Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年12月


「いつでも忙しかったですし、気が抜けない仕事なのは承知の上です。けど、最近、長くお休みの方がいて、私は休みがとれません。もともと子どもたちがいる時間は休憩がないのは当たり前ですが、そこにシフトまできつくなって、ちょっと苦しくなってきたところです。」
消え入るような小声で、安代はそう言った。
苦しくなったというところに「ちょっと」と付け加えたことで、状況に逆らうつもりはないのだが…という気持ちと、反体制的な職員ではないという主張とをこめたつもりだった。

「それはそれは。さぞかしお疲れでしょう。長くお休みの方は…長谷川さんとおっしゃいましたか…いえ、出勤簿を拝見しましたので承知していますよ。その長谷川さんは、確か、先日亡くなったお子さんの担当者でしたね。」
「はい。熱心な職員です。」
半分以上は本気だ。が、悪口を言っているのではないことを明確にする必要があると感じた安代は、先ほどの発言をフォローするつもりで殊更に付け加えた。

「どうだったのでしょう。感想程度でかまわないので聞かせてください。あのお子さんを両親の元に返すにあたり、適切な判断や手続きがとられていたのでしょうか。なにか、事故を未然に防ぐことはできなかったのでしょうか。」
発言者の話し方には責任を問うような威圧感がまるでなく、 夕べのドラマどうだった?とかあそこのレストラン美味しいの?とかいう話題と同列であるかのような軽さで問われた。安代はホッとして、話を合わせるように、これまで誰にも語ってこなかったことを話す気になった。

「初めのうちは、トコちゃんも帰りたくないと言っていたんです。だから、てっきり本人の同意が得られないということで、措置が続くものと思っていました。でも、途中からトコちゃんは諦めたように、何も言わなくなっていました。賢い子でしたから、大人の意向を尊重しなければならないと思いこんで頑張っていたのでしょう。けれど、最後の日に、帰りたくないと泣き出して、真理さんにすがっていました。もしもあの時、施設長が返さなければあんな事故にはならなかったと思います。それに、そんな様子で帰ったのに、アフターフォローがなかったのも…。学園を思い出せても辛いだけだろうと思ったのもわかるけど、冷たかったんじゃないでしょうか。」

言ってしまって安代は、しまったと思った。
二人の査察官の目が、それまでとは違った異様な光を帯びていたからだ。
先ほどまでの優しげな、親しみ深い様子が消えて、冷徹な検査官の表情をしている。
「証言、ありがとうございます。よくわかりました。全ては施設長の判断ミスが原因ということですね?」

安代は飛び上がった。
「ち、ちがいます。そうではありません。ちょっとした感想を大げさに言ってしまいました。」
慌てて否定したが遅かった。
「あなたからお聞きしたということは伏せておきます。ご迷惑はかかりませんので安心してください。それに、長谷川さんの勤務はおかしいですね。1年前の今頃、長谷川さんはまったく帰宅しておられませんね。何ヶ月という単位で夜勤を続けておられる。」
「それは、新しく入った子がこちらに馴染むのに時間がかかったからです。」
「事情がどうあろうとも、これは異常だ。そんな勤務を認めていた施設長には厳罰を受けていただかなくてはなりません。法律違反ですからね。」

もはや安代は座っていられず、立ちあがってテーブルに両手をつき、身を乗り出した。
いつものおとなしやかな安代からは想像もつかないほどの勢いで、査察官に額を寄せ、叫ぶように言った。
「施設長は悪くありません!あの方は…。」
その言葉を遮って、査察官は面談の終了を告げた。
「先ほどの話は全部うそです!」
咄嗟に安代は叫んだ。このままでは自分が施設長を陥れたことになってしまう。
「ご安心ください。あなたに迷惑はかけないと言ったはずです。それに、今から否定されても同じことです。あなたは今日と同様の証言を、先日うちの職員にされていますね?」
「うちの、職員?」

この時、ようやく安代はあの買い物中に出会ったかつての同僚のことを思い出した。
思ってもみなかったつながりに、安代は体中の筋肉から力が抜け、頭がホワイトアウトしていくのを呆然と眺めるしかない。
「我々は、あなたの内部告発に基づいて速やかに査察を決定しました。きっとあなたを始め、職員の皆様が健康で働きやすい職場になるように処置いたします。」

内部告発?
処置?
この時になって、安代は自分の憂さ晴らしのおしゃべりが呼んだ台風をようやく認識したのだった。



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その日は瞬く間にやってきた。
雪深い安曇野でも、明らかに春風とわかる温かな風が吹き、梅と桜、桃とアンズまでもが同時に花を咲かせ、深く息を吸えば、甘い香りが肺いっぱいに広がるのではないかと思われるような陽気の朝だった。

真理はいまだ出勤しておらず、 腰を痛めた職員も、3週間の休暇を認めているのに、職場を心配して毎朝電話をかけてきては申し訳ありませんを繰り返している。
いいのよ、そんなに気にしていては、治るものも治らないわ。
今日子はその朝も、先週と同じことを繰り返した。

ダークスーツに地味なネクタイを合わせ、黒の革カバンをさげた男性が二人、正面玄関に現れたのをすぐに迎えに出る。
来所者の名前は予め聞いていたが、今日子が直接言葉を交わしたことのない二人だった。
行政にも顔がきく今日子にしては珍しいことではある。
名刺を受取り、所属を確認すると、保健福祉部の部長直属の人だということがわかった。
子ども・福祉課の職員ではないのか?
ここでもまた、小さな疑問が今日子の胸をよぎる。
しかし、査察を兼ねた監査はすぐに始まった。

子どもたちが登校する前に二人の査察官が到着していたので、今日子は説明を兼ねて査察官と共に子どもたちを見送った。
その後、施設内を案内し、終わると、応接室に言われたとおりの資料を届ける。
もみの木学園開設以来…といっても3年だが…の出勤簿と、出張伝票、勤務表、会計簿…指示されたものを事務員とともに運び込むと、今日子は席をはずすように言われた。
怪訝に思いながらも、指示どおりにする。
応接室には事務員だけが残り、監査が続けられている。

安代のような一般の職員は、監査と言われても何も感じない。
自分に直接降りかかってくることは、ほぼないと思われるからだ。
ところが、この日は、時折誰かが呼ばれては応接室に行き、査察官の質問を受けているという。
不可解なこともあるものだと思っていたら、安代自身が呼ばれた。
恐る恐る応接室に入ってみると、見ず知らずの男性が、もみの木には似つかわしくないダークスーツで座っており、部屋は温度が高すぎるほどに暖房が効いていた。

「緊張なさらないでください。いくつかご質問させていただきたいだけですから。どのようなお答えでも、ご迷惑がかかることは一切ありませんから、お気を楽にして答えてくだされば結構です。」
年かさのダークスーツが、見た目よりももの柔らかな声でそう言った。
「はい。」
安代が頷くと、年かさは続けて尋ねた。

「開園当初から勤務しておられますね。いかがですか?」
漠然とした質問に、どう答えてよいかわからない安代は、質問の意図を探るように、年かさの査察官の目のあたりを見返したが、すぐに視線を逸らし、うつむいた。
その、迷いが浮き上がるような安代の視線を逃さず捉えた査察官は、畳みかけるように尋ねた。
「勤めづらいことがあるとしたら、どのようなことでしょうね?」
明らかな誘導尋問だったが、安代は手もなくひっかかった。



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県の事務職は、教育職と同じように4月1日付で異動する。
それ以外の時期の異動は稀有なことといってよい。
新聞に、氏名と異動先が一覧になる教育職とちがって、事務職は事例一枚で地味に居場所を移る。
元が教員であっても、異動先が行政ならば、新聞に掲載されることはない。

児童養護施設の職員は事務職ではないが、教員との人事交流もあるため、やはり4月に異動する。
この年も例外ではなかった。
もみの木学園でも、幾人かの職員が去り、新卒を含め、幾人かの職員がやってきた。
が、異例だったのは、今日子のような管理職と、県行政の事務職の異動が6月と決まっていたことだ。
これは、衆参両院同時選挙に県知事選まで重なって、5月に同時に行われるという、滅多にない出来事に対応するためだった。
現職の知事は退任の意向を明らかにしている。
次の知事の考え方一つで、教育も、福祉も、何らかの影響を受けることになる。
その影響の大多数は予算となって反映されるのだが…。

「え?監査、ですか?」
本庁から電話連絡を受けた今日子は、驚きを隠せず、つい問い返してしまった。
会計監査は年に3度入る。
間違いを未然に防ぐためだから、これは悪いことではない。
その3度のうちのどれか1度は、会計以外の監査も兼ねる。
この時ばかりは、管理職と事務職は、朝から資料の説明と施設の案内に追われ、午後4時ごろから行われる評価会で、さまざまな項目に対する指摘と評価を受ける。
この指摘と評価の内容が悪いと、改善命令が出て、再度の監査になるため、できれば口頭注意で済むような範囲に収めておく必要がある。

とはいえ、銀行や民間企業と違い、それほど不正を起こせるわけでもなく、本庁に見られては困る資料が存在するわけでもない。
無事に終えることがあらかじめ決まっている、予定調和の監査でなければ、意味がないというのが本当のところだ。

だから、1週間から、遅くても数日前までに監査実施の連絡が入り、それに備えるわけだが、4月に監査というのは今日子の記憶の中にはまるで存在しないものだった。
監査をする方もされる方も、異動したばかりでゴタゴタしているのは目に見えている。そのような時期に監査は入らない。よくて6月か7月から始まるのが常なのである。

承知いたしましたと返答するしかないので、そのようにしたものの、今日子は、なぜ今監査なのか?と首をひねらずにはいられなかった。
この年の行政職の異動が通例どおり4月だったら、存在しないはずの監査だ。
が、6月異動になったからといって、なぜ今なのか。
しかも、会計監査は年度末に受けている。
今回の監査は、業務監査だという。

目を閉じ、額に手を当てながらしばらく考えた今日子がたどりついた答えは、やはりあのことか、という一点だった。




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偶然のことだった。
買い物に出かけた先で、知った顔に声をかけられた。
かつての同僚だったその女性は、今、本庁の職員になっていることは知っていた。
けれども、安代はこの女性が本庁でどのような仕事をしているかは知らなかったし、関心もなかった。

以前勤めていた養護施設で一緒だったこの女性は、相当のやり手だった。
頭も切れるし、行動力もある。
理知的で、時に施設長でも理論でやり込めるようなところがあった。
それでもバイタリティ溢れるところが評価され、安代がもみの木学園に異動する前年に、彼女は本庁へ異動した。

仲がよかったというほどではなかったが、年齢が近いこともあり、会えばそれなりに話が弾む。
この時は久しぶりの再会でもあり、仕事から離れた場所でのことでもあり、どちらからともなくお茶でも飲もうということになって、手近なコーヒーショップに腰を落ち着けた。
自然と、他の人々から距離をとって座った上に、ともすれば聞き手にも届かないような小声で話し合うのは、どこを誤解されて守秘義務違反と言われるかしれないことを、二人共重々承知していたからだ。

かつての同僚たちの動向や、面倒を見ていた子供たちのその後のことなど、他愛ない会話が続いていたが、彼女から、もみの木はどうなの?と問いかけられたのをきっかけに、安代の眉が曇った。
はじめのうちこそ、まぁまぁ、どこも同じよね、手が足りなくて…と、当たり障りのないことを言っていたが、彼女の巧妙な聞き方もあり、もみの木を知らず、この仕事の本当の姿を知り尽くしている相手だけに気安くもあり、つい本音を漏らしたのは、ごく自然なことだった。

「休めないのよ。考えられないほど仕事を抱えているの。もう、ずっと。」
「どうして?何かあったの?」
「それがね、休んでいる人がいるの。もう3週間になるわ。辛いことがあったのよ。うちの事故、知っている?」
「小2の女の子の話なら聞いてるわ。新聞報道もされたしね。あれ、あなたの担当だったの?」
「メインではないけどね。でも、そのメイン担当が精神をやられてしまって、仕事に復帰できないの。気持ちは分かるから、私も精一杯支えてきたんだけど…。」
今日子が聞いたら、安代の饒舌さに驚いたことだろう。

「責任者はなんて言っているの?」
すぐに責任問題に視点が移るあたり、さすが県職だなぁとおもいつつ、安代は苦々しい顔つきで、彼女に似合わない言葉を使って答えた。
「休んでいる彼女はね、施設長のお気に入りなのよ。だから、こんな好き勝手なことができるのだと思うわ。私だって辛いのに、施設長は彼女のことばかり考えているのよ!」

この3週間だけではない、ずっと前からそう思っていたと、声にすればすれだけ気持ちが高揚し、激しい言葉で次々に話し出す安代の声を親身に聞く姿勢を見せながら、その女性は大きなとっかかりを見つけたと思った。

春が遅い安曇野にも桜前線が届き、待ってましたとばかりに一斉に咲き競う頃、もみの木学園に季節はずれの台風が吹き荒れる原因は、こうしてできたのだった。 




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かつて、先天性の心臓病で幼い娘を失い、その痛みをぶつけるように仕事に打ち込んできた真理にとって、大切に育ててきたトコちゃんをこのような形で亡くした衝撃は、時計もカレンダーも止まったままにするのに十分すぎる痛手だった。

しかし、折しも外界は4月。
新年度が始まったところだった。
学園は初就の子どもたちあり、年度初めから措置された子どもありで上を下への大騒ぎ。
スミレやカズちゃんのように、以前から学園で暮らしていた子どもたちも、学年がひとつあがったと同時にクラス替えがあり、そわそわと毎日を迎えている。

大きい子どもたちを担当していた職員にとって、高校を卒業し、学園を去っていった子どもたちとの別れが残す余韻は、かならずしも活力源とはならず、寂しさとやるせなさが漂う中、感情に押し流されまいと踏ん張るのが4月でもある。

真理の休みが3週目に入りそうな頃、もう一人、腰を痛めて休暇を取らざるを得ない職員が出た。
全治3週間の診断書が出ている。
これが3ヶ月なら臨時職員を雇うこともできるのだけど…と今日子は密かに溜息をついた。
怪我が軽かったのは不幸中の幸いだ。が・・・・

配置された職員数には、こういった突発的な出来事に対応できるほどのゆとりは勘定されていない。
健常児の生活棟に勤務していた職員はみな一斉に悲鳴を上げた。
中でも、一番の負担を強いられていたのは、真理の同じ部屋を担当する安代だった。

いつも無口で、文句など言うどころか考えてもいないという様子で働いてきた安代の表情が曇ることが増えた。
それに気付かない今日子ではない。
仕事を手伝いながら、 労わりの言葉をかけ続けた。
けれども、安代にしてみれば、施設長である今日子が仕事を手伝いに来てくれること自体、気が重いことであり、そう思い始めると、あれしてほしいこれしてほしいと注文することができない。

そうして、決して言ってはいけないと思って我慢し続けているのは、トコちゃんが亡くなって気が挫けるほど悲しいのは、安代も同じだということだ。
なぜ真理さんは休み続けてよく、私はその分まで働かなくてはならないの?
いっそ、私も休んでやろうかと思う。
が、そんなことをしたら、ツケは子どもたちに回るのだ。

トコちゃんの死を未だに知らされていないスミレとカズちゃんが、忙しそうな安代を手伝って一生懸命掃除機をかけていたのだが、 「おわったよ〜!」と安代の腰に二人で抱きついて、「ねぇ、ちょっとだけ絵本を読んで!お手伝いしたから〜!」
「え〜っ。まだやることあるのに…。」
と言いつつ、このかわいい娘たちのささやかな願いを断ることなど、自分にはできないと、安代は苦笑を浮かべながら諦め、手渡された絵本を開きながらベッドに腰掛ける。

座った姿勢の背骨を伝ってしびれるような疲労感が突き上がり、肩から鉛のように重い毒が爪先に向かって体中を侵していくのを、安代はもう無視できなかった。



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千夏さんは、あのご老人…幸吉じいさんの嫁ではなく、娘だった。
3姉妹の長女だ。
歳は、今日子や新吉たちといくらも変わらなかった。
それが、10歳以上も年上のように老いて見えたのは、彼女の心の反映だったのだと、後になって知ることになる。

「千夏さんも確かに『おらほの家』の奇跡だけど、俺にはやはり、シスター今日子や真理さんをここのオープニングスタッフに迎えられた以上の奇跡はないと思っているよ。すべて、トコちゃんのおかげだ。最大の功労者はトコちゃんだよな。」

新吉の言葉に、今日子は深く頷いた。
「そうね。」
今日子はあの春の出来事を思い出しているのだろうか。
それ以上はいわずに、珈琲に手を伸ばした。

新吉が会長のお屋敷に招かれ、夜通し『おらほの家』について語っていたころ、トコちゃんの死の衝撃から立ち直れなかった真理は、仕事を休んだままになっていた。
真理を痛めつけたのは、もしも自分が書いて渡したもみの木学園の電話番号が油性ペンで書いてあったら、雪に濡れて見えなくなることもなく、トコちゃんは学園に連絡でき、命を落とさずに済んだのではないかという一点にあった。

いくら考え悔いてみたところで、真相は分からない。
その気になれば、雪に濡れる前…自宅から電話することもできただろうから、真理の想像は妥当ではないのかもしれない。
しかし、真理にしてみれば、もっと前に、何かの拍子にメモが水に濡れてしまい、電話がかけられなくなったがゆえにどうしようも耐えられなくなった時、あんな雪の日でも家出するしかなかったのではないかと思えてくる。
思い始めれば、それ以外の答えはあり得ないような気がして、どうしようもない。
眠ろうとしても、起きようとしても、食べようとしても、この思考の渦から抜け出せなくなった。

もはや、人の世話をするなんて無理だ、自分にはそんな資格はないと思っていたと、真理は語っている。
そんなことは百も承知の今日子は、一人暮らしの家に閉じこもってしまった真理を案じて、何度もアパートを訪ねていたが、ドアの中から返事がない日もあり、気をもむばかりで1週間が過ぎた。

職場には、体調がすぐれないから休暇を取っていると今日子から説明した。
学園にとって、ひとりの職員の長期休暇は大きな問題なのだ。
夜勤がある仕事で、不意にシフトが崩れるのだから、人々を巻き込むことになる。
しかも、それがいつまでと知れず、本来の自分の持ち分意外に、休んだ人の分も受け持つことになるのだ。
学園の仕事は、高校の授業のように「自習」にはならない。

真理の休暇が10日続いたころには、黙って穴埋めをしてきてくれていた職員から、不満が漏れるようになった。
夜勤には今日子自らが入ったりもしていた。
が、子どもたちがいる以上、仕事は減らない。
真理は仕事を辞めたいと言い始めていた。
それをどこからか伝え聞いた職員の中には、早く退職させ、次の職員を配置してもらうべきだという声が上がった。

当然のことと、言わざるを得ない。
公立の学園職員は、公務員になる。
管理責任者の真理が雇用しているのではなく、県知事の雇用になるため、補充についても県知事の名前で行われる。
施設の規模に合わせて計算式に則り、職員数が決められているので、真理が「正式採用」である以上、そして休暇が休暇である以上、他の手助けがもらえるわけではない。
ボランティアでは負えない責任もある。 

今日子は苦慮した。
あと少しだけ、真理に時間をあげたい。
そうすれば、彼女もきっと立ち直るに違いない。
その時、職を失っているようなことにはさせたくなかった。

が、事態はそう簡単な話ではなくなっていった。





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おらほの家の開所が確定した時、スタッフの胸に共通してあったのは、あの寿司屋のご老人を探し出して、利用者として迎えたいという思いだった。
名前も住まいも分かってはいなかったが、それは大した問題にならないだろうと思われた。
それほど広い町ではない。
つっかけで寿司をつまみにくるくらいの場所に住んでいるなら、いずれ誰かが再会するだろうと思われたからだ。

その機会は、まもなくやってきた。
佐々木夫妻が買い物に出かけたスーパーでのことだった。
レジを終え、カゴいっぱいの食材を袋に詰めるコーナーで、下品な女性の罵声が聞えた。
それだけで十分だった。

佐々木夫妻が自分たちの買い物を放り出して行ってみると、自分は腕組みをして手を貸そうともしないくせに、ご老人の詰め方が乱暴だの遅いだのと罵詈雑言を吐いている女性は、まさしくあの嫁もどきで、文句ひとつ言い返すことなく、顔を深くうつむけてもたもたと手を動かしているのはあのご老人だった。

隆三が動く前に、今日子が飛び出した。
平静を装って、また、再会ではないことを装いながら、今日子は話しかけた。
「お買い物中に失礼します。今度この近くにご老人のデイサービス施設を開所することになりました。よかったら少し話を聞いてくださいませんか?」
突然のセールスに、拒絶反応は付き物だ。
「うちは結構よ。何それ?デイサービスって。どうせ高い料金とろうって腹でしょう?」
そんなにダイレクトに拒絶しなくてもいいのに…後ろで見ていた隆三は自分の眉が山形に盛り上がったのを感じた。

「デイサービスは、おうちにいるご老人を日中だけお預かりして、ご家族様には自由時間を、ご老人には趣味や健康をご提供するサービスです。」
今日子は、小学生に初めての九九を教える担任教師のような口調で、ゆっくりと優しく語りかける。
「家族に、自由時間?」
「はい。私どもの施設は日中しか活動しませんので、朝晩の暮らしはご家庭でということになります。が、それが毎日日中もとなると、ご家族は家に縛られたようになってしまってお苦しいと思うのです。そこで私どもがご老人の日中の活動をお支えし、ご家族にはご家族それぞれの自由な時間を持っていただきたいというのが私どもの考えです。」

こういう時、隆三は感心してしまう。
自分の妻は、どうやってこんなふうに、人の心のすき間を見つけるのだろう。
そうして、そのすき間に沁み込むような言葉を選び出すのだろうか。
隆三は、ご老人の袋づめを手伝いながら、嫁もどきの出方を待った。

「私に、自由な時間…。」
「はい。利用料はいただきますが、昼食代込みで月5000円です。それで月曜から土曜まで、何日いらしていただいてもかまいません。送迎をご希望の日だけ、往復で100円追加していただきます。」
「それだけ?」
嫁もどきは疑わしげな目で今日子を睨みつけた。
「そんなウマい話があるわけない。後からなんだかんだと別料金を要求するつもりだろう。」
「ああ、そうですねぇ。」
今日子は否定語を使わない。
「バス旅行とかも計画したいと思っているので、その時には遠足代をお願いするかもしれませんねぇ。」
「遠足代か。小学校でもそれは授業料に入らないからね。」
嫁もどきは、調子が狂ってきたようだった。
すっかり、今日子のペースにはまってしまった。
「月5000円でこのじいさんの面倒をみる時間が減るなら…悪い話じゃないね。しかし、あんたたち、身元はしっかりしているんだろうね?…」

おらほの家が迎える、最初の家族はこうして決まった。




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こじんまりした事務室で、きれいにファイリングされた資料を点検していた新吉に、淹れたての珈琲を運びながら今日子が遠慮がちに声をかけた。
「どうかしら?」 
返事をせずに10秒ほどページをめくり続け、電卓をたたいていた新吉は、老眼鏡をはずしながらゆっくりと顔をあげ、
「ああ、問題ない。なかなかどうして、大したもんだ。」
と、今日子の事務能力を称賛した。

「ほんとうに?何回やっても、会計は好きとも得意とも思えないわ。会計士や税理士の資格を持った利用者さんがいらっしゃらないか、心待ちにしているのよ!」 
自分の分のカップを新吉の前の席に置いた今日子は、大きく息を吐き出しながら、ようやく微細な緊張を解いたようだ。
「これで会長さんをお迎えする心の準備ができたわ!」

そこへ、事務室のドアをノックする音がして、返事を待たずに一人の女性が顔を覗かせた。
「今日子さん、ポスティングの準備ができたので、行ってきます。今日でかけるのは純君と元君とよねさんです。」
「千夏さん、気をつけてね。もどったら、お部屋の飾り付けを手伝ってくれるかしら?」
「はい!では、いってきます。」

「ジュンくんとハジメくんはどう?馴染めているだろうか。」
新吉は珈琲カップから立ち上る湯気を吸い込みながら、答えはわかっているがという口調で尋ねた。
今日子は期待通りの答えをする。
「何もかもOKというわけではないけれど、でも、家に閉じこもって、家族に八つ当たりしていた生活よりはずっとマシだと本人たちが言うのだから、嘘ではないでしょう。それに、学校はまだ遠いようだけど、ウチにはマリアンヌもいるし、勉強するには悪くない環境でしょう?ふたりとも義務教育は終えているわけだから、こんな場所でこんなことを学んでいくのも、これからの日本には一つの選択肢になっていくと、私は思っているのよ。それを教えてくれた二人には、本当に感謝ね。」

暖かな部屋だった。
椅子の背に体重を預けながら、新吉は今日子の顔に改めて視線を注いだ。
「それにしても、あの千夏さんが、こんなふうに変わるとはね。これこそ、おらほの家最大の奇跡だよ。」
声をひそめて言う新吉に、今日子はくくくと笑って同意した。
「覚えている?あのお寿司屋さんでの出来事。」
「当たり前だ。忘れようにも忘れられないよ。失礼だが、なんて下品な女性だろうと呆れたものだった。それに、あの歳であの性格を変えるのは無理だろうとも思った。いじめられているおじいさんが気の毒でね。凍りついていたスミレやトコちゃんの顔が今でも目に浮かぶよ。」
「あれから、もう5年よ。」
「早いものだな。あの時隆ちゃんの上着をこう、掴んだ幸吉さんがいてくれたから、おらほの家が誕生したようなものじゃないか。」
「本当にね。幸吉さん、すっかり元気に明るくなって。真理さんとはいいコンビよ。」
「いやいや、それより何より、千夏さんだ。」
「そうねぇ。まさか引きこもりの子どもを家から引きずり出して、働きたくなるように仕向ける達人だなんてね。人の才能ってどこに隠れているか、わからないわねぇ。」
「千夏さんのおかげで社会復帰を果たした若者が、このおらほの家から何人出たかと思うと…。」
ふたりは改めてくくく、と低く笑い合った。






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★今朝は体調がすぐれず、更新時間が遅れてしまいました。
いつも定時にいらしてくださっている皆様、ごめんなさい。

 


「幸吉さん、幸吉さん、この植木鉢を玄関に並べたいから、手伝ってくださいよぉ。」
真理に呼ばれた幸吉じいさんは、よたよたと歩いて真理の横にたどり着いた。
「重たいですか?大丈夫?」
色とりどりのパンジーが咲いた植木鉢の中から、真理は黄色と紫が鮮やかなひと鉢を選んで幸吉じいさんに手渡しながら、その顔を覗き込んだ。
「だいじょうぶだよぉ、心配いらん。」
レコードを回転数を落として再生したような間延びした声で答えた幸吉じいさんは、手渡された鉢を大事に腹に抱えると、元来た方向に歩きだした。
「ちがう、ちがう。玄関だってば!そっちはトイレでしょ!?」
「お?トイレにきれいな花を飾るんじゃなかったかいね?」
「だからぁ、玄関だってばぁ!」

そのやりとりを聞きながら、お日様がさんさんと当たっている玄関わきで、梅ばあちゃんや亀ばあちゃんが大笑いしている。
ばあちゃんたちを手伝って、ミドリが今こしらえているのは、味噌餅だ。
「ミドリちゃん、もっと早く手を動かして。かたまってしまうよぉ。」
「はい、どんどん。」
ばあちゃんたちは口だけが早くて、手は動かしていない。
指揮官たちの応援に応えるべく、ミドリは必死に手を動かしている。
味噌が餅にまざらない。

「ああ、もう、貸してごらん。」
とうとうしびれをきらせた亀ばあちゃんがミドリから木べらを奪って臼の横に陣取った。
ミドリは汗を拭きながら目を見張る。
どれだけ力を入れても味噌と餅はマーブル状にしかならなかったのに、亀ばあちゃんの手にかかると、みるみるキャラメル色の滑らかな艶が広がっていく。
「すごいわぁ。」
ミドリが感嘆の声をあげると、梅ばあちゃんのほうが、ふふんと小鼻を膨らませて答えた。
「亀さんの味噌餅は絶品だからねぇ。ミドリちゃんはまだまだだぁ。」

そこへ福ばあちゃんがサンダルを履くのももどかしげにパタパタパタとやってきた。
「ほれ。クルミが刻めたよ。間に合ったかね?」
「福さん、丁度いい時に来たねぇ。さ、入れとくれ!」
亀ばあちゃんが手を休めずに言うと、ボールいっぱいに入っていた刻みクルミが臼の中に投入された。
「わぉ〜っ。美味しそう!」
ミドリの歓声につられて、玄関掃除をしていた何人かが、臼の方へと集まっていった。 

玄関の並びにある部屋では、庭に出るためのドアを開け放したまま、ひとつの机に向かい合わせて額を寄せている二人の姿が見えている。
「で?隆三おじさん、どうしてそういうことになるわけ?」
「つまりだなぁ、こことここが共通だから、こうまとめてだなぁ…カッコの中にこことここを書くんだな。」
「あーもう、わからない!マリアンヌ!数学教えて!」
「待て待て、スミレちゃん。もう少し聞いてくれたらわかるって。」
「ありがとう、ありがとう。もう、大丈夫だよぉ〜!」
教えたがる隆三おじさんに作り笑顔を見せたスミレは、手早くノートと教科書を閉じると、がさっとひと抱えにして逃げ出した。

呼ばれたマリアンヌはリハビリ指導の最中で、数学どころではない。
「トメさん、いいわよ。だんだん筋肉がついてきている。もう少し膝をあげられる?そうそう。いい感じ!」
「ほほほっ。わしゃもう一度元気に歩けるようになって、じいさんにかたき討ちするんじゃ。」
「えっ!?おじいさんのかたき討ち?」
トメばあちゃんはリハビリが続けられないくらい大笑いしてから言った。
「違うよ。じいさん『に』かたき討ちじゃ。じいさんときたら、わしが歩けなくなったのをよいことに、わしを家に残して、あんたさんに毎日会いに来とったろう。いやらしいじいさんだ。だからわしゃこうして、あんたさんにひっついて、嫌がらせをしとるんじゃ。そうしてせいぜい元気になって、男前を探しに行こうと思ってねぇ。」
「やだ、もう。ほらほら、休まないで。で、トメさんはどんな男性が男前なの?」
「そりゃもう、じいさんほどの男前はおらん。」
「は〜ごちそうさま。リハビリの回数増やしちゃおうかなぁ。」
「ほい?」 
マリアンヌに促されて、トメばあちゃんは、白いバーを両手で一つずつ握った姿勢で、再びよっこいしょと膝を持ちあげた。 






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廊下のほうから、お嬢様どこにいらっしゃいますか!と探している声がする。
どうやら、お付きの目を逃れて来たらしい。
父親から離れた花音嬢がふと立ち止まって、新吉を見た。
「お仕事のお邪魔をしてごめんなさい。」
「いえ、少しも邪魔ではありません。」
新吉はつい、会長に話すのと同じくらい丁重に答えてしまった。
「お父様を助けてくださっているのでしょう?ありがとうございます。では、お先におやすみなさいませ。」
父にしたよりも丁寧にお辞儀をすると、スルリとドアを抜けて行ってしまった。
「お嬢様、こちらでしたか!もう、お探ししたのですよ…」
明るい声が遠ざかって行った。

新吉は考え込んだ。
このお嬢様の幸せとトコちゃんの一生は、どこかで足して2で割ることは出来なかったのだろうか。
すべての子どもたちがこのお嬢様ほどに、とは言わない。
言わないが、1人の例外もなく、人として認められ、あらゆる暴力に怯えず、飢えず、清潔さと温かさの中で、思い切り深呼吸をし、手足を伸ばしながら笑顔とともに成長することが当たり前の世の中にできないものだろうか。 
無理とは分かっているが、でも、これではあまりにも不公平だ。

「星川さん。」
会長に呼びかけられ、思考から醒めた。
「『おらほの家』を現実のものにしましょう。トコちゃんの命がけのアイディアだ。もしも『おらほの家』がトコちゃんの家のそばにもあったら、彼女は命を落とさずに済んだのかもしれない。私はこの事業を日本中にあまねく展開させたいと思う。」

会長は力強く宣言した。
「はい。会長。ありがとうございます。
つきましては、こちらに詳細な企画書を作りなおして参りました。
ですが、すでに夜も更けてしまいましたので、後日またご説明にあがります。」
新吉に言われて会長は壁の時計に目をやった。
すでに23時だ。

「あなたは、疲れましたか、星川さん?」
「いえまったく!肚の底からの話を聞いていただけて幸せいっぱいと申しましょうか、眠いとか疲れたとか、今夜は感じなさそうです。」
「私もだ。ここまで聞いて、この先をお預けにされてしまったら、眠りたくても眠れなくなるだけだ。
佑輔、佑輔はいるか?」

会長は声を張り上げるでもなく呼んだ。
「はい、旦那様。」
先ほど花音嬢が入ってきたのとは別の扉が開き、佑輔氏が姿を現した。
どうやら扉の奥が執事の部屋になっているらしかった。

「こんな時間にすまないが、日本酒の用意を頼む。」
「日本酒でございますか?」
「そうだ。猪口を3つ用意するように。」
「承知いたしました。すぐご用意いたします。」

間もなく佑輔氏が言われたとおりのものを用意して戻ってきた。
「これでよろしゅうございましょうか?何かつまむものもご用意いたしましょうか。あいにく中野は帰ってしまいましたので、わたくしが作りますのでご期待に添えるかどうかはわかりませんが…」
「では、頼むとしよう。」

佑輔氏がいなくなると、会長は静かに三つの猪口に酒を注いだ。
一つを新吉に勧め一つを自分の前に。
もう一つを誰もいないソファーの前に置いた。
「これは、我が秘書のトコちゃんのために。」
会長の言葉を聞いて、新吉は思わず涙が浮かぶのをどうしようもなかった。
カバンの中から手帳を取り出し、はさんであった一枚の写真を取り出した。
あの寿司屋で撮った記念写真だ。
トコちゃんとスミレが、満面の笑顔でピースサインをしている。
その写真を、そっと猪口の前に置いた。

「さて、聞かせてもらいましょうか。」
「はい。こちらの資料をご覧ください。この物件を買いあげていただきたいと思います…」





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