Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年11月


松重誠一郎会長からの、いわば特命の仕事は、松重グループで介護福祉事業に参入したいというものだった。
事業計画を練り、長野県安曇野市でその事業をスタートさせ、いずれは全国展開したいというのが会長の希望だと聞かされた。

松重コンツェルンは、物を造ることと流通させることで発展してきた。
ホテルなどのサービス業にも携わっているが、全体からみると割合は小さく、「利潤を上げる」という目的から考えれば、他の「造る」「動かす」「売る」という企業活動と大きく離れたものではない。
しかし、介護福祉事業は、利潤を上げることを第一義にしにくい分野だ。
それでも始めたいという会長の思いを、新吉は形にする必要に迫られた。
人道、尊厳、安らぎ…つまり、命と利潤を両立させる企画を立てるのだ。

それまで所属していた松重物産に籍を置いたまま、新吉は新たな事業計画に向けて心を砕いた。
さしあたり部下もいないので、調べたいことがあれば自分で動かなくてはならない。
介護界がどのようになっているのか全く知らなかった新吉は、すでに運営されている介護福祉施設を訪問するところから始めた。

最初の企画書を完成させたのは、 耳をふさぎたくなるほどの蝉時雨のころだった。
企画の内容は、医療的介護が必要な人々のケアホームだった。
一口に医療的介護といっても、高齢者とそうでない人では医療の内容が違うし、身体的・精神的、あるいは障害の種類によっても違う。
新吉は様々な施設をめぐり歩く中で、こと医療が関わると、人々は家庭的な雰囲気からかけ離れた病院しか居場所がなくなることに気がついた。
しかし、それらの人々こそ、家庭を求めているようにも思う。
松重の財力をもってすれば、医療専門スタッフをそろえた、住み心地の良い家庭的なホームを提供できるだろうというのが、新吉の企画だった。

物産の社長を通じて会長に提出されたその企画書は、新吉の思いとは裏腹に、「再考」と二文字の朱書きのみ書き込まれて、手元に戻ってきた。
朱書きは、会長自ら入れたらしい。
ということは、読んではもらえたということだ。

「あの、どのあたりがお気に召さなかったのでしょうか。ここにはメモもなくて…。」
「わからんよ、そんなこと。」
社長はそっけない。
「再考とあるからには、考え直せということだろう。メモもないということは、メモをつけるにも値しないということではないのか?」
社長は厳しい言葉を残して、自分の仕事に戻っていった。

新吉は自分のデスクに戻ると、改めて自分の企画書を読み返した。
素晴らしいアイディアだと思ったのだが、会長はどうして気に入ってくださらなかったのか。
資料をパラパラとめくりながら、新吉はふと、試算表のところで手を止めた。
収支の見通しを書いた表の数字のいくつかに、トントンと赤ボールペンの先でつついたような跡がついている。

そうか。
新吉はぐいっと背筋を伸ばした。
この企画は、松重の財力を背景に、サービス内容重視で立てられている。
様々な医療分野の専門スタッフを雇用し、看護・介護のエキスパートを雇い、設備を整えて維持し続けるには、相当高額の利用料を取らなくてはならない。
しかし、そんな利用料を払えるくらいなら、新規の松重ホームより、信用も実績もあるところを選ぶだろう。
とすると、わが社が信用と実績をそろえるまでの間、松重ホームはずっと赤字を抱えることになりかねない。

なぜ、こんな基本的なことに気付かなかったのか?と思うほど、単純なことだった。
新吉は、人知れず赤面し、そそくさとその企画書を茶封筒に入れて、机の引き出しにしまい込んだ。





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会長が住まうお屋敷の窓を見ているうちに、娘・ミドリが入院している病院を思い出した。
孫のスミレを5月から長野の施設に預けた。
そのひと月ほど前に、妻を急病で亡くしている。
以来、一人暮らしになった新吉だが、 精神を病んで入院生活を送るミドリのもとを、足繁く見舞うようになった。

精神科というのは、一種独特の空気を宿している。
外来患者の待合室では、座った姿勢を保てず、長椅子に寝ころんでいる人も少なくない。
見舞いを終えて帰る時に再び待合室を見回すと、病院に入った時に見かけたのと、まったく同じ場所、同じ姿、同じ表情で前を見つめている人もいる。
ひととき、ミドリがそうであったように、精神的パニックを起こして暴れている人を見たことはない。
逆に、どの顔も表情に乏しく、どの目も動きが少なく、たとえ覗きこんでも、心の動きをみることはできなさそうに感じる。

入院当初は一進一退というよりも、退のほうが大きく感じられ、もしや娘はこのまま一生を鉄格子がついた部屋で過ごすのではないかと思ったほどだった。
暑い夏がやってきた。
長野にやったスミレには、5月以来、面会の許可が下りない。
が、その暑い夏の終わり、ようやくスミレと会うことができた。
少し成長して、大人びた口をきくようになった孫が愛おしく、会長のご指名で、長野に住みながら仕事ができそうな展開に、心から幸運と感謝を感じずにはいられなかった。
しかし、東京の病院にミドリを残していくことは、どうにも気がかりでならない。

しかし、涼風がたつ頃になると、不意に、ミドリは快方に向かい始めた。 
ミドリを快方に向かわせたのは、新吉の存在や医師の努力もあっただろうが、一番の功績は新薬の存在だった。
この薬に慣れるに従い、ミドリは少しずつ、自分が感じてきたこと以外にも、感じ方があるのではないかという仮定を受け入れられるようになってきた。
そうなると、カウンセリングが入る余地が生まれる。
夫であった哲也がひどい暴力を振るったのは、ミドリやスミレのせいではなく、彼個人の資質によるもので、不当な扱いだったのだ、ということ。
その不当さを訴えたミドリの言葉は、正当なものであったということ。
哲也が自殺したのは、哲也自身の判断であって、ミドリが殺したわけではないということ。
スミレに辛い思いをさせたのは、ミドリが疲れきって病んでいたからであって、健康を取り戻せばやり直せるのだということ。

ミドリは、それらのことを少しずつ受け入れ、 受け入れるだけ、自分が生きていてよいのだという許可を、自分に出せるようになっていった。
見舞いに行く新吉に、そんなことを話し始めたミドリの言葉に、新吉はいつも黙って笑顔をたたえて耳を傾けた。
夏には、見上げるだけで息苦しくなった病院の窓が、次第に愛おしいものへと変わっていった。




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星川新吉は、麹町にある大きな邸宅の門をくぐりぬけたところで、思わず足を止めた。
お屋敷であることは重々承知していた。
なにせ、世界に名をはせる松重コンツェルンの会長・松重誠一郎氏が住まう本宅なのだ。
海外からの賓客が訪れる時には、ホテルを借りずにここで晩さん会を催すとも聞いている。
ホテルよりもセキュリティがしっかりしているという理由だと聞くが、真偽のほどは新吉のような末端の社員にはわからない。

何百年、ここに生えているのだろうかという大木が等間隔に並び、城への道案内をしてくれている。
公道か?と思うほどしっかりした幅の道を、誠一郎氏はリムジンで行き来するのだろう。
新吉は、背の高い樹木の間から洩れる明かりがあったらそれが屋敷と思い、灯台がわりにしようと目論んだが、まだまだ先なのか、門を入ったばかりの場所からは、明かりが見えない。

腕時計を確認する。
夜9時にという約束だった。
あと15分。
少し早すぎたかと思ったが、この分なら家屋に着くまでに5分や10分歩くのかもしれない。

道に沿って歩き出した新吉の足元を、何かがサッと通りぬけた。
重たい気配が右から左へと移り、ピタリと止まった。
驚きを表現しないように気をつけながら、新吉が眼だけ動かして左の方を見る。
長い耳の小動物が白くうずくまりながら、目を光らせて新吉を一瞥すると、余裕綽々、闇の中に消えていった。
「おいおい、ここは東京のど真ん中だよな?」
新吉は思わず独り言を言った。

しばらく歩くと、道が二股に分かれた。
左を見ると、大きな建物が見える。
おお、あれかと近づいていき、石造りの門扉を通り過ぎ、迷わず呼び鈴を押した。
大きな扉を開けて出てきた、同年代の品の良い女性は、新吉の来意を聞くと、その勘違いを遠慮がちに笑いながら正してくれた。
「こちらではございません、お客様。ああ、会社の方でいらっしゃいますのね。こちらは使用人の家です。ご本宅はあちらに。恐縮ですが、もうしばらくお歩きください。ご一緒いたしましょうか?」
「いえいえ、とんでもない。失礼しました。」

新吉は深々と頭を下げると、慌てて玄関に背を向けた。
使用人の家?
それがこの豪邸か??
新吉は、自分の家の10倍はあろうかという大きな建物を振り仰いで、たじろいだ。
石造りの門扉に「後藤」という表札がかかっていることに、この時になって気付いた。 

道が二股に分かれていたところまで戻り、もう一方の道をしばらく進んだ。
木立が不意に切れた。
と、新吉の目に、信じられないような壮麗な建物が、視界に入りきらないほどの大きさで建っている姿が飛び込んできた。





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カズちゃんのことを話してくれたシスターを休憩室に案内した後、今日子と安代は無言で施設長室にもどった。
今日子は激しく憎悪した。
カズちゃんを生み捨てていった女に。
カズちゃんの背中にそんな大きな傷が残るほどの仕打ちをした保育士たちに。

今日子の心には今でも、あれほど望んだのに自分の子どもを得ることができなかった痛みと疼きが残っている。
たったひとりでいい、私の子どもがいたら、どれほど大切にしたか知れないのに。
それを、あろうことか駅の公衆便所に捨てていった女がいる。

今日子が親に捨てられた子どもに遭うのはこれが初めてというわけではない。
けれども、今まで巡り合ったそういう子どもたちでもみな、母親の心づくしの産着を着ていた。
どこかに、祈りを込めて名付けた名前を示すものが一緒に残されていた。
へその緒をしまった小さな桐箱を携えた子もいれば、それだけは母が持ちますと言わんばかりに、お守り袋が添えられている子もいた。
カズちゃんは、そのどのひとつでさえも、与えてはもらえなかったのだ。

若い巡査がカズちゃんを名付けた時に、初恋の素敵な女性のようになってほしい言ってくれたというエピソードと、それを書きとめた産婆が守り袋にそのメモをしまって持たせたという話を聞いて、他人でさえこれほどに思えるものをと、怒りがたぎった。
今日子が思わず目を閉じなければ、その瞳の中に燃えたぎる憎しみの炎を誰もが見つけたことだろう。

安代は安代で、その二人の保育士のことを考えていた。
たやすい仕事ではない。自分の子どもでも育て切れない人がいるほどだ。
他人の、しかも言葉も通じない幼子を育て続けるのはどれほど大変なことかと理解もするし同情もする。
しかし、皮膚がだただれて腐るほど、赤子を放り出しておける神経がどういうものかは想像の爪もひっかからない。
けれども、その二人が職場放棄して逃げていたら、カズちゃんは生きてさえいなかったのかもしれないと思うと、ひどく複雑な気持ちになる。
誰かをひどいと責めればよいような、単純な図式にはならない。

施設長室の電話が鳴った。
ああ、はい、そうですか、わかりました、今お休みになったばかりなので、後ほどお伝えします、という今日子の返事から、シスターたちへの連絡なのだとわかった。

電話の内容が具体的にわかったのは、夜9時ごろのことだった。
焼け出された子どもたちはよほど疲れているのだろう、こんこんと眠っていたのを夕食で一時おこしたが、食べ終わるとまたすぐに眠りに落ちてしまっていた。

シスターたちが重たそうな身体を無理に起こして集まった面談室に、昼間やってきた刑事のうちの一人が訪れていた。
届け物があるという。
刑事がとりだしたのは、20センチ四方くらいの、たぶん元は白かったと思われる、巾着袋だった。
片面に、器用なクロスステッチで、聖母マリアが刺しゅうされている。
もう片面には深紅のバラが5輪、細かくグラデーションをつけたクロスステッチが広がっている。

その巾着袋を見た途端に、シスターたちは嗚咽し、互いに抱き合い泣き崩れた。
誰ひとり、巾着袋を受け取ろうとする者がいない。
今日子は、わけがわからないまま、代わりにそれを受け取り、袋を開けてみた。
中から、4つの小さな桐箱と、ひとつのお守り袋が出てきた。
刑事が言った。
「逃げ遅れたお嬢さんは、病院で元気にしておられます。これは、亡くなられたシスターさんが、お嬢さんと一緒に布団にくるんで、大事に守られたもののようです。検視の時に見つかりまして…。」

事情を飲み込んだ今日子の目からもまた、大粒の涙がこぼれ落ちた。
教会で一番若かったというそのシスターは、自分の命と引き換えに、ひとりの女の子の命と、4人の子どもたちがこの世に生まれ出た時の証を守り抜いたのだ。







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食事を終えた子どもたちに新しい歯ブラシが渡され、並んで歯磨きをした。
一人目があくびをすると、次々に隣の子へあくびが伝染する。
安代たちはそれぞれの部屋に子どもたちを連れていき、ベッドに入れてしまった。
それだけで、子どもたちはことりと眠りに落ちる。
カズちゃんが熟睡したのを見て、安代は部屋を出た。

シスターたちは面談室に移っていた。
刑事が来て、話をしているようだった。火事の原因についてだろう。
安代は先ほど見たカズちゃんの身体の傷のことを、施設長の今日子に耳打ちした。
今日子がけげんな顔をする。
「生まれつき、ということはない?」
「いえ。寝た時に、床につく場所だけ皮膚の傷が深いように見えました。生まれつきでそんなに都合よく傷はつかないと思うのですが。」
「わかったわ。後でシスターたちに聞いてみましょう。ほかに気になることは?」
「ありません。カズちゃん、もみの木がとても気に入ってくれたようです。」
安代はそっと微笑みながら言い添えた。
「私まで、嬉しくて。」

物静かな安代が感情を露わにすることは珍しい。
ネガティブな感情はもとより、嬉しいとか楽しいとかもあまり表現することがない。
いつもたんぽぽのようにそっと笑顔になっている程度なので、今日子は安代の一言も心にとめて、シスターと話せる時間を待った。
シスターたちも相当疲れているに違いないからだ。
彼女たちにも大いなる休息が必要だ。

刑事たちが帰ったのは、お昼寝から目覚めた子どもたちにも事情を聞いたあとのことだった。
証言も自供も一致している。
子どもたちの火遊びによる失火だ。
事件性がないとわかると、刑事たちは潮が引くように去っていく。
潮と違うのは、戻ってこないことだ。

「お疲れだとは思うのですが…」
今日子と安代は中でもわずかに元気が残っていそうなシスターをつかまえて尋ねた。
「カズちゃんの背中に、大きな傷があるようなのですが…。」
「ああ、あれは…。」
シスターは手近な椅子に腰かけると、短く祈りをささげた後で語り始めた。
カズちゃんが生まれた時のこと、乳児院でとんでもない育児放棄に遭ったこと。
傷は長い時間汗や排泄物にまみれたまま放置され、ろくに風呂にも入れてもらえなかった時期に、皮膚がただれてついたものだとわかった。

今日子と安代は思わず互いの手を握り合い、驚きの目を見合わせた。







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煤で真っ黒になった手を洗おうとして、なかなか落ちないことに気づいた安代さんは、カズちゃんと一緒にお風呂に入ることにした。
学園のお風呂は大浴場で、シャワーがいくつも並んでいる。
教会の施設のお風呂は、普通の家庭サイズだったから、不思議なものを見るような気がする。 
カズちゃんはボタンだけ安代さんに手伝ってもらってはずすと、後は自分で手際よく服を脱ぎ、浴室に飛び込んだ。
その後ろ姿を見て、安代さんは息を飲んだ。

カズちゃんの背中一面に、うすくケロイドのような傷が広がっていたからだ。
肩と、お尻のあたりが特に濃い。
何も気づかなかったふりをして、体を洗ってあげながらよく見ると、股の間も同じように皮膚がひきつれていた。

でも、古い傷のようで、お湯が沁みたり痛がる様子はない。
煤を落とすのにずいぶんと手こずったが、なんとかきれいになると、安代さんはカズちゃんに新しい服を着せようとした。
ふと見ると、カズちゃんは大きなバスタオルに顔をうずめて小刻みに左右に動かしながら、小さな笑い声を立てている。

「カズちゃん、何かおもしろかった?」
安代さんが尋ねると、カズちゃんはビクリとしてバスタオルの中から顔をあげた。
叱られると思ったのだろうか、すっかりおびえて、唇を小さく震わせている。
安代さんは自分も裸のまま、カズちゃんの隣に膝をついて、カズちゃんのバスタオルの端に、同じように顔をうずめてみた。小刻みに顔を動かしてみる。
そして、気がついた。

「ああ、いい香り!それに、ふわふわで気持ちいい!」
安代さんは、ちょっと大げさにそういうと、ふふふ、と笑って見せた。
目を丸くしたカズちゃんは、叱られないことがわかると、うんうんとうなずいて、またバスタオルに顔をうずめた。
 
教会のバスタオルはうんと古くて、はじっこがボロボロになっていた。
みんなで使うから、いつも先に風呂からあがる誰かの滴を吸って湿っている。
洗濯物を畳む時はガサガサするだけだから我慢できるけれど、湿ってしまうと、いつも雑巾のような臭いがした。
こんなにふわふわで、乾いた、いい香りのバスタオルで身体を拭けるなんて!
しかも、安代さんに叱られると思ったのに、安代さんは今も一緒に笑ってくれている。
ここは、なんて幸せな場所だろう!!
もしかしたら、ここがいつもシスターが言っている天国なのかもしれない。
もしそうだとしたら、安代さんは神様なのかな。

カズちゃんの驚きと幸福は、おろしたての新しいシャツとパンツを身につけ、本当はひとりで着られるのに安代さんに甘えて服を着せてもらった後、手をつないで食堂に行ったときに頂点に達した。

まだ11時前だったが、朝食も摂っていないカズちゃんたちのために、学園の食堂は急ごしらえの食事を用意してくれていた。
子どもたちには就学前の子どもたち用に用意する昼食と同じものが用意された。
シスターたちは、調理員たちの昼食になる、いわゆる「賄い食」だ。

お兄ちゃんたち3人も、それぞれに身体を洗い、服を着替えて食堂にやってきた。
トレーに乗せられた食事を見て、カズちゃんと同じか、それ以上に歓声を上げた。
「これ、ほんとうに食べていいの?」
カズちゃんは、もうすっかり仲良しになった安代さんの耳もとに口を寄せ、シスターたちに聞こえないように尋ねた。

「もちろんよ。嫌いなものはムリして食べなくてもいいからね。お代わりもあるから、もっと食べたくなったら教えてね。」
カズちゃんには、学園のあたりまえの給食が、極彩色のパーティー料理に見えた。
パンと、スープと、サラダと、お豆の料理。それが普段の教会の食事だった。だから、サラダの緑以外は茶色だ。
それがどうだろう!なんてきれいなんだろう。なんて美味しそうなんだろう!! 
本当は空腹の極みだったのだ。
いただきます!と手を伸ばしかけたら、「お祈りをしてからでしょう!」というシスターの厳しい声が飛んだ。

テーブルに肘をつき、両手を組んだ姿で静かに祈り始めた集団を、学園の職員たちは不思議なものを見るような目で見つめた。
お祈りが終わるやいなや、子どもたちはトレーに飛びついた。
おいしくて、おいしくて、おいしくて、カズちゃんは思わず泣き出した。
泣きながら食べ続けた。
気づくと、お兄ちゃんたちもみな泣いていた。
それを見る、学園の職員たちも、意味を察して涙を浮かべる。
ただ、シスターたちだけは食欲もないのか、用意された食事になかなか手を出さず、気まずそうに下を向いたままだった。
 


住む場所を失った子どもたちとシスターがその日、緊急措置されたのが、もみの木学園だった。
開所してまだ3ヶ月しかたっていない学園が、カズちゃんの目にはお城のように美しく見えた。
恐ろしい体験をしたばかりだと言うのに、そんなことはすっかり忘れたかのように、いくつも立ち並ぶ入居棟や、ピカピカと光る玄関の床から目が離せなかった。
この床だったらお兄ちゃんたちが火の実験をしても燃えなかったかもしれないと、カズちゃんは思った。

自分の手を引いてくれているシスターも、お兄ちゃんたちも、黒いすすで服も顔も別人のように汚れている。
それはカズちゃんも同じだったが、自分の姿が見えないカズちゃんには、この汚れた集団が何かとてつもない不吉なものを、この美しいお城に運び込んできたように見えて、とても嫌な気がした。

カズちゃんが案内された部屋には、トコちゃんと、5年生と6年生のお姉さんがひとりずついるという。
カズちゃんが部屋に入った時間、みんな別の部屋にいるのか、誰の姿も見えなかった。
きれいな部屋だった。
真っ白で、見ただけでふかふかだと分かる布団が置いてあるベッドをひとつ、あなたのよと教えられた。
思わず触ってみようとして手を伸ばし、自分の手が真っ黒であることに気がついてさっと手を引いた。

先程まで手をつないでいたシスターは、いつの間にかいなくなっていた。
かわりに、おだやかな表情の、静かな声の女性が立っていた。
ベッドのことを教えてくれた女性だ。 
薄桃色のトレーナーに、ベージュのズボンをはいている。
女性と言えば、シスターの黒い服しか身近に見ていなかったカズちゃんには、そのよくある色の組み合わせが、とてもきれいに思えた。

「カズちゃん。疲れたでしょう。私、安代さん。みんなが『ヤスヨさん』って呼ぶから、カズちゃんもそう呼んでね。」
カズちゃんは、なんと返事をしてよいかわからず、黙ってうつむいていた。
「カズちゃん、ゆうべ寝ていないそうね。お腹も空いたでしょう。順番に、やろうね。安代さんと一緒に、いろいろなこと、してくれる?」

カズちゃんは驚いた。
シスターはいつも、「○○しなさい」という。
なぜしないの?という。
いけない子ね、神様が見ていらっしゃいますよ!と言う。
しかし、安代さんは「してくれる?」と言った。
お願いされているのかな。
それだけで、カズちゃんは心がとても柔らかくなった。

「うん。いいよ。」
「ありがとう、カズちゃん。」
安代さんが穏やかな声でいい、そっと微笑んだ。 
カズちゃんは、トイレも着替えもしないうちに、安代さんが大好きになった。







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若いシスターが燃え盛る小屋に飛び込んでから、どのくらいの時間がかかったのかカズちゃんにはわかるはずもない。
そのうち、シスターはフラフラと玄関に現れた。
両手からあふれ、彼女の姿をほとんど隠すくらい大きな、白いものを抱えいていた。
掛け布団のようだ。
黒い背景と色を失ったカズちゃんの記憶の中で、その白いものは際立った存在感を持っていた。 

彼女はそのまま出ようとして、不自然に立ち止まった。
驚いたように振り返り、そのまま視線を足もとへ移した。
抱えた大きなものを、何度かぐいと動かす。
布団の隅が玄関わきの何かに引っかかって、進めなくなってしまったようだ。

うまくはずれないとわかると、彼女はもう一度背後を振り返った。
全身から絶望感が漂っている。
外から見ているカズちゃんたちにも、火がシスターに迫っているのが見える。
それでも、彼女は白い布団の中に包んだ少女をその場に置き去りにして逃げるようなことはしなかった。
もう一度、ぐいぐいと布団を引っ張り始めた。

見ていた他のシスターたちが駆け出した時だった。
バキバキという大きな音とともに、小屋が崩れ落ちた。
柱や屋根が白い包みを抱いたままのシスターの上に降り注ぐのを、カズちゃんは見た。
他のシスターたちが悲鳴を上げる。

「下がってください!下がって!!」
突然、何人もの男性の声が響いた。
車の音、走り回る姿。
消防隊だった。
「ふもとの家から、こちらに火が見えると通報があったものですから。」
「ああ!あそこに、子どもとシスターが!」
「わかりました。おい!」

オレンジ色のはずの消防服が駆け出す。
放水を受け、建ち残っていた小屋は跡かたもなく崩れ落ちた。

助け出されたシスターは、全身に大やけどを負っていた。
それでも、彼女が身体の下に抱きかかえていた白い布団の中から見つかった少女は、煙を吸ってはいたものの、かすりきずひとつなかった。

シスターは翌日、意識が戻らぬまま、静かに息を引き取った。 







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寝室の隅で、お兄ちゃんたちが何かしていた。
薄いカーテンから月明かりが透けて見える。
部屋に差し込んだ月明かりに背を向けて、窓と壁の角のところに、3人で頭を寄せている。
カズちゃんはベッドを下り、はだしのままお兄ちゃんたちに近づいた。
「何をしているの?」

「ほらこれ。今日学校で教わったんだ。昔の人はこうやって、木の穴をこっちの木でこすって火をつけたんだって。」
一番年上のお兄ちゃんが振り向きもせずに言った。
「本当にできるのか?ってやってみていたら、シスターが怒るんだ。バカなことしないで、って。」
真ん中のお兄ちゃんが言った。
そういえば、学校から帰ってきたお兄ちゃんたちがシスターに何事か怒られていたっけ。

「シスターは何でも怒るんだ。あれしちゃ危ない、これしちゃダメって。うるさいよな。」
「そうだよ。先生も、実験は大事だって言ってたのに。」
実験はすでに成功していたようだった。
お兄ちゃんの足元にサバの水煮の空き缶が置いてあり、その中で小枝がパチパチと燃えていた。

お兄ちゃんは片膝を立て、体勢を整えると、合わせた手のひらを勢いよく前後させて、手の中の棒を動かした。
煙の臭いがしたと思ったら、細い棒の下で、オレンジ色の明かりが小さく点った。
お兄ちゃんは慎重に息を吹きかけ、オレンジ色を大きくした。
わぁ!
歓声が上がった時に、別のお兄ちゃんが尻もちをついた。

「た、大変だ!火が!火が!!」
カズちゃんも振り返った。
サバの水煮缶の中で燃えていたはずの火は、何十倍かの大きさになっていた。
カーテンに燃え移ったのだ。

一瞬、誰ひとり声も出ず、動きもできず、その場に凍りついた。
バチン!
何かが爆ぜて、大きな音を立てた。
ビクッとした子どもたちは、それを合図に一斉に逃げ出した。

「火事だ!火事だ!!」
子どもたちの叫び声に、シスターたちが飛び出してきた。
子どもたちをかき集めて小屋を離れたシスターは、わけがわからず、ぼんやりと小屋を見ている。
火は既に平屋建ての小屋の壁を伝って屋根を焦がし始めていた。
ガラス窓の中が燃えているのも見える。

「○○ちゃんは?」
シスターが誰かの名前を呼んだ。
カズちゃんは、それが何と言う名前だったのか今でも思い出せない。
もうひとりの、女の子のことだ。
「○○ちゃんはどこなの?」
叫びとも怒鳴りとも聞える声が、カズちゃんには恐ろしかった。

そこから先の映像には、音がない。色もない。
一番若いシスターが走りだし、燃え盛る小屋の中に飛び込んでいった。







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大きいお姉さんたちと同じ部屋にしようか、と言われ、カズちゃんは少し不安な顔をした。
今日子はそれを見逃したわけではなかったが、環境の変化自体がいやなのだろうと解釈した。
これまで、言いようのない変化を味わってきた子だ。
ここに来てからの安定した毎日に変化があると、それだけで不安になっても不思議はない。
「大丈夫よ。安代さんや真理さんも一緒だからね。」
今日子の言葉にカズちゃんは小さく頷いたが、カズちゃんが少し不安な顔をした理由は、そこではなかった。

丘の上の教会には、夏の間、週末ごとに信者が訪れ、熱心に話を聞き、賛美歌を歌っていった。
隣に立つ「小屋」と呼んでも差し支えないような粗末な建物に、5人ほどの子どもたちが住んでいた。
カズちゃんはそこの最年少だった。
物心ついた時もそれは変わらなかった。
児童養護施設といっても、あまりの小ささに、それ以上の子どもを預かることができなかったのだろう。

それは、カズちゃんが4歳の初夏の出来事だった。
この施設に来て3年ほどが過ぎていた。
5人の子どもたちの顔触れは変わらず、それぞれに成長していた。

自分のひとつ上の女の子と、小学校に通う男の子3人。
女の子の記憶は、不思議なことにあまりない。
どちらかというと、男の子たちの後をついて回っていた。
男の子たちも、小さい妹をかわいがるつもりで、邪魔にしなかったのだろう。
大人から見たら子どもたちでも、カズちゃんから見たら、男の子たちは大きくて頼りがいのある存在だった。

お兄ちゃん、と呼んでいた。
みんなそれを当たり前のように受け止めていたと思う。
雪が降り始めると人が来なくなる教会で、子どもたちは毎晩神様に祈りをささげた。
シスターたちが言うとおり、床に膝をつき、指を組んだ。
お兄ちゃんたちは少しも熱心ではなくて、いつもポーズだけまじめにして見せては、下げた頭の下で舌を出している。

薪ストーブがあった。
夏の間に、みんなで散歩に出ては、折れた枝を探してきて積んでは乾かす。
冬になると、それをストーブに入れて燃やすのだ。
お祈りの間、目を閉じて神様に、これからもいい子でいられますようにとお祈りをしている間、薪が燃える音がパチパチと聞えて来る。
温かくて芳しい空気。
カズちゃんには神様が本当にいるのかどうかわからなかったし、ささくれた床についた膝は本当に冷たかったけれども、薪が燃える香りと音は大好きだった。

カズちゃんの記憶の中で、初夏のその夜も、パチパチという音から始まっている。
パチパチ、パチパチパチン。
小さくて聞き逃しそうなその音に、カズちゃんは浅い睡眠から呼び起された。







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