Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年02月


新吉が会長に呼ばれる時、それまではいつも麹町のお屋敷に行っていた。
夜のことが多く、この日のように日中と言うのは珍しい。
さらに、本社ビルにある会長室を指定されたことは、新吉に新鮮な感動を与えた。
いよいよ、おらほの家事業が会長の私的な関心事から「松重の仕事」になったのだという気がしたからだ。

会長室へはセキュリティも厳しい。
いくつかのチェックを通り過ぎ、秘書に案内されて会長室の扉前に立つ。
思わず姿勢を正した。
「星川さんがいらっしゃいました。」
秘書の案内の向こうに、何やら話し声がした。 

怪訝に思いつつ入室すると、応接セットの向こうに会長が掛けており、手前に別の人物がいた。
テーブルの上には既に資料が広げられている。
振り向くまでもなく、手前の人物は人事の権藤氏だった。
一瞬、自分は指定の時間に遅刻してしまったのかと思い、爪先から頭のてっぺんに突き抜けるようにカッと上気した。 

「ああ、来てくれましたか。」
「どうした?星川。今日は定例報告の日だったのでね、先に別件を済ませたところだ。会長からご依頼の件についても報告したいと昨日連絡したところ、それならお前も同席してもらうのは早いということになってね。」
ああ、そういうことか。
新吉はホッとした。 
勧められた椅子に腰をおろし、話の動向を見守ろうとした。
ここは、極めて重要な場になるだろう。
新吉は息を飲んだ。

「二人は同期なんだそうだね。」
会長が意外なことを言い出した。
この場でそのような話が出るとは思ってもみなかった新吉はしどもどして、はぁ、と間の抜けた声を出した。
「こいつはクソ真面目なだけが取り柄で、いつも熱くてね。」
権藤氏は可笑しそうに言う。会長とはいえずっと年下でもあり、日ごろから密な関係もあるようで、兄が弟に語りかけるような話し方だ。
「ほぉ。熱い、ですか。」
「そうそう。同期採用の中でも、私は多少扱いが違いましたからね、周囲の者はチヤホヤしたり、嫌味な視線を向けてみたり。ま、当然ですわ。でも、こいつだけは、終始一貫、同い年の男同士の付き合いをしようとしてくる。実は、私のほうが惚れ込んだようなものですよ。」

そんな話は今初めて聞いた。
確かに、権藤だからと特別に思ったことはなかった気がする。
自分と違って、天下の松重に乞われて入社したというから、どれほど優秀な人物かと興味は持った。
しかし、話してみれば何のことはない、気分の良い男だというだけだ。
それを、権藤の方ではそんなふうに思っていたのか。

「それより、会長。ご報告を申し上げます。」
権藤氏は笑顔を引っ込めた。






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会長の元を辞去した新吉は、想定外の行動から、予定の行動へと移っていった。
行くべき場所があり、会うべき人がいる。
新しい事業を立ち上げるとは、これほど大変なことかと、新吉は何度思ったか知れない。
自分一人で済むことは何一つないといっても過言ではない。

新吉がそれまでしてきた「物を売る」ということと、経営とを、時々比べてみる。
似ている点ももちろんあるが、別物だなと思う。
いつかこの「別物」の感覚を言葉にできるようになるのだろうか。
その頃には、自分も胸を張って経営者だと名乗れるようになっているのだろうか。

社内探偵がいくら優秀でも、長野の個人を調べるのが2日や3日で済むとは思われなかった。
でも、何日かかろうと、きちんと答えを出して長野に帰ろうと心は決まっている。
「おらほの家」を自分とともに産み育てていくのは今日子をおいて他にない。
2泊もすれば帰れるだろうと予約したホテルに向かいながら、新吉はすでに身体がずしりと重たくなっていることに気付いてため息をついた。
泊を延ばしてもらえるだろうか。

東京に来て3日目、本社に立ち寄った新吉は、聞き覚えのある声に呼びとめられた。
振り向くと、上等なスーツをパリッと着こなした、ロマンスグレーの男性が立っていた。
一歩後ろに控えているのは秘書だろう。
「やぁ、やっぱり星川だ。最近お前の名前ばかり聞くからな。元気そうで何よりだ。奥方のことは残念だったな。」
親しげに語りかけてきたその男こそ、人事の神・権藤だ。

「権藤。世話をかけているようだ。それにしても、相変わらずいい男っぷりだな。」
「なんだ、それは。俺におべんちゃら使っても、手心は加えんよ。」
「そんなことは期待するはずもない。ただ、ありのままを、だ。」
「ああ、そうだな。ひと段落ついたら一杯どうだ。」
「人事部長様のお誘いを断るやつはおらんからな。楽しみにしているよ。お礼に、定年後の楽しみをこしらえておいてやろう。」
「なんだって?」
「物産の暮らしが全てじゃないってことだよ。まぁ、任せとけ。」
「相変わらず、話がうまいなぁ、星川。じゃ、老後の楽しみはお前に任せるとしよう。またな。」

予定でもあるのだろう。片手をあげて挨拶をした姿勢のまま、秘書に急かされるように去っていく権藤は、新吉と同期採用だ。
採用は同期だが、待遇はまったく別だ。
いってみればドラフト1位指名で入社した権藤に対し、新吉は自らエントリーしたセレクションに指先一本でひっかかったようなものだ。
が、採用当初の研修でたまたま知り合いになった二人は、なぜか意気投合した。
同じ仕事をしたことはないが、旧知の友と言ってよい仲だった。

その権藤氏へ会長自らが申しつけた件だけあって、社内探偵たちも頑張ったようだ。
東京滞在5日目の朝、会長から呼び出しがあった。
新吉は胃袋を握りつぶされるような緊張を感じながら、指定された会長室へと向かった。






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この書面が事実だとしたら…県が事実だと記録したことの実際を疑っていいのかも分からないが…新吉が知っていると思っていた今日子とは、別人のような気がする。
その一方で、あの今日子だから、こういうこともしかねないと思う。
熱い人だ。思いこんだら何でも命じるかもしれない。

いや、やはり違う、と思う。
事実の一端はあるのかもしれないが、ここに書かれていない事情とか理解とかがあるのではないか。

それ以上に、どちらにしろ、トコちゃんではなく、スミレのことによってあの二人は窮地に陥ったのだ。
もともと東京にいたスミレを、無理して長野に移し、面倒をみてもらった新吉は、申し訳なさに身がすくむ思いだった。
今すぐにも詫びたい。

しかし、詫びるには、自分がこれを知ってしまったことを話さなくてはならない。
会長が今日子を認めないでいることも。
自分が、この書面を事実と認めたということも。
それは…できない。

とはいえ、この書面を読み、新たな事業の経営陣としては不適格と断じた会長の意思は何ら間違っていない。
これが事実なら、新吉であっても不適格だと思う。
「おらほの家」は、職員も利用者も同様に、自分の暮らしを大切にできるように組み立てるつもりだ。
週休3日を打ち出しているのも、その決意を形にしたものだ。
だからこそ、会長は思われたのだろう。
そういう特色がうまく機能しなくなった時、職員に犠牲を強いることで乗り越えた気になってしまうような人物を経営陣に招くつもりはないと。
その陰に、胡散臭い夫がついているとなったら、なおさら信用はガタ落ちだ。

新吉はこのことを、信じるとか信じないとか言う、感情論で扱ってはいけないと気付いた。
これは、ビジネスだ。
佐々木夫妻が幼なじみと、かつて憧れたマドンナであることは否定できない。 
しかし、だからと闇雲に感情的な庇護者になってはいけない。
子どもの頃に性格のよい人だったからと言って、全員が全員、そのまま成長するわけではないし、一度の間違いも犯さずに生きているとは考える方が間違っている。
懸命に生きている人間を信じるということは、変わったり間違ったりすることを受け入れるということだ。
今、自分が、溺れてはいけない。

事実を知ることだ。

新吉はすぐさま、会長に面談を申し入れた。
それはただちに受け入れられ、その日のうちに、会長とこの件について話し合うことができた。
新吉が願い出たのはただ一つだった。
社内探偵たちに、書類だけで終わらせるのではなく、もみの木学園の職員に直接当って話を聞いてもらいたいということだった。
できれば、内々に本人たちにも当ってみてほしい。
これまで幾多の人々の裏も表も見てきた探偵たちの目にも不適格と映るなら、それはしかたがないことだ。
しかし、彼らがこの書面にない事実を見つけてきたら…

トコちゃんの事件に深く胸を打たれたまま、二度とそのような悲劇を起こさないためにも、わが社にできる社会貢献があるのではないかと思っている会長は、ことが直接トコちゃんの件に関わるだけあって、決断が速かった。
新吉に返事をする前に、会長はどこかへ電話をかけた。
「権藤さんはいますか。ああ、すぐこちらへ来るよう伝えてほしい。」

権藤?
なんと、権藤が直接関わっているのか!
権藤氏は松重の人事部長だ。
同じ「部長」でも、新吉とは月とすっぽん。
松重の人事の総本山を守る、人事の神と言っても過言ではない。
いずれ松重中枢の経営に加わることが約束されている人物だ。
なんと…。
会長の思い入れがわかり、新吉は改めて背筋が伸びる思いだった。






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松重コンツェルンにとって、小さな小さな「おらほの家」事業は、爪の先ほどの存在感もないささやかなものだ。
しかし、これを自分を象徴する新規事業として立ち上げ、以後100年でも続けていきたいと意気込んでいる誠一郎会長にとっては格別に大切なものだった。
新吉は未だに物産の社員としての待遇を受けているが、それもそろそろ整理される時期が来た。
その方法は、本社にいる専門家たちが詰めている。

当初、新吉が施設長になることで話が進んでいたが、途中から佐々木今日子の名があがった。
新吉と今日子との間では既定の事実のように思われていたが、東京ではそこがネックになった。
会長のOKが出ないのだ。

ヘッドハンティングをするような会社ならどこでもそうなのだろうが、松重では、当人の面接だけで採用を決めたりはしない。
特に、立場が上になればなるほど、その人となりを慎重に調べる。
ことによれば探偵を雇ってでも調べるところだが、それでは機密保持が難しくなるので、探偵業をする人物が、人事部や総務部に隠れている。 
どこにどんな手蔓を持っているのか新吉には想像もつかないが、この社内探偵たちは、相手が誰でも丸裸に調べてくる。
佐々木今日子を施設長にと打診した時、会長が当然のこととしてしたのは、この社内探偵たちに今日子の周辺を調べさせることだった。

そこでまず明らかになったのは、夫の隆三の仕事だった。
じつに、胡散臭いという。
新吉は、隆三が大学を出てすぐに就職した、某有名電機会社の研究室に、いまでも所属しているものと思い込んでいた。
在宅で仕事をしていると聞いても、いい年齢になったから、自宅での研究を許されたのだろうくらいに思い、敢えて尋ねもしなかった。
それが、会社は数年前に退職しているという。

さらに、社内探偵たちは、今日子がもみの木学園の施設長を…というより県職員を退職するにいたった経緯を記した書面を手に入れていた。
極秘のはずである。
なぜこんなものが手に入るのか。
県のコンプライアンスはどうなっているのか?
新吉は目を丸くした。

その書面が目の前にあること以上に新吉に打撃を加えたのは、そこに書かれた内容だった。
今日子も真理も、自分たちが退職したのは自分たちの落ち度であり事情であって、 誰のせいでもないとしか言わない。
だから、新吉もそういうことなのだろうと思うしかなかった。
隆三からはもう少し突っ込んだ話を聞いていて、誰かの内部告発があって、トコちゃんを家に帰す時の手続きに疎漏があった責任をとらされたのだと、胸の内では理解していた。
そのことは会長にも話してある。

ところが、書面には、トコちゃんの事件だけでなく、今日子が職員に対し、就労規則を意図的に破らせたために、職員が疲労を溜め、トコちゃんのことに対しても正しい判断を下せないほどになっていたと書かれている。
そこに、新吉は自分の孫娘の名前を見た。
真理の名前を見た。
真理が心血を注いでスミレを看てくれたことを新吉は知っている。
しかし、確かに、当時、新吉はスミレへの面会を止められていたから、詳細は未だに知らない。
その真実が、こういうことだったのか?と、新吉は愕然とした。

今日子は、職員を不法に働かせた管理責任を問われ、処分が決められていた。
しかし、その処分が発効する前に依願退職したことになっていた。
真理についても同じような記載があった。
半年以上にわたって休みもなく働かされているという異常な状態に自ら正当な扱いを訴えることがなかった点に指導が入ることになっていた。また、トコちゃんを帰宅させた後の細かな連絡確認を怠った点については以後詳細に調査、となっている。が、それも行われる前に依願退職したとある。
また、このような事態に対し、内部から告発者が出たこと、その氏名も記載されていた。
その名前に、新吉は覚えがあった。
そうだ。スミレの部屋をみてくれていたもう一人の職員が、安代という名前だったではないか!

新吉は、大きな木槌で頭を殴られたような衝撃に耐え、次のことを考えなくてはならなかった。






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寝坊したとはいえ、新吉が目を覚ましたのは朝8時半。
今日は休暇と決めていたので、それほど寝過したわけではなかった。
一瞬、自分がどこにいるのかわからず、空白になった頭をフル回転させる。
ああ、ここは長野の家だ。俺の寝室だ。
今日は仕事じゃないから、この時間に起きても問題はないんだった。
どうやってベッドにたどりつき、いつ眠ったのかは、どうしても思い出せなかった。
のっそりと起き上がってみると、下着姿のまま、布団の中にいた。
ミドリが布団をかけてくれたのだろうか。それとも自分でもぐりこんだのか。
いくら記憶をたどっても、昨夜の映像は出てこなかった。

耳を澄ませてみる。
階下からは物音ひとつしない。
ミドリはどうしたんだろう?スミレは?
ああ、スミレは学校か。
ならばミドリは?

東京よりもずっと低温の室内に、下着姿は寒かった。
ぶるると肩を震わせ、適当に着るものを選ぶと、羽織りながら階段を下りる。
リビングのテーブルに、ミドリのメモが置いてある。
「おはようございます!東京出張お疲れさまでした!今日はゆっくり休んでね。ちょっと、病院行ってきます。朝ご飯は、冷蔵庫を見て温めてね。お昼前には帰る予定です。」

ああ、なんだ、病院か。
ミドリは定期的に通院を続けている。
混雑した院内で待つのは嫌だといって、通院の日は朝早くに出ていく。
運転免許がないから、バスや電車を乗り継ぐ。
でも、それもリハビリのひとつと、新吉は考えていた。
ミドリも面倒がる様子はないようだ。

ソファーに身を投げだして、ようやく家に帰ってきたんだなという気がした。
この1週間、東京でしてきたことは、新吉を芯から消耗させた。
さて、どうしようか。
空腹を感じていたが、それを満たすよりも新吉を捉え続けていることがあった。
新吉は、何度か考えるのを放棄したその問題を、また考え始めた。
いや、それよりも実務をこなそうか。

新吉は電話をかけた。
相手はすぐに出た。
「ああ、今日子さん。おはよう。
うん、ゆうべ戻った。
ああ、大丈夫。採用計画は順調に進んでいるよ。
その前に、あなたの重役面接が決まった。
来週早々、僕と一緒に東京に行ってもらうからね。
え?
何言ってるんだ?大丈夫に決まってるだろう?
普段のあなたでいればいいことだよ。特別なことではないんだから。
うん、うん。
今日はオフにしたいから、明日改めて連絡するよ。
ああ、建築の方が順調なのは水田君から連絡もらっている。
彼も今日はオフだそうだね。
じゃ、また明日。」

短い連絡のみで受話器を置いた新吉は、また小さくため息をついた。
自分の心が定まらない。
これではいけない。
明日、彼女に会うまでに、結論を出すんだ!






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もっと高い山だと、沸騰するまでにけっこう待たなければならないけれど、そこは里山の気安さ、待ちくたびれる前にぐつぐつとお湯が沸きだした。
優が、ゴムを巻かれた取っ手を素手で握り、すっとお湯を注ぐ。
真理が、めくれたふたを手早く閉めた。

見慣れたカップヌードルの蓋の隙間から、白い湯気と食欲を刺激するあの香りが広がる。
真理は何気なくそのカップを外側から手のひらで包んでみた。
発泡スチロール越しの温かさが、じわりと指先から全身に広がる気がした。

「人って、いろいろ感じるんですよね。」
不意に、優が言う。
「そうね。」
唐突さに驚いたふうもなく、真理が答える。
「相手が変わったり、場所が変わったり、出来事が変わったりするたびに、いろいろ感じるんですよね。いいことだけ感じていたいと思っても、それは無理で、時々たまらなく嫌になったりするんだ。」
「そうね。」
「同じことを言われても、こっちの人だとすごく嬉しいのに、こっちの人だと滅茶苦茶腹が立ったり。」
「うん。そういう時、あるね。」
「普段はそんなふうに感じるのは嫌だな、そんな言い方したくないと思っているのに、どうしようもなくて、絶対にそう感じちゃって、なんかブレーキきかなくなって、ドドッとそれを出してしまって。後で自己嫌悪に陥ったりするんだけど、どこかで、しょうがないじゃいかって開き直っている自分もいたりして。」
「うん。」

真理は相槌を打つだけで、何も問いかけない。
そのことに対して真理自身がどう思うかには関心がなさそうだ。
ただ、あなたはそう感じているのね、そうなのねと深く寄り添っている。
だから、優は真理に何かを分かってほしいとか、説明しようとする必要がなくて、いつしか自分の内側だけを覗きこんでいた。

「俺、ガキなんですよ。相手が女の子でも、自分がヒーローになって、全部カッコよく支えてやるとか、俺が幸せにしてあげますとか、そんなのできないし、やりたくなんだよな。」
「やりたくないんだ。」
「やりたくないね。そんなの、相手を、馬鹿にしている気がする。それに、俺、本気で仕事してるから、俺が仕事に夢中になっている時には、別に支えてくれなくていいから、勝手に幸せでいてほしい。で、俺と一緒にいるときは、目いっぱい俺と一緒に幸せでいてほしい。それくらいの力は、持ってて欲しい。」

真理は小さく微笑んだ。
ぽつり、ぽつりと言葉がこぼれ落ちるような話し方を、優はしている。
いつもはそんな話し方をしない。
話すことにストレスがない人だから、立て板に水と言葉が出てくる。
それが、今は優の中の置く深いところから押し出されてきた言葉が、少しずつポロポロと伝わってくる感じ。
真理はふと、遠い昔、どこかで体験した光景を思い出していた。
学校の、人のいない音楽室だろうか。
グランドピアノのふたをそっとあけて、ポロン、ポロンと鍵盤を押してみたことがある。
澄んだ音色が思いがけず大きな音で響いた。
曲など弾けるわけではない。
ただ、ひとつひとつ、鍵盤を押してみる。
音が響くだけで心が震えた。

「大人げないよなって、自分でも思う。けど、大人ぶって人を傷つけるより、このガキな俺でもいいって言ってくれる人を探さないとな。」
優は勝手に結論にたどりついたようだ。
「探せ、探せ。世界の果てまでも!」
「いますよね?どこかに。」
「いるいる。絶対いる。」 
真理は自分のと言ったカップヌードルの蓋をめくった。
優も続いてシーフードを手にする。
「乾杯!」
 
山のてっぺんで、青空を見上げながら食べるカップラーメンは、想像以上に美味かった。
やっぱり醤油味も食べたい、半分くださいと言う優に、あげるもんかと真理が答える。
いいじゃないですか。俺が背負ってきたんですよ、シーフードあげますからと、無理やりカップを取り上げようとして大騒ぎをする。
二人の笑い声が響き渡った。





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距離を出すために、駐車場から頂上へ直行せず、2つのピークを越えてきていた。
時間も丁度12時を過ぎたところで、すっかりお腹が空いている。
いい頃合いに目的地についた。

優は早くもザックを投げ出して、まな板石の上で大の字になっている。
真理は思わず可笑しくなって、肩にかけていたカメラを向けた。
青空と、充分な日差しを浴びた被写体が、歩いてきた満足感を伝えてくれる。

「さあ、ご飯にしましょうよ。私、本当に唐揚げしか作ってこなかったわよ。」
真理はザックを下ろすと、 タッパーをひとつ取り出した。
よっしゃ、と気合い声をあげて飛び起きた優は、自分のザックを引きよせると、慣れない手つきであちこち開け始めた。

最初に出てきたのは、小さなエア座布団だった。
息を少し吹き込むとふわっと膨らんだ。それを真理に差し出す。
真理がありがとうと受け取って、石の上に置いて座ってみる。
と、優がふわりとフリースブランケットを膝にかけてくれた。
「大丈夫よ」
と言ってみたものの、優はきっと覚えていたのだ。
休憩の取り始めは温かいのだけど、次第に身体が冷えて辛くなると言った私の言葉を。
ブランケットも、優の思いやりも温かかった。

「そうして、これからがメインイベントです!」
おどけた口調で言うと、優は防水の袋に入ったものをカチャカチャと取り出した。
「え〜っと…」 
いくつかのパーツを組み立てて、ボンベをセットすると、小さなコンロができあがった。

「へぇーっ。」
真理は目を丸くした。
その顔を満足げに見てから、優はもう一つの袋を取り出す。
中からは、マトリョーシカのようにいろいろな形の鍋?が重なったコッヘルが出てきた。
その一つをコンロにセットすると、水が入ったペットボトルを取り出して、お湯を沸かし始めた。

ゴソゴソはまだ続く。
今度はスーパーの袋だ。
中からは、なんと古典的なカップヌードルが2味出てきた。
「この前、雄山の頂上でごはんにした時、こんな味が食いたくなったんですよ。美味いだろうなぁって。」
なるほど、それは真理にも分かる気がする。 
「俺、こっちの普通のヤツも好きなんですけど、シーフードも好きで。真理さん、どっちにする?」
「う〜ん、私は普通の方かな。」
「じゃ。俺はシーフードにしようっと。」

お湯が沸くまでの間に、優のザックからはスティック野菜だのフルーツだののタッパーが次々に出てくる。
「重かったでしょう?」
思わず真理は本気ですまないと思ってしまった。
「平気っすよ。でも、真理さんの唐揚げだけはまた食いたくて、頼んじゃいました!」
これも思いやりなんだろうなと思う。
全くの手ぶらだったら、自分はやっぱり恐縮してしまっただろう。

いっただきま〜すというはしゃいだ声がしたと思うと、優の口にパクリと唐揚げが消えていった。
「うっめ〜!」
真理はまた笑った。
歩いている間、優はどこか浮かない顔をしていた。
何か気がかりなことがあるのだろうと思ったが、尋ねたりはしなかった。
子どもではないのだ。言いたければ言うだろうし、言いたくなければ聞かれても言わないだろう。
とりあえず、今はあの浮かない顔が消えている。
真理はそれでいいやと、キュウリのスティックに手を伸ばした。

シューシューとお湯が沸き始めていた。






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 「ほら、見えるでしょう?あそこが今日の頂上よ!」
指をさしながら振り返った真理の息が白く弾んでいる。
11月の安曇野は充分に冬だ。
優が乗りたいと言っていた栂池のゴンドラも、11月初めに休業に入っている。
スキーシーズンが来るまで、ゴンドラたちも束の間の休息だ。

「よし。あと、少し!」
優はちょっと立ち止まってリュックを揺すりあげると、足を踏み出した。 
「こんなちょっとしたハイキングに、そんなに大きなザックで来るからよ。」
息が上がっている優に、真理は笑いかけた。
「だから、いいものが入っているんですってば。」
ちょっと意地になったような言い方で、優は顔もあげずに答える。

○○岳と名のつくところに登りたがった優を説得して、近場の里山を選んだのは真理の機転だ。
冬山は、素人が足を踏み入れてよい場所ではない。
天候の変化やルートの知識、どの点をとっても、判断を誤れば遭難につながる。
いくらこのところ足繁く山に通っているとはいえ、真理もそれほど山に詳しいわけではない。
安全が確保された登山道を、他の登山者がいる時間帯に歩く程度だ。
泊りがあっても山小屋で、分からないことや困ったことはプロに相談できるのを前提にしている。
テント泊などは考えたこともない。
そこまで重たい荷物を背負って歩く自信もまだなかった。

重々説明してあったはずなのに、優は前回より大きなリュックを背負ってきた。
明らかに新品なので確かめると、前日買ったばかりだという。
「どうしてそんな大きなザックを今?」
真理は笑う。
いい顔だなと、優は思った。

青空から日差しがこぼれてくるような、よい天気になった。
真理は優を助手席に乗せ、自分で運転して、山道の途中にある駐車場で車を停めた。
そこから歩いて登山道に入った。
登山道と言っても、それほど高い山ではない。
名もない、といっていいほどだが、結構な傾斜で続く林道を登りきると、木々がなくなった先はスッキリと開けていて、頂上と言えそうな場所に、巨大な石が横たわっている。

地元ゆえ耳に入ったこの山に、トレーニングと思ってひとりきたのは初夏のことだった。
まだ、心が亡くなったトコちゃんのことでぐずぐずになっていた頃だった。
まな板のようなその石の上に座り、汗をぬぐった真理は、なんとなく全身を投げ出して寝転んでみた。
日に焼けた石は熱くて、余計に汗が吹き出したっけ。
それでも、何かとても気持ちを引き立てられた。
どれだけそうしていたのか分からないが、とうとうその日、その場所には誰も来なかった。
だから、まな板石の山は、真理の大切な秘密の山になった。
あれから何度も足を運んだ。
いつ行っても、気持ちの良いコースだった。

優と安全に歩くにはどこがいいかと考えた時、真っ先に思いついたのがここだった。
体力があるところを見せながらも、最後の登りに息を切らせている優を見て、真理は自分の選択がどうやら正解だったらしいと思った。
あの、まな板石を見たら何て言うのかな?
幅の細い道がなくなり、広くなったところで、真理は一歩譲って優を先に歩かせた。

「あ!あれ?なんだ?うぉぉ、でっかい石!石だよね、真理さん!!」
子供みたいに大きな歓声を上げながら、小走りにまな板石を確かめに行く優の後ろ姿に、真理はいたずらを成功させた時のような喜びをかみしめた。






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なんということだろう。
優は、私が相手だから、あんなふうに言ったというのか。
いや、私が優に、あんなふうに言わせたということだろうか。
頭が真っ白になった。
私の、せいなの?

「………さん、ミドリさん。ミドリさん!」
真吾先生に軽く肩を叩かれて、ミドリははっと我に帰った。
「いいですか?誤解しないでください。
今回、あなたに起きたことがそうだと言っているのではありません。
私は答え合わせはしないと申し上げたはずです。
ただ単に、その水田優さんとおっしゃる方が不機嫌だったのかもしれないと、言いましたね?」

ああ、そうだった。
溺れかかった深い水底から、もがきながらようやく水面にたどりつき、思い切り息を吸いこんだような気分だ。
めまいがしている。

「ただね、これは医者としてというよりも、少し年上だから先輩風を吹かせて言うことですがね。」
真吾先生は軽やかに笑ってから言った。
「先ほど私が水田さんのことをお尋ねしたとき、あなたはすぐに答えませんでしたね。
あなたは、好きだとおっしゃる水田さんのことを、実はそれほどよくご存知ないのではありませんか?
急ぐことはないと、私は思いますよ。
そんなにすぐに恋に落ちたり、告白したりしなくていいんじゃありませんかね?」

ミドリは、この時ばかりはおかしくなって、笑い声をたてた。
「先生は、奥様といつ恋におちるか、計算したり計画したりなさったんですか?」
「あ、いや、そういうことは…ああ、そうですね。」
しどろもどろの真吾先生を見ているうちに、力んだ肩から力が抜けたらしい。

言われてみればそうなのだ。
優は確かに素敵な男性だと思う。
話しやすく、サッカーという共通の話題もあった。
けれども、周囲に他の適当な男性がいなかったからでは?と誰かに聞かれたら、それは違うと言いきれるだろうか?

もしかしたら、私は恋に恋していただけで、相手が優でなかったとしても、同じようにときめいたのかしら?
今は、いくら考えても、その答えはわからないだろうという気がした。

「でもね、ミドリさん。今回、あなたは大変よい状態にあったと思いますよ。」
「よい状態ですか?これが??」
「ご自身の全てを否定しては、物事を正当に見られなくなります。
今回あなたはとてもショックな出来事に見舞われた。
それは、かつてあなたをとことん傷つけた出来事に似通っていたかもしれません。
それでもあなたは、きちんと食事を味わい、お子さんの面倒をみて、よく眠っていらっしゃる。
お父様に対する思いやりも忘れなかった。
それは、あなたにとってその出来事が、あなたの人生全てにならなかったということです。
あなたはきっと、入院されている間に、どのような出来事も人生の一部にすぎないということを学ばれたのですね。
それを知らずにいる人が、世間にはたくさんいるのですよ。
あなたは、とてもよい状態にあると言えるのではありませんか?
私は今日お話しを伺って、そう思いましたがね。」

ミドリは、自分の心に情熱の炎が小さく灯ったことを感じ取っていた。
生きるということに対する、ささやかな情熱が、また燃え始めた。
それを伝えてくれた真吾先生に、心からの感謝が湧いた。
まだまだ、私は始まったばかりだわ!
ミドリは背筋を伸ばして、診察室の椅子から立ち上がった。






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「失敗が好きな人、いると思いますか?」
「いるはずないと、思います。」
「ええ。私もそう思います。だから、でしょう。」
「は?」
「だから、私たちは、失敗すると、ほかのことで取り戻そうとするよりも、同じことで挽回しようとしがちです。たとえば…。」

株で大金を失った人は、株で大儲けしようとする。前回と同じような場面でも、今度こそ儲かると、判断を誤りやすい。
競馬で大損した人は、競馬で大穴を当てようとする。そう思っているうちは、なぜか今度こそ当たる気がする。
詐欺に遭った人で、なぜか繰り返し詐欺に遭う人はけっこう多い。今度こそだまされないぞと思っていたはずが、再びだまされてしまう。
真吾先生の話には、なるほどそうかもしれないと思う例えがたくさん出てきた。

「マイナスのことばかりではありません。例えばスポーツ選手などは、手痛い敗戦をばねに、今度こそと思うから辛いトレーニングにもめげず、成績を上げていくのでしょうからね。」
それはわかる。マネージャーとして、サッカー部の試合にはすべて帯同した。
自分は腹筋するわけでも、ダッシュするわけでもなかったが、負けは選手と同じくらい悔しかった。
そうして、今度こそとこぶしを握る選手のために、自分も頑張ろうと思ったものだった。
いつの間にか、先ほど感じた腹の立つ感覚が、すっかり収まっていた。

「うまくいかなかった物事が、自分にとって大切であればあるほど、私たちは同じ場面で、今度こそ成功しようと思いがちなのです。受けた痛手が深ければ深いほど、その場面を作り出す力は強いのです。」
「どういう、ことでしょう?」
「そうですね。その、水田優さんという方は、誰に対してもきつい言葉で反論したり、相手の話に耳をかさず、自分の主張をつきつけたり、するような方ですか?」

ミドリは考えた。
きっと、違う。
いままで、そのような場面を見たことはない。
けれども、ミドリが知らなかっただけで、そういう人だったのかもしれない。
いや、父の部下であり、営業という仕事柄、いざという時の押しは強くても、それまでは相手の印象を損ねないように慎重に振舞うだろうし、父同様、言葉を荒げて相手を退けるようなことが日常にあるとは思えない。
考え込んでいると、真吾先生が続けた。

「もしかしたら、その日たまたま何か理由があって、不機嫌だっただけかもしれません。
コミュニケーションでの行きちがいのほとんどは、そんな些細な背景があるものだと、私は思うんですよ。
でも、それだけではないかもしれない。
何度もなんども、ヒモとかアルコール中毒とかの男性とお付き合いをしてしまう女性のことを、聞いたことはありませんか?」

ある。
東京の病院で、そういう女性と何人も出会い、話をした。
子どもを虐待してしまう母の会でも、DV被害者の会でも、そういう女性がいた。
みな、一様に苦しんでいた。
泥沼のようだと言っていた。
なぜ、自分が繰り返し繰り返し、こんなひどい目に遭うのか分からないと泣いている人もいた。

「彼女たちは、自分を変えずに、結果を出したいのです。その相手となる男性たちも同じです。自分を変えずに、今度こそうまくやりたいと思っている。でも、互いに同じやり方をしていたら、違う結果を出すのは難しいですね。そうとは知らず、何度も何度も同じような相手を招いては、今度こそと思う。そういうところがあるのです。場合によっては…」

真吾先生が不自然なところで言葉を切ったので、ミドリはみつめていた自分の指先から目を離し、真吾先生を見上げた。顔をあげたら、胸の中にスッと酸素がたくさん含まれた空気が入ってきた気がした。
「場合によっては、何ですか?」
真吾先生が続きをいつまでも言い出さないので、ミドリは先を促した。
「はい。場合によっては、そういう傾向がない相手を、そういう傾向に押しやるようなこともあるんです。」

曖昧な言い方で、意味が分からない。
「はっきり言ってください。どういうことですか?」
「つまりですね、普段は穏やかな人が、その人と話しているとどうにもイライラして暴力的な気持ちになるとか、普段は酒など飲まないのに、その人といるとなぜか酒を飲んで失敗してしまうとかいうことが、実際にあるのです。そんなふうにですね、相手の性格を変えてしまってでも、自分のやり方でうまくいくことを証明したくなるというか…」

ミドリの耳には、そこから先の真吾先生の言葉が入らなくなっていた。






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