が、情熱をもって人生を賭けられる仕事や仲間に恵まれている今は、ただの白い風景だ。
ちょっと冷たくて足腰に響くが。

待ちあわせの時間より少し早めに店に着いた新吉は、そこに既に座っている隆三を見つけた。
小さいが、気の利いた肴を出す店だった。
開店と同時ほどの時間を指定したのに他意はない。
あまり遅くなると、どちらの家族も帰りの足を心配するからだ。

「すまん。待たせたか?」
「いやいや。こういうちょっとしたイベントが、今では貴重で待ちきれなくてね。」
隆三はいつもの仏顔をほころばせている。
ひとり酒を始めていたようで、白くなめらかな燗徳利と、同じ色の猪口が置いてある。
付きだしは、蕗味噌のように見えた。

「1週間も東京だったらしいね。大変だな。」
少しも大変だと思っている声ではない。
「そんなことより、お前、仕事辞めてたのか?」
うまく聞こうと思っていたが、本人を目の前にしたら、思い切りストレートに尋ねてしまった。
「仕事?」
「会社だよ。在宅で研究を続けているのではなかったのか?」
「何だ、唐突に。」
「どうなんだ?」

新吉の前にも、隆三と同じものが届いた。
隆三は、ゆっくりと猪口を傾け、じっくりと味わっている。
しかたなく、新吉も同じことをした。
春先から漬けてあったらしい蕗味噌は、舌の上に甘さとほろ苦さを運んでくる。
白飯がほしくなる味だ。

「仕事は、辞めたんだよ。6年前に。」
「6年?なぜ言わなかった?」
「お前、昨年突然連絡してきたんじゃないか。年賀状にわざわざ仕事辞めました、なんて書くかよ。」
「わざと、隠していたのか?」
「そういうわけではない。」
「今、何しているんだ?家で仕事をしていると言うから、俺はてっきり…。」
「すまん、すまん。まぁ、そう恐ろしい顔をするな。どうも誤解されているとは思っていたんだが、改めて説明するのも難しくてなぁ。」
「まさか、違法なことをしているわけじゃ、あるまいな??」
「違法?とんでもない!」
隆三は爆笑した。
「法を侵すようなことはしていないよ。ただ、認知もされていないがなぁ。」
「なんだそれ?」
「…フリーライターだよ。」
「はぁ?!」






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「会長。」
権藤氏は、姿勢を改めて会長に向き直った。
「ご報告は以上です。ご提案申しあげたいことがあります。」
「あなたの質問に、佐々木さんが何を答えたかは教えてくれないのか?」
「そこです。この人事は松重の新規事業にとって大変重要な布石です。 先日は、施設長の人選は私の眼鏡にかなえばと言っていただきましたが、ここはひとつ、会長御みずからお会いになってはいかがかと。」
「私が…。」

「そうです。お願いします。」
新吉も膝を乗り出した。
「最初にご覧になった県の資料と、周囲の認識にズレがあるのは事実のようです。が、我々にとって重要なのは、彼女の過去ではなく、彼女がこれからの我々にとって有益な人物か否かということです。」
権藤氏はいままでにない不敵な笑みを口元に湛えて言い放った。
「有益な人材なら、多少じゃじゃ馬でも、乗りこなせばよろしい。だいたい、松重には素直なサラブレッドなどもともといないではありませんか。私もしかり、この星川も。重役どもの顔を思い出すと、馬どころか怪獣だらけだ。」

思わず吹き出した会長は、先ほどまで力みかえっていた身体から力を抜いたようだ。
権藤氏が乗り出したのとは逆の方向へゆったりと身を沈めると、ソファーの感触を楽しむかのように背中を幾度か背もたれに押し付けて、 心地よい場所を確保すると、ハイキングの提案を受けた子どものような屈託のない笑顔を浮かべた。
「これは、おもしろいことになったね。是非そうしよう。私が人事に立ち合う時と言うのは、重役人事以外はすべて社長たちの仕事。私は決定事項を知らされるだけだったからね。これは、面白い。」

「佐々木さんに、会長のお考えを何でもぶつけてみればよろしい。ひらめきは、いつも人が運んでくるものですからな。」
何やら独り笑いをしている権藤氏の言葉をかみしめるように、会長は秘書を呼び、空いている時間を探させた。
丁度1週間ほど後に決まった。

では、その時はあなた方も同席してくださいという会長の言葉を、貴重な土産のように持ち帰った新吉は、他の用事を済ませて、その日の夜遅くに長野へ帰った。
気付けば、家を出てから1週間経っていた。
身体も心も緊張と弛緩を繰り返し、すっかり疲れきっていた。
帰りの列車の中で、きっと爆睡してしまうだろうという予想に反して、新吉は少しも眠れなかった。

「御夫君については、コンプライアンスに反するような害がないことだけは確かなので、あとは自分で確かめたらいい。幼なじみなんだろう?」
会長の前を下がり、本社ビルを出る道すがら、そう言った権藤氏の言葉も気になる。
「佐々木さんのことは、あれでよかったか?」
と尋ねる権藤氏に、最敬礼で謝意を表した新吉に、権藤氏は、会長の前では言わなかった一事をつぶやいた。
「しかしな、佐々木さんは、本当にこちらの仕事をしたいのだろうか。本心では、あれだけ理想を掲げて突き進んだ児童養護の仕事を続けたいのではないか?その方が、社会も、彼女自身も、幸せなのではないだろうか。」

ずっと、新吉の心の底にあったのと、同じ懸念だった。
それが権藤氏の口から、これほど鮮やかに語られると、さらに重みを増した。
重すぎて、痛いくらいだ。
カードは、自分が握っていると思う。
彼女が望むなら、彼女が受けた不当な扱いを白日の元にさらし、復職させることもできるかもしれない。
松重には、腕っこきの弁護士が掃いて捨てるほどにいるのだ。
それほど、県のやり方は汚かった。

しかし、新吉は、既に発進したこの新たな道を、佐々木今日子という得難いビジネスパートナーと、共に歩いてみたかった。
明日には、面接が決まったと、彼女に連絡しなくてはならない。
さて、何を言い、何を言わないか。
暗闇を突き進むあずさの中で、新吉はざらざらとした思いを噛みしめ続けた。






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「実は、報告を受けて、私も昨日長野に乗り込みましてね。」
と、権藤氏が言い出したのには、会長も驚いた顔をしたが、新吉はもっと驚いた。
松重の人事のドンが、わざわざ現地調査だと?
「会長の前で言うのもなんだが、星川の力になりたくてね。どういう結果になるにしろ、確かな情報がほしいだろう?」
その通りだった。

「会長。私はまず、長野県のもう一つの県立養護施設である『松本学園』に伺いました。」
「ほぉ。なぜ?」
「施設長にお目にかかるためです。同じ立場同士、他の人の見方とはまた違う視点があるかもしれないし、他が知らない情報を持っているかもしれないと考えました。」
「なるほど。で?」
「大筋は他の情報と変わりませんでした。ひとつ、興味深い話が聞けたと思ったのは、佐々木元施設長の思いでしょうか。」
「思い、とは?」

「お聞きとは思いますが、もみの木学園というのは、健常児と障害児の両方を対象とした養護施設です。松本学園の方が歴史がありますが、こちらは健常児のみ、規模も半分以下です。それでも、県に報告しなくてはならないような事故件数は、いつも松本学園の方が多かったというのです。」
「規模が小さいのに?なぜだろう?」
「松本学園の施設長から見て、その理由は、佐々木元施設長が目指していた『養護の質』の違いだろうと言うのです。松本学園では…というよりも、どこの養護施設でも、受け入れた子どもたちの安全と健康を第一に、無事卒園させようと考えているところ、佐々木元施設長は、受け入れた子どもたちが本来家庭で与えられて当然だったものをできるだけそのまま、学園の仕組みの中で受け取ってほしいと考えていたようだと言うのです。」
「親の、愛情ということだろうか。」
「はい。ご明察ですな。そのためには、療育、教育、時には医療の分野にも踏み込んで、子どもたちを無事で健康であるだけでなく、幸福な人に育てたいと考えていたように思います、とのことなのですよ。」

会長は、黙って考え込んでいる。
「次に、私は、長谷川真理さんにお会いしてきました。」
「なんと!」
声をあげたのは新吉だった。
「驚いたことに、彼女は佐々木元施設長の退職の理由を、女子児童の死亡に関する引責と考えておりました。どうやら佐々木さんは、長谷川さんが長い間勤務を続けたことが本当の原因であると知らないようですな。」
新吉も知らなかったのだから、きっと話さなかったのだろう。
胸が、また痛んだ。
「総合して考えるなら、きっと佐々木さんは、ご自身の理想の具現を担当してくれた長谷川さんに責任をにおわせるようなことはしなかったということでしょう。
責任を取る、ということを、本当に理解しておられるようですな。
最後に、その佐々木さんご自身にもお目にかかってきましたよ。」

「おお!」
会長と新吉が同時に声をあげた。
「星川が私の老後を『おらほの家』で見てくれるというので、下見にでかけたのですよ。すると、偶然にも、佐々木さんが改築の進み具合を点検に来ておられた。」
何が偶然か。後をつけまわしたのではないか?と想像した新吉は、どうやら同じ想像をしたらしい会長と目を見合わせた。
「まさか、この細かな情報を彼女に確認したのではあるまいね?」
新吉が思わず問いただすと、権藤氏は余裕の笑みを浮かべた。
「そんなことをするわけがない。私はただ、尋ねたのですよ、ここには何ができるのですか?と。
そうしたら、実にいろいろと話してくださった。
私は年を取るのが楽しみになりましたよ。」






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