Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年01月


優と気まずい会話をした夜、新吉が久しぶりに帰宅した。
長野で同居するようになってから、活力に満ちた父を見るにつけ、ミドリは密かに喜んでいた。
しかし、この夜は、東京での仕事がよほど大変だったのか、げっそりとやつれて見えた。

ミドリの記憶にある新吉は、何か憑かれたように仕事に突き進んでいて、家族や家庭のことは一切視界に入っていないようにしか見えなかった。

それは入院中の病院に見舞いに来る父を見ている時も同じだった。
大好きな仕事を早めに切り上げて、渋々来ているのだろうと思った。
が、いつの頃からだろうか。
忙しさに変わりはないのだろうが、黙ってミドリの話を聞いて帰るようになったことに気がついた。
今までの父ならば、ミドリが何を言っても、そうしたいならそうすればいいと投げ出すか、こうするのが正しいだろうにと一刀両断に切り捨てるかのどちらかだったはずだ。
こんなふうに、そうかそうかとただ聞いていくなど、なかったように思った。

「おじいちゃん、おかえりなさい!」
スミレがまだ着替えの済んでいない新吉の足もとにまとわりつく。
いつもは相好を崩して相手になるのだが、この日はちょっと待っていてねとスミレをそっとひきはがすと、風呂場へ消えていった。
戻ってこないと思ったら、シャワーを浴びてすぐ寝室に行き、そのまま眠ってしまったらしい。

長野では11月の夜はすでに冬で、都会者がうかつな格好をしていると、すぐに風邪をひいてしまいそうなほど冷える。
下着姿のままベッドで熟睡している父にそっと毛布や布団をかけながら、優から言われたことを話してみようかと思っていた気持ちをミドリは素早く打ち消した。
今の父に、無用な心配はかけたくない。
父にとって優は大切な部下であり、ビジネスパートナーであることくらい、世間知らずのミドリにも理解できていた。
今、掻き乱してはいけないことも。

そうだ、少し早いけれど、明日病院に行ってみようと、ミドリは思いついた。
東京の病院から紹介された新たな受診先は松本にある有田病院といった。
ミドリはまだ知らないが、マリアンヌの義父の病院だ。
主治医となったのはマリアンヌの夫、真吾だった。
真吾の、もの柔らかで包み込むような声を思い出し、先生に話してみたら、何かスッキリするのではないかと思った。

下でスミレが一緒に風呂に入ろうと呼んでいる。
父を起こさないようにそっと部屋を出たミドリは、女としての迷いを胸にたたんで、母としての務めを果たしに、下へ降りていった。






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車に戻った優は、いつもより大きな音を立ててドアを閉めると、余った勢いでハンドルをドンと叩いた。右手の指がジンとするも構わずに、両手でギュッと黒革のグリップを握りしめる。
ミドリにひどいことを言ったのは重々分かっている。
言うつもりはなかったのだ。
感じていることに嘘はないが、わざわざあんな言い方で伝える必要はないことも分かっているのだ。
なのに、言わずにいられなかった。
この止めようがない苛立ちの元が何なのか、優にはよくわからなかった。

愛車に乗り込んで、少し落ち着きを取り戻した優は、大きく息を吐き出すと、エンジンをかけた。
まだ買ったばかりのGOLFは中古だが、小気味良い音をたてて始動する。
ミッドナイトブルーのボンネットに陽光が当たると、海のような青さに変わる。
まったく、お気に入りの車だった。

ミドリに謝りに戻ろうかと一瞬思ったが、どうしても身体が動かない。
優はGOLFを発進させた。
予定していた買い物に向かうことにしたのだ。
行き先は、先日真理と今日子と一緒にでかけた、登山用品の店だった。
明日は真理との2度目の登山にでかける。
前回の様子から、優はどうしても用意したいものがあった。
それを取り出した時の真理の顔を想像してみる。
さっきまで荒れ放題だった心の海が、たちまちに凪いでいくのがわかる。
優はこの思いつきの実現に集中し始めた。

音を立てながらテーブルに届いたドリアは、手つかずのまま冷えかけていた。
ミドリはそれをぼんやりと眺めていたが、ようやくスプーンを手にして、固くなり始めたチーズを口に運んだ。
一緒に入ってきたエビがプリリと自己主張する。
雑誌で読んだからだけじゃないわ。美味しいのよ。
誰に言うでもなく、ミドリはつぶやいた。

優が残して言った言葉のどこをどうかんがえればよいのか、ミドリにはわからないまま、処理しきれないほどの重要情報をもらった実感と、優に執着し始めた自分の心を同時に感じているばかりだった。
こういう時、以前の自分なら、自分の胸に畳みこんで、ひとり思いを巡らせ、うめきながらも答えを出していた。
大人になって、人に相談する、誰かに協力してもらうということを覚えたのだが…。
ミドリは思う。優が言うことが正しいなら、今の私の方がよほど子どもで、以前の私の方が大人らしかったということかしら?

こういう時、味気なくなると何かで読んだことがある昼食のエビドリアは、冷えてしまっても、美味しいままだった。







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 ドリアはデートで女の子が注文するのにちょうど良いメニューなのだそうだ。
小さくて大食らいに見えないし、ソースの下にはご飯が隠れているから、グラタンよりもお腹にたまる。なにより、お皿の縁が立っているので、ピラフのように、最後のニンジンをスプーンで追い掛け回さなくても、スマートに食べ終えることができるからだ。

中学生の時に、友達に借りて読んだファッション雑誌にそう書いてあったのを読んで以来、ミドリは意中の男性と食事をするときは、いつもドリアを注文していた。
だから亡くなった哲也と外食した時も、メニューにある限りはいつもドリアだった。

スプーンを持ったまま、言葉を途切れさせてドリアを見つめているミドリに遠慮もなく、優はさっさと食べ進めていく。
「食わないのか?」
「熱そうだなぁと思って、ちょっと冷めるまで待とうかと思ってるだけよ。」
「じゃ、そんなの頼まなきゃいいだろ。だいたいうまいのかよ?」
「おいしいわよ…。スグルの方こそ、そんなにがっついて、よほどお腹空いてたの?ひとり暮らしでちゃんとご飯食べてないんじゃない?なんなら家に来てくれたら…。」

ミドリの言葉を最後まで聞かず、優は眉間に険しさをたたえて、短く吐き出すように言った。
「うるせぇよ。」
ミドリがびくりと椅子の上で跳び上がった。
「子ども扱いするんじゃねぇよ。お前、勘違いしてんじゃね?」
ミドリは黙った。

「俺はもうサッカー部員じゃないし、お前だってマネージャーじゃない。人の生活にぐだぐだ口出すのはやめろよ。」
ミドリは無表情なまま彫刻になっている。
「だいたいさ、今までだって、迷惑な時があったんだぞ。気付いてねぇみたいだけどさ。」
「迷惑…」
「部長のところに行くのは仕事だよ。会社があれば会社に行くだけの話だ。それをさ、毎回毎回ごはん作ったから食べて行ってって、俺が喜んでいると思ってたのか?そりゃ部長の手前、もう作っちゃったものを前にして『いりません』とは言えないからさ、ありがとうございますって言うしかないだろ?でも、大人だったら、『今日は御都合いかがですか?』って俺に聞くのが先じゃねぇのか?俺だっていろいろあるんだよ。どうせ、どこかの雑誌で、男の胃袋をつかんだら離れていかないとかなんとか、読んだんだろ?」

ミドリはあまりの意外さに、呆気に取られていた。
まさか、自分が親しみと思いやりを込めて作った食事が迷惑になるなど、考えてもみなかったのだ。
そうか、そうだったのか。
言われてみればもっともだ。
相手の都合を先に聞き、負担にならないように気遣うなんて、思いもよらなかった。
言い方は厳しいけれど、大事なことを教えてもらっていることは心に沁みる。
それに、しばらく忘れていた哲也との日々を思い出させられもする。
それは二度と味わいたくない苦行のはずだったが、平安を取り戻した今となっては、禁断の果実のように芳しくもあることが、自分でも不思議だった。
やはり、スグルは…

「ごめんなさい。」
ミドリの口から素直な言葉がこぼれ出た。
「私、本当に世間知らずで…。これからも、気付いたことがあったら教えて。私、スグルを頼りにしているのよ。ずっと長く、私を支えてほしいな…。」
最後は消え入るようだったが、確かに優の耳には届いたはずだ。

「お前さ、ひとりよがりだよな。」
ミドリの耳に帰ってきた言葉は、意外なものだった。
ミドリにはこの期に及んでも、何かしら温かな、期待をつなげる言葉が返ってくるはずだという確信めいた何かがあった。
でも、それは淡くも砕け散ったらしい。さすがのミドリにもそのことが分かってきた。

「相手の気持ちなんか、少しも考えないんだな。ちょっとは考えてみろよ。自分が支えになる相手に、キツいこと言い続けなきゃならない男の気持ちをさ。俺がこんなこと言いたくて言ってると思ってんのか?まったく、冗談じゃないよ。お前の旦那もさ、お前のそういうところがウザったかったんじゃねぇの?ガキじゃないんだからさ、自分のことは自分でやれよ!人に嫌な役割押し付けるなよ!!」

そこまで言うと、優は自分の食事代をテーブルにさっと置き、振り向きもせず店を出て行ってしまった。
その広い背中をソフトフォーカスの視界で見送りながら、ミドリは自分がかなり本気で優を思い始めていることを思い知らされていた。






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待ち合わせた店は、平日の昼間だが、案外混んでいた。
それでも、先に着いていたミドリが席を確保していたので、優はすぐに座って、水を運んできた店員に焼き魚定食を注文した。
「で、相談って何?」

挨拶もそこそこに尋ねる優を、ミドリは笑い飛ばした。
「何それ?元気だった?とか聞かないの?」
「だって先週元気だったんだし、病気だったらこんなとこ来るはずないし。」
尋ねる意味がないということらしかった。

「色気がないなぁ。」
ミドリはまた笑った。
「ないよ、色気なんて。で、何?」
優は真顔で問い返してきた。 
「もう!ま、いいや。あのね、私、運転免許を取りたいの。だから、教習所に行きたいと思って。」
「行けば?」
来店する前から焼き上げてあったのではないかという勢いで、焼き魚定食が届いた。
ミドリの前に何も置いてないことに気づくふうもなく、優は焼き魚にかぶりついた。
よほど空腹だったのだろうと思ったミドリは、優がバクバクと魚を食べていくのを黙って見ていた。

「行けば?って、簡単に言うけど…。」
「簡単だろ?通える場所にある自動車学校探して、申し込めばいいだけだよ。何を相談する必要がある?金か?それなら相談する相手を間違えてる。」
「スグルったら、ほんと、真剣になってくれないよね〜。」
ミドリは呆れ顔でそういった。

「ミドリがいちいち真剣になりすぎるんだよ。やりたいことがあったらやる。それだけだよ。相談もなにもないだろ。」
「あのさぁ、私、薬飲んでいるんだよね。そういう人って、免許取れるのかなぁと思ってさ。スグル、そういうこと詳しいかと思って。」
「知らねぇよ、そんなもん。自動車学校か警察に直接聞けよ。俺に聞くだけ時間の無駄だ。」
呼び捨てにされても平気な顔の優の声には押し殺した苛立ちが紛れていたが、ミドリには感じ取れず、ただ、気の置けない関係だから軽くあしらわれているのだろうとしか考えていなかった。 

ミドリの前に、ようやくエビドリアが届いた。
小さな丸いグラタン皿の中で、ホワイトソースとチーズがグツグツと泡を立てている。
一緒に置かれたアイスティーは、ドリアが熱すぎた時の対策だ。
「あれ?お前、まだ食ってなかったの?」
「まだよ。自分だけさっさと食べちゃって。」
「あー、悪い悪い。気がつかなかった。」 






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優にとって初登山は、本当に面白いものだったらしい。
扇沢に戻るまでの間に、真理は次の山登りの約束をさせられていた。
11月になれば、うかつに高い山には登れない。
いつ雪になるかしれないからだ。
素人の季節は終わる。
だから、その前にもう一度登りたいと言われて、つい承知してしまったのだ。

足をくじいた今日子を誘うのは無理だろうということで、今度の計画は最初から2人で行こうということになっていた。
もともと足慣れていない今日子を気遣う必要がなくなると、行程も積極的なものになる。
今回の立山登山はふたりだけになって抵抗を感じた真理も、終わってみれば運動部の合宿と大差ない様子で、気を許したとも言える。
と思う端から、あの朝日と、優の手に包まれた指の暖かさを思い出して、思わず耳が熱くなる。
でも、あれも昇りたての朝日をみつめるという滅多にない雰囲気がさせたいたずらにすぎず、大した意味はないと思うことにした。

約束の1週間後までの間、優は以前に増してよく働いた。
東京と長野の間を1日で往復するなど当たり前の顔をしている。
おらほの家のために買い上げた幼稚園の改築が進んでいるところにも立ち会い、細かい指示を出して行く。

ちなみに今日子は、立山の土産を持って優が見舞いに行くと、普通に歩いていた。
「あれ?歩いても大丈夫なんですか?捻挫したんじゃ?」
優が真顔で尋ねると、今日子は笑顔で答えた。
「ええ。ほんと、ぐきっとやっちゃって、痛いのなんの。でも、病院に連れて行ってもらって湿布してたら治ってしまったわ。ツイてたわ〜。」
優は、本当に捻挫をしたのだろうか?と疑ったが、今日子の表情からは何も伺うことはできなかった。

その頃、新吉は細かな雇用計画を立てるため、東京に行ったきりになっていた。
雇用は法律と財務との緻密な造形が必要なのだ。
新吉がいなければ、優は新吉の家に行く必要がなくなり、ミドリと顔を合わせる機会もほとんどない。

ミドリから優に連絡があったのは、2度目の登山の前日だった。
午前中で仕事を終えた優は、思うところがあって松本まで買い物に行こうとしていた。
そこへミドリから電話があり、相談があるという。
買い物の予定を帰る気がない優は、では昼でも食べながら聞こうか、と答えた。
大きなスーパーの一角にあるレストラン街にある定食屋で待ち合わせることになった。 






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遠く向こうの山並みに滲んでいたぼんやりとした明かりが、やがて一点だけ明るさを増した。
手袋を忘れた指がちぎれそうに冷たくて、真理は思わず両手の指をこすり合わせて息を吹きかけた。
その指先に、横から大きな手が伸びてきて、くいっと握られてしまった。
「いいよ、大丈夫だよ。」
驚いた真理は反射的に、思い切り引き抜こうとしたが、大きな手は力が強くて抜けなかった。
「うわ、なにこれ?冷て〜」
優は真理の両手の指をしっかり引っ張り込むと、自分の両手で包んでしまった。

驚きすぎて体まで固くした真理に、優が言った。
「諦めないでよね。」
「諦める?」
「そう。あなたは、山に登ってるだけで終わっていい人じゃないと思うよ。」
「……」

「僕、サッカーやってたって言ったでしょう?
サッカーって面白んだよ。
ボールをね、仲間でパスして、ゴールまで運んでいって、最後にシュートする。
もしシュートするだけでいいなら、仲間だけでやればよさそうなものでしょう?
でも、敵がいないと、サッカーは全然楽しくないんだよね。
サッカーが面白くなるためには、敵が必要なんだよ。」
「敵が、必要…。」
 
「うん。それも強くて、しつこくて、こっちが思いもしない動きをする敵がいると、ほんと燃えるんだ。
全然かなわなくて、なんどもぶちのめされて、この野郎って思う。
でも、そういう敵に出会うと、こいつには絶対負けないって思って、練習して、鍛えて、上手くなろうとして、そうやって成長するんだよな。
もしも、仲間とわかりきっているやり方でボール回してシュートして100点とっても、強い敵をかわして、必死でとった1点のほうが嬉しいんだ。」

刹那、山際から、強い光が射して、あたりを一気に照らしだした。
ダイヤモンドのように輝く太陽がはじめのひとかけらをのぞかせた瞬間だった。
太陽を見ていた真理は、あまりの眩しさに目を伏せ、
真理の顔を見ていた優は、片頬に暖かい熱線が伝わるのを感じて太陽を見た。

「朝日だね。」 

太陽がどんどん上がっていくにつれ、温かい光線も増えていき、太陽がどれだけ地球を暖めているのかを身体で感じた。
優の力が緩んだので、真理は手を引き抜き、自分のポケットに突っ込んだ。
太陽が上がりきるまで、ふたりは話をやめて、空を見上げていた。

「さ、戻って朝風呂に入ろうっと。」
優の声で、真理は現実に引き戻された。
「そうだね。」
真っ青な空が広がっている。
今日も登山日和になりそうだと、真理は思った。





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優は疲れが、真理は酔いが手伝って、食事を終えて部屋に戻ると、歯磨きをしただけですぐに寝てしまった。優は朝湯に賭けるんだとまた強がって、真理より先に睡魔に襲われていた。

真理は、何かに引っ張られている気がして目が覚めた。
いくらも眠った気がしなかったが、寝ぼけた目で腕時計を見ると、もう8時間も眠っていた。
「真理さん、真理さん、起きて。朝日を見に行こうよ。」
「ああ、ご来光ね。うん、わかった。着替えるから、待ってて。」
ご来光を見に行くというのは、真理が言い出した、もとからの計画だった。
それをあれほど「二人はまずい」と言っていた自分が、下に優がいるにもかかわらず、起こされるまで起きないほど安心して熟睡していたことに小さく呆れていた。

着替え終わって優を見ると、随分気軽な格好をしている。
「朝は寒いのよ。もっと着て。低体温になったら大変。」
まだ眠っている隣人を起こさないようにささやくと、優は抵抗せず、すぐに上着を着込んだ。

雷鳥荘を出て、しばらく斜面を登った。
先程までいた雷鳥荘が、下の方に小さく見えるところまで行くと、優はあたりを見回して、椅子になりそうな岩を探して腰掛けた。
「ホントだ。寒っ。」
そのままもうしばらく待っていると、空が少しずつ色づき始めた。
日が出る直前が一番寒い。

「さ、寒いっすね。ヤバイ、もっと着て来りゃよかった!」
優はそう言うと、真理に擦り寄ってきた。
「なによ、だから言ったでしょ?」
いつの間にか丁寧語がなくなっていることに、ふたりとも気づいていない。
寒い、痛い、辛いと言われると助けずにはいられないのが、ケアの世界に生きる人間の性なのだろう。
真理は他の場面なら突き飛ばすところを、黙ってくっつかせておいた。

しばらく無言で、少しずつ広がる光を眺めていたが、不意に優が尋ねた。
「真理さんはどうして独身なの?」
「どうしてって…以前は独身じゃなかったこともあるし、母親だったこともあるわよ。」
「そうなんだ。だよね。いくらなんでも、真理さんがほっとかれるはずないもんな。」
「何持ち上げてんの?ゴマすったって、帰りの荷物持ってあげたりしないわよ。」
「そうじゃないよ。けどさ、もったいないよ。」
「そう?それはありがとう。あなた、眼科行ったほうがいいよ。」 






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雄山は登るのは大変でも、下りは早かった。
風に押されながら転がり落ちるようにすれば、あっという間に一の越まで戻れた。
そこから、ゆったり歩いてターミナルに向かった。
途中、冬毛に変わりかけたライチョウにも出会い、優はさらに上機嫌だ。
いいなぁ、いいなぁ、山はいいなぁと繰り返している。

ターミナルまで戻ってきたところで、真理がくだりの便を調べ始めようとすると、優が怪訝な顔をして尋ねた。
「明日のことは明日調べましょう。ずいぶんと慎重なんですね?」
へ?真理のほうがびっくりした。
こいつ、泊まる気なのか?
「いや、帰るでしょ?今日のうちに。」

「嫌ですよぉ。だって、雷鳥荘、予約してくれたんでしょう?泊まる、泊まる、温泉入りたい〜。」
駄々っ子か!と思わず声に出して突っ込んでしまった真理は、ごめんなさいと謝ってから、二人で泊まるのはまずいでしょう?と、聞き分けのない弟に説教するように言い聞かせた。
「どうしてですかぁ。だって山小屋って個室じゃないでしょう?知ってますよ、広い部屋に男女も知ってる人も知らない人も一緒くたに寝るって聞いてます。」
「そりゃ、雷鳥荘は二段ベッドだし、隣り合わせて寝るわけじゃないけど…。」
「じゃ、いいじゃないっすか!山小屋って俺、初めてなんですよぉ。楽しみにしてきたのに〜。理由もなく帰るなんていやだなぁ。」

ミドリさんになんて言うの?と聞いてみようか迷った真理は、結局言い出せないうちに、またまたバスの時と同じように押し切られ、雷鳥荘への道を歩き始めてしまった。

みくりが池の青黒い水を見下ろしながら、細い登山道をのんびり歩き、やがて雷鳥荘についた。
一人分をキャンセルし、相部屋の二段ベッドを指定され、行ってみると、優はさっさと下の段に陣取って、上着も脱がずにごろりと横になった。
真理ははしごを登って上に上がる。
晩ご飯までにあと1時間はあるから、先に温泉に入ってこようと思った。
支度をして、優に声をかけようと下の段を覗いたら、足がつかえたのかヤマネのように丸い姿勢で、優はもうクークーと寝息をたてていた。
なんだかんだ強がり言っていたけど、けっこう疲れてたんじゃない。
しょーがないわねと思った真理は、掛け布団をかけてやり、音を立てないよに部屋を出て温泉に向かった。

放っておいたらそのまま眠っていそうな優を起こし、晩ご飯会場に向かう。
山小屋らしい食事に日本酒を少し添えて、二人で乾杯した。
向かい合わせになるように席を指定されてしまったので、いやでも互いの顔がしっかり見える。
風呂に入ってスッキリと化粧を落としてしまった真理は、食べ始めてしばらくしてから、しまった!と思った。

しかし、優は気づいているのかいないのか、お構いなしによく食べ、しゃべり、笑った。
隣の席で食事をしていた年配の夫婦は富山側から登ってきたらしい。
優の絶妙なトークですっかり打ち解け、夫が定年になってから百名山を上り歩いているのだというような話をし始めていた。
真理は微笑みつつ聞きながら、優のよく動く表情を眺めていた。
こんなふうに明るく、なんでも話し合えそうな男性となら、ミドリさんも幸せになれるだろうな、スミレちゃんにもいいパパになってくれるんだろうなと考えていた。






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その日は扇沢からトロリーバスやロープウエイを乗り継いで、立山黒部アルペンルートをたどることにしていた。
これならば歩く距離を減らして、一気に高い山の雰囲気を味わうことができる。
終点の立山駅から雄山頂上へ登ってもよいし、みくりが池の周りなどを歩いても良い。
こちらは今日子のたっての願いで、雷鳥荘に1泊することになっていた。
こんな高山の山小屋に、温泉があるのだから魅力は尽きない。

立山駅に着くと、優はすぐに歩き始めた。
雄山に登るのだという。
雄山は、立山の頂上だ。
一番上に神社があり、神主もいて、お祓いを受けることもできる。

石畳の登山道を歩くのは楽しかったが、トイレを済ませ、いざ頂上へと登り始めたとたん、これは大変だと真理は思った。
とにかく勾配がきつい。風も強く、吹き飛ばされそうになる。
石が浮いていて、足を乗せるとそのままズルリと滑り落ちそうになった。

優はと見ると、いつの間にか真理の後ろにいて、フーフー言っている。
背が高いから風を受ける面積が広いんだろうね、大変だねと心の中でつぶやいて、笑いをエネルギーに変えてみようとしたが、足はなかなか進まなかった。

真理も、雄山は初めてだったのだ。
ザラザラの斜面には、真理が見たい花は咲かない。雷鳥もここに登らなくとも見られるのだ。
下から見たときにはそれほど遠くないと思った。
実際、登るのは300メートルほどのはずだ。
それがなかなかたどりつけない。

何度目かの強風にあおられて帽子を押さえたとき、真理さん頑張ろう、と声をかけられた。
優だった。
頑張って、じゃなくて、頑張ろう、か。
真理はなんだか機嫌がよくなる自分に気がついた。
「うん。頑張ろう。てっぺん着いたらお茶しようね!」
「お、おうっ!」

ギャーギャー言いながら、ようやく山頂にたどり着く頃には、ターミナルに降りてから2時間以上が過ぎていた。
それでも、コースタイム通りだ。
山頂にある小さな祠に手を合わせ、少し下にある神社の脇で昼食にしようということになった。

優のリュックから、菓子パンがコロコロと出てくる。
「これでお昼なの?」
真理は思わず尋ねた。
「はい。ゴミが小さくなって持ち帰りやすいし、糖分も炭水化物もすぐにエネルギーになりそうだし。」
優なりに考えた結果らしい。

「じゃ、半分こしようか。」
真理は年の離れた弟に言うように、自分のお弁当箱を差し出しながら言った。
蓋を開けると、優は歓声を上げた。
「うっわー!うまそーっ!それにこんなにある〜!」
「だって今日子さんと3人と思ったから。」
「うぉー!いっただきま〜す!」
早起きして作った唐揚げや卵焼きが気持ち良いほどスッキリと青年の胃に収まっていく。
うまいうまいを連発されて、真理は悪い気持ちがしなかった。 






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三段紅葉の時期には、立ち止まる場所もないほどの登山客が訪れるが、紅葉が終わりに近づくにつれて人は減り、気温が下がるのにつれ、スキーの季節までは、訪れる登山客からは観光の雰囲気が消え、山を真剣に愛する者ばかりに見える。

「やっぱ、安曇野に住んだら山ですよねぇ。」
軽いノリで集合場所の信濃大町駅に現れた優は上機嫌だ。
車で行こうというのに、駅からバスに乗りたいと言って聞かなかったのも優だ。
真理は押し切られ、扇沢までバスで行くことを承諾してしまった。

「改めて聞くけど、なんでバスなの?」
「1回だけ、乗ってみたかったからですよ。
俺、バスってあまり乗ったことないんです。
学校は歩きか電車かだし、大学の途中で免許とったから、あとは車でどこでも行けるし。
けど、こっちに越してきたら、バスがえらい幅をきかせてるでしょう。
だったら1回くらい乗ってみてやろうと思ったんですよ。」
「それが、なんで今回なの?」
「だって、楽しいじゃないですか!遠足みたいで〜。」
このお子ちゃまが!
真理は心の中で毒づいた。
とはいえ、真理もバスが嫌だったわけではない。
ハイシーズンではないし平日なので空いてる。

「今日子さん、来ないわね。」
「どうしたのかな?ちょっと電話してみます。」
優は公衆電話を見つけて駆け寄っていった。
相手はすぐに出たらしく、はい、はい、そうなんですかと話している。
「どうだった?」
「それが、今日子さん、家を出る直前に、階段を踏み外して捻挫したらしいんですよ。」
「えーっ!そんなぁ!!」
「これからご主人と病院に行くそうです。今日は無理だって。」
「じゃぁ、今日は取りやめにしますか。」
真理がぽつんと言うと、優は本当に驚いたような声を出して言った。

「なんで?僕はほら、元気ですよ。
行きましょ行きましょ!
いいじゃないですか二人でも。
今日子さんはまた次に誘いましょうよ。ね?」
「でも、知らない男性と二人っていうのも…。」
「何言ってんですか!知らなくないですよ。
あいさつしたし、お話もしたし、ご飯も食べたし、買い物にも一緒に行ってもらって、ほら、この靴とリュックと服、買ったじゃないですか!」
「そりゃまぁ、そうだけど、全部今日子さんも一緒だったでしょう?」
「小学生じゃあるまいし、何言ってるんですかぁ。
あ、バスが来た!あれでしょう?ほらほら、行きましょ、行きましょ!」

背中をぐいぐい押されて、真理は初めて優が180センチはあるかという背の高い男性であることに気づいた。
それほどに関心がわかない相手だったのだ。
でもまぁ、ツアーに入れば、その日始めて顔を合わせた人と山に登るのだ。
知り合いなだけマシか。
そんなことを考えて抵抗する力が緩んだ隙をついて、真理はバスに押し込まれてしまった。






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