Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年12月


医師と今後のことなどを詳しく打ち合わせた後、新吉はミドリに会った。
入院当初は閉鎖病棟にいたミドリだったが、今では自身が届けさえすれば自由に外出できるほどの部屋にいる。
若い女性ばかりの部屋に行くのがほんの少し気詰まりに感じる新吉は、このところミドリを外出に誘うのが常になっていた。

行きつけの店は駅に近いところにある「木の実」というコーヒーショップだ。
木の床、アンティークな飾り物などが落ちついた雰囲気を出しているが、大きな窓から日差しが入って、店内はとても明るい。
カウンターと、二人掛けのテーブル、4人がけのテーブルのほかに、店の中央に大きな一枚板のテーブルがあり、そのまわりにぐるりと8人分の椅子がある。
ひとりで来店する客は、この中央のテーブルを好むようだった。

二人は、空いていればいつもカウンターに並んで座る。
互いに肘をつけば額までくっつきそうな小さなテーブルをはさんで向かい合うのは何となく気恥ずかしかったからだ。
が、この日は新吉が店員に断って、4人がけのテーブルに向かい合わせに座った。
ミドリは怪訝な顔をしながらも、黙って指された席に腰かけた。

真正面から見るミドリは、きれいに髪を整え、うっすらと化粧さえしていた。
多分おろしたての白いポロシャツにスリムなデニムを合わせていた。
入院前のぐったりと濁った印象は皆無で、緊張した風もなく、正月に帰ってきた時よりもさらに健康そうに見えた。

「先生が、退院していいと言っていた。聞いているか?」
「うん。」
「いろいろと、その…頑張っていたようだな。少しも知らなかった。」
「いいのよ。お父さんには仕事があるんだし、私にはほかにすることがないから。」
すまない、と言いかけて、正月に、この「すまない」を嫌がったミドリの言葉を思い出し、飲み込んだ。
ここで詫びの言葉を口にするのは、多分、自己満足にしかならない。

「いろいろあって、スミレが園を出たがっているんだ。」
ミドリは一瞬で顔色を変えた。
「またいじめられたの?」
「いや、違う。そうじゃないんだが、経営陣が交替したりして、担当してくれていた長谷川さんが退職してしまったんだよ。それがとても寂しいらしいんだ。だから、できるだけ早く長野に行って、スミレを引き取ってやりたいと思っている。どうだろうか?」

「そうしましょう。」
ミドリは即答した。
「もしも、スミレが私といることを選んでくれたら、だけど。私といるより園の方が幸せと思うなら、その時は…。」
ミドリはその先を言わず、出されたばかりのカフェラテを見つめている。
カップの縁いっぱいに盛り上がった白い泡には、笑顔の女の子が描かれている。
ラテ・アートというものを、新吉もこの店に通うようになって知った。
「園の方が幸せだと言うのなら、私を選んでくれるまで待つわ。」
「待つ?」
「ええ。あんなに幼いのに、散々振り回してしまったのは私なの。そんな私を許すか許さないかは、彼女が決めることよ。一生許さないと言われても、恨む資格さえないのよ、私には。その代わり…。」

また言葉を切って、ミドリはカップをもちあげると、そっと泡に息を吹きかけた。
泡に描かれた女の子の顔が小さく揺れる。
けれども、その表情が崩れることはなく、カップからかわいい笑顔がのぞいている。
「その代わり、スミレに許してもらえても、もらえなくても、私は私で幸せな人生を生きていたいと思うの。健康で、謙虚で、行動力のある人でいたい。」

「ああ、そうだね。」
新吉は少なからず感動していた。
そこにいるのは、もはやただ傷ついて守られるだけの娘ではなかった。
何をしでかすかわからず、どう扱ってよいか知れない不気味な存在でもなかった。
自分の生き方に責任を持ったレディが、そこにいて、真っ直ぐに新吉をみつめていた。

「ミドリになら、できると思うよ。お父さんに手伝えることがあったら何でも言ってくれ。」
「ありがとう、お父さん。まだまだ、山ほど手伝ってもらわなくちゃならないから、覚悟していてね。」

茶目っけのある笑顔を浮かべると、ミドリはカップを持ちあげて新吉の方に差し出した。
新吉も、自分のカップを持ち上げて、コツンとミドリのカップに当てた。
「乾杯!退院、おめでとう。」

新吉のカップに描かれた葉の模様が、勝者の栄光を讃える月桂樹の冠のように見えた。







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★今年も毎日毎日お付き合いくださり、本当にありがとうございました。
200回で書き終えるはずの話が、まだまだ続きます。
来年も、よかったらお付き合いくださいませ。
みなさま、よいお年を!


 


両開きの自動ドアを通り過ぎると、先ほどまでの熱い塊が肺の中から抜け出し、代わりに冷えた空気がすうっと忍び込んできた。
ようやく普通の呼吸ができるような気がしたが、ここの空気を胸いっぱい吸い込むのはいつもためらわれるのだ。
ミドリが入院している精神科病棟の待合室は、何十回通っても慣れない雰囲気がある。
いや、慣れてはいけないと言い聞かせている自分がいる。
この世界と自分自身は無縁なのだと思いたい自分がいた。

医師に会ったら、今日こそミドリの長野行きについて相談しようと決めていた新吉は、診察室に入ると、人懐こい笑顔を浮かべる担当医に先を越されてしまった。
「入院も1年を超えましたね。もう大丈夫。退院なさってけっこうですよ。」
「え?」
「ミドリさんのお話しによると、長野に転居されるご予定とか。服薬はしばらく続けてから、少しずつ減らしていきますので、そのあたりの相談に乗ってくれる病院をご紹介しておきましょう。」
「はあ。」
「ミドリさんはこの半年ほど、入院という形ではありましたが、生活訓練とカウンセリングを続けてきました。生活訓練とは、暮らしの技術だけではなく、それぞれの場面で様々に感じることを言葉にして相手に伝えたり、看護師に相談したりする訓練です。これを通じてミドリさんは、きっとご自分のことをこれまでよりずっと深く知ることができたのではないでしょうか。」

もしもそうだとしたら、今のミドリは自分よりも大人になっているのかもしれないと、新吉は思ったが、口には出さなかった。

「カウンセリングも一通りではありません。ミドリさんのご要望で、いろいろなグループカウンセリングに参加していただきました。」
「グループカウンセリング?」
「同じような体験をされた方のあつまりで、それぞれの体験を語り、聞き合う場があるのですよ。そこにはそのような体験に関する経験が豊富なカウンセラーが複数同席します。」
「ほう。」
「ミドリさんの場合はそれが5つも当てはまりました。若年出産をした母親の会、ドメスティックバイオレンス被害者の会、連れ合いを自殺で亡くした方の会、自分の子どもを虐待した母親の会…」
医師は言葉を不自然に途切れさせると、先ほどまでの笑顔を消して、上目づかいで新吉の表情を確認するような視線を送ってきた。
「それから、家庭に居場所がないと感じている子どもたちの会。」

新吉は返事が出来なくなった。

「どれかひとつだけでも、抱えきれないほどの痛みをもたらすものですが、どれか一つだけでは済まないことも少なくはありません。治療を進めるうえで、私はどれかひとつ参加してみてはどうかと話しました。するとミドリさんは、ひとつ、またひとつと広げていかれて、今ではご自身で計画的に参加されています。」

自分が事なかれ主義でいる間に、ミドリは現実に立ち向かっていた。
新吉は五十数年生きてきて、それなりに頑張ってきた、やれることはやってきたと自負してきた自分の思いあがりを突きつけられていた。
事なかれ主義は妻が家に持ち込んだものだと思っていた。
家事能力は高くても人の心には疎かったからだと、ミドリのあまりにも若い妊娠を妻のせいにしていた。 
ミドリが作った若い家庭も、それほど家を出たいなら好きにしたらいいと、彼女の自主性に任せたつもりでいた。
大人の判断だし、自分は物分かりの良い父親だと思っていた。
自分の選択は常に正しいと信じていた。
それがどれほどミドリを寂しくさせていたかと、今になってようやく分かった。
いや、少し前に一度分かった気になっていたけれども、 まだまだ甘かったのだ。
自分は自分の都合がつく時に、見舞いに来て、ミドリと話をしていただけだ。
それで、できることを全力で果たしているなどと、なんとおこがましい気持ちでいたことか。
その間、彼女はだまって、自分が負った傷と真正面から向き合っていたのだ。
自分は正しいと思っている人間ほど、他人を傷つける者はないのだと、新吉はこの瞬間、痛いほど骨身に沁みていた。






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もうひとつ、新吉には迷っていることがあった。
それは、「おらほの家」の経営者に関することだった。
これも、二つの考えが渦を巻いており、この頃の新吉は迷ってばかりだったと言える。

あの年の7月中旬。
スミレの学校も夏休みに入った。 
今日子が退職して1ヶ月半が過ぎている。
新たな施設長が赴任し、学園の雰囲気がだいぶ変わってきたらしいことが、スミレを通じて伝わってきていた。

タイムリミットだ。
どちらにしろ、はっきりした結論を出さねばならないと思った新吉が向かった先はミドリが入院している病院だった。
正月以来、ミドリはたびたび外出や外泊の許可を得て、家に帰ってきていた。
それでも、医師から退院などの話が出るまではそっとしておこうと思っていた。
ミドリの回復を考えてのことだと思おうとしていたが、本当はそうでないことに、新吉はもう気付いていた。

ミドリとスミレの対面から逃げたかったのだ。
もしもあの親子が関係を修復できないとした時、自分はどうしたらいいか、考えただけでも頭が痛くなってくる。
どれほど困難な仕事でもひるむものではないと自負してきたが、家庭のことは、からっきし自信がなかった。
自分の妻が何を考えているかもよく分からなかったほどだ。
娘の家庭がとんでもないことになっていることにも気付かずに、義理の息子を死なせ、娘を壊し、孫を傷つけた。
全てを自分が原因と思うほどお人よしではないが、全ての責任から逃れてきたのは事実だと確信するからこそ、スミレのその後には一生懸命になってきた。

ミドリのことも見守ってきたつもりだが、その二人をまた家族にできるのかについては、とても難しいことのように思われた。
だから、ミドリの入院は都合がよかったのだ。
入院中はスミレに会えなくても当然だと、納得できる。
寂しがるスミレをすぐに家に引き取らなかったのも、一面には、同じ心理がはたらいていたことを認めないわけにはいかない。

でも、それも終わりだ。
前に進まなくてはと、カレンダーが教えてくれた。
すっかり通い慣れた病院への道が、その日ばかりは長く感じた。
梅雨が明けたばかりの東京は、熱帯かと思われるほどの湿った熱い空気に包まれている。
アスファルトがギラギラと光っている道を、新吉は肺の中に煮えるような空気を入れながら進んでいった。






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資料の確認を終え、今日子とのんびり珈琲を楽しんだ新吉は、事務所を出て、準備に沸く家の中を見て歩いた。
庭では、おばあちゃんたちとミドリが餅をこねている。
あれは味噌餅というのだということを、新吉は知っていた。
できあがったらしく、テーブルの上に打ち粉をふった大きな板があり、できあがった餅が載せてあった。
皆でそれを取り囲んで、小さく丸めている。
ミドリはおばあちゃんたちに何か言われ、笑いながら答えている。
それでも、餅を丸める手は止めない。

「お母さん、わたしもやっていい?」
スミレがエプロンをかけて現れた。
「宿題は?」
「後でマリアンヌと一緒にやる。隆三おじさんに聞いたけど、わけがわからないんだもん。」
こっちへおいでと手招きするおばあちゃんたちの間に立って、スミレも一緒に餅を丸め始めた。
新吉はこの光景を何時間でも見ていたいと思った。
こんな日が来るとはね…。
新吉の記憶は、あの5年前の夏に戻っていった。

真理さんがいなくなっちゃったのと、スミレが泣きながら電話をかけてきた時は何と返事をしてよいか浮かばなかった。
何の事前説明もなかったし、事情が一切わからない。
当然、すぐに今日子に電話をかけた。
その頃は東京ですることがあり、どうしても長野へ行くのは難しかった。

何度目かの連絡で今日子と話をすることはできたが、申し訳ありませんと他人行儀な社交辞令を聞かされるだけで、事情はわからなかった。
スミレさんには今まで通り暮らしていただけますからと言うが、スミレの性質から考えて、信頼しきっていた担当者の急な退職が何の影響も与えないとは考えられなかった。
実際、スミレから何度も泣きながらの電話がかかってきていた。
真理に話を聞きたかったが、個人的な連絡先は知らなかった。当然、学園からも教えてもらえない。
新吉は秘密保持という姿勢に、この時初めて怒りを覚えた。

1週間後、新吉は隆三に電話をしてみることにした。
隆三は家で仕事をしているから、すぐに捕まえられた。
最初からこうすればよかったのだと、新吉は悔やんだ。
何があったのかと尋ねる新吉に、隆三は「俺は部外者だからな」と前置きして、事情を説明してくれた。
なんと、今日子も退職する予定だという。

今日子がいるから、スミレを学園に預けたのだ。
隆三も怒りに燃えていたが、怒ったところで事態は何も変わらないだろう。
新吉は、スミレをすぐにも引き取りたいと考えた。
あの子に、大人のせいで寂しい思いをさせるのはどうしても嫌だったのだ。

とはいえ、今すぐ東京の家に連れもどっても、自分は仕事にかかりきりで、小学2年の女の子の毎日を支える自信がない。
勢いでひきとっても、かえって寂しい思いをさせるかもしれないと思うと、例のいじめのことなども思い出され、決めかねた。
新吉は思い悩んだ。

ひとまず、学期途中での転校は避けようと、毎晩の電話連絡でスミレを励ましつつ、夏休みを待たせることにした。
それにつけても、真理がいたころは、こんなに毎晩子どもが電話をしてくるのを決して許してくれなかった。
それは、今いる場所への否定につながるからだ。
が、今の担当者はそんなふうには考えないらしい。
もしかしたら、スミレは誰にも見てもらえず、野放しにされているのではないだろうか。
新吉の心に、学園への不信感がひたひたと忍び込み始めていた。

とうとう今日子も退職し、スミレからの電話は毎晩悲痛さを増して、さみしいよおじいちゃんと泣く。
新吉は、いよいよ先延ばししてはいられないと思った。
まだ東京にいたいが、いずれは長野に引っ越し、おらほの家の設立に専念するのだ。
今行けばよいだけのことだ。
そう思いつつ踏みきれずにいるのは、ひとえに入院中のミドリを置いてはいけないからだ。
では、スミレを東京に呼ぶか?すぐに長野に帰るのに?
ならばミドリを長野の病院に転院させるか?

新吉は悩みに悩んだ。






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隆三には答えようがない。
何を言っても、今日子の気持ちには添えないような気がした。

「仕事をしている時は、週末どんなに寝坊しても、何の罪悪感もなかったわ。」
今日子が仕事のことを言いだしたのは、退職以来初めてのことだった。
隆三も、腫れものに触るような気がして、そのことは口にしなかった。
自分の仕事のことすら、今日子には伝えなくなっていた。
何故今そんなことを言い出すのだろうと、隆三は全身を耳にして今日子の次の言葉を待った。

「罪悪感がなかったのは、今日の寝坊は明日また頑張るためと思えたからだったのね。」
そうかもしれない、と隆三も思う。
「いつも、あと少し寝ていたかったの。あと少し、あなたともお話ししたかった。思い切って出かけるには少しだけ遠いところに行きたかった。」
きっとそうだったのだろう。

「でも、いくらでも寝ていていいことになってみたら、安心して寝ていられないの。
何のために身体を休めるの?
あなたといくらでもお話しできるというのに、私は寝てばかり。
前より話していないじゃない?
あなたのお昼ごはんを作ってあげたいなんて思っていたのに、3食全部作ってもらっているなんて、ひどすぎるわ。
ちょっとした旅行どころか、新聞を取りに外に出る気にもならない。
着替えるのも億劫よ。
こんなになってしまった私に存在価値なんてないんじゃないかしら?」

「何を言い出すかと思ったら!」
隆三は心底ホッとしていた。
これは、サインだ。
再起のサイン。
思い切り笑い飛ばしてやろうと思った。
僕の自慢の奥さんは、やっぱりステキだ。

「はいはい、了解しましたよ、奥様。
では、命令します。ただちに風呂に入って、着替えてください。
そうして、今日はでかけますよ。」
「どこへ?私、いやよ。」
「だから、言っているでしょう?これはお願いではなくて、命令です。」
「なに言っているの?出かけないわ。まだ調子が悪いもの。」
「はいはい、調子が悪くていいです。眠くてだるくて、ヤル気のないあなたでいいです。」

今日子は怪訝な顔をあげた。
艶のない、土気色の頬に涙の跡がついている。
目は充血し、重たそうな瞼が腫れているようだ。
カサついた唇は真冬のように荒れていて、ともすれば血が滲みそうに見える。

隆三はそんな今日子をそのままにしてソファーから立ちあがると、リビングの端に置いてあった電話機から、どこかへ電話をかけ始めた。
はい、そうなんです、おお、やってくださいますか!ありがとう、では2時間後に。
今日子にはそこしか聞えなかった。

「ほらほら奥様、いつまで座っているの?間に合わなくなってしまいますよ。お風呂に行った、行った!」
隆三の口調は、どこまでもからかい調子だ。
「今、来々軒に電話してみたよ。君のために特製中華粥を作ってくれるそうだ。
最近、ぜんぜん食べていないから、突然餃子を食べたらお腹がびっくりしてしまうからね。」
「来々軒?」

来々軒はマリアンヌと夫の真吾が愛してやまない行きつけの中華料理屋だ。
マリアンヌがあまりに美味しいと宣伝するので、今日子たちも行ってみたことがあった。
一度で気に入り、以来何かあると佐々木家は「来々軒」だ。

「僕はもう、ごはんを作るのに飽きてしまったからね。
今日はどうしても来々軒に行って餃子定食を食べますよ。
あなたも朝ご飯が食べたかったら、立ちあがってください!
そして、ご飯が終わったら、あなたを美容室に放りこんでこよう。」
「無茶よ、予約してないし…。」
「時間はたっぷりある。美容師さんの手が空くまで、いくらでも待たせてもらえばいいさ!」

今日子は久しぶりにクスリと笑った。 
外はいつの間にか雨があがって、ギラギラした真夏の太陽がのぞき始めていた。
太陽はこの朝、新しい季節がやってくる予感を運んできていた。






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出勤しなくてよくなったら、あれをしたい、ここへ行こうと楽しげに計画していた今日子だったが、実際にその時がやってくると、計画はひとつとして始まりさえしなかった。
今日子はひたすら眠り続けた。

気分良さそうに起きてきて食事をしたと思うと、食後のティーカップを片手にもううとうとと眠っている。
滅多に見たことがない2時間サスペンスを見ていると思ったら、意識があるのは最初の殺人が起きる頃までで、後になって「どんな事件で、犯人は誰だったの?」などと尋ねてくる。
食欲が減り、外に出るのを嫌がり、睡眠時間はますます増えていく。

隆三は心配した。
妻はこのまま廃人になってしまうのではないかと恐れた。
が、一方で、ここまで眠れるほどに疲れていたのだと思う気持ちもある。
本人が何かしたいと言い出すまでそっとしておこうと決めてからも、不安は尽きなかった。

七夕を過ぎたというのに、なかなか明けない梅雨だった。
糸のように細い雨が絶え間なく降り注ぎ、隣の家も見えなくなりそうな日のことだった。
朝から蒸し暑く、Tシャツ1枚で仕事をしていた隆三は、階下に何かの気配を感じて手を止めた。
ワープロを打つ手を休めて耳を澄ませ、捉えた気配を確認する。
雨の音以外、何も聞こえてはこなかった。
なんだ、気のせいかと、また仕事に戻ろうとした意識を、やはり何かが引っ張る。
プツリと集中が途切れてしまった。 
水でも飲むかと隆三は立ち上がり、仕事部屋を出た。
机のデジタル時計が10:06AMと表示している。

リビングに降りた隆三の目に、後ろ姿の今日子が映った。
ああ、今起きてきたのかと気配の意味を知ると、首のあたりの奇妙な緊張がほどけた気がした。
今日子はまだパジャマのままだ。
暑いといって苦しがるので、先日楊柳の薄紫の半袖パジャマを買ってきてやった。
いまや、1日のなかで一番長い時間、今日子の体を包むのはパジャマの仕事だ。
できるだけ快適なものを着せてやりたかった。
それをとても喜んだ今日子に洗い替えをせがまれて、隆三はもう一枚同じデザインのものを買ってきた。こちらは淡い黄緑色をしている。

今日は薄紫の方を着ている。
ソファーの上に横座りになっているようだ。
背中を斜めに丸めて、視線が床に落ちているのが、リビングに足を踏み入れた時、ひと目でわかった。
「おはよう。お腹すいたでしょう?すぐに用意するからね。」
隆三は病気の子どもに話しかけるように話しかけた。
今日子は振り向かない。
いつもと違う様子に、隆三の不安は意味もなく掻き立てられた。
 
「どうしたの?どこか痛むの?」
隣に座ろうとしてはっと気がついた。
今日子の顔からぽたぽたと滴が落ちてソファーにこぼれている。
俯いた顔は見えないが、髪が乱れ放題に乱れ、根元の白髪が真っ白に広がってみえる。
そういえば、月に一度の美容院を欠かさなかった今日子が、5月から一度も美容院に行っていないことに気がついた。

「今日子さん?」
隆三は顔を覗き込もうとして思いとどまり、今日子の足の方に座って、足首に手を置いた。
この蒸し暑い日にひんやりと冷たい足首だった。

「私、何をしているのかしら?」
ポケットに隠していたビー玉が一つ、ころりと転がりでたような声だった。






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せっかく一次方程式の解き方を分かりやすく説明してやろうとしたのに、スミレに逃げられてしまった隆三は、手持ち無沙汰のまま廊下をうろうろと歩いた。
ここは、いつでも暖かい。
もともと幼稚園だったのだが、子供が少なくなって廃園になっていた。
それを「おらほの家」に活用するアイディアを新吉に授けたのは隆三だった。

もともとが幼稚園なので、平屋でしっかりした建物が立っている。
給食が出る幼稚園というのが売りだっただけに、立派な厨房があった。
更に、雨の日の活動用だろう。広い玄関の突き当たりに、さらに広い部屋…体育館というプレートがかかっていた…があった。20センチほど床を高くした舞台もついている。この部屋の存在価値は無限大だ。
それだけではない。
園庭にあった遊具は閉園とともに撤去されていたが、道路に面したところには煉瓦で囲まれた大きな花壇が整備されていた。
また、スクールバスが出入りしていたため、大きめの駐車場があった。これなら送迎バスの運行も視野に入れられるし、送り迎えの家族が近隣の林檎畑にやってきているトラックに迷惑をかけることもない。
それに加えて園庭があるのだから、盆踊りでもバーベキューでも、ゲートボールでもかまくら作りでも、やりたい放題にできるだろう。
それが、いくらかリフォームするだけの状態で活用できるのだ。

5年前の3月。
あの寿司パーティーのあとすぐに新吉が実物を見に訪れ、ひと目で気に入った。
会長に説明しただけで買い上げが通ったと聞いたときにはガッツポーズだった。
さすが松重グループのことだけある。
幼稚園には格安の賃貸で土地を提供していた地主は、一も二もなくそこを手放した。
具体的な数字は聞いていないが、相応の金が動いたのだろう。

ちょうどその頃、高値を更新し続けていた株価が38915円という高値を期に下がり始め、時として暴落するという出来事が繰り返されていた。
パニック売りに釣られて、ますます下値を切り下げていく様子に、投資家たちは青くなっているらしい。
気がつけば株価は最高値の半値ほどになりつつある。
それでも、一時的なことだろうと隆三は思っていた。
何かの拍子に、新吉に意見を問うと、そう安穏な話ではないかもしれないよと前置きして、常々会長が、好景気に乗じて手を広げすぎることがないように、本業を外れて利殖に走ることがないようにと戒めているという話を聞いた。

それを聞いたとき、隆三は松重グループは現会長の代で尻すぼみになっていくのではないかと危惧した。
チャンスは大胆に掴まねばならない。
機に乗じることなくして、どうして大きくなれようか。
上がれば下がるのが株価であり、景気だ。
何をびくびくしているのだろうか。 
まだまだ若造らしい会長に意見してやりたいと思っている自分に隆三は笑ってしまった。
自分には関係のない話だ。

今日子が毎日家にいるようになった6月を、隆三は何とも言えない気分で迎えた。
妻が仕事にどれだけ心血を注いできたか、傍で見てきている。
どれだけ評価が高かったかも知っていた。
それが、思いがけない事件があったからといって、こうまで見事に足元を掬われていいものだろうか。

事情を聞いた隆三は怒りに震えた。
あまりに理不尽だと思った。
なぜお前が辞めねばならないのかと、声を荒げて今日子を責めた。
今日子は目を伏せて、ごめんなさいと言う。
謝る今日子にまた腹が立った。
謝るのはお前じゃないだろう!なぜ戦わない?なぜ跳ね除けない?なぜむざむざと踏みにじられるのか?
怒りを覚えることが滅多になく、それを表現することはさらに稀な隆三だが、この時は怒り狂った。

その時の今日子の言葉は一生忘れないだろう。
「私は、私を愛し、信じてくれる人とともに生きたいの。
私のことを取り替えの効く道具や駒に見ている人とこの先どれだけ時を過ごしても虚しいだけ。
私を愛しなさいと命令しても、愛は生まれないわ。
対立の中に信頼は育たない。
立場を守ることにはなんの意味もない。
あそこはもう、私の居場所ではなくなったのよ。
それとも、私は不運な子供たちのために、自分の尊厳を捨てなくてはならないの?
そんなことはないでしょう?
だって、幸せな大人にしか、幸せな子供は育てられないのよ!」

隆三は言葉を失った。


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真理の退職願は即日受理された。
所定の手続きをするために、真理は一度勤務先に出向くことになった。
しかし、二度と勤務にもどることはないままだった。
子どもたちが学校に行っている間に出向き、既定の書類を提出し、ロッカーの荷物をまとめた。
気付いた人たちだけに挨拶をした。
安代に一言お詫びをし、スミレのことを頼みたいと思ったが、安代は夜勤明けで不在だった。
いるはずだった今日子も、急な出張で不在だった。
真理は2年半を夢中で過ごしたもみの木学園を、誰にも見送られることなく後にした。

施設長であった今日子は真理のように簡単にはいかなかった。
このような厳しい監査が4月に実現したのは、異例の6月異動の年であったことと密接に関係がある。
責任は取らせたいものの、それが明らかな不祥事の形になっては、本庁が任命責任を問われることになりかねない。それはどうしても避けたかったのだろう。
本庁が出した結論は、6月の異動に合わせて、今日子の依願退職を受理するというものだった。

手続き論はどうであれ、誰も知らないところで、今日子の続投がないことははっきりした。
残りの1ヶ月半を、今日子は精力的に過ごした。
施設長としての仕事には天井がない。
そこに、目に見えるゴールが設定されたことは、ラストスパートをかける原動力につながった。

真理の退職を耳にした安代は、洗濯ものを上の空で畳みながら、自分はどうしたらいいのかと考えた。
自分の軽はずみな言動が内部告発と受け取られたことは、まだ誰にも話していなかった。
話せるはずがないと思った。
仕事熱心で実力がある真理には仲間が多く、若手の中には彼女を手本としている者も少なくない。
その人の一時の苦しみを支えきれず、陥れるようなことをしたと知られたら、自分はここで働けなくると思った。

査察官は今日子に責任を取らせると言っていた。
実際に本庁に呼ばれていたから、すぐに何かあるのかと思っていたが、今日子については何も聞えてこない。
今日子から呼び出され、事情を確認されることを覚悟していたのに、一切声もかからない。
もしかしたら今日子は安代が自分から懺悔に出向くのを待っているのではないかと思う。
あるいは、意趣返しに、安代が思い悩む姿をほくそ笑んで見ているのではないかとさえ考えた。
考える端から、今日子はそのような人柄ではないことを思い出し、自分の醜悪な思考に憎悪すら感じる。
辛い無限ループにはまっていた。

「安代さん。」
背後から不意に呼びかけられ、安代は手にしていた洗濯ものを取り落とし、飛び上って驚いた。
「どうしたの?」
その様子を不審に思ったらしい声の主は、心底心配そうに尋ねた。
「い、いえ。すみません、ぼんやりしていたので。」
「そうなの?きっと疲れがたまっているのね。驚かせてごめんなさいね。真理さんのこと、聞いている?」
「はい。」
「安代さんにはまた負担をかけてしまうけど、県がすぐに後任をみつけると約束してくれているから、あとしばらくだけ頑張ってね。本当にごめんなさい。安代さんだってずっと辛かったでしょう。いつも頼るばかりで、本当に申し訳なく思っています。」
愛情と信頼に溢れる声で語りかけているのは今日子だった。
深々と頭を下げると、それ以上何もいわず、部屋を出ていこうとした。

「あ、あの、施設長!」
安代は思わず呼びとめた。
自分は何を言おうとしている?
自分がしたことを、この人は知っているのか、確認したい気持ちがある。
でも、万が一、本当に何も知らされていないなら、かえって藪蛇になるではないか。
本音と打算とがめまぐるしく思考の天秤を揺さぶる。

振り向いた今日子は、安代が何も言い出さないので、改めて部屋を出ていこうとした。
「施設長は大丈夫なのですか?」
安代は意味のないことを口走ったと思った。
聞かれた今日子も同じだった。でも、監査以来…いや、トコちゃんの事故以来、今日子が奔走し続けていることは誰もが知っている。きっと、自分の身体を気にかけてくれているのだろうと思った。

まるで子供たちに向けるような優しい笑顔になった今日子はゆっくりと頷くとはっきりした声で言った。
「私は大丈夫よ。元気があれば何でもできる!ってね?ありがとう。」
そのまま部屋を出て行ってしまった。
安代は洗濯物の前に崩れるように座った。
そのまま山のようなタオルたちの中に顔からうずもれると、頭を抱えてうなり声を上げ続けた。


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5年も前の出来事なのに、今日子はあの時のことを思い出すと、今でも心の中を冷やかな風が通り過ぎるのを感じる。
信頼や業績は、積み重ねるのに長い長い時間と努力を必要とする。
信念があり、譲歩があり、喜びがあり、悲しみがあった。
それでも自分はこの仕事を一生続けていくのだろうと信じて疑わなかったものが、ある日一瞬で崩れ去った。
古代遺跡を見たことはないが、もしも見に行ったとしたら、そこに吹く風は、こんなふうに乾いているのだろうと、今日子は思った。
あの時は、5年後の自分が、こんなに居心地の良い暖かな部屋で、心から信頼できる仲間と共に迎えているとは想像もできなかった。

真理に言った通り、今日子は査問の翌日には退職願を携えて、本庁に再度出向いていた。
真理から預かった退職願を添えて提出した。
少なくとも3週間、考え抜いた真理と違って、今日子は自分が短絡にすぎるのではないかと、本庁に向かう途の途中で何度も確認した。
少し前、家を出る今日子に夫が言ったのだ。
「君が決めたのならそれでいい。後悔することを恐れてはいけないよ。失敗したと思ったら、やり直せばいいのさ、何度でも。」

その通りだと思う。
しかし、きっと、同じ道をやり直そうと思うことは決してないだろうという、確信めいた何かがあった。
私が生きる場所は、もうここにはない。

査問は手続きに則って行われたが、既に結論は出ていて、今日子はそこへ誘われていっただけだった。
今日子が長い時間と心血を注いできたものが、目の前で否定されていった。
今日子は覚った。
トコちゃんが亡くなったことの責任を、誰かが取らなくてはならないと、この人たちは言っているのだ。
新聞に「虐待死か?」との文字を躍らせた責任だ。
内部告発があったという。
誰が告発者かということに、今日子は関心を持たなかった。
きっと、本庁は内部告発がなくても、何らかの理由で、今日子を今日の立場に置いたに違いないと思ったからだ。
家事能力がなかった母親でもなく、それと知りつつ家をあけた父親でもなく、そういう家庭と承知しながらトコちゃんを帰す決断を下した児相でもなく、水性インクでメモを書いた真理でもなく、私にその責任を取れと言っているのだ。

そうと分かれば、逃げるつもりはさらさらなかった。
かえって、誇りにさえ思えた。
と同時に、この責任を背負いながら、この道をまだ歩くことを考えた時、とてつもない疲労感が今日子を包みこんだのだ。
自分の時間など、どれほどあっただろうか。
専業主婦になってみたいと冗談を言って笑われてきたけれど、冗談なものか。
出勤時間を気にせず眠る朝が週にあと何回か増えたら、私の健康はどう変わるだろう。
家で仕事をしている夫の昼食を作るのは、楽しいことではないのだろうか。

長い長い査問を終えて自宅に帰る途中、ふと、足を延ばして大町山岳博物館に立ち寄ろうと思い立った。
そこには、怪我などが理由で保護されたライチョウが数羽飼育されている。
若いころには白馬岳や乗鞍岳に登って子連れのライチョウを見たものだが、仕事が忙しくなるにつれ、そんなこともしなくなっていた。

冬場、真っ白になるライチョウは、博物館の檻の中でも毛替わりを迎えていた。ところどころ夏毛を出したまだら模様の身体で、愛嬌のある顔をくりくりとまわしている。

羽毛が生えた太い脚で、お前はまた岩山を歩き、雪にうずもれ、メスの後ろを追いかけたいことでしょうね。
今日子はライチョウに心の中で問いかけた。
でも、私はもう、険しい道は疲れてしまった。

博物館の前から遮るものなく眼前に広がる山並みを見つめた。
空は朱鷺色に色づいている。
白馬、立山、唐松、槍、穂高。

私は充分に勤めを果たした。
よく頑張ったわ。 
あの山のように見上げたことはできなかったけれど、それでも、本当に全力で頑張り抜いた。
もう、楽になってもいいよね。

いつしか、とめどなく涙があふれていた。
大きな声をたてないように、右手のひらを鼻と口にあて、強く押さえた。
それでも抑えきれず、嗚咽がこぼれる。

そうだ、真理さんに伝えよう。
今の私の気持ちを理解してくれるのは、真理さんだけかもしれない。
坂道を下る足取りは疲れてはいたが、それまでにない軽さがあることに、今日子は気付いていた。
額をあげて、坂道を下っていった。
あの軽さは、何かが始まる、期待が芽生える直前の直感だったのかもしれない。


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今日子への査問は監査の翌日、本庁で行われた。
帰り途に真理のアパートを訪ねた今日子が最上級のスーツ姿であることに驚いた真理は、青ざめ、疲れきった顔の今日子を部屋に招き入れると、久しぶりに自分以外のことに気をとられた。
真理は前日の監査のことを全く知らなかった。

真理はこの日でちょうど、使えるはずの有給休暇の半分を消費したところだった。
年間最大40日認められている有給休暇の内20日分は今年の分だ。
残りの20日は、前年使わなかった休暇を最大20日まで持ち越せるのだ。
真理は前年1日の有給休暇も使わなかったので、今年の休暇は40日あった。
ちなみに、休暇のカウントは1月1日で切り替わる。

退職したいと今日子には話していたものの、実態が休暇にしかなっていないのは真理も分かっていた。
退職するならばきちんと退職願を提出しなければならないと思っていたところだ。
すでに清書して封をした退職願を用意してあった。 

気がかりがないわけではない。
スミレはどうしているかと思うと、申し訳なさに胸が潰れそうになる。
しかし、スミレはもうすぐ退所して、おじいさんと暮らすことになるはずだ。
それは小さな救いだった。
もうどのようなことも、真理の心を仕事に引き戻す力を持っていなかった。

「何かあったんですか?そんな服を着て。それに、ひどく疲れているようで…。」
外に出る気がまったくない真理は、今日も鼠色のスウェット姿だ。
問いかけた自分の言葉に、真理ははっとして、今日子が答える前に言葉をつないだ。
「散々ご迷惑をおかけしています。本当に、申し訳ありません。」

それには答えず、指定席と化した小さなテーブルの椅子に腰かけた今日子は大きなため息をついた。
肚の底から、体中に溜まっていた空気を全て吐き出すようなため息だった。
緑茶を淹れかけていた真理は、そのため息を聴いて手を止めた。 
手にした桜皮の茶筒を食器棚に戻し、常滑焼の赤茶色の急須をしまうと、滅多に使わないため食器棚の奥にしまいこんであるサイフォンを取り出した。
今日子は香りのよい珈琲を好んで、先日尋ねてくれた時も、ブルーマウンテンの小さな真空袋を手土産にしてくれていた。
緑茶のために沸かした湯を、冷えた珈琲カップに注ぐ。
そうしておいて、あらためて湯を沸かした。

真理が出したサイフォンに添えられたアルコールランプを引きよせて、今日子はあたりを見回した。
意味を理解した真理は雑貨をしまってある引き出しを探って小さな四角い箱を見つけ出した。
茶色の瓶とマッチを手渡された今日子は、ランプから芯を引き出すと、茶色の瓶の中身をトクトクと注いだ。
辺りに、消毒のような香りが散る。
静かに芯を戻すと、そのままマッチをしゅっと擦って、ランプに火をつけた。
この間、今日子はなにも言葉を発さない。

オレンジ色の火が絵にかいたような形で燃え続ける。
それを今日子はじっと見つめている。
久しぶりに点けたからか、初めのうちはチリチリと小さな音がした。
温かな火の香りが消毒臭を消した。

真理は、珈琲を淹れるのに必要なものを、テーブルに並べた。
今日子はフラスコにほとんど沸騰直前の湯を移し替え、その下にアルコールランプを置いた。
ロートに丁寧に珈琲豆を入れると、今日子は立ちあがってフラスコにロートを差し込んだ。
ぶくぶくと泡をあげて湧いていた湯が、ロートに吸い上げられていく。
何度見ても、不思議な様子だ。

今度はロートの中でブクブクと音がする。
部屋に香ばしい香りが漂い始めた。
今日子がアルコールランプをさっと引きぬいて、ガラスの蓋をかぶせた。
ふたりで、ロートの下の足管を見つめる。
一呼吸おいて、琥珀色の液体がすっとフラスコに戻り始めた。
間もなく、ロートの中の水分が消え、しゅっと音を立てたようだ。
足管からぶくぶくと大粒の泡が立った。

ロートを引き抜こうと真理が手を伸ばした時、今日子がぽつりと言った。
「真理さん、私も、仕事を辞めることにしたわ。」





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